第07話 雛、沸き起こる疑心に憂うこと
とっぷりと日が暮れて、夜空に白い月が昇るころ。
与えられた自室で、軽く体操し、足を入念に解し、教坊時代からの習慣で両足に布を巻く。
宮女のお仕着せである
「公主殿下に置かれましては、み景色麗しく……」
「良いよい、顔をあげなさい」
入室した玉蝶が公主に向けて跪拝をしようとすると、紫晶が遮った。玉蝶は珪雀に促されて、紫晶が腰かける長榻の隣に腰を下ろした。
瑶鏡殿で相対した部屋と比べ、公主が生活する私室は、調度品の数が少なかった。
「引っ越しの準備中だからね」とは紫晶の言葉だ。
玉蝶は、宜春院で翠輝には会えなかったが、兄と競い合った紅榴、紅榴が指導する桃簾と出会ったこと、百戯館の面々から滑氷鞋に四輪をつけてもらい、練習場の借用にこぎつけたことを話す。
珪雀は小首を傾げた。
「宜春院にいる宦官たちは、個人主義って聞いたから。場所とか借りられて良かったね」
「はい」とうなずく玉蝶は、自分が
百戯館の彼らは、年齢や環境から玉鸞の遺体が盗まれたことも当然知っている。
――もしも、だ。彼らが、宦官墓園から玉鸞の遺体を盗めるような大道具を作っていたら?
宜春院にいる宦官の中で、百戯館に属する者たちは比較的自由がきく。彼らの職掌は、舞台当日に観客の前に姿を現すことではなく、舞台を彩る大道具や小道具のために準備を費やすからだ。
(……疑うのは、難しい、苦しい)
舞台で己の美貌を、歌を、舞を披露する宮妓や楽人が、舞台が終われば美しさと正反対の言動を見せることがある。だから物作りを楽しみ、利用者の安全を考え、穏やかで素朴に見える百戯館の面々も、もしかしたら。
ふと沸いた疑念で顔を曇らせる玉蝶に、紫晶は珪雀に目配せした。
玉蝶、と珪雀に名前を呼ばれる。
「知り合いに
「はい」
頷いた玉蝶は、その彩紅が瑶鏡殿での舞台で、場所を変わったくれたのだと言うと、珪雀と紫晶はそろって眼差しを鋭くした。
「天覧氷舞が久しぶりに開催されるだろう……というのは、案の定、宮中で話題になっているわ。誰が出場するのかもね」
紫晶の言葉に玉蝶はうなずいた。
玉蝶という、前回の天覧氷舞の舞手の妹が参加するという話題を意図的に流し、玉蝶や玉蝶の周囲に近づく輩を調べる手筈になっているのだ。
公主と玉蝶と方形の卓を挟んで座る珪雀が言った。
「殿下の宴席に君が参加した翌日。彩紅の元に『双』を名乗る男が現れた。君の父親の従兄弟に当たると言った」
「まさか」
玉蝶は彼の言葉に首を横に振って否定を示した。
双姓は、母親の名字だ。玉蝶と兄、玉鸞は、父親を知らない。子供が二人いる母が養父と再婚したという。
これを、と公子は卓上の紙を取り上げ、玉蝶の前に差し出した。
眦が垂れ、右の口元に黒子がある男が描かれていた。
「彩紅という宮妓に描いてもらった」
彩紅とは画の稽古で隣同士の席になり、さらに〈彩雲〉に出演も決まり、ともに練習に明け暮れ、玉蝶の友人は、破瓜を迎えたために、雛妓から宮妓となった。
「心当たりは?」
紫晶が横から口を開いた。
「……ありません」
「大明宮にある教坊は、宮妓や雛妓の出入りは自由ですが、商人や家族との面会は制限が設けられます」
玉蝶は、宴席に侍ったことがない。また雛妓が出演していい時間帯もある。
「『双』は母親の姓です。私と兄は、父を知りません」
実父のように慕う男性と、母と兄と共に暮らしていた。
父代わりの彼の名前は
紫晶が言った。
「その彩紅という雛妓――今は宮妓だけれど。彼女は京師の生まれよね?」
