私は昔から上がり症で、口下手で、あまり人付き合いは得意な方ではなかった。普段交流するのは気の合う少数の友達と、家族だけ。しかしひょんな事をきっかけに、私の生活に新たな登場人物が現れる事となる。


 あれは、冬に入り始めのとても寒い日だった。授業が終わり、それぞれが思い思いの放課後を過ごす中、私はたまたま見知った教師に捕まり明日の授業の準備の手伝いを申し付けられた。早く帰りたいのに運が悪いとこっそりため息を吐くものの、気の弱さから断る事も出来ず、仕方なく作り笑いで引き受けた。


 私は教師に頼まれて資料室に教材を取りに行った。しかし普段資料室に入ることなど滅多になく、なかなか目的の資料は見つからなかった。暖房の効いていない資料室はとても寒くて、かじかむ手をさすりながら探すがどうにも見つからない。時間ばかりが過ぎていき、私は困り果てていた。


 時折開いたままのドアから資料室の前を教師や生徒が通るのが見えた。しかしその中に知る顔はなく、私は頼ることが出来なかった。コミュニケーションに苦手意識の強い私にとって、人に話しかける事は酷く緊張を伴う事で、初対面の相手に頼み事なんてなおさら出来る事ではなかった。


 それでも見つからないものはどうしようもなくて、一度職員室へ戻り、具体的な場所を尋ねようかと考え始めた時、その人は現われた。


「何を探している」


誰かに話しかけられるなんて思っておらず、とても驚いた。振り返ると、ドアの前にはスーツに白衣を羽織った、背の高い男性が立っていた。授業を受けたことはないが、今年の春の就任式で見た覚えのある顔だった。


「何か探しているんだろう」


無表情でそう言いながらその先生は資料室に入ってきた。初対面の人を目の前に、私は頭から血が下がっていくのが分かった。親切心から言ってくれている事には気づいていたが、その人の表情が読めない事も一役買い、怖くてつい俯いてしまった。


 何か答えなければ失礼だ。そう思い頭の中では様々な言葉が渦巻くが、喉の奥が重たい圧迫感で詰まった。それでも早く何かを、と焦って私は口を開いた。


「地図、です。先生に頼まれて、世界史の……第一次世界大戦のときの、えっと、初期の資料を、探しています。ヨーロッパの、ドイツ周辺の……です」


俯いたまま早口で言ったそれは、おかしな文節で区切られていて、言葉は整頓しきれておらず、しかも声は裏返っていた。我ながら聞き取りにくく、思わず赤面した。


 上手く話そうと焦って話して、結果上手く話せずまた焦る。いつものパターンた。私のコミュニケーションへの苦手意識の根源でもある。いつも、今度こそと思うのに上手くいかず、あまりの恥ずかしさと情けなさにますます顔を上げることができなかった。


「世界史の棚はあれだ」


しかしその先生は私の可笑しな日本語など気にも留めず、そう言って資料室の奥の棚を指さした。顔を上げ、指さされた棚を見れば、一番上には確かに棒状に巻かれた地図らしきものがいくつか覗き見えた。私は一刻も早くその場を去りたくて、お礼もそこそこに棚に駆け寄った。しかし背伸びをして腕を伸ばしてみたものの、地図の置かれた場所には届きそうになかった。


 近くに台座があったはずだと思い、後ろを振り返ると、思っていたよりずっと近くに白衣が見えた。いつの間にか先生は私の後ろに立っていたのだ。


 驚きに固まった私を気にもせず、先生は私の頭の上をゆうに越して、後ろの棚へと手を伸ばした。私の上には先生の影が落ちて、視界が陰った。私には何が起きているのか一瞬理解することができなかった。


 別に密着していたわけではない。背の高い先生は、その分腕も長く、小柄な私と私の周りの空間を十分残したまま、その腕は世界地図の束に届いた。


 それでもそれは手を少し伸ばせば触れられるような距離で、小学校を卒業して以来、家族以外の男性とそこまで接近したことなどなかった。棚と先生に挟まれた空間で、どうにも動くことができず、ただ目の前の先生の白衣を見つめていた。


