第8話 儀式
ピッ、ピッ、ピー……
残暑厳しい九月の昼下がり、突如キッチン内の冷房の電源が落ちた。無言のままに、雅と慶が見つめ合う。慶が冷房のリモコンを何度も押すが、……押すが押すが押すが――ビクともしない。
「……マジか、死ぬぞ?」
九月に入り、近隣の学校も二学期を迎えたことから、平日の昼下がりは、落ち着いた空気が流れている。真向いにイケメンカフェ『PEACHMEN』が開店し、その影響も少なからずあるが、『ほおづキッチン!』には、変わらず固定客がついていた。それでも、八月のピーク時に比べたら、売上げも大分落ち込んでいる。
今日は倖の週一日の登校日。ホールは溌とみのりの二人が担当する。店内の窓から、溌が忌々しく『PEACHMEN』を偵察していた。
「ヤベーな~。このままじゃ、マジで潰されちまうんじゃね~?」
難しい顔を浮かべる溌に、テーブル席に座る男が言った。
「ああ。何か対抗策を練らねーとな……って、オイっ! オメーは何でこんなトコにいんだよ!」
テーブル席に座っていた男――サルの平子が「うい~す」と挨拶した。
「うい~すじゃねーわ! いつの間に店ん中入りやがった!」
「入りやがったって、店に入った瞬間、この席に誘導されたんだし~、あのお姫サンに」
そう言って、平子が接客中のみのりを指さした。
「のりピー!」
「は、はいっ!」
他の席でオーダーを取っていたみのりが、急いで溌の下に駆け寄った。
「あのな、のりピー。世の中のお客様が全員、神様なワケねーんだぞ? 中には
「ちょっと
そう言って、平子が懐からブラックカードを取り出した。光沢のある漆黒カードに「ようこそお越し下さいました、ハヌマーン(猿神)様!」と、溌が最上級のお辞儀をする。
「あの、溌さん?」
「ハッ……! オレは今ナニを?」
「相変わらずカワイ~性格してんじゃんよ~、溌っち~ん」
「うるせーわ! 馴れ合ってくんな!」
「ちょっと~、ヒドくな~い? オレこの店の客なんだよ~?」
「オメーは向かいの店の店員だろーが! 帰れよ、モモダンにっ」
「ちょ、モモダンてナニ~? チョーウケんだけど~。それにオレ、今日休みだし~?」
平子の間延びした話し方に、溌は、どっと疲れた。その時、店内にいた若い女性客二人組が、平子に声を掛けてきた。
「あの~、もしかして、『monkeyshine』の平子さんですか?」
「うん、そうだよ」
「うわぁ! あの、私達平子さんのファンで! サインとか頂けないですか?」
「サイン? イイよ」
気軽に彼女達の手帳にサインする、180度態度が変わった平子に、「オメーも相変わらずだな……」と、溌が呆れたように言った。
「『monkeyshine』って、あの二人組のアイドルのですか?」
みのりが目を丸くして訊ねた。サインを貰った女性客が、きゃっきゃしながら席に戻っていく。
「そうだよ~。なんならアンタにも、サインしてやろ~か~?」
「いえ、私はあまり興味が……って、すみません! そういうつもりじゃなくて……!」
「じゃあどーゆー意味よ?」
鼻で笑う平子に、「すみません!」と、みのりが謝った。
「ま、別にイイけどさ~。オレも好きでアイドルやってるワケじゃね~し~?」
「確かにオメーのキャラじゃねーよな。つーか、『monkeyshine』って名前、誰が決めたんだよ? イカサマとかイタズラって意味だぞ?」
「んー事務所の社長。響きだけで決めやがってさ~」
「そーだろな!」
「つうかさ~、オレのグラタンまだ出来ね~の~? もう二十分以上待ってんだけど~?」
