第5話
気まずいお風呂を終えて薫の部屋に行き、就寝の準備をした。寝るには少し早いかもしれないが、早起きして朝に勉強しようという計画になっていたのだ。
薫はもそもそと動き、枕を布団の中にいれた。
「なんか、股に挟んでないと眠れないんだよね」
「わかる。私も家では抱き枕使ってるよ」
「あんまり大きいと使い勝手悪そう」
薫はそう言って布団をかぶり、仰向けに寝た。おかげで枕のぶんだけ布団が盛り上がっている。
「なんか挟むときって普通、横向きで寝ない?」
「仰向きでしか寝れないし。ほかの寝かたって苦しくない?」
「私はもっぱら横向きだけど。抱くものないときは自分の腕挟んだりして」
「体丸めると息苦しいから、いや」
薫は布団の中から腕を伸ばし、照明のリモコンを取った。
「ベッド取っちゃって悪いね」
「いいよ。お客さんだもん」
部屋が真っ暗になり、遮光カーテンの隙間から差し込む月明かりが顕著になった。薫の匂いがする枕に顔をうずめ、光を遮った。
妙な音で目が覚めた。ちらりと覗いた外はうすら明るく、時間は早朝であることがわかった。
音源は部屋の中で、私よりも低い位置からだった。ベッドの下に視線を送ると、薫が膝をついてうずくまっており、うめき声を上げていた。そのウシガエルのような鳴き声が私の眠りを妨げたのだ。
薫の表情は見えなかったが、彼女の足元には水滴が垂れた跡があった。それが涙なのか涎なのかはわからないが、なにか異常なことが起きていることは間違いなかった。
「大丈夫?」
私はベッドから下り、薫の背中をさすった。そのときに彼女の顔を覗き込むと、涙目で涎を垂らしながら、苦悶の表情を浮かべていた。しかし、それ以上に目を引くものがあった。
お腹だ。
薫のお腹は昨晩浴室で見たときより大きくなっており、パジャマのボタンはすでに弾け飛んでいて、むきだしの肌が見えていた。妊婦のような、否、妊婦でもここまで大きくはならないのではないだろうか。
「ねえ、大丈夫?」
私が薫のお腹に触れようとすると、彼女はその手を叩き落とし、私を遠ざけようとした。
「……じょうぶだから、見ないで」
息を荒げ、口を押さえている薫は吐き気をこらえているようだった。
「おばさん、呼んでくる」
私が立ち上がろうとすると、薫は私の服の袖をつかみ、頭を横に振った。そして、ベッドを指差した。戻って寝ろ、ということだろうか。
「なんで。おばさんにも隠してるの?」
薫はそれには答えず、言う事を聞かない私を恨めしそうに睨んだ。
だが、すぐに目を見開いてえずき、吐き出そうとした。彼女の口から出てきたのは右腕だった。その右腕は薫の口から少しずつ這うように伸び、指先は空を掴むように動いた。
「な、なに」
私は立っていることができなくなり、尻餅を付いた。薫はいまだベッドを指差していた。私もその指示に従って見なかったことにしたかったが、うごめく腕から目が離せなかった。
薫の口からゆっくりと生えてきた腕は肘まで姿を現し、肩が見えてからは早かった。彼女の喉は裂けないことが不思議なくらい異常なまでに膨れ上がり、そこを頭が通過しているのだろうことが容易に察せられた。
薫は顎関節が外れたように大きく口を開けて上を向くと、そこからずるずると右肩、頭、左腕、胸、と脱皮するように上半身が飛び出すような勢いで出てきた。
「おばさん! 薫がなんか吐いてる!」
ようやく正気づいた私は立ち上がり、薫に捕まらないように部屋を移動して廊下に出た。それからおばさんの寝室をノックすることなく開き、助けを求めた。おばさんならば薫の異常を何とかしてくれるに違いない。
「んー、どうしたの?」
部屋の中には全裸のおばさんがいた。
その肌はパックしたばかりのように、やたらとつやつやに潤っていた。薫の美しさは母譲りなのだな、と思わざるを得ないほど白くキメ細かい肌に見蕩れていると、おばさんが不思議そうに私の顔を覗き込んでいた。
「どうしたの? まだ朝早いけど」
「あの、薫が、なんか、えと」
「吐いてた?」