 先生は私越しに棚から地図の束を全て引っ張り出すと、一つ一つ側面に書かれた文字を確認し、中から一本を選び出した。


「あったぞ」


その声で我に返った私は慌てて差し出された地図を受け取った。私に地図を渡す先生の表情は相変わらず無表情で、慌てていたのは私だけなのだと気付くと無性に恥ずかしくなった。


 顔を見ることもできずにお礼を言うと、声が小さすぎたのか先生は小さく首を傾げたようだった。しかし言い直すこともまた恥ずかしく、私はお辞儀だけして、逃げる様に資料室を出ていった。


 少しばかり普段と差異はあったものの、それは何てことのない日常の一幕だった。本来、そうなるはずだった。


***


 資料室での一件から、数日たったある日のこと。その日の私は、朝から母親に進路の事で説教をされて、ひどく憂鬱な気分だった。


特に将来なりたい職業があるわけでもなく、成し遂げない何かがあるわけでもない。行きたい大学や学部すら明瞭にない私は、母から「もっと真面目に将来について考えなさい」と再三にわたって言われてきた。私だって、これで良いはずがないと分かっていたし、少なからず焦りを抱えていた。それでも何をしたら夢や目標が見つかるのかなんて分からなかった。


 その日の昼休みは図書室へと向かった。昔から本が好きで、嫌なことがあれば、逃げる様に本を読んだ。テストで失敗して思う点数が取れなかった時も、上がり症のせいでうまくクラスに馴染めなかった時も、将来の目標に思い悩んだ時も、本の中の世界は常に私を優しく受け入れてくれて、何より、決して私をせかすことはなかった。


 校庭から聞こえる楽しげな声に耳を傾けながら、本棚の前で何の本を読むか考えていると、ふと目の前が陰った。


 高い背に草臥れた白衣、いつの間にか、私の隣にはあの先生がいた。その手には自分の読むための本なのか、授業のための資料なのか、難しそうな本が何冊も積まれていた。


 私は挨拶をすべきか否か迷った。


 つい最近親切を受けた、名前も覚えていない先生。本を選んでいるところに声をかけて邪魔をするのは悪いかもしれない。いやそもそも挨拶をしたところで向こうは私のことなど忘れているのではないだろうか。


 少し挨拶するくらいで悩む必要はないだろうに、私は頭の中でつまらない事ばかり考え、そうしている内に完全にタイミングを見失った。


 今更仕方ないと諦め、再び本を探し始めた。黙々とタイトルを目で追っていると、お気に入りの作者の、まだ読んだ事のない本を見つけた。今日はこれを読もうと思い、手に取ると、隣から「ほう」と息を吐くような声が聞こえてきた。


 見上げると、先生が感心したような顔で私を見ていた。


「あまり高校生らしくはないが、趣味が良いな」


私は話しかけられたことにもだが、何よりその言葉に驚いた。私の手に取った本はあまり有名とは言えない作者のものだったのだ。


「先生はこの人の本、読んだ事があるんですか?」


私は勇気を振り絞って聞いてみた。


「その作者の本は一通り読んでいる」


そういう先生の顔は依然として無表情のままだったが、なんとなく纏う空気が柔らかくなったような気がした。


 先生は本棚から一冊の本をとると、私に差し出してきた。それは青い表紙に白い印字、それほど厚みのない手軽そうな本で、初めて見る作者の、初めて見る題名だった。


「その作者が好きなら、これも読んでみるといい。きっと好きになる」


そういって先生は抱えた本を借りにカウンターへ歩いていった。私は二冊の本を抱えて一番近くの図書室の机に着いた。


 読みたかった本を横において私は先生に手渡された本を開いてみた。ぱらりぱらりと頁を捲り、物語に目を落とした。


 何もしなくても滔々と過ぎゆく毎日の中で、日常のありきたりな風景を、まるで代えがたい非日常であるかのように愛する。その本はそんな主人公の物語だった。誰にでも優しいわけではない世の中で、不条理に曝されながらそれでも、万人に優しくあろうとする主人公はとても魅力的で、物語はページをめくるごとに私の心を鷲掴んだ。


 結局私は自分で選んだ本をそっちのけに、休み時間の終わりのチャイムが鳴るまでその本を読みふけっていた。半日の間抱えていた嫌な気持ちは、その物語のおかげで吹き飛んでいった。


