第2話 ファンレター
世間は夏休み真っ只中。通信制の高校に通う倖も、休み明けに提出するレポートの片づけに追われていた。
「はい、そこまで。きっちり一時間経ったぞ」
接客用の制服(グレイのシャツに黒色の腰エプロン)姿の溌が、ストップウォッチ片手に、倖が解いていた宿題のプリントを取り上げた。
「ああ! あと少しで全部解けたんだぞ!」
「うっせーな。宿題していいのは、昼休憩時だけっつったろーが。このくそ忙しい中でも、きっちり一時間くれてやったんだ。残りは夜解いて、オメーは仕事に戻れ」
「なっ! 俺はまだ学生だぞ! 勉学が優先だろー?」
「うるせー! そういうのはな、全日制の進学校に通う連中のセリフなんだよ! オメーは通信制だろーが。仕事と学業を両立させてこそ、通信制に通う意味があんだよ。分かったんなら、さっさとエプロン巻いてホールに出ろ!」
「くそ、こんなのオーボーだ! こどもの労働問題協議会に訴えてやる!」
「何言ってんだ。オメーはもう十七だろーが。法律上、労働しても何の問題にもならねーよ」
「十七歳が毎日十時間近く働いても、何の問題にもならねえって言うのかよー?」
「だから残業代もつけてやってんだろ? ぐだぐだ言ってねーで、さっさと注文取ってこい! オレも昼飯食ったらすぐ出てやるから!」
「はあ。また接客か……」
倖が腰にエプロンを巻く。深く溜息を吐いて、嫌々ホールに出た。
「キャー! 倖チャンよー!」
「倖チャーン、こっちの注文おねがーい!」
「倖チャン、カワイー! お仕事頑張ってー!」
店中に黄色い声援が飛ぶ。携帯のカメラを向けられ、至る所からシャッター音が響いた。その中を、倖がガチガチに緊張しながら、オーダー待ちの席へと向かった。
「お、お、お決まりに、なられ、マシたカ……?」
「片言カワイーね、倖チャン!」
「へっ……?」
満面の笑みで自分を見上げる若い女性客に、倖は顔を真っ赤にして、プルプル震えた。
「もう半年もお店に出てるのに、まだ緊張しちゃうの? ホント、倖チャンって、カワイーわね!」
「お、おれ、は……」と口籠り、下を向く。
「ホント。雅サマはほんわか系で、慶さんはクール系。溌くんはしっかり者系で、倖チャンはカワイイ系ね」
「あら。アンタ、雅さんファンなのね」
ファンの間では、自分の押し兄弟を、サマ付けで呼ぶことが暗黙のルールとなっている。
「私は年上が好きなの。そういうモトコは?」
「アタシ? アタシは慶サマ。あの綺麗な流し目を向けられたら、たまんないわ……!」
「えー? わかんなくもないけどー、やっぱり優しい男が一番じゃない?」
「あ、あの、注文……」と、倖が二人に割って入ろうとするも、
「そうかしら? 男なんて優しいだけじゃつまらないわ? 普段クールだけど、時折見せる笑顔や泣き顔が、グッとくるんじゃない!」
「クール? 泣き顔?」
倖の脳裏に、昨晩の慶の泣き顔が浮かんだ。
「――クシュン!」
「ちょっと慶! 飾りがズレちゃったじゃない!」
キッチンでケーキの上に飾りを乗せていた雅が、向き合って作業する慶に、イチャモンを付けた。
「す、すまない、兄さん!」
「風邪ひいたなら、ちゃんとマスク付けなよ?」
「いや、そういうのではないと思うんだが……?」
急にむず痒くなった鼻を擦り、慶は首を傾げた。そこに昼食を終えた溌が、空の皿を持って入ってきた。
「どうしたんだよ、慶りん。鼻なんか擦って」
「いや、何だか急にむず痒くなって――」
その時、ホールから「なんなのよ、アンタ!」と怒声が響いた。「なんだ!」と、三人が慌ててホールに出ると、そこは、いきり立った二人の女性客が言い争う修羅場と化していた。
「ちょ、え? どうしたの、倖」
「いや、何か急にスイッチが入っちまったみたいで……!」
「スイッチ? 一体何のスイッチだ?」
周囲の客もしんと静まり返って、この修羅場に息を呑んでいる。
「何度も言ってるでしょ! 男は見た目が一番大事なのよ!」
