第6話
――それは、五年前のこと。
氷堂の一族は、遙か昔から続く巫女の家系だ。
強い霊力を持ち、それが身体に負担を掛ける。器が力を支えきれないのだ。だから氷堂の一族は短命で、比較的霊力の低い者だけが生き残る。
それでも、遠い過去よりは寿命も延びた。真冬は自らの手首に巻かれた数珠を見る。特別な霊力が込められたもので、力の暴走を防いでくれるのだ。これがなければ、真冬も十歳まで生きられたかどうかと言われている。
数百年に一度、生まれるかどうかの神童――真冬はそう言われて育ってきた。今でこそ役目としては失われたが、かつて氷堂家は神をその身に宿し、神託を下すことを役目としていた。それが今も続いていたのなら、真冬は間違いなく神託の巫女となっていただろう。でも僕は男だ、そうはならなかったでしょう? そう訊ねたこともあるが、その場合は女と偽って生きて行くことになるらしい。現代でよかった。真冬は心からそう思う。
女性の方が力を得やすいということはあるらしいが、強い霊力を持つのに男女は関係ないらしい。むしろ重要なのは血筋の方で、真冬はその最高傑作とすら言われている。今から既に、霊力の高い娘との結婚を計画させられているらしい。いっそ婚姻関係でなくともいい、子種さえ残せば問題ない。そんな問題だらけの発言すら漏れ聞いて、既に抵抗する気力も沸かなくなっていた。生まれたときからそうなのだ。これが日常で、おかしいとも思わなくなっていた。
どうせ一生をこの屋敷の中で過ごすなら、もうどうだっていい。自分の味方をしてくれる人は、ここから去ってしまったのだから。そう諦めていた。が――
「お、真冬ちゃんじゃーん。久しぶり、元気してた?」
呑気な声に、真冬はハッとして振り返る。人好きのする笑顔を浮かべ、ヒラヒラと手を振りながらやってきたのは、半年前まで真冬の護衛役だった――そして唯一の味方だった千夏だ。
「ショコラ兄ちゃ……」
言いかけて、ハッとする。これじゃあまた子ども扱いされる。いつまでも子どものままじゃ、千夏にバカにされる――そう思うことそのものが子どもなのだとは気付かないまま、真冬は表情をキリッと引き締めて言い直す。
「千夏さん。なんでこんなところにいるんだよ、あやかし祓いとして真面目に働き始めたはずじゃ?」
こうすればちゃんとした大人に見えるはずだ。十四歳の真冬にとって、それは精一杯の背伸びだった。
もっとも、千夏にはかけらも伝わっていなかったけれど。
「なーになーに、俺に会えなくて寂しかった? ショコラ兄ちゃんって呼んでくれていいのに、なんで言い直しちゃうのー?」
本当にこの人はデリカシーがない。ムッとしながら、千夏を睨む――効果は薄そうだが。
「僕がいくつになったと思ってるんだよ。いつまでも妙な呼び方してられないだろ」
「妙って言い方なくない!? もー、真冬ちゃんってば相変わらずツンデレなんだから。中学生になったら素直になってくれると思ったのになー」
「千夏さん以外には素直だよ」
「え……それはそれで悲しい……ってか真冬ちゃん、ちょっと会わない間に声変わりまでしちゃった? お兄ちゃん寂しい」
よく言うよ、と真冬は息を吐く。
「半年も里帰りしないで仕事に集中してた人が何言うんだよ……おじさんもおばさんも寂しがってた」
「いやいや、半年程度でそんなこと言われちゃね……今年から本格的にあやかし祓いの仕事始めた上、相棒が一筋縄でいかないから結構苦労してんだよ?」
開き直ったかと思えば愚痴だ。だいたいその『半年程度』を真冬がどんな思いをして過ごしてきたかも知らないくせに。ムッとしながら真冬は冷たく言い放つ。
「それで、唐突に帰ってきた理由は?」
「うわー、話逸らされたし……その一筋縄でいかない相棒が規律違反を犯したおかげで一週間ほど活動停止になったので帰ってきたんですよーっと」
「……本当に苦労してるんだ……」
「いやいや、大変なんだって。本来独りで突っ走っちゃいけないのに独りであやかしを倒して、一般人巻き込んで、厳重に禁止されてる結晶の浄化を勝手にしたあげくその結晶をなくすっていうね」
「どうやったらそこまで暴走出来るんだ……?」