おばさんは私が見たものの存在を既に知っているかのようにそう言った。
「すごく苦しそうで、おばさん、助けて」
「大丈夫よ。いつものことだから」
おばさんはこともなげにそう言い、脱ぎ散らかしてあった下着を身につけた。
「準備しないと始発に乗れなくなるから、詳しくは薫に聞いてちょうだい。そろそろ吐き終わってるでしょうし」
「でも、あの」
部屋に戻りたくない私がもじもじしている間、おばさんはてきぱきと準備し、スーツを身につけて出勤準備を整えていた。
「真奈美ちゃん、コーヒー飲む? 淹れとくけど」
「え? あ、うん。はい」
そんな悠長なことを言っている場合ではない、と抗議したかったのだが、私とおばさんとの温度差に戸惑い、キッチンに向かう彼女を引き留めることができなかった。
廊下に出ると、薫のうめき声は聞こえなくなっており、かわりになにかを引きちぎるような音が聞こえてきた。
薫の部屋の扉を恐る恐る開け、隙間から中の様子を覗くと、そこには全裸の薫がこちらに背中を向けて座っていた。パックしたてのようにやたらと艶やかな肌はてらてらと光っており、先ほど見たおばさんの裸と重なるところがあった。
薫は突然こちらを振り向き、恥ずかしそうに笑った。もぐもぐと動いている口はなにかを咀嚼しているようだったが、手には透き通ったベージュ色の大きな、ワカメないしナイロンのようなものしかなかった。
「入っていいよ」
薫はそう言って手招きし、自分が寝ていた布団を優しく叩き、ここに座るようにと指示した。私は言われた通りそこに座ったが、風呂場でもないのに全裸の薫と対峙するのはどことなく恥ずかしさが伴った。しかし、薫は気にした風もなく、湯葉のような膜状のものを食べ続けていた。
「なに、それ」
「食べる?」
薫はくわえていたものを引っ張り、強引に引きちぎった。廊下まで聞こえていた音の正体はこれだったらしい。
薫から受け取ったものは柔らかく、生暖かくてなめらかな肌触りだった。口に含んでも溶けることはなく、噛めば噛むほど味が出てくる。熟成されているというよりは鮮度が高く、みずみずしい感触だった。
「おいしい?」
「癖にはなる、かも?」
「もっといる?」
私は首肯し、正体のわからないそれを完食するまで黙々と食べ続けた。いや、実のところ見当はついていたのだけれど、ここで気味悪がって拒否すれば、取り返しのつかないヒビが私たちのあいだに入る気がしたのだった。
「これってさ」
「私の抜け殻」
「だよね」
薫は申し訳なさそうに、私の様子を伺うように、うつむき加減でちらちらと私を見ていた。
「なんで脱皮? するの?」
「人は毎日生まれ変わるんだよ」
どこかでそんな文句を聞いた気がする。
「お父さんもお母さんも、同じことしてる」
「食べて大丈夫なの?」
「栄養価高いし、生まれ変わるのにエネルギーすごく使うから」
ふうん、と私は気のない返事をして、どうするのが正しいのだろう、と考えた。彼女が修学旅行に来なかったのは、この姿をクラスメイトに見られたくなかったからだろう。けれど、半ば強制的ではあったが、その見られたくない姿を私に見せてくれたのはなぜなのだろう。
「やっぱ、気持ち悪いよね。こんなの」
「いや、気持ち悪くはない、んじゃない、かな?」
薫の瞳には期待の色が浮かんでいた。この告白にはそうとうな勇気が必要だったはずだ。けれど、私にはその勇気に報いるすべがなくて、ただ、否定しない、ということしかできなかった。
「薫、すごく綺麗だし。それが脱皮のおかげなら、いいことだと思う」
ケアもせずにキレイになれるのは羨ましい、とは言わなかった。薫は私に抱きつき、嗚咽混じりに、ありがとう、と繰り返していた。言わなくてよかった。
私は彼女を抱き返し、背中をさすりながら、感謝されていることに胸が苦しくなった。私は肯定し、受け入れたわけじゃない。ただ否定しなかっただけだ。感謝されるいわれはないのに。
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