「はあ? そんなんだから、いっつも見た目ばかりの駄目男に引っかかるんでしょー!」
「一体いつアタシが駄目男に引っかかったて言うのよ! アンタの方こそ気弱な男捕まえて、自分に貢がせてる悪女じゃない!」
「誰が悪女よ! アレは貢がせたんじゃなくて、勝手にプレゼントされただけでしょ!」
「それを質屋で売りまくってるくせに、清楚ぶらないでくれる? アンタってホント、したたかで計算高い女よね!」
「それは、あんただって一緒でしょ!」
とうとう二人は掴み合い、そのままテーブルに雪崩込んだ。カトラリーケースが落ち、スプーンやフォークが床に散らばった。
「お、落ち着いて! 冷静になって下さい!」
「他のお客様のご迷惑にもなりますので!」
更に取っ組み合いの喧嘩を続けようとする二人を、雅と慶が羽交い絞めにして止める。
「はっ……!」
ようやく二人は我に返ったのか、それぞれのファンである、雅と慶の体に密着していることに、惚けた顔で見上げた。
「雅サマ……」
「慶サマ!」
「えっ……? えええー?」
ぎゅっと女性客に抱き締められ、二人は困惑した。俄かに周囲がざわつき始めたことで、兄弟の背筋に悪寒が走った。ゴクリと生唾を飲む女性客達に、嫌な予感がして堪らない。
すかさず溌が忠告した。
「いや、あの、殴り合いの喧嘩なら、店の外でお願いします!」
取っ組み合いの喧嘩で兄弟と密着出来るのでは……! そのような悪だくみが横行する前に、溌は店の前に、『店内喧嘩禁止!』と注意書きの看板を立てた。
「――はあ。今日もいっそがしかったー」
閉店作業をしながら、倖が怒涛の一日に、疲弊の吐息を漏らした。
「お疲れ、倖。今日も一日ご苦労さま」
「俺よりも雅兄達の方が忙しかったろ? 俺はただオーダー取って、出来たモンをテーブルまで運ぶだけだし。実際にイチから作ってる兄貴達に比べたら、ラクなもんだろうしな」
「うーん、まあ確かにね。でも、食べ終わった食器を片づけたり、洗ったりしてくれる倖達のお陰で、今日も何とか回せたしね。兄弟皆で力を合わせて、ここまで来たんじゃないか」
雅はテーブルを拭き終えると、腰に手をやり、笑った。純白だったパティシエ服も、所々汚れてしまっている。それを見て、倖は俯いた。
「雅兄、俺、今日何も出来なくて……ホントは、もっと早くに俺が止めるべきだったのに……」
「止めるって、昼間の喧嘩のこと? そんなこと君が気にする必要はないよ。だって君のせいで、あの二人が喧嘩した訳じゃないだろう?」
「そう、だけど……。でも、俺がもっと客とコミュニケーション取れたら、言い争いの喧嘩にも、ジョークで割って入ってやれるだろうし……。俺、溌兄みてえに社交的でもねえし、雅兄や慶兄みてえに、才能がある訳でもねえから……」
「倖……」雅が目を細める。
「俺が中学まで家族以外の誰とも話せなかったせいで、高校だって普通の学校には行けなかったし、そのせいで、雅兄も慶兄もイタリアから戻って来ることになっちまった。結局、溌兄も大学を辞めてまでこの店始めたし、俺なんかのせいで兄貴達の夢が……」
「夢なら叶ったよ」
はっと倖が顔を上げた。雅は椅子に腰かけると、店の天井を見上げた。
「……昔はよく、僕達も掴み合いの喧嘩をしたよね。といっても、主に君と溌だったけど。まあ、男ばかりの兄弟じゃ、それが普通なんだけど。でも、喧嘩した後は必ず、僕が作ったお菓子で仲直りしてくれた。僕はお菓子を作るのが好きで、慶は昔から忙しい母親の代わりに夕飯を作ってくれたし、溌も高利貸しごっこで、僕達が借りたお小遣いの返済を迫っていたよね。ホント、正直、僕は君よりあの子の将来の方が心配だったけど……。でも、なんだかんだで、今お互い好きなことをしているし。少し早いけど、こうして念願だったお店を持つことだって出来た。溌だって、自分の夢については、ちゃんと考えているだろうし、独学と実践で、経営についても勉強しているしね。好きなことをしながら、兄弟で仲良く暮らせているんだ。僕の夢はもう叶ったよ。それに、今が一番幸せな時代だしなぁ」