「す、すみません! すぐにっ……!」
みのりがキッチンへと向かおうとした瞬間、汗だくの慶が、グツグツに焼けたグラタンを運んできた。
「すまない、みのり。遅くなってしまったから、私が直接お客様にお詫びしようと思ってな……って、お前かっ! この猛暑日にグラタンをオーダーしたキチガイはっ!」
「キチガイって言うなよな~。別に真夏にグラタン食ったってイイでしょ~? それとも何だよ~、この店は、季節外の食いモンオーダーしたら、キチガイ扱いでもすんのかよ~?」
「お前だけだ、サル! どうせ私への嫌がらせのつもりなんだろう!」
「何のコト~? オレはただ、グラタンが食いたい気分だっただけだし~」
白を切る平子に、「ぐぬぬっ……」と、汗だくの慶が怒りの拳を固めた。
「つーか慶りん、何でそんなに汗だくなんだよ?」
「ああ、急にキッチンの冷房が故障したんだ。しかも、こいつのグラタンを作っている最中にな!」
「はあ? んで、業者にはもう連絡したのか?」
「ああ。すぐに兄さんが電話してくれたんだが、混み合っているらしく、夕方になるそうだ」
「マジかよ! クソっ、予想外の出費だぜ……!」
溌が深い溜息と共に、頭を抱えた。みのりが不安そうに胸に手を寄せる。
「それじゃあ今、キッチン内は……」
「ああ。せいろ蒸し状態だ……」
汗だくでも青ざめる慶に、溌とみのりは、地獄絵図を想像した。
「雅さんは大丈夫なんですか?」
「兄さんはー……」
神妙な面持ちの慶に、みのりはゴクリと息を呑んだ。
「――透き通るような白い肌に、つぶらな瞳。二頭身ボディーが、無限の可能性を感じさせるなぁ」
キッチン内で、雅が何かしらに話しかけている。その様子を、溌とみのりがドアの丸窓から覗き込む。
「ねえ、キミの体には、何色の血が流れているの……?」
不気味なセリフの後、雅がかき氷で作った雪だるまの頭を、ナイフで何度も串刺しにした。
「み、みやびさーんっ!」
振り返った雅の顔に、真っ赤な血飛沫が飛んでいる。
「ぎゃあああ!」
目撃してしまった殺人現場に、溌とみのりの悲鳴が轟いた。
「安心してくれ。アレは血じゃなくて、イチゴシロップだ。雪だるまの頭部と体の中心に、イチゴの果肉と共に入っていたものだ」
「だからって、何で猟奇殺人犯みたくなってんだ! 病んでんのかっ! 暑すぎて、闇落ちエンド状態かっ!」
「仕方ないだろう。それが我々の長男なんだからな」
「長男怖えーわ!」
チン! と呼び出し音が鳴った。みのりが音のした席へと向かうと、グラタンを食べ終えた平子が、ナプキンで口元を拭いていた。
「お呼びでしょうか?」
「あのさ~、このグラタン作ったポンコツに、伝えといてくんな~い? 激マズだったって~」
平子の感想に、ポカンとみのりは口を開けた。
「ナニそのマヌケヅラ~。言葉通り伝えりゃ、分かるっての~。んじゃ、カネここに置いてくからさ~。アンタは伝言お願いね~」
そう言って、平子が店を出て行った。平子の言動に、みのりが困惑する。
「激マズだったって、全部食べているのに……?」
夕方の五時を回り、ようやくキッチン内の冷房機の修理が始まった。汗だくの中、使用済みの食器を洗う慶に、バッシングを終えたみのりが、追加の汚れた皿を持ってきた。
「私が洗いますよ、慶さん。今ちょうどお客様も引いたので」
「ああ、いや。ここは暑いからな。食器は私が洗うから、みのりはホールにいてくれ」
「大丈夫ですよ。こう見えて私、クーラーを使わずに生活してるんです。だから暑いのには慣れているんですよ」
「ええ? この猛暑をクーラーなしで生活しているのか? すごいな、みのり!」
