第13話 サイレン


 ――水曜日。

 この日休みのみのりは、午後、クリーニングに出していた『PEACHMEN』のドレスと、倖から借りた服一式を取りに行った。『PEACHMEN』に敵情視察に行ってから丁度一週間が経つが、あれから一度も彼らに会うことはなかった。内心、ヒヤヒヤの毎日を過ごしてきた。VIPルームに通され、イチゴミルクとシャンパンが並んだ席が、一万円で済むはずがない。ショートケーキとストレートティーだけで、八千四百円も取られる高級店なのだ。彼らが、不足分の勘定を請求しに訪れてもおかしくはなかった。しかもドレスを着たまま逃げ帰っている。完全に窃盗罪で訴えられても仕方がない中で、この一週間は何の音沙汰もなく、二軒のカフェも、平穏に事が進んでいるように思えた。そうこう考えている内に、みのりは『PEACHMEN』の前に立っていた。手には、ドレスが入ったクリーニング店の袋が握られている。

 みのりは大きく深呼吸した。あの夜の出来事(特に銅源が上半身を露出したあたり)が蘇り、ぼっと顔に熱が集まった。

「――あれあれ~? もしかして、だあちゃんじゃない?」

「へっ?」

 真横から話しかけられ、みのりは顔を上げた。そこに立っていた、テンアゲ王子ことなつめ。サングラスを外し、笑った。

「ひっさしぶりじゃーん! 今日は、まっぴるまにキてくれたの~?」

「ああいえ……! この間、ドレスを着たまま帰ってしまったので、クリーニングに出して、お返しに来ました」

「マジでっ? クリーニングまで出さなくてもよかったのにー! けっこうウチの店からドレスパクる客おおいーよー? 似合ってたし、そのまんまパクってもよかったのにー」

「いえっ! ちゃんとお返ししますから……!」

「マッジメだねー、だあちゃんはっ! フウウウ~! そーゆートコ、めちゃタイプ~! あ、そうだー。ねー、これからなんかヨージあるー?」

「へ? 用事?」

「ないならさー、オレっちとデートしよーよ!」

「ええっ? デ、デートはちょっと……」

「いーからさ! オレっちに、ぜーんぶまかせてっ!」

 そう強引にみのりを誘うと、「そーれっ!」とドレスを店の中に放り込み、「んじゃー、いこっかー!」と笑った。

「ええっ? 棗さん、これからお仕事なんじゃっ……」

「いーのいーの! だあちゃんとのデートの方が大事!」

 そのテンションの高さと、カラッとした笑顔に、みのりは断る隙もなく、「ほええ?」と、訳も分からずついて行くハメになった。


「――ヒャッホーイ! ジェットコースター、サイッコー!」

「ひぎゃあああ!」

 みのりと棗が乗った車両が、最高到達点から一気に加速して滑ってく。

「ハアア! たっのしかったー! じゃー次はさー、アレ乗ろっ」

「え? えええっ?」

 そうして再び絶叫系マシンへと誘導されていく、みのり。ジェットコースターだけでなく、お化け屋敷やバンジージャンプ。次も、そのまた次も、テンションアゲアゲの棗によって、みのりは遊園地中を振り回された。

 

 夕暮れ時となったところで、ようやく二人はベンチに座った。

「ダイジョーブ? だあちゃん?」

「ふえええー。あんまり、だいじょうぶじゃないれす……」

 乗り物酔いでどんよりするみのりに、棗がスポーツ飲料を差し出した。「ムリさせてごめんね」とテンアゲを抑えた声に、みのりは「ありがとうございます」と、素直にペットボトルを受け取った。