***


 結論から言えば、先生に勧められた本は最初から最後まで裏切ることなく私の好みの本だった。当たり前の風景が美しい日本語によって非日常的に変化していく様は壮観で、いつも読んでいるような本より少し難しい日本語表現も多かったが、返却期限までの一週間、ゆっくりゆっくり読み進めるうちに本の世界の虜になってしまった。


 他にもこの作者の本を読んでみたい、そう思ったのだが、読み終えた後、図書館で探してみたものの見つからなかった。最寄りの大きな書店に行って探しても見つからず、この作者もなかなかのマイナーであることが分かった。大きな町の老舗の古書屋に行ってやっと一冊見つかったほどだ。


 やっと見つけた本は学生の身分から言うと決して安いものではなかった。それでも、ここで逃したらもう二度と出会えないかもしれない、そう思い、私はその本を購入した。


 しかしやっとの思いで出会ったその本を開いて、私は戸惑った。難しい、なんてものではなかったのだ。何せ現代作家の小説のはずなのに、文体が現代日本語ではない。調べて分かったが、これは明治時代の文体だ。もっぱら現代作家好きの私は、そんな小説を読んだ事がなかった。


 後に知った事だったのだが、この作者はもともと純文学作家で、先生が貸してくれた一冊はその作者の数少ない大衆向け作品の、それも比較的難易度の低い作品だったのだ。


 文明開化の時代と価値観を当時の文体で書かれたその物語は、普段私の読む本に比べて圧倒的に難易度が高く、私は美しすぎる日本語を読み解くことも、この作者の世界を理解する事も出来なかった。


 理解できずとも、淡々と文字を追い、ページをめくれば本は読める。しかし、やっとの思いで探し出したことから簡単に諦めることなど出来ず、私は毎日昼休みと放課後に図書室へ通い、辞書とノートを片手に本と向き合った。


***


 この日の放課後も図書室で本を読み進めていた。知らない言葉は辞書を引き、開いたノートに意味を書き込んで、分からない所は何度でも繰り返し読んでみた。


 その本は、先生に勧められた本の優しい世界とは真逆のような世界だった。気難しく偏屈な絵描きの男『誠一』の視点から描かれる捻じ曲がった世界。よく言えば感受性豊か、悪く言えば情緒不安定な彼の激しい感情の起伏に振り回されながら本と格闘していたら、窓の外が暗くなっている事にも気づかなかった。


「もう下校時刻を過ぎるぞ」


前から声をかけられ、顔を上げて驚いた。机を挟んだ向かい側に、先生がいた。その手には今日も分厚い本が抱えられていた。


「すみません」


私は慌てて辞書を閉じ、本棚に返すために立ち上がった。しかし、回り込んできた先生が私の手から辞書を取り上げてしまった。


「これは先生が返しておくから、お前は机の上を片付けろ」


そういって先生は私の返事も待たずに本棚に向かっていった。


「あっ、ありがとうございます」


私は少し戸惑いながら先生の背中にお礼を言った。その声はひっくり返って掠れていて、不格好な事この上なかった。


 広げていた本に栞を挟み、ノートと筆記用具と共に鞄へと仕舞った。本棚から戻ってきた先生は、すでに貸出手続きを済ましていたようで、そのまま私たちは二人で図書室を出た。


「最近いつも図書室にいるな。授業の課題か?」


図書室のドアを閉め、蛍光灯に照らされた明るい廊下を歩きながら先生は言った。私はその言葉に大いに驚いた。


 私は決して特徴的な人間ではなかった。自分で言うのも何だが、制服の着用規定は順守しており、髪型も髪色も普通。ステレオタイプの女子高生だったと自負している。日々多くの生徒と交流する先生が、たった二回言葉を交わしただけの私の顔を覚えていた事に驚いたのだ。


 そんな私の表情を見て先生は怪訝そうに眉を寄せた。先生のその訝しむ様な表情はすぐに消えたが、私は何かを取り繕うように慌てて言葉を紡いだ。


「勉強じゃないんです。私、読みたい本があって、以前に、先生が教えてくれた作者の本で、これ古書店で見つけたんですけど、でも、その、文体がとても難しくて、それに馴染のない名詞も多くて、だから図書室は色々な辞書があるから」