「いえ、単に冷房機が壊れているってだけで。けっこうボロいアパートに住んでいるものですから……」
そこまで話して、みのりが口を閉じた。
「みのり?」
「お取込み中すみません。ちょっと室外機の方を見て来ますので」
そう言って、業者が外に出て行った。雅は遅めの休憩中で、キッチンには、慶とみのりの二人きりだ。思いがけない展開に、慶はドギマギしながら、「そ、そういうことなら、一層のこと、ウチに住むか? 使ってない部屋もあるし、ずっと君とも……」
「ほえ? 慶さん?」
見上げた慶が、頬を赤く染めていた。
「な、なんてな。すまない。今言ったことは、聞き流してくれ……」
再び皿を洗い出した慶の横顔が、不発に終わった無念さを表している。その意味に気付き、みのりは、ぎゅっと胸を掴んだ。
「あ……そ、そう言えば、平子さんから慶さんに、伝言を頼まれていたんでした」
「サルから?」
「はい。あの、そのう……激マズだった、と……」
その言葉に気まずさを感じた。躊躇いながらも、慶を見上げる。
「そうか……」
「で、でも! 平子さんはグラタンを全部召し上がっていました!」
慌ててフォローするも、慶に怒っている様子はなく、笑ってみのりに「ありがとな」と礼を言った。
「あの、慶さん……?」
「アイツなりの褒め言葉なんだ。だから、気にしなくても大丈夫だぞ?」
そう言いつつも、慶はどこか浮かない表情で笑っていた。
閉店後、ようやく冷房機の修理が済み、キッチン内に再び冷たい風が流れてきた。
「くそう、マジで高くついたぜ……」
請求書と出納簿を照らし合わせながら、溌が頭を抱える。閉店作業を終えた慶が時計を見上げた。
「溌、私はこれから少し用事がある。休憩中に夕飯の支度を済ませてあるから、兄さんと倖に食わせてやってくれ」
「おー。遅くならねー内に帰って来いよ?」
二人の流暢なやりとりに、みのりは一抹の不安を覚えた。制服を脱ぎながら更衣室へと向かう慶に、「大丈夫でしょうか、慶さん」と心配する声を漏らした。
「心配いらねーよ。いつもの儀式みてーなモンだからな」
「儀式?」
「コレをやんなきゃ、始まらねーんだろ? 互いにな」
兄の背中を見送る溌が、小さく息を吐いた。
夜の八時を迎えた近所の公園。その外灯下に、慶が一人で立っている。ズボンのポケットから携帯を取り出した。そこには、みのりから貰った誕生日プレゼントが付けられている。自分を模った男前の人形に、慶は、そっと笑みを浮かべた。そこに一人の足音が近づいてきた。目を向けると、キャップに黒縁眼鏡姿の平子が、不敵に笑いながら現れた。
「毎度ながら、アンタも懲りずによくやるよね~?」
「何を言っている。これもお前との決別の為だ」
「へえ、そうなんだ~。でも、そんなのどーでもよくね~?」
浮ついた口調で慶に近づいてきた平子が、瞬時に慶の間合いに入ってきた。
「どうせ今代も、オレがアンタを殺すんだからさ……!」
刀身が慶の胸を掠る。すかさず慶は、平子から間合いを取った。
「っち、デカい図体で逃げやがって……!」
「今は平成の世だぞ? 乱世や戦時中の戦い方では、法律に違反する!」
「ハッ! ナニ鬼の分際で、人間社会に馴染もうとしてるワケ~? 極悪非道こそ、アンタら鬼の本分だろっ!」
平子の太刀が慶を襲う。俊敏に避けながらも、慶が反撃の一手を加えた。人間だった爪が、鋭く尖って平子の喉元を掠めた。
「……っ、くそがっ! さっさと本気になれ!」
「私はいつだって本気だぞ。お前こそ、そんな得物なんか使わずに、本来の術式でも使ったらどうなんだ? 平安の世から変わらずお前は、陰陽師なんだろう?」