「オレっちとのデート、つまらなかった?」

「いえ、そういうことを思う以前に、ハード過ぎました……」

 押さえる胸を擦りながら、みのりは顔を上げて言った。その表情は吐気があるものの、微笑みも浮かべられている。その姿に棗は拳を握り、ぐっと唇を噛んだ。

「棗さんは楽しそうでしたね。遊園地なんて、久し振りに来ました」

 無理して笑っているかのようなみのりの横顔に、棗は目を伏せるも、すぐにいつものテンアゲパワーで、その場を明るく盛り上げる。

「そーなんだ! んじゃーさ、また今度こよーよ! 今度は社長や役員のお三人も誘って、ねっ!」

「へ……? あ、ああー……わたしは、あの方達はどうも苦手で……」

 俯くみのりに、「ま、まあ! 確かにコワモテだもんねー、あの人ら!」と棗が取り繕う。

「け、けどっ! あの人らも、だあちゃんのコト、もっと知りたいって思ってるよ……?」

「ほえ?」

 急に真剣な表情で俯いた棗の横顔に、みのりは首を傾げた。

「みんなキミを守りたいって、心の中では思ってるはずなのに……」

「なつめ、さん?」

「怖いんだ。また貴方がいなくなってしまうことが。姫様の最期を看取ったのは、オレなのに……」

「棗さんっ」

「へっ? あ、ああーオレっちもしかして、ヘンテコリンなコトしゃべってたー? ごっめんねー! 今のは、今度のパーティでひろーするよきょーの練習なんだー!」

 勢い良く立ち上がった棗が、両手を上げて笑った。

「よきょー?」

「そ! 劇すんのっ! ほらっ、オレっち王子サマじゃーん? 『ロミジュリ』のロミー役するんだー! それでね、平子っちがお姫サマのジュリー役でー、さっきのは最後ジュリーが死んでじゃって、後追い自殺するロミーのセリフなんだー! どーお? オレっち、ケッコー演技じょーずっしょ?」

「え、えっと……そうですね。迫真の演技でした」

 にっこりとみのりが笑う。

「そーっしょっ! 清従サンや平子っちには敵わないカモだけど、イー線いってるっしょ!」

「はい。イー線いってます」

 みのりの笑顔に、棗は胸の内にある想いに触れた。その場に跪き、みのりに手を差し出そうとして、やめた。

「棗さん?」

 首を傾げるみのりに、そっと棗が微笑みを浮かべる。

「キミには、ずっと笑ってて欲しいんだ。どっちが正義かなんて関係ない。オレは、だあちゃんが幸せになってくれたら、それで良いんだ」

 きちんとした話し方と、向けられる優しい眼差し。色々と疑問に思うことはあるものの、みのりは「はい」と頷いて、笑った。


 『PEACHMEN』の前に戻ってきた時には既に、黄昏時の夕焼けが、二人の顔を照らしていた。

「きょーはホンっトにアリガトねー! オレっち、メチャメチャ楽しかったよー! あっ、そーだ! ついでだから、今夜もオレっちのトクベツなお姫チャーンになってくー?」

「い、いえ! それはご遠慮させて下さい!」

 全力でみのりが拒否する。

「そっかー! ザーンネン。んじゃー、今度はオレっちが、だあちゃんのお店に行くねー! そっちだったらイーっしょ?」

「それは勿論です!」

「ヤッター! んじゃ、またね、だあちゃん!」

 テンアゲ王子が手を振り、みのりを見送る。みのりは一礼すると、倖のTシャツとスウェットを持って、『ほおづキッチン!』へと走っていった。

 みのりが店へと入っていくのを見届けると、棗は『PEACHMEN』の店内へと入った。その瞬間、待ち構えていた男に、頬を殴り飛ばされた。

「……っ」

 薄暗い入り口で、胸ぐらを掴まれる。顔を上げると、清従が憤怒の表情で見下ろしていた。

「この間忠告した筈だ。あの御方は、貴様如きが恋慕して良い御方ではないと」

「……っ! オ、オレはっ、恋慕なんてしてませんっ……」

「ウソはよくないんじゃないの~? 遊園地でお姫サンと、イイ雰囲気になってたじゃん~? ぶっちゃけて言っちまえよ~。千年前から姫サマのコトが好きなんですってさ~。ねえ、ヒツジ~?」

 ソファで片肘を付いて笑う平子の言葉に、ぐっと棗が拳を握る。

「俺は貴様を桃太郎一家とは認めていない。貴様は、ただの浮浪児上がり。呪われた禿かむろの分際で、大将の千年愛を穢すことは俺が許さん」

 棗は何の反論もせずに、ただひたすら、清従からの折檻を受け入れた。清従はマネージャーからの電話を取ると、ボロボロになった棗を放置し、「拾われただけでも感謝しろ」と吐き捨て、その場から立ち去っていった。