「その理由を一切喋らないんだよねぇ。ま、そういうことで一週間暇になったから真冬ちゃんと遊ぼーかなと思って」
「迷惑です。お引き取りください」
「すっごい丁寧に断られた!」
ショックを受けたように千夏は声を荒らげる。だが、文句を言いたいのはこちらだ。暇になったから里帰りしたなんて。たとえそれが本音だったとしても、心配だからとか会いたかったからとか、口先だけでも言ってくれればいいのに――こっちは寂しかったんだから。
真冬は語調を少し強め、早口でしゃべりだす。
「だいたい千夏さんが来たって面倒臭いだけで――」
だが。
――今。
本来聞こえないはずのものが……聞こえた。
……寄越せ。
――お前の命を、寄越せ。
「真冬ちゃん?」
指先が震える。
脂汗が湧き出してくる。
呼吸が荒くなる。
鼓動が乱れる。
今にも崩れ落ちそうになりながら、真冬はその気配を確かに感じていた。全身が冷たくなるような。頭がかち割られるような。まとわりつくような嫌な霊力に、真冬の目の前が暗くなる。
来るな――来るな。心から願うのに、むしろその声は近くなる。
『見つけた……見つけたぞ……』
聞きたくない――
「あ……あ……」
耳を塞ぐ。だが、声は脳内に直接響く。
『寄越せ……お前の命……お前の魂……お前の力……我が霊力の糧となれ』
「う……る、さい……うるさい!」
「真冬ちゃん、どうした……真冬!?」
どこか遠くで、焦ったような千夏の声が聞こえる――気がする。だが、それは一瞬でかき消された。
おどろおどろしい声に、脳を直接かき乱される。
「やめろ! 来るな! お前なんかに、お前なんかに……!」
両手を振り回す。消えない。大声を上げる。消えない。目を閉じても、耳を塞いでも、その声も、気配も、どんなに必死になっても離れていかなかった。
守られているはずなのに。
千夏だって傍に居るのに。
どうして――どうして。
「そうか、またあやかしが……」
独りごちるような声が聞こえた直後、真冬の両肩が掴まれる。身体が強ばる。だが、視界に入ったのは千夏だった。
――間違いなく、千夏だった。
「落ち着いて真冬ちゃん! 大丈夫、大丈夫だから!」
ずっと自分を守ってくれていた人が目の前にいる。大丈夫だと言ってくれる。それなら……それならきっと、大丈夫だ。一瞬気を緩めた。その瞬間だった。
『無駄だ……』
地を這うような声が、真冬にまとわりついた。
『お前の命、長くは持たぬ。ひととせ、ふたとせ……お前が二十歳になる頃には、その命を確かに貰う』
「誰がやるか!」
声を張り上げる。
「僕の命は僕のものだ! 誰が……誰があやかしなんかに!」
汗が噴き出す。心臓も破裂しそうだ。気が昂ぶれば昂ぶるほどに、全身の血が沸騰するような錯覚に陥る。いや――錯覚ではない。自分の霊力が暴走しかけているのだ。
「マズい……!」
千夏が懐からお札を取り出した。
「悪しきもの、彼の者から離れよ!」
淡々と呪文を唱えた直後、お札が霊力を纏う。淡く輝いたそれを、千夏は真冬の手首に押しつけた。
手首に巻いていた数珠が強い光を放つ――真冬の霊力を落ち着かせ、悪しき者を追い払う術式。その存在を視認した瞬間、真冬はハッと息を呑んだ。
そうだ――負けたくない。
意識を集中する。真冬にまとわりついていたドロドロした気配が徐々に薄らいでいく。
『くっ……』
ずっと聞こえていたあやかしの声に、苦悶の色が混じる。
「高いお札使ってんだから、とっとと消え去れっての!」
千夏のむちゃくちゃな主張の直後、真冬に送り込まれる霊力が一気に増える。いい加減だし、すぐにふざける。けれど千夏は間違いなく一流の術者なのだ。
苦しげに呻いていたあやかしの気配が、徐々に失われていく。
「消えろ……この……あやかしがぁ!」
「ち……なつ、さ……」
「大丈夫……絶対に、俺が真冬ちゃんを守るから!」
奥歯を噛みしめ、全身の霊力を一カ所に集中させる。千夏は間違いなく、真冬を守ろうとしてくれていた。
それなら自分だって、守られるばかりではいたくない――霊力を持っているだけでそのコントロールの方法など学んで来なかったけれど、それでも真冬は必死で祈った。
消えろ。
僕の身体から、消えろ。
どこか遠くへ。この身体は、僕のものだ!