「っち……!」
慶の挑発に平子は舌打ちした。間合いを取り、懐から術式が書かれた札を取った。平子が対峙する慶を、じっと見つめる。
「アンタさ~、相変わらずヒョロいし、ポンコツ臭ぇーけど、どこが一番変わらねーかって、そーゆう人間大好き赤鬼ですってトコだよな~。そんなんだから、未だにオトモダチの青鬼にも許してもらえねーんだろっ!」
「……っ」
思いがけないセリフに、慶は捕縛の札を避けられず、平子の術式に嵌った。その場から動けず、体が硬直する。声すら発することが出来ない。慶の右耳のピアスは青色で、左耳は緑色だ。右耳のピアスに平子が触れた。
「フン、つっても、オトモダチだと思ってんのは、アンタだけだろーけど~?」
慶の脳裏に、高校時代、最後のインターハイで撮った写真が蘇った。弓道部の四人で写った写真。慶の隣には青瞳の生徒が二人と、端には緑瞳の生徒がいる。
「泣いたって、傷ついた青鬼は戻ってはこねーんだよ~? ……さてと、アンタは来年の『8・26』に黄泉に送ってやるとして~、残り一年近く、ナニして遊ぶかだよな~。こんな時代だもんな~。やろうと思えばなんだって出来るけど~、やっぱアレだよな……」
そう言うと、平子は慶の顎を下げた。
「今代も、アンタが嫌がるコト、ぜーんぶやってやるよ~。けどその前に……」
平子が慶の唇に自分のそれを重ねた。その行動に、慶が目を見開く。抵抗した時には既に、平子の捕縛は解かれていた。
「お前えええ!」
「しゃーねーじゃんよ~。毎度の儀式みたくなってんだからさ~」
ケロッとした平子が、激高する慶を宥めた。
「ふざけるな! お前は何故毎度毎度私のファーストキスを奪うんだ!」
「なんだよ~、そんなこと言って、今回も期待してたんじゃね~の~?」
「するか! くそう! 今代こそこの呪縛から決別出来ると思っていたのに! 私の貴重なファーストキスがあ!」
「そのツラで二十五まで経験なしとか、どんだけモテねーんだよ~」
「お前のせいだろうが! お前が毎度ながら私の傍をウロチョロするせいだろう! 今代でも、どれだけ裏で私の恋路の邪魔をしてきたんだ!」
「えー? ま、アンタに告ろうとしてきた女は、片っ端からオレが頂いたよね~。わざわざ式神を学生に紛れ込ませて、常にアンタの周辺の情報掴んでたし~。後、アンタがイタリアのレストランで修行してる頃、オレもイタリアの劇場でオペラ歌ってたし~」
「ストーカーじゃないか! 何故毎時代私のすることに寄せてくる! はああ~、やはりお前の嫌がらせだったのか。道理で誰も告白してこない訳だ……」
気落ちした慶が人生に絶望する。
「――慶さん?」
「はっ!」
顔を上げると、そこには、仕事帰りのみのりの姿があった。
「みにょり~!」
「ど、どうしたんですか?」
うわっと慶がみのりに慰めを求めた。それを見た平子が、「……ふーん、そーゆーコトね~」と察した。
「ねえ、アンタさぁ~、今付き合ってる男とかいんの~?」
「え? 私ですか?」
「な、ななななに訊いてるんだ、馬鹿ザルっ!」
「うるせ~よ、ヘタレ。どーせアンタら兄弟、揃いも揃って、肝心なコト訊けてねーんだろ~?」
「うっ……!」
思わず慶は目を反らした。図星だった。
「で、どーなのさ~? いるの? いねーの?」
「えっと……いないです、ケド……」
顔を真っ赤にして、みのりが俯いた。
(グラッツェェェェェ!)慶が天に向かってガッツポーズする。
「じゃーさ~、オレと付き合わね~?」
「ええっ! 平子さんとですか?」
