第3話

 私はテストが嫌だ嫌だと言ってはいたが、今回の出題範囲に特筆すべき不安要素を持っていなかったので、今日の勉強会では薫の家庭教師としてほとんどの時間を過ごした。

 正方形のローテーブルに教科書たちを出し、私は薫から向かって右側に座り、彼女が間違えたり詰まったりするたびに横から口を出していた。そんなことを始めてから二時間経ったとき、薫の母親が帰ってきた。

 玄関にある私の靴を見たのか、トントントンと階段を上り、薫の部屋に直行してきた。

「いらっしゃい、真奈美ちゃん。すぐ夕飯にするから待っててね」

「あ、お構いなく」

 私が返事した時にはすでに、おばさんは階段を下り始めていた。休む間も与えないようで申し訳ない。

「ごめんね、忙しなくて。ママ、真奈美が来てくれたのが嬉しいんだよ」

「なにか手伝ったほうがいいのかな」

「そんなことしてる場合じゃないでしょ。真奈美はわたしの勉強見てよ」

「そんな難しい問題じゃないと思うんだけどなあ」

 おばさんが帰ってきてから一時間もしないうちに階下からいい匂いが漂ってきて、くるくると鳴るお腹のようすが無視できなくなってきた。

 私のお腹が鳴るたびに、薫は一瞥をくれる。しかし、言及するでもなく視線を外して勉強に戻るので、私は弁解もできず、言いようのない恥ずかしさをどこにもやれずに持て余していた。

「ご飯よー」

 おばさんの大きな声が一階からきこえてきた。それを合図に薫はペンを置き、背筋を伸ばしたあとに立ち上がった。

「行こっか」

 私は首肯し、立ち上がろうとしたときに勢い余ってローテーブルに膝をぶつけた。

「慌てすぎだし。そんなにお腹すいた?」

 薫はぶつけた膝を抱えている私を心配するでもなく、くすくすと笑っていた。すき焼きに興奮しすぎて勢いづいたわけではなく、不慮の事故なのに、言い訳すればするほど逆効果になりそうだった。仕方がないので、薫を恨めしそうに睨んで抗議するのに留める。

「ほらほら、早く」

 薫はそう言って手を差し出し、私を立たせた。私たちは握った手をそのままにして階段を下り、洗面所に向かった。

道中、踊り場の絵を見て、彼女に過去のことを聞こうと思っていたことを思い出した。食事中のネタにすれば、おばさんとも話が弾むかもしれない。

「手ー洗わないとね」

薫が前かがみになって手を洗っていたので、正面にある鏡に彼女のつむじが映っていた。だからといって、どうということはないのだけれど、烏の濡れ羽色とでも言うのか、艶のある彼女の髪に釘付けになった。私自身は色素が薄くてクセの強い髪質なので、彼女のことが単純に羨ましかったのだ。

「なあに?」

 顔を上げた薫と鏡越しに目が合った。べつに、と適当な返事を返しながら場所を変わってもらい、私も手を洗った。

先程まで触っていた薫の手と自分の手を触り比べてみると、肌の触り心地に随分な違いがある。彼女の手は摩擦を起こさないのではないかと疑ってしまうほどすべすべで、どんなケアをすればそうなるのだろう、という疑問さえ浮かばなかった。ケアとかではなく、彼女の外見に関わるあらゆることは「薫だから」という理由が私の中で通用しているせいだろう。

 薫が水滴を拭き終えた私の手を取ってリビングまで引いてくれた。私は視力に問題があるわけではないので、明らかに不要な行為なのだが、そういったスキンシップを自然にしてくれることが嬉しかった。

 リビングに入ると、すき焼きの匂いが充満していた。テーブルの上に土鍋が置かれており、その中身がすき焼きなのだろう。

「いっぱい食べてねえ」

「おじさんがいないときにこんなご馳走。なんだか申し訳ないです」

「いいのよ。どうせ出張先の名産的なものを一人で楽しんでるでしょうし」

 すでに肉をつつき始めていたおばさんは器の生卵をかき混ぜていた。私たちが席に着いた瞬間、肉を口に運ぶ準備が出来ているようだった。

「すき焼きは戦争なのよ」

 薫は椅子に手をかけ、おばさんとにらみ合っていた。すでに何らかの攻防が起きているらしい。

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