緊張で冷静ではない私の言葉は相変わらずもつれていて的を射ておらず、私はとてももどかしく感じた。しかし先生は私の言葉を急かすことなく、遮ることなく、私が話し終えるまで静かに聞いていてくれた。


「あの本、気に入ってくれたんだな」


私が話し終えると、先生はそう言って私を振り返り、柔らかく微笑んだ。今まで見てきた無表情からは想像もつかない、とても優しい笑みだった。その笑みを見た途端、心臓が跳ね上がるような錯覚を覚えた。


「何を読んでいるか聞いてもいいか?」


私は学用鞄から本を取り出すついでに、先生から目をそらした。先生の笑みを、直視することが出来なかったのだ。理由は分からなかった。


 先生に本を見せたところ、先生はその本を知っていたようで「ああ、確かにこの本は大人でも難しいだろうな」と頷いて言った。それから書き留めたノートを見せてほしいと言われ、それも差し出した。先生はパラパラと私のノートを流し読むと、すぐに閉じて、私に返した。


「難しいが、これも良い作品だ。読む価値は十分にある。分からない所があるなら、先生の所に来ると良い」


大概国語科準備室にいるから、と先生は言ってくれた。恥かしい事だが私は、この時やっと先生の教えている科目が現代文であることを知った。


 先生は借りた本を持ったまま、私を玄関口まで送ってくれた。先生にさようならと告げて、私は昇降口へと歩いていく。冬の夕暮れは暗く、凍てつくように寒かった。吐いた息が白く漂う。


 昇降口で何となく振り返ってみると、先生はまだ玄関口の前に立ってこちらを見ていた。距離が遠くてわからないが、先生と目が合っているような気になった。私はどうすれば良いのかわからず、小さくお辞儀をして家へと帰った。


***


 初めて先生のいる国語科準備室を訪れたのは年を越えた、一月の寒い雪の日の事だった。来ても良いとは言われたものの、なかなか行く勇気が出ず、気づけば半月も経っていた。


 国語科準備室は教室のある学生棟から一番離れた場所にあった。そのせいか辺りに人気はなく、とても静かで、その事が余計に私の緊張を煽った。


 やっと勇気を出して準備室の前まで来たものの、土壇場で尻ごみしてしまい、私は扉の取っ手に手をかけたまますぐに開けることは出来なかった。やっぱりやめようかな、なんて思っていた時、扉の磨りガラスに誰かの影が映り、扉が開いた。


「……やっと来たか」


先生だった。先生は私を確認すると開いた扉をそのままに、準備室の奥の本棚へと歩いていく。こうなってしまったら逃げようもない、そう思い私は恐る恐る準備室へと足を踏み入れた。


 部屋に入ると、こもった様な暖房の熱気が私の肌をなでた。図書室に似た、古い本の香りが鼻をつく。


 準備室にいたのは先生だけで、先生は奥から持ってきた数冊の本を机の上に置くと、近くにあった椅子を自分の椅子の隣に持ってきていた。それが私のための椅子だと気が付き、私は慌てて口を開いた。


「あの、私、立ったままでも……」


私としてはあまり長居するつもりもなく、とりあえず分からない箇所をいくつか聞くだけのつもりでいた。


「気にするな」


 しかし先生は私のそれを遠慮ととらえたのか、私の言葉を聞き入れなかった。戸惑う私と、何も言わない先生の間に少しの間沈黙が降りた。それ以上我を通すすべを持っておらず、おずおずと私は椅子に座った。


「よろしくお願いします」


そう言って私は持ってきた本と、分からない言葉や文章を羅列したノートを開いた。その時私はまだ最初の最初、第一章で躓いていた。


「すみません、まだこれしか読めてないんですが……」


別にサボっていたから遅いのではなく、毎日読み進めようとしてこの結果なのだが、この半月間何をしていたのだと言われたらどうしようかと思った。しかし先生は別段呆れるでも失望するでもなく、いつもの無表情で頷いた。


