第4話(後編)
リビングに突然駆け込んで来たのは、一人の男だった。
どこか華奢で儚い雰囲気があるのに、鋭い目をしている。戦士。そんな言葉が、アキラの脳裏を駆け抜けた。
「は? あんた誰だよ! ってか無駄って、どういうことだ!?」
「あれに声をかけても無駄ってこと」
男は淡々とそう言って、化け物を睨み付ける。アキラの前に出ると、庇うように手を広げた。
「毛倡妓(けじょうろう)か……女のあやかし、だっけ? ……弱点とか、わからないけど……」
ぶつぶつと、男は勝手に自分の中で話を進めていく。黒っぽいコートをはためかせ、一歩前に出ようとする。
だが、アキラはその肩を強引に掴んだ。
「あんた誰だって聞いてるだろ!?」
「……水月ハル。あやかし祓いだよ」
「あやかし祓い……?」
聞いたことがない。霊感商法のような胡散臭い響きがあることだけはわかったが、だからといって何がどうなるというのか。唐突に人の家に現れ、無駄だのなんだの。しかも土足だ。この状況で、靴がどうのと責めるつもりはさすがにないが。
ハル、と名乗った男はそれ以上は説明する気が無いらしい。既に視線はアキラから外れていた。
静かに目を閉じると、大きく息を吸い込んだ。
「内なる我が霊力、剣となりて悪を祓わん」
呪文、なのだろうか。静かに言葉を終えた次の瞬間、ほのかな光が放たれ、ハルの手の中に日本刀が現れた。
「剣!? ど、どっから出て来たんだよ」
「星の力を借りた剣……近いのは陰陽道だね。僕の持つ霊力を具現化しただけだよ」
「いや、わけわかんねーけど……あんた、それで何を――」
「もちろん、あやかしを倒す」
鋭く告げた次の瞬間、ハルは床を蹴った。
握った刀を振り上げる。頭上高くへ閃いた刃は、毛むくじゃらの化け物との間合いを詰めた次の瞬間、勢いよく振り下ろされる。
――化け物が、雄叫びを上げた。
「ちょ……や、やめろよ! あれは母さんだ、あやかしとかいうのじゃねえ!」
いや、違う。母さんじゃない――心の底で、まだ自分が叫んでいる。
「いや、あやかしだ」
それでもハルは冷淡に告げた。その言葉が、胸に突き刺さる。そうだ、あやかしだ――でも、母さんの声がする。混乱する。アキラは奥歯を噛みしめた。
「あやかしが人の心に取り憑いて、化け物になることがある。君の母さんがああなったのだとしたら、取り憑かれたんだ」
「な……なんで!?」
「あやかしは人の心の闇が増幅したものだ。その闇が強ければ強いほどはっきりとしたあやかしになる。伝承になるようなあやかしなら、それだけ闇が深かったということ……」
「ンなこと……!」
それじゃあ、やっぱりあれは母なのか――認めたくない。だが、現実は。
――化け物が、叫ぶ。
やはりそれは、母の声だった。
「あれは毛倡妓、女のあやかしだ。妖怪図鑑でも見ればいい、すぐにわかる」
「そんな……なんで母さんが!? あの人は闇とかそんなモンと遠い性格だったんだぞ!? ずっと女手一つで俺育てて、来年からやっと俺も仕事出来る、ちょっとはラクになるって、喜んでて……あんな明るかった人に、闇なんかあるかよ!」
「明るかったから、だよ。強い光の裏側には、深い闇がある。君を心から大事に思って明るく過ごしていたなら、気付かないうちにその裏側には深淵が広がってたんだ」
光の裏には影がある。それは、実に単純な理論だった。あまりにもストンと納得させられてしまう。
そして次の瞬間に気付いたのは――
「……じゃあ、俺のせいで……」
母が明るく笑っていたのは、幼い頃に父親を病気で失ったアキラに寂しい思いをさせないためだ。母親が直接そう言ったことはないが、その気遣いが分からないほど子どもではない。だからこそ、できるだけ母を助けて生きてきたつもりだった。それなのに――
化け物が叫ぶ。鞭のように鋭い毛が、勢いよく襲い掛かってきた。
「……ッ!」
飛び出したハルが刀でそれを受け止める。
「くっ……!」
「母さん!」
あの化け物が母親なら、刀で切られれば死んでしまう。だが、無差別な攻撃を仕掛けるあの化け物を、どうやって止めることが出来るのか。
「……君のせいじゃない」
硬直するアキラに、攻撃を受け止めながらハルが言う。
「取り憑かれるかどうかは、運だ」
「そんなモンのせいで……!」
「病気になるのと同じだよ」
「だったらなんかあるんだろ!? 元に戻す方法……病気は治るじゃねえか!」
「ない」
「嘘だ!」
「ないよ……あやかしになった人間は、もう人の姿には戻れない。だから……浄化するしかない」
「そんな……! 母さん、母さん! やめろよ、もうそんなことすんな!」
助けられない。きっぱりとハルは言った。だが、もしもこの人が暴れないのであれば、助けることは出来るのではないだろうか。要するに、人に害をなさなければいいのだから。もしもここで、大人しくさせることが出来るなら、あるいは――
その願いを打ち砕くように、化け物が大声を上げ、室内を破壊していく。
「やめろよ母さん! 母さあああああん!」
止めないと――アキラは床を蹴った。だが。
「ダメだ!」
ハルの声。直後、鞭のような毛がしなる。殺される――次の瞬間、アキラは目を閉じた。だが。
「くっ……」
「なっ……!」
死んでいない。怪我もない。代わりに攻撃を受けて倒れたのは、ハルだった。
「あ、あんた何やってんだよ! 俺なんか庇って……」
慌てて駆け寄り、息を呑む。身体中に傷が出来ている。どれも致命傷という雰囲気ではない。だが、それでも怪我をしていることに代わりは無い。
ゲホゲホとむせながら、ハルは起き上がる。ひとつ、大きく息を吐くと、アキラを自分の後ろに押しやりながら立ち上がる。
「それが僕の役目だ。あいつを、倒す」
「それは……! 何かあるだろ、何か……方法がねぇわけねえじゃん!」
「……信じたくないのは、わかる。でも、ないんだ」
「嘘つくなよ! 母さんが、こんなことになるわけが――」
「危ない!」
ガバリとハルが覆い被さってくる。次の瞬間、身体が勢いよく吹き飛んだ。視界にわずかに映る鞭のようなもの。化け物の身体の一部。あれに、殴られたのだ。
「ぐっ……」
「うあっ……! だ、大丈夫か、あんた!」
アキラを庇って、今度こそもろに攻撃を受けたハルは叩きつけられてうずくまる。アキラをしっかりと抱き締めたまま倒れたその人に、慌てて声をかけた。
それでもハルは、静かに首を振って身体を起こした。
「僕は、いい……それより、覚悟を決めろ」
「覚悟、って……」
「……あの人を、僕が殺す覚悟を」
殺す。
無慈悲に告げられた言葉に、アキラは息を呑む。殺す。本当に? 殺さなければならないのか? そんなことをする必要は、あるのか?