「雅兄……」
天井を見上げていた目を、雅はそっと細めた。それから息を吸うと、笑って立ち上がった。
「さて。片付けも済んだことだし、そろそろお家に帰ろうか。慶がお夕飯を作って待ってるよ」
「お、おお」
まだ心に痞えが残るものの、倖は腰からエプロンを外した。その時、ひらりとエプロンのポケットから、何かが落ちてきた。それを拾い、眉を潜める。
「なんだコレ?」
「どうしたの、倖。ん? 手紙?」
ピンク色の封筒の表部分には、「倖さまへ」と書かれている。
「もしかしてファンレター? 良かったね、倖! とうとう君にもファンレターが来たんだ!」
「え? マジで? い、いつの間に?」と、驚きと動揺を隠せない。
「君は何て言うか、恋人目線というよりも、弟目線で見られることが多いからね。黄色い声援も、可愛がるような感じだし。倖チャン、じゃなくて、倖さま、だもんね。もしかしたら年下からかもよ。いやー良かったじゃない。遂に人生初の彼女が出来るかもしれないよ?」
「か、かのじょ?」
「ほら、早く開けて読んでみなよ。なんならお兄ちゃんが、読んであげようか?」
「い、いや! お、おれが自分で読むからっ……!」
雅に取り上げられそうになった手紙を必死に守った倖は、くるりと背を向け、封筒の中身を読んだ。
「……倖? どうしたの? 手紙、なんて書いてあるの?」
俄かに倖がプルプルと震えだす。
「えっ、倖? ちょ、どうして震えてるの? 手紙には、なんて書いてあるの?――」
「――前略 頬月倖さま。
納涼の候、『ほおづキッチン!』の皆様方におかれましては、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。さて、この度、わたくしが倖さまに文をしたためましたる理由につきましては、既知の上にはございませんでしょうが、以前より倖さまに厚く好意を抱きましたることを、僭越ながらこの文にて、お伝えしたく存じ上げます。
わたくしが倖さまを初めてお見掛けしたのは、今から三ヶ月前の、風薫る五月のことでございます。わたくしの通う桃園女学院清風学舎の近隣に出来たという、令聞高い茶寮に足を運ばせて戴いた折、まだぎこちないご様子の倖さまに接客して戴き、その不慣れな中にも愛らしい御姿が、わたくしの静寂とした胸の水面に、愛の笹舟を浮かせたのでございます。それは、わたくしにとっての初恋と相成りましてございます。これまで多々に渡り、貴方さまがお働きになられる場面に立ち会って参りましたが、わたくしの胸の笹舟は今、進むべき方向を見失いかけているのです。そう、貴方さまへの愛念が寂寞の想いを募らせ、わたくしの前には、一筋の光も射し掛かってはいないのです。どうか倖さま、暗闇の中を彷徨う、哀れなわたくしの光となって下さいませ。わたくしの笹舟をどうか、貴方さまのお優しい手で、掬い上げて下さいませ。そうして、その笹舟をどうか、貴方さまの愛の茎で、楽園へと舵を取って下さいますようお願い申し上げます。この気持ちを汲んで、御返事戴ければ幸甚と存じ上げます。何卒、わたくしの愛をご理解戴きますようお願い申し上げます。
桃園女学院清風学舎一年A組 神宮寺百合亜」
ファンレターの内容を音読した雅が、必死に笑いを堪えている。
「うわあ! 初めてファンレターもらったっつーのに、なんでこんな畏まった文章なんだよ! まったく理解できねーわ!」
突っ伏して泣く倖に、「理解力なさ過ぎるだろう……」と、夕飯をテーブルに運んだ慶が、呆れて言った。
「うるせー! 何だよ、笹舟って! 一体人間のどこに笹舟があるって言うんだよ!」
「倖、笹舟なら僕にもあるよ?」
「へ? どこに……?」
顔を上げた倖が、優しく笑う雅にすがった。
「こーこ」
雅が自分の喉元を指さした。そこにある突起が、上下に動いている。
「喉仏じゃねえか! それのどこが笹舟だ!」
「ぐふぉ!」
喉元に倖のチョップが直撃し、雅が咳き込んだ。