「こういうのは最初が肝心だ。そこを乗り越えれば、案外進める」


私は先生のその淡々とした態度に良かった、と少し安堵した。


「あの、ここが分からないんです」


文章を指さすと、先生が横から本を覗き込む。同じ本を二人で見るというのは、想像以上に距離が近いもので、私の心臓が驚きと緊張に跳ねた。


 しかし自分から教えを乞うておいて離れてほしいなど言えるはずもなく、私は分からない所を少しずつ先生に質問し始めた。先生はどんな些細な質問でも丁寧に答えてくれた。授業の時にするように、先生の言葉で重要そうな部分をノートに書き込んでいった。


 外の雪が音を掻き消しているからか、単純にこの場所が教室棟から遠いからか、放課後の学生たちの声はほとんど届かず、準備室には私たちの声とシャープペンの滑る音だけが響いていた。


***


 先生に分からない所を質問して教えてもらっても、大概の場合先生の回答にすぐに納得はできなかった。答えを与えられると、今度は別の疑問が生まれてくるのだ。理解しているつもりで曲解していた、という事もざらにあった。

 結局先生の解説と共に、最初から読み直したような形になってしまった。


「今日はここまでにするか」


始めてから一時間ほど経ったころ、先生はそう言って席を立った。分からない事が多すぎて頭がパンクしそうになっていた私は正直この言葉にほっとした。


 先生は奥の冷蔵庫に向かっていった。そこから戻ってくると、持ってきたものを私の前に置いた。机の上に置かれたのは、市販のアイスだった。


「冬にアイス……」


つい口から零れるように言葉が出た。すると先生は自分の分のアイスの袋を開けながら薄く笑った。


「冬に暖かい部屋で食べるのが美味いんだろ」


先生はそう言ってアイスをかじった。私も戸惑いつつも先生に習ってアイスに手を伸ばした。アイスの袋は冷たく、確かに暖房の風に火照った身体には気持ちが良かった。


「もたもたしていると溶けるぞ」


その時には先生はすでにアイスの半分を食べ終えていた。先生の言葉に私は慌てて袋を開けた。


「いただきます」


冬にアイスを食べるのは初めての経験だった。甘い味と冷たい感覚が疲れた脳に染みわたった。結露した窓の外を見れば、白い雪が舞っていてとても寒々しい。それが逆に、暖房の下でアイスを食べているという背徳感と贅沢感を際立たせた。


「またいつでも来い」


先生は帰る時にそう言ってくれた。それは、もしかしたら社交辞令だったのかもしれない。それでもその言葉は、私の訪問は迷惑ではなかったのだと安心させてくれた。そしてその日から私は、少しずつ国語科準備室に通うようになった。


***


 回を重ね、先生との時間に多少緊張しなくなった頃、私がよく放課後に急いでどこかへ行っていることに気付いた友人に、塾か習い事でも始めたのかと聞かれた。別に隠し立てするようなことではないと、正直に先生に本の解説をして貰っている事を話した。


「それって怖い新任の現国の先生だよね?」


友人は私の話を聞いてまず、そう言った。私はそこで初めて、他人から先生の評判を聞いた。


 先生のどこが怖いのかと聞いてみれば、いつも無表情なところだと返ってきて思わず笑ってしまった。確かに、私も最初は先生の無表情を恐ろしく威圧的に感じていたからだ。同時に安堵した。先生が無表情なのは何も私といる時だけではないのだと分かったからだ。


 そして少しだけ、ほんの少しだけ優越感を感じた。それは稀に見られる優しいあの笑顔を、私だけが知っているという小さな優越感だった。それがどんなことを意味するのか、その時の私は全然分かっていなかった。


***


 それからまた何日か過ぎ去って、その日もまた、私は学級委員でもないはずなのに担任の先生にノートの回収と言う雑務を頼まれてしまっていた。先生に会ったあの頃から、そういった雑務を任されることが多くなっていて、運が悪いと言うより、担任や他の先生方に、頼まれたら断れない性格を見抜かれているような気がした。多分、センター試験を終え、三年生の受験がいよいよ佳境となった時期で、先生も忙しいのであろうことは分かっていた。だから余計に断れない。


 本当はその日は国語科準備室へ行くつもりだったのだが、それをぐっと我慢して、クラスの課題のノートを集める。


「ありがとう。とても助かりました」


職員室へそれを運べば、担任教師はそうお礼を言ってくれた。その表情からは疲労の気配と、本当に助かった、といった感情がにじみ出ていて、何か忙しい事があったのだろうとうかがえた。そんな状態の相手に、嫌々やっていたなんて内心を気取られたくなくて、全然大丈夫ですよ、と社交辞令を口にして、その場を離れようとした。