 棗は血まみれになるも、傷が自然と治癒していく。その様子を見下ろしながら、平子が言った。

「ブザマだね~、ヒツジ。テメーも男なら、クソワンコに言い返すくらいしろよな~?」

「……オレは、最後に桃太郎様のお供になったんで」

「ナニそれ~? そんなコトで、引け目に思ってんの~? マジでどんだけドMなんだよ~? そんなテメーの相手役させられるとか、マジでねーわ~」

「……すみません」

「ったくよ~。どーせやるなら、次男坊相手に、全力で演じてーな~。そしたら、マジでトラウマもんの嫌がらせしてやるってのによ~」

 そう笑って、平子が奥の休憩室へと向かっていく。

「……ああ、そうだ。『ロミジュリ』の最後は、ジュリーがロミーを追って、自殺するんだろ~? ……どっかのお姫サンが、人間が正義の為に殺した赤鬼を追って、自刃したようにな」

 立ち止まった平子の背中を見て、棗は目を伏せた。

「テメーは王子なんかにゃなれねーよ~? どう足掻こうが、テメーは乞食にしかなれねーんだからな~」

 そう言い残し、平子は店の奥へと消えていった。


 閉店後に『ほおづキッチン!』のドアを開けたみのり。そこに、只ならぬ空気を放つ兄弟がいた。四人がテーブル席に座り、雅、慶、溌の三人が、頭を抱えている。その中で倖は最小限に縮こまって、ズーンと沈鬱な表情を浮かべていた。

「あ、あの、皆さん。一体どうされたんですか……?」

 恐る恐る訊ねたみのりの目に、テーブルの中央に置かれた紙切れと封筒が映った。

「どーすんだ、ゆきんこ。オメーのせいで、休みだった、のりピー先生にまでわざわざお越し頂くコトになっちまったぞ?」

「え? いえ私は――」

「面目ねえ!」と、顔面を強打する程に倖が頭を下げる。

「はあ。まさかここまでとはな」

 珍しく慶も、神妙な顔付きで言った。

「い、いったい何の話ですか?」

「面目ねえ!」

 再度、倖が顔面を強打する程に頭を下げる。

「倖くんっ?」

「まあ、これを見てよ、みのりちゃん」

「へ……?」

 手渡された紙切れには、『福北高等学校通信科三年 夏季休暇明け試験 結果通知書』と書かれており、その下に科目と点数が記されている。『現国42点 数学ⅡB28点 英語14点 日本史63点 物理10点 化学4点』ざっと見た限り、こういった点数が並んでいた。

「しょ、しょうがないよね! 倖くん、毎日働きながら、空いた時間にお勉強してるんだもんね!」

「面目ねえ!」

 再々度、顔面を強打する倖に、「もうそれやめよう!」と、みのりが半泣き状態で制止した。

「しっかし、ココまでヤベー頭とはな。単位取得制で、留年がねーのが救いだけど、得意科目から取得していった結果が、このザマかよ。オメーはもう三年だろーが! 来年の三月には卒業してやろうって気概はねーのか!」

「そ、それはっ……なくもねーけど……」

「だったらもう少し学業にも力入れろ! その為に休みだって、一日増やしてやったろーが!」

「わ、わかったから!」

 はあああ、と深い溜息を吐く溌に、「私、コーヒー淹れてきますっ」と、みのりがキッチンへと走っていった。

「……まあ、数学や化学なんかの理系科目が苦手なのは分かるけど、日本史の63点って……。日本の歴史は、ほとんど見てきたじゃない」

「平安、鎌倉、室町、戦国、江戸、明治、大正、昭和……それらの時代に八度の人生を送ってきて、お前の千年は、一体なんだったんだ?」

 夕焼け色に染まる兄達の顔が、倖に向けられる。どの時代でも優秀だった兄達とは違い、一人だけ落ちこぼれの人生を送ってきたのには、理由があった。

「……俺は、出来損ないの一本角だから……」

 夕陽に染まる倖が、苦悶の表情で、試験結果に目を落とした。

「またそんなことを言って……。角の数なんて関係ないよ。一本角だろうが二本角だろうが、君だって立派な頬月の赤鬼だ。大昔の伝承なんて気にしちゃダメだって、毎回言ってきたろう?」