声にはならない。それでも叫んだ。その瞬間――
『ぐっ……ここ、までか……』
あやかしの声が不意に遠ざかっていく。
『……この程度で我は消滅せん。しかし……今は、立ち去ろう。だが、氷堂真冬、お前の命、必ず貰いうける』
捨て台詞のように――あるいは、呪いのように吐き捨てて、あやかしの気配が――消えた。
「真冬ちゃん!」
「は……はぁ……はぁ……」
その場に崩れ落ちる真冬を千夏が支えてくれる。暖かい両手に抱き留められて、急に涙が込み上げてくる。さすがに恥ずかしい。だから、呑み込んだけれど。
「……大丈夫?」
恐る恐る訊ねてくる千夏に、真冬は首を振った。
「大丈夫……な、わけ……ない……」
「……だよね」
生まれた時からずっとこうだ。気を抜けばあやかしに命を奪われそうになる。氷堂の一族が短命なもう一つの理由だ。自分の霊力に耐えきれず、なんとか耐えてもあやかしに襲われる。その力が強ければ強いほど、幼いうちに霊力を食われて命を落とすのだ。
「二年前までは俺が真冬ちゃんの護衛してたけど……でも、その後も護衛はいるんでしょ?」
「……信用できない。所詮、高い金に目がくらんでこの家に入り込んできただけのヤツだ。今日だって、僕が家にいるのをいいことにどこかに行ってしまった」
「はー……そりゃ真冬ちゃんが懐かないのも当然だ。ってか、真冬ちゃんも気難しいんだもんな~。さびしんぼうなんだから、素直に寂しい、そばに居て、って言えばいいのに~」
「……千夏さんは、そう言ってもそばにいてくれなかった」
その高い霊力と技術を活かして、あやかし祓いになると言いだしたのが二年前のことだ。根本的にこの世からあやかしがいなくなればいいんだなどと、それらしいことを言ってあやかし祓いの組織に入ってしまった。その日から真冬の護衛は千夏ではなくなり――真冬は、孤独になった。
他の誰も、真冬を大切にしてくれない。どうせ長生きは出来ないんだと、はっきりと言っているのを聞いたことがあった。両親も既に他界している。真冬がここにいるのは、本家の長男だからというだけ。そして、この血を後世に残す道具となるためだ。
二十歳まで生きるのが限界だと思われているから、きっとそれまでに自分の嫁もあてがわれるのだろう。もしかしたら一人ではないのかもしれない。法律など関係ない、氷堂の血を残す方が重要だ。霊力を持たない氷堂の長老たちがそう言っているのを聞いたことがある。おまえたちが大きな顔を出来るのは、氷堂の力を持たないが故なのに。それなのに、力を持って生まれてきたから、道具として消費されるのだ。
だからこそ、千夏には傍にいてほしかったのに。拗ねて俯く真冬に、千夏はからかうように声をかけてくる。
「あれ、やっぱ俺がいなくなって寂しかった?」
「ちっ、違う!」
「あはは、照れなくってもいいのに~。って、そういう冗談は抜きにして……」
「だったらもう帰ってくれ」
「いや……聞いて、真冬ちゃん。これは氷堂家にも関係ある話なんだ」
「……氷堂家に?」
急に声色が固くなる。真冬も真剣に向き合った。
「氷堂家は元々神子の家系でしょ。神に仕え、時には霊媒となって神をその身に宿してきた。霊力の高さはそれが理由で、寿命の短さはあやかしに狙われてしまうから」
「……ああ。僕の父さんも母さんも、二十歳を超えて生き延びたものの、僕が生まれて間もなく死んだ」
「うん……今は神を宿すなんてこともしてないのに、あやかしに狙われるのは変わらないからね。で、真冬ちゃんは久々に生まれた強力な霊力を持つ子どもだ」
「名誉なことだと言われてきたけど……僕にとっては迷惑なことだよ。言葉を覚えたのはあやかしに話しかけられたからなんだし」
「正直、俺もそこまでだって知らなかったんだよねぇ……でも、真冬ちゃんの現状を知って、今までの氷堂家に足りなかったものを考えてみたんだよ」
足りなかったもの。そんなの、考えるまでもない。
「……運がなかったんだろ」
「違う。なかったのは運じゃなくて、戦う力だ」
「……加々尾家のような護衛がいるのに?」
「護衛がいればいいわけじゃない。相性が悪けりゃ一緒にいることもしないんでしょ? とくに真冬ちゃんは」
「……千夏さんが僕のそばにいてくれればよかったんだ」
「それはごめんだけど、いなくなったのは真冬ちゃんが戦う力を持つ方法を探しに行ってたからだよ」
「……どういうこと?」
何を言っているのか要領を得ない。首をかしげる真冬に、千夏はニヤリと笑った。
「つまり……あやかし祓いにならない?」
「……僕が?」