「な、なななに勝手なこと抜かしてるんだ、エロザル!」
「ねえ、オレのコト興味ねーって言ってたケド~、日本のトップアイドルが、どんだけ凄いテクニック持ってるか、想像したら興味湧いてくるでしょ~?」
「ほえっ!」
平子がみのりの手を握り、存分にアイドルオーラを出しまくる。
「あ、ああああのっ! わ、わたしはっ、そのあのっ……」
あたふたするみのりに、ぐっと慶が反対側の手を握った。慶と平子が自分を取り合う形となり、ますますみのりは混乱した。フンと平子が嘲笑した。
「ナニそのツラ~。アンタのそーゆートコ見んの、初めてなんだけど~。あ、そっか~、アンタはずぅーっと好きだったんだもんね~。兄上と恋仲だった、姫サマのコトがさ~?」
「へ? 雅さんと……?」
その部分にみのりが反応した。慶が喉の奥を鳴らし、奥歯を噛み締める。じっと平子を睨み付けた。
「アンタが選ぶんだよ~、お姫サン。じゃなきゃ、ずっとこのままだけど、イイの?」
そうみのりの耳元で平子が囁いた。
「ひゃっ……」
「私を、いや……俺を選んでくれ、みのり」
慶の俺呼びに、みのりが「ううっ……」と今にも泣き出しそうな表情で俯く。そんなみのりを横目に、平子がポケットからコインを取り出した。
「イタリアの2セントコイン。2が描かれてる方が表ね。アンタが選べないってゆーのなら、コイツに決めてもらうからさ~」
「えっ! あの、でもっ……!」
「オレが表で、次男坊が裏。さーて、どっちが出てくるかナ~?」
コイントスの結果が、平子の右手の下に隠されている。みのりがゴクリと唾を飲み込んだ。慶も平子も平常心で結果を見つめる。
平子の左の手の甲には、モーレ・アントネッリアーナが上を向いていた。
「ほえ? これは裏、ですか?」
「あーあ。一回戦は敗けちまったか~。しゃーねーな~。今日のトコロは引いてやるよ~」
そう言って、平子がみのりから手を離した。そのまま帰路に着く。
「あ、あの、平子さん……?」
「あ、そうだ~。オレ捻くれてるからさ~、見たまんまには褒めねーから~。ケド、逆にそれがオレの好意の証だから、覚えといてよね~」
その時初めて、平子がみのりに微笑んだ。そうして再び二人に背を向けた。
「アト、こう見えて結構ズル賢いからさ~、オレが張ったワナにアンタも嵌んないようにね~? どっかのポンコツシェフみてーにさ~」
振り返ることなく、平子は夜の闇へと消えていった。
「……えっと、慶さん?」
みのりが困惑の表情で慶を見上げた。
「すまない、みのり。アイツは昔から、ああいう奴なんだ」
「そうなんですね……。あの、慶さん。平子さんが仰っていたことって……」
「ん? ああ、兄さんのことか?」
コクリとみのりが頷いた。
「……兄さんにはその昔、命よりも大事な恋人がいたんだ。兄さんだけではなく、私達兄弟にとっても、彼女は『宝物』だった。だがある時、その『宝物』が奪い去られてしまったんだ。命よりも大事な恋人を失った兄さんは、それ以降、延々と苦痛の中で生きてきた……」
そこまで聞いて、みのりは口を噤んだ。それ以上聞く勇気もなく、みのりは「すみません、今日はもう、帰ります」と沈んだ顔で帰路に着いた。
「みのりっ……!」
慌てて慶はみのりの腕を引いた。立ち止まったみのりが、慶から表情を隠す。
「……送っていくよ。もう夜道が暗いからな」
「いえ……一人で帰れます。今は、一人きりにして頂けませんか」
「……そうか、分かった……」
そう言うと、慶はみのりの腕を離した。足早に公園から去っていくみのりの後ろ姿に、慶は、ぐっと気持ちを抑え込んだ。