「に、にいさん! 喉はやめてやれ、倖。これでも一応、パティシエだからな」
「ち、ちがうよ、慶。ゴホ……ぼくは……ぼくは、パスティッチェーレだよ!」
「もうパティシエで良いだろう、兄さん!」
「いやだー! 僕はパスティッチェーレって、呼ばれたいんだー!」
「分かったから。兄さんはもう黙っててくれ」
兄の暴走を抑え、改めて慶は、倖が貰ったファンレターに目を通した。
「良い文章じゃないか。お前への愛がたくさん詰まっているだろう? 一体何が不満だと言うんだ?」
「いや、だって俺、頭悪ぃーし。その手紙くれた子は桃園女学院の生徒なんだろ? マジもんのお嬢様が、俺みてえな奴に惚れたとか、ワケ分かんねえし。難しい言葉並べられても、俺がその子に見合うような返事も書いてやれねえだろうし……」
「倖……」
「ハッ! オメーが頭使って返事書こうなんざ、らしくねーことすんなよな、ゆきんこ!」
「溌兄……」
リビングのパソコンで経理業務をしながら、一部始終を聞いていた溌が、赤色の眼鏡を外し、その目を倖に向けた。
「その手紙の中に、賢いオメーが好きだとか、一行たりとも書いてねーだろ? その子は不慣れでぎこちない姿のオメーに、惚れたって書いてんじゃねーか。ちゃんと素のオメーを見て、そこに惹かれたんだろ。だったら相手がお嬢様だとか、自分には不釣り合いだとか考えずに、そのままのオメーの言葉で、返事してやればいーんじゃねーの?」
「イイこと言うねー、溌。さっすがはお兄ちゃんだ」
笑って雅が溌の頭を撫でまわした。
「ちょ、やめろっ! オレはイヌやネコじゃねーんだぞ!」
「そんな小動物よりも、溌の方がずっと可愛いよ」
「やめろー! 弟を愛玩の対象に見るんじゃねーよ!」
必死に溌が抵抗して、雅の可愛がりから離れた。
「いいな……」ぼそりと呟かれた慶の言葉に、
「おい! いい加減この流れはやめろ!」と、ジリジリと近づいてきた慶を、溌が全力で拒絶する。
「溌兄?」
「見るな来るな知るな……! と、とりあえず、ゆきんこ! そういうことだとオレは思うから、オメーはオメーの言葉で、付き合うなり断るなりすればイイと思うぞ!」
そう口早に言うと、「風呂入ってくる!」と、溌が足早に、二人の兄の独特な愛情表現から逃げた。
「溌兄? 何で急に風呂入りに行ったんだ?」
「ふふふ。溌も疲れてるんだよ。さて、僕達は先にお夕飯食べちゃおうか」
「そうだな。ほら倖、お前もおかず運ぶの手伝え」
「あ、ああ……」
台所へと向かった慶の後に続きながら、倖は再度ファンレターを読み返した。溌の言葉がぐっと胸を突いた。
(俺は俺の言葉で返事をすればいい)――そう、結論付けた。
夕飯を終え、風呂に入った倖が、疲労からテーブルに突っ伏して眠っている。寝息をかくその手には、人生で初めて貰ったファンレターが握られていた。その手紙を風呂上がりの雅が抜き取り、読み返した。ふっと笑う。
「……笹舟を、貴方さまの愛の茎で、楽園へと舵を取って下さい、ねえ……」
「何だ兄さん。そんなにその文章に引っかかったのか?」
既に寝支度を整えた慶が、冷蔵庫の前で麦茶片手に笑った。
「んー? だって、愛の茎とか露骨過ぎない? どう読んだって、下ネタにしか思えないし。この子、本当にお嬢様なのかな?」
「桃園女学院の生徒なんだろう? まあしかし、こんな時代だ。一概には純潔で清楚な子ばかりとは言えないか」
「そうだね」
カーテンの隙間から、やんわりと輝く満月が部屋を覗き込んでいる。それを見上げながら、雅と慶がそっと物思いに耽る。
「本当、月も太陽も人の愛情表現も、ずっと昔から変わらないね。あの頃も、僕達はこうして月を見上げては、人ではない自分を憐れんでいたんだ……」
雅の言葉には、憂愁の意が込められている。それを痛い程理解している慶は、沈黙のまま脳裏に一人の姫を思い浮かべ、深く目を瞑った。
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