「そう。そしたら自分であやかしを倒せる。せこいお札なんかで結界を作らずに済む」
「僕が、力を……」
考えたこともなかった。だが、確かに理に適っている。誰かに守ってもらっても、その誰かがいなければあっさりと死ぬ。しかし自分が戦えるなら。この霊力を、正しい形で使うのならば。
もしかしたら、生きられるのだろうか。
「それが出来るように、組織で地盤固めはしてきた。まだ俺も新人だから難しいけど、あと半年頑張ってくれたら、真冬ちゃんを俺の弟子ってことにして組織に入れられるようにする」
「……それまでは、助けてくれないんだ」
「そんな拗ねないでよ~。お守りあげるからさ」
別に拗ねたつもりではなかったが――言い返そうかと思ったけれど、それより先に千夏に鈴を握らされた。
「……鈴?」
「この鈴、魔除けの力がある。俺が丹精込めて作った鈴だよ。これがあれば、ある程度はあやかしから真冬ちゃんを守れる。万一のときには俺に知らせが来るようにもなってるから、すぐ助けに行くよ」
遠くにいても、ちゃんと見守ってくれる。その約束の鈴だ。
大丈夫だった。千夏は、ちゃんと真冬の味方だった。小さな鈴をしっかりと握る。
「……うん」
「それと、組織に入る前に身につけといた方がいい知識を纏めた本もあげるよ」
本――とは言っているが、市販のものではない。組織とやらで配布しているものなのかもしれない。そんなものを貰ってもいいのかと一瞬躊躇ったが、逡巡している間に本をしっかりと握らされていた。
「真冬ちゃんは守られるお姫様じゃない。自分で自分を守るんだ。そのためのサポートは俺がする。閉じこもってるだけの氷堂の歴史は終わらせよう」
「……そんなこと、出来るの……?」
これまで、誰も成し遂げたことがないのに。それでも千夏は真っ直ぐな目のまま頷いた。
「出来る。その願いを俺は、絶対に叶える。だから、やろう」
それでも、少しだけ怖い。自分に、本当にそんなことが出来るのだろうか。だが、もしも可能性があるのなら――それに、賭けたい。
「……僕は、いつまでもあやかしに怯えるのは嫌だ……隣にある死に、負けたくない」
「大丈夫、負けない」
「うん……」
「半年後、組織に入れるようになんとか動いておくから。だから……頑張ろうね、真冬ちゃん」
優しく微笑む千夏は、二年前までつきっきりで真冬を守ってくれた人そのものだった。
やっぱり、この人だけが自分の味方だ。そう思ったら、張り詰めていた心がするりとほどけた。
「千夏さん……ううん、ショコラ兄ちゃん」
「ん?」
「ありがとう」
真冬の言葉に、千夏は全開の笑顔をくれた。
***
ぼんやりとした頭が現実を捕らえる。今のは、白昼夢か。それとも記憶を辿っていただけか。
わずかに顔を上げた真冬を、千夏は心配そうに覗き込んでいた。
「真冬ちゃん……大丈夫?」
「……思いだしてた」
「え、何を?」
「千夏さんが、僕をあやかし祓いに誘ってくれた日のこと」
「ああ……」
千夏は深く息を吐き、ゆっくりと頷いた。
「やっと、僕は戦える力を身につけた。でも……でも、まだ聞こえるんです」
「あやかしの声?」
「そう……そいつが、どんなあやかしなのか、遠くから聞こえるだけだからわからない。でも……」
「怖い?」
「……力を持っても、怖い」
「そっか……」
身体にまとわりつくような悪意と殺意。あんなもの、一生忘れられそうもない。今なら少しは抵抗出来るとわかっていても、想像すれば身体が動かなくなる。
その恐怖に打ち勝つにはどうしたらいいか。それはもう、わかっている。
「だからこそ……どんなあやかしが相手で、どうやったら生き延びることが出来るのか、知るべきなんだ」
「うん……」
「アキラにどんな事情があろうと……自分の命を省みないやり方なんか、間違ってる……」
「……そうだね」
「……間違ってるんだ……」
アキラの事情はわかった。それでも、正義感だけでは命は護れないのだ。アキラはまだ、あやかしを知らない。本当の恐怖を知らない。ただでさえ暴走するタイプなのに、きちんと考えなければ命を失ってしまう。
そんな恐怖、味わうのは自分だけで十分だ。
床を見つめる。殺風景で生活感のない部屋なのに、床は丁寧に拭かれていた。ここに生きた人間が住んでいることを物語っている。
そうだ……自分たちは、生きているのだ。そしてこれからも、生きていたい。
爪が手のひらに食い込む。
千夏はそんな真冬の手を、そっと握ってくれた。
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