公園から出てきた平子を待ち伏せていた、清従。
「――わざと負けてやったのも、ズル賢さ故の罠なのか?」
「うっわ~、相変わらず高みの見物かよ~? イヌは高いトコが苦手なんじゃねーの~?」
余裕の笑みで平子が歩き続ける。
「それとも、捻くれ者故の好意のつもりか?」
「ハン! 別にどーだってイイでしょ~? これといって小細工もしてねーし~」
「そうか。貴様にしては珍しいじゃないか。鬼も人間も、欺くのはお手の物だろう? モンキーシャイン(イカサマザル)?」
「何とでも言えよ、ズッコケワンコ」
互いに貶し合う、イヌとサル。それでも笑っているのは、ようやく鬼退治の時を迎えた歓びからか――。
「――それで、その状態で夜道を一人で帰らせたの?」
雅が笑顔で慶に関節技をかける。
「イダダダダ……! し、仕方ないだろう! みのりが一人きりになりたいと言ったんだからあああっ!」
ギブギブ! と慶がのたうち回った。慶を解放した雅が、「はあ」と溜息を吐いた。
「いくらのりピーがそう言ったからって、それはねーと思うぞ、慶りん」
「ああ。ありえねえな。そんなんだから、サルに千年もストーカーされるんだろ?」
弟達にも批難され、うつ伏せの慶がその場に突っ伏した。
「私だって、みのりを家まで送ってやりたかったんだぞ!」
「全く、君が余計なことを言うからだよ。いくらみのりちゃんが春の生き写しだからって、彼女と春は違う人間だって前にも言っただろう? ……彼女の記憶なんてないんだ。曖昧に話したところで、不安にさせるだけだよ」
雅が顔を反らして言った。
「その言い方ではまるで、みのりが兄さんを好きみたいじゃないか!」
ばっと顔を上げた慶に、実際その通りだろ、と溌が内心呟く。
「兄さんはどうなんだ? 兄さんだってみのりのことが――」
「慶、前にも言っただろう? 僕には春だけだって。……千年前の話で彼女が傷ついたと言うのなら、君が彼女を慰めてあげれば良いんじゃない? そうすれば、君の千年の片思いも、ようやく成就する日が訪れるでしょ?」
雅の声色が、段々といつもの雅へと戻っていく。そうして言い終えた時には、穏やかな顔で慶を引っ張り上げた。立ち上がった慶が、ぐっと拳を固めた。リビングを出ようと歩き出した雅に、「……分かった」と呟いた。雅が立ち止まる。互いに背を向けたまま、「もう遠慮はしない」と慶が宣言した。
ふっと笑った雅の横顔を、溌は無言のまま見上げていた。兄弟とみのりの恋模様の行方を、俯瞰で見守ることが、自分の務めだと分かっている。
「お、おお、おれもっ……兄貴達には、エンリョしねえからなっ……!」
顔を真っ赤にして、倖が二人の間に割って入った。その様子に雅と慶が面喰った。が、すぐに二人は笑いだした。
「お、おい! 俺は本気なんだぞっ! 笑うな!」
「あはは! いや~、ごめんね倖。そっか、君もそうだったんだね」
「わ、わるいかよっ……」
「いや、悪くはないぞ。だが……ククッ、お前はまず、みのりの接客を見習うところからだな」
「おわっ! わ、わわわ、わかってる! だって俺、アイツのこと、いつも見てるし……」
倖が紅潮したまま、顔を下に向けた。その言動にどこか二人の兄は心が揺さぶられた気がした。何となく、末の弟の存在に危機感を抱いてしまったのだ。
「……安心しろ、ダークホースの手綱はオレが握っててやる」
ボソッと呟かれた溌の言葉に、雅と慶の肩が、ギクリと跳ね上がった。
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