 その時、少し離れた席から女性教師の声が聞こえた。


「ああしていつも誰かの助けになって、本当に彼女は優等生ですね」


振り返ると、女性教師と目があった。彼女は私に笑みを浮かべてくれた。その時、職員室には私以外の生徒はおらず、聞こえて来た『彼女』とは私の事なのだと分かった。


 優等生。褒め言葉として言われたのであろうその言葉は、嫌にしこりの様に胸に残った。


 私はその後すぐに国語科準備室へ行くと、先生は少し驚いたような顔をして私を出迎えてくれた。


「今日は来ないかと思った」


先生はそう言って、手慣れた手つきで私の座るスペースを開けてくれた。


「いつもは、三時半過ぎに来てたろ」

「少し、雑用があって」


そう言えば、先生は一瞬目を巡らせた後、「そうか」とだけ言った。それ以上は、特に話を続けるでもなく、私達はいつもの本の読み合わせを開始した。


***


 その翌日も私は頼まれ事をした。今度はクラスメートからで、昼休みの事だった。本当は図書室に行きたかったのだけれど、委員会の仕事と部活の大切な引継ぎが被ってしまったとの事情に、やはり断れずに、引き受ける。


 職員室に行けば、先生と目があった。先生は会議中の様で、すぐに目線は外れて、手元の書類に落とされる。

 昼休みを潰されて少し沈んでいた私の心は、何故か、先生に会えたと言うだけで浮上した。


 その放課後、先生の元を訪ねる予定だった。前日時間が少なく、思ったよりも進めなかったので、その日は元々伺う事を伝えていた。


「今日、職員室に来ていたな」


コーヒーを飲みながら、先生は雑談がてら昼休みの事を話題にした。


「風紀委員会のプリントの印刷の手伝いに少しだけ」


そう言うと、先生は少し視線を巡らせる。


「職員室で手伝いをしているところを、よく、見かける。放課後も昼休みももっと好きに過ごしたいだろうに、偉いな」


先生は少し言葉を選んで話しているように見えた。小説のことを話す時はもっとはっきりと話すのに、なんだか歯切れが悪い。それでも褒められていることに変わりはないので、「ありがとうございます」とお礼を返す。

 先生は少し頭の後ろを掻くと、言葉を探すようにもう一度視線を巡らせた。


「昨日も、何か手伝いでもして来るのが遅れたんだろ。別に授業と言う訳でもないし、下校時刻前なら何時だろうが構わないんだが……何だか昨日は少し、覇気がないように、見えた」


そして言葉を詰まらせると、先生は手元のコーヒーを煽る。


「もし、本当は嫌なのに無理にやっていたりするなら……相談に乗ろう」


私はとても驚いた。先生が私の事を見抜いたこともそうだったが、何より、先生が私の悩みを聞こうとしている事に、驚いた。私は国語科準備室を訪れてからその日までの一ヶ月と少し、先生から学校生活や私生活について問われたことは一度もなかった。


 これは失礼な話だが、あまり愛想のないこの先生は、国語という教科、文学の事は好いていても、私達生徒の感情面や私生活にはあまり興味がないのだろうと思っていた。だから私も、先生に相談事も持ちかけたことはなかった。


 先生は生徒の感情に興味がないのではなく、向き合う事が苦手な人だったのだろう。そんな人が私の様子がおかしいことを心配し、相談に乗ろうとしてくれている。


 それに気づくと、私はすごく嬉しくなった。


「そう言ってくださるだけで、嬉しいです」


私は先生に正直に告げた。


「別に無理はしていません。ただ、昨日先生が私を『優等生』と言ってくださって……もちろんそれは褒めてくださったんです。けれどそれが、何と言いますか……身に余る、というか……」