「はい。祖父や曾祖父が楽器職人だと伺っております」
「新たに雇い入れた職人が、翠輝の養父だったわ。足下は知っていて?」
「え……?」
「そも足下はなぜ彩紅の代わりになったのか」
「その。彩紅は……」
矢継ぎ早に問われ、玉蝶は珪雀をちらりと窺った。その様子に紫晶は目敏く気づく。
「公子」
「お茶をご用意しますね」
紫晶の言葉に、珪雀は立ち上がると部屋を出ていく。
玉蝶は紫晶に説明した。
あの日あの場に自分がいた理由を。
「私は、翠輝様のお養父様が、彩紅のおじい様のところで働いているなんて知りませんでした。彩紅は私より二つ上です。いつ破瓜が来てもおかしくはありませんでした。でも、彼女も私も、殿下の宴の群舞に出る雛妓です。だから、彩紅が私を指名しても指導役のあね様たちが駄目と言っていたら、私は彼女の立ち位置にいませんでした」
彩紅が破瓜を迎えていなければ。
玉蝶が彩紅に指名されなければ。
玉蝶が彼女の領布を返そうとしなければ。
――公子と公主に会うことは、なかった。
(どういうこと? あに様を指導したのは翠輝様。あに様が消えた時の墓園の管理人は、翠輝様のお養父様で、そのお養父様が彩紅のおじい様のところにいる?)
偶然だろうか、それとも。
玉蝶は、応援してくれた彩紅の笑顔を思い出していた。膝の上に置いた拳を握りしめながら、玉蝶は紫晶に言った。
「私、九歳の時に教坊に戻ってきたから、同じ時期に入った子と比べて、歌や踊りについて全くわからなかったんです。ただ宦官墓園にいた時に、読み書きや碁の打ち方は教わっていたから、その分、基本稽古に専念できていたのですけど。画の稽古も、たまたま予定が空いていたから参加しただけで、彩紅ともその時初めて会って……」
早期教育が重視され、そして宮中で最も需要がある音楽や舞いと比べて、画の技法については比較的緩やかだ。
これは、宮殿内、例えば天井画などは
肩を落とす玉蝶を見て、紫晶は息を吐いた。
「全く嫌になる。年を重ねると、事象の裏も細部も気になってしまう」
頭を撫でられ、公主に慰められたと気づいた玉蝶は、慌てて顔を上げた。
「わ、私も! 殿下と同じく、兄の行方を、理由を知りたいと思っています!」
だから、公主を後見として、天覧氷舞への出場を望むのだ。
玉蝶の意気込みが伝わったのか、紫晶は目元を和らげた。つられて玉蝶も表情を緩める。
「畏れながら。殿下はなぜ愚兄をお側に置いたのでしょうか?」
「本宮の嫁ぎ先が決まったからよ。玉鸞の髪色はめでたいからな」
紫晶は続けた。どこか遠くを見るような眼差しは、玉鸞を思い出しているのだろうかと玉蝶は思う。
「玉鸞以外にも年近い宦官はいたが……いや。本宮も子供ながらに、玉鸞が楽人見習いだから、側に置いたと思う。楽人たちは、本宮が望んだ時に望んだ世界を見せてくれるから」
公主の身の回りを世話する宦官を内廷宦官と言い、執務を行う皇帝と共に外廷――すなわち朝廷に赴き、宮殿内の蝋燭に火を灯したり消す宦官を朝堂宦官と言う。朝堂宦官の役目は宮殿内の清掃のみならず、皇帝陛下に官僚を取り次ぐ役割もあるため、官僚並みの知識が求められる。
人数で言えば、多い順番に朝堂宦官、内廷宦官、楽人となる。ただし各自の役割と人数が異なるため、朝堂宦官は、生涯雑役に従事する者が多く、己の名前すら書けない者もいる。
一方、楽人の場合は、外見と芸才のいずれか、または両方を兼ね揃えているため、老いも若きも文字の読み書きや算盤といった教育が施されているが、官僚の奏上文を取り上げ、皇帝に伝える内廷宦官ほどの高等知識はない。