「けど俺はっ……。兄貴達に比べたら、ホントに落ちこぼれなんだ。アイツにも散々言われてきたし」

「おい、ゆきんこ! オメーいい加減にしろよっ」

「溌兄だって、俺がどうしようもねえ弟だって思ってんだろっ! 今代でも俺が鬼だって覚醒すんのに、一番時間かかったじゃねえかよ!」

 後先考えず自棄になった倖が、ぎりっと兄達から目を反らした。

「倖くん……?」

 ハッとして振り返ると、そこには、四人分のコーヒーをトレーに乗せたみのりの姿があった。しまったと青ざめるも、何も言えずに、倖はその場から走り去った。

「倖くん……!」

 倖を追った目を、みのりは残された兄達に向けた。三人とも視線を外している。混乱する状況の中でも、みのりは倖を追っていった。

 家に帰った倖を追い、みのりは、乱暴に閉められた部屋の前に立った。一度深呼吸し、ドアをノックする。

「倖くん、みのりです……」

 返事はなく、みのりは俯いた。それでも明るく、「あのねっ、カフェオレ淹れてきたよ! それから、この間借りた服も返しに来たのっ……!」

 暫くの沈黙後、ドアが開いた。

「悪ぃ……」

 沈鬱な表情を浮かべる倖を、みのりが心配そうに見つめる。

「……中、入ってもいい?」

「はっ! いやえっとっ……」

 倖があたふたしながら、みのりと部屋の中を交互に見た。そうして「……おぉ」と、声にならない声で頷いた。

「うわぁ! Bメタのポスターがいっぱいだね! 他にもいろんなバンドのCDとか、グッズでいっぱいだぁ~」

「お、おぉ……」

「パンクとか、メタル系が好きなんだね、倖くん」

 向けられた笑顔に、ぎゅ~っと倖の胸が締め付けられる。顔に集まる熱を手の甲で冷まそうとするも、体中の至る所から熱いものを感じた。冷静さを保つ為、みのりが淹れてくれたカフェオレを飲む。

「あ!」

「ブっ!」

「こんな所に付けてくれたんだね、倖くん!」

 みのりが嬉しそうに、倖の通学カバンを見た。そこには誕生日にプレゼントした、力強い表情の倖人形が、キーホルダーとして付けられていた。

「嬉しいな。倖くんも付けてくれたんだね」

「お、おぉ。お、おま……が一生懸命、作ってくれたモンだし、誕生日プレゼントなんて、もらったコト、なかったから……」

「そうなんだね。意外だなー、兄弟で同じ誕生日と言っても、皆さんでパーティとかしそうなのに」

「ま、まえにも慶兄達が言ったろ。その日は、気が滅入っちまう日だって……。俺も、誕生日じゃなくて、どっちかってーと……」

 俯く倖の姿に、みのりが、カバンに付けられた倖人形の手を動かす。

「げんきだして、ゆきくん! ボクはゆきくんのつよーいみかただよ!」

 幼稚な慰め方にどう反応して良いか分からず、沈黙するも、みのりの優しさに気づき、「っぷ!」と倖が笑った。

「俺が俺に何言ってんだよ!」

「うん。落ち込んでる倖くんに、本当は誰よりも強い倖くんが、元気づけてあげてるんだよ」

「俺が、強い……?」

 その言葉に目を伏せた。

「……俺が強いワケねえだろ。俺は、兄弟の中じゃ出来損ないだし、何かを守れるほど強くもねえ。『宝物』だって、目の前で奪われても、何も出来なかったんだ……」

 窓からは西日が入り、俯く倖の横顔は、夕焼け色に染まっている。

「俺なんて、いようがいまいが関係ねえんだ。兄貴達三人がいれば、今度こそ『宝物』だって守り切れるだろうし……」

 自嘲する倖に、みのりがもう一度倖人形の両手を動かす。

「ねえゆきくん、ボクをみて。みのりちゃんはね、ゆきくんのコトを、つよーいおとこのこだとおもって、ボクをつくったんだよ。たしかにおにーちゃんたちは、みーんなすごいけど、ゆきくんだって、すごいパワーをもってるよ! ねえゆきくん、ゆきくんだって『たからもの』がだいじでしょ?」