話している内に、自分でも昨日のしこりの訳が分かってくる。


「私は、頼まれ事を断れないだけです。断って、相手に嫌な顔されるのが怖くて、それで良い人ぶっているだけです。……私は優等生ではありません」


そう言って先生を仰ぐと、先生は少し難しそうな顔をして、空のコーヒーカップを回していた。少し悩むように視線を下げ、そして一つ頷くと顔を上げる。


「優等生、で正しいだろ」


先生はそう言った。


「頼みを断り切れないのは、見栄だけではなく、相手を思いやれるお前の優しさだ。それに、例え内心がどうであれ、誰かのための行動をした事実は変わらない。行動に対して評価を下すのは周囲で、優等生という評価に引け目を感じる必要はない」


先生は椅子を引くと、本と辞書に目を落とす。私は先生の理屈っぽい言葉を少しずつかみ砕いて、飲み込んで、でも飲み込みきれないまま、もう一度先生を見る。


「けど、もし嫌気がさしているのなら、優等生をやめたって良いんだ」


本に目を落としたまま先生はそう言うと、いい加減始めよう、と話を切り上げた。


「……ありがとうございます」


私はお礼を言った。全てに納得したわけではなかったが、私の言葉を聞いてなお、優等生だと、優しさだと褒めてくれた事に、胸の内が軽くなったような気がした。


 それからも私は相変わらず人の頼みを断れずにいた。それでも、私の心は軽かった。


***


 冬の終わり。先生に教わるようになって一ヶ月以上が経っていた。毎回やることは同じで、私が分からないと思ったところを解説してもらい、その際にさらに浮かんだ疑問を私が尋ね、また解説して貰う、の繰り返しだった。国語科準備室はあまり他の先生には使われていないようで、放課後に訪れると大体先生だけが机の前に座っていた。


 通い始めた頃は常に二人きりであることや、先生のちょっとした挙動、二人で同じ本を覗く距離感に逐一緊張していたものだったが、いい加減その頃には慣れてきていた。むしろ私にとって国語科準備室は本の世界に浸れる、静かでとても居心地の良い場所になっていた。


 一ヶ月も経てばこの難しい文章にも私も慣れ始めていて、少しずつだが読み進める速度は上がっていった。

 それでもわからない事は多くて、この日読んでいた部分もまた、そうだった。そこには、主人公誠一のとある出会いが描かれていた。


「どうして誠一は『昨日までの自分は愚者だ』なんて言ったんですか?」


それまでの言動から、自尊心の高さが目立つ誠一だったのだが、何故急に自分を卑下するこのセリフを言ったのか、分からなかった。


 先生は少し前の、名も知らぬ女性とのやり取りを指さした。


「ここで、誠一はこの女性に恋をしたからだ」


一瞬、耳を疑ってしまった。それは本の内容云々は関係なく、先生の口から『恋』なんて甘い言葉が出てきたことが信じられなかったからだ。


 通い詰める内に先生は無愛想な中にも優しい所のある人なのだと薄々気づき始めていたが、それでもその言葉はあまりに不似合いだった。


「分からないか?」


固まっている私に先生は、私が先生の言葉を理解できずにいるのだと思ったのだろう。私はその声で我に返った。

 慌てて先生の指差した部分を読み、先生の言葉をかみ砕き、もう一度そこを読み、自分なりに考えたが、どうしても読解できずに先生に「分かりません」と告げた。


「この女の人はたまたま道を聞いてきただけで、誠一とは知り合いではなかったはずですよね?」


先生は頷いた。


「たったそれだけの出会いで、誠一は恋に落ちた。別に全ての恋愛に運命的な物語があるわけじゃない。どんな些細なことからでも、恋愛が始まる可能性はある」


そう言う先生の言葉にはどこか重みがある気がした。

 先生もどこか何気ない日常の中で恋をした事があるのかもしれない。そう思うとこの人も『先生』である前に、一人の『人間』なのだと実感がわいた。どこか遠いと思っていた先生との心の距離が、その時近く感じた。

 しかしそう思う反面、胸の奥がもやもやとした気もした。そのもやもやの正体は分からなかった。


「恋愛という感情を知った誠一は、知らなかった昨日までの自分を愚かだと言った。それまでに築いた自尊心を捨てさせるほど、誠一にとってその感情は衝撃だったんだ」


私がそんなことを考えている間にも、先生の解説は続いていた。

 私は誠一につい先生の姿を重ね合わせながら聞いていた。

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