「当代の宦官は全てお父上様に仕えている。本宮は公主だったから、傅役の白氏が家令まで務めてくれて、玉鸞を側に置きたいと望んだら叶った」
公主と異なり、皇子の場合は、皇子を旗頭とした派閥を生まないために、仕える宦官たちも一定期間が経てば異動するのだという。
「今時点で本宮の周りにいる者は全て血族の女、そして公子だけ」
公主の降嫁が決まると、公主に仕えていた宮女たちも、後宮の他の場所に配属される。
紫晶は玉蝶を見た。
「白氏が襲われた時、本宮は眠っていた虎の尾を踏んだのでないかと思った。本宮が六年前の玉鸞について調べようとしたのは、それだけの知恵と力を手に入れたから。だから、公子と足下が出会えたのはまさにその先魁かと。ねえ、玉蝶」
「はい」
名前を呼ばれ、玉蝶は背筋を伸ばした。
「玉鸞の妹である足下が天覧氷舞に出ようとすること自体、よからぬ輩の餌食になるかもしれないのだ。本宮と公子の目が届かない場所で、足下に危険があるやもしれぬ」
「お心遣い痛み入ります。けれど、殿下。不肖この身は、愚兄と同じく、舞い歌うことでしか生きられません。愚兄を弔うための舞台に出られる機会があるのならば、この身のすべてを投げ打ってでも手に入れたいと思ってしまうのです」
言葉を選びながら、玉蝶はゆっくりと言った。
「私も、殿下のお力添えがなければ天覧氷舞に出られませんでしたから。だから、私は自分にどんなことが起きても、後悔はしません」
玉蝶がそう言い終えると、扉が叩く音がした。紫晶が応じると、現れたのは銀盆に茶の道具を載せた珪雀だ。片手で盆を持った彼は後ろ手で扉を閉めると、足早に玉蝶たちに近づいた。
「殿下、失礼いたします。玉蝶、宜春院から手紙が」
従姉弟ゆえの気安さか、珪雀は公主には目礼だけで済ませると、方卓に盆を置き、懐から手紙を取り出し、玉蝶に渡した。
「……どうしたの?」
珪雀の案ずるような問いかけに、玉蝶は文から顔を上げた。
「宜春院の、紅榴様からです。決闘は来週だと」
「決闘? 紅榴って、確か玉鸞と同期の――」
隣から声をかける紫晶に、玉蝶は急いで答えた。
「決闘というか、試合です。氷球で、紅榴様のお弟子さんと勝負します」
玉蝶は二人に紅榴とその弟子、桃簾との出会いを語った。
正面から端正な面差しに不安を浮かべた珪雀が口を開く。
「殿下。やはり玉蝶は天覧氷舞に出させるのは危険では? 宜春院は、大家の御下命で宦官が統べる土地。あそこで玉蝶になにかが起きても、我らにはどうすることもできません。こんな幼気な子に万が一があれば、私は玉鸞に申し訳が立ちません」
「申し訳が立たないのは本宮も同じよ、公子」
髪型、服装が異なるだけで、鏡を映したように似た顔立ちの二人の言い合いを前に、玉蝶はかえって冷静になった。
宦官とは、人の姿をした家具。そして玉蝶のような宮妓見習いも、人の姿をした音を奏でる楽器である。
だから身分階層で言えば、頂点に近い公主と公子からしたら、己に仕える宦官の個人的な考えや性格など、それこそ兄・玉鸞のように側に置かない限り、理解できないのではないかと考える。
玉蝶は息を吸って、吐いて――にっこりと、十二歳らしい、なにも考えていない、子供らしい無邪気な笑みを浮かべて言った。
「大丈夫ですから!」
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