「……大事、だけど……」

「じゃあさ! ゆきくんも『たからもの』、まもりたい?」

「え……?」

 みのりの言葉に拳が反応した。ぐっと握り締め、「……俺だって、守りたい」と強くその言葉を吐き出した。

「良かった。倖くんがそう思っているのなら、きっとこれからも『ほおづキッチン!』を守っていけるよ」

「え?」

 顔を上げた倖に、みのりが微笑んだ。

「あ、いや、そっか、そうだよな! 店……のコトだよな」

「うん! お店が皆さんの『宝物』でしょ?」    

「お、おお……」

 確かに今代の『宝物』は『ほおづキッチン!』に違いないが、心を強く守りたいと思ったものは、今目の前にいる……。

 ゴクリと倖は唾を飲み込んだ。思えば、部屋に二人きり。兄達もまだ店の片づけの為に帰って来ていない。

「み、みのっ……り」

 顔を真っ赤にして、みのりの名前を呼んだ。

「なあに? 倖くん」

 首を傾げて笑うみのりに、体中から汗が噴き出て止まらない。それでも腹を括って、想いを告げようと、大きく息を吸った。

「あ、そうだ! はい、これ借りてたTシャツとスウェット。ドレスと一緒にクリーニングに出したから、時間がかかっちゃって。大事なものなのに、貸してくれてありがとう」

 みのりの満面の笑みに、大きく吸った息が止まった。

「お、おお……」

「あのね、倖くん。私も微力ながら、お店を守れたら良いなって思ってるよ。これからもずっと一緒にいられたら良いなぁ……」

 願望の中に、どこか儚い気持ちが込められているようにも思えた。胸の中で何かがざわめいた。結局何も伝えられず、想いは、再び倖の胸の中にしまわれた。

 

 日が沈み、そのままみのりは自宅に帰っていった。倖が一階のリビングに下りると、そこには、店から帰ってきた兄達がいた。三人でテーブルに座って、神妙な面持ちで話していた。

「あ、あの、さっきは悪かった……」

「倖……」

 沈んだ表情で、慶が弟の名前を呼ぶ。

「んなコトはどうだっていーんだよ。それよりも、もっと大事な話をしてんだよ、コッチは」

「は? んだよ、大事な話?」

「多分恐らく、夕方の話を、みのりちゃんに聞かれてしまったと思うんだ」

「え? 夕方の話って……」

「オメーが鬼だって、覚醒すんのに時間がかかったーつう話だよ」

「あ、ああ……」

「タイミングが悪かったにせよ、私達が普通の人間ではなく、鬼だと悟られたかもしれんな。まあ以前からギリギリのラインだったが、今日でアウトラインを超えてしまったようだ……」

 俯く慶の表情から、その意を付き付けられる。

「じゃあ、消すのか? アイツから、俺らの記憶を……」

 沈黙する兄達に、ぐっと倖が奥歯を噛み締めた。先程まですぐそこにあったみのりの笑顔が遠くに霞んでいくことに、強く拳を握り締める。

「……俺は、イヤだっ」

「ワガママ言うな、ゆきんこ。しょうがねーだろ。正体を知られちゃあ、オレらが生きていけねーんだ」

「今までだって、そうやってきただろう? 生みの親も、知り合った人間の友人も、恋人になった娘も、私達に関わってきた人間の記憶は消してきた。そうして新天地で見つけた『宝物』を守って、あいつらとの戦いに備える。今回は偶然正体が知られたが、『宝物』を守る為には――」

「宝物宝物って、『宝物』はアイツじゃねえのかよ!」

 声を荒げた倖に、慶が苦悶の表情で目を反らす。

「……何言ってやがる。今代の『宝物』はあの店だって、何度言やぁ分かんだよ?」

「溌兄……! ぐっ……溌兄だって慶兄だって、アイツが大事なんじゃねえのかよ? 千年前に守れなかった姫サマと、今代になって、やっと巡り逢えたんだぞ? 俺は千年前、まだガキで、アイツらとの戦いでも何にも出来なくてっ……だからこそ今代では姫サマを守りてえし、あの人が思うような強い男に、俺だってなりてえって思ってる!」

「倖……」

 堪え切れず泣く弟の姿に、慶も溌も項垂れた。

「……だからこそ、彼女はどこか遠くで幸せになってもらわなきゃ困るんだよ。正体を知られたからには、僕達の戦いに、彼女を巻き込んじゃいけないんだ。千年前も、僕達が知り合ったせいで、彼女は不幸な目に遭ったんだからね……。今回、彼女に僕達の正体が知られたかもしれないことは、僕達にとっても良い機会なんだ。どちらにせよ、いつかは記憶を消さなきゃって、思ってたところだったし」

「……雅兄は、ホントにそれでいいのかよ?」

「僕には、今も昔も春だけだよ」

 目を伏せて一点を見つめる雅に、「……そうかよ。また守り切れずに死ぬのが怖いんだな、雅兄は……」

 泣きながらも、薄っすらと嘲笑する倖の頬を殴り飛ばす――溌。

「っぐ……!」

「オメー自分が何言ってんのか分かってんのかっ、ああっ!」

 倖の胸ぐらを掴む溌を、「やめろ、溌!」と慶が止める。

「いいよ、溌。僕は大丈夫だから」

「……っち」

 溌が顔を顰めながら、倖の胸ぐらから手を離した。

「ごめんね、倖。君の言う通り、溌も慶も、彼女を大事に思っているよ。僕だって出来ることならずっと……」

 そこまで言って言葉が途切れた雅を、倖は、しっかりと見上げた。

「なんで答えが出てるくせに、見えねえフリすんだよ? なんで大事だって分かってるくせに、遠ざけるコトが出来んだよ? アイツがどんな風に俺らのコト思ってんのか、兄貴達だって知ってんだろ。アイツは自分も店を守りたいって、俺らとずっと一緒にいたいって言ったんだぞ!」

 慶と溌が俯き、ぐっと想いを堪えている中でも、倖は顔を上げ続けている。心に強く思う信念が、雅を捉えて離さない。そんな倖を見つめる雅が、そっと目を反らした。

「ごめん。ごめんね、倖……」

 その言葉の重みを知って、ぐっと倖は堪えた。兄の決断に、弟として従わねばならない理不尽さの中でも、それが繰り返されてきた鬼としての宿命だと分かる。

「明後日、金曜日の夕方には、みのりちゃんの記憶を消そう……」

 一通りの決着がついたところで、慶が夕飯の支度に取り掛かった。家の外の道路を、何台もの緊急車両が、サイレンを鳴らして通り過ぎていく。

 夕飯をテーブルに運んだ慶が、「やけに騒がしいな」と窓の外に目を向けた。倖は沈黙したまま席に着き、雅も出来上がった夕飯を見つめている。経理業務をしていた溌が、徐にテレビの電源を点けた。

「今夜はカレーか……」

「すまない兄さん。今夜はこれで許してくれ」

「別に、嫌いじゃないよ」

「すまない……」

 消沈した慶の様子に、雅と倖が目を細めた。溌はテレビの前に立ち、速報で入ったニュースを観ている。

「溌、お夕飯だよ。君もこっちに来て早く食べなよ」

 雅の促す声にも、溌は何の反応も見せない。

「溌兄? どうしたんだよ、何のニュースみて――」

「オメーら」

 背中を向ける溌が、呆然と振り返った。テレビ画面に流れる映像と音声でも、三人はまだ、キョトンとしている。

「溌? 一体どうしたの?」

「……もえてる」

「は? もえてる? 何が……」

「のりピーの家が……姫サマの住んでるアパートが、火事で燃えてるっ……」

 テレビ画面には、アパートが全焼する映像が流れている。報道員らしき男が、ライブ中継で火事の状況を伝える音声が聞こえてきた。家の外では、何台もの消防車のサイレンが連なっている。 

「みのり、ちゃん……?」

 

 燃え盛るアパートの前に引かれた規制線の前で、みのりが呆然と立ち尽くしている。炎に飲まれ、崩れ落ちるアパートに、過去に遭遇した火事の記憶が蘇った。

「どうして、またなの……?」

 泣きながら聞くサイレンの音に、「いやっ……!」と耳を塞いで、その場に蹲った。

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