わからない。だが――
化け物が、叫ぶ。
「あれは、元には戻せない。このまま表に出てしまえば、人を襲い続ける。そんな地獄の苦しみを一生味わわせるくらいなら、ここで止める方がいい」
「でも……!」
納得出来ない。何か方法を探したい。ただただそれだけを願って、反論しようとした。
それを遮ったのは、女性の声だ。
「……止めて」
「母さん!?」
化け物からはっきりと、いつも通りの自分の母の声がする。
「お願い……これ以上。もう……殺して……」
懇願するような言葉。その内容は――理解、出来ない。したくない。だが、確かにはっきりと言葉を喋った。
「母さん! 今、会話が出来ただろ! だったら救うことも――」
「出来ない。今のは、最後の力を振り絞った願いだ」
「ん、なの……納得出来るかよ!」
化け物が叫ぶ。今度は、人ならざる声で。だが、確かに母と同じ声色で。
鞭のように毛を振り回す。家の中のものが次から次へと破壊されていく。
棚に飾られた置物は、母のお気に入りだった。
アキラが小学生のときに書いた絵は、いい加減閉まってくれ頼んでも額に入れて置かれたままだ。
それらが全て、砕け散り、敗れ去り、床に落ちた。
「こらえてくれ、頼む! あの人に、息子を傷つけさせたくない!」
「う……ああああああ!」
ハルが真っ直ぐにアキラを見る。それでも選択出来なくて、アキラは叫んだ。
二人で一緒に動物園に行って撮った写真。
今朝一緒に食事をした机。
チャンネル争いで本気の喧嘩をしたことがあるテレビ。
大人げなくはしゃいで母が勝利したゲーム機。
すべて。全てが、破壊されていく。
――雄叫びを上げる母には、もう、思い出も残っていない。
「……やって、くれ……」
それしか、ない。粉々になる思い出たちが、アキラの背中を押した。
「……ありがとう」
何がありがとうなのか。泣きそうな声でそう告げたハルは、真っ直ぐに毛倡妓に向き直った。
「あなたには、誰も殺させない……あなたを、止める!」
改めて刀を握り直し、床を蹴る。身体中傷だらけで、血を流し、それでも化け物に向かって真っ直ぐに飛び込んで行く。
振り抜かれる化け物の毛を鋭い刃が切り裂いていく。一本、二本。斬られた瞬間、その毛は宙を舞い幻のように消えた。それは、夢か現か。思考がついていかない。
握った刀を真一文字に閃かせ、毛倡妓の身体をかすめていく。血のような、黒い液体が宙を舞う。毛倡妓の叫びに苦悶が混ざる。
――やめてくれ。
アキラは奥歯を噛みしめたまま、その光景を見つめ続ける。せめて、一秒も見逃さないように。壊れていく日常の最期を見届けるために。
刀が振り抜かれる度に、自分が切り裂かれているような気がする。
痛い。苦しい。それでも、逃げられない。
逃げたくない。
「はあああっ!」
ハルが刀を振り上げた。既に動きの鈍っている毛倡妓は、その攻撃を回避出来ない。
――やめてくれ!
アキラは強く拳を握り締め、必死でその場に留まり、切っ先が振り下ろされるのを目で追いかけた。
刃が、毛倡妓を捕らえる。
断末魔の悲鳴――母の、叫び。
黒いものが飛び散り、煙のように霧散して――
「かあさあああああん!」
……全てが消え去った後、残されたのは、砕けた日常の欠片だけだった。
シュウシュウと音を立てながら、母――だったものは、小さな塊へと変貌していく。
「……こんな方法しかなくて、ごめん」
その小さな石のようなものを、ハルはそっと拾い上げた。
「な……んだ、それ……白銀の、結晶……?」
「あやかしは、命を失うと結晶化する。この結晶を浄化することで、あやかしを完全に消滅させたことになるんだけど……」
ハルはほんのわずかに躊躇ってから、その結晶をギュッと握り胸元に押し当てた。
「穢れし御霊の闇を祓い、混沌から救い出さん……」
再び呪文を唱えると、ハルの手に握られた結晶が淡い光を放つ。それは、温かな色をしていた。
「……これで、浄化出来た、から……」
「おわっ!」
切れ切れに呟きながら微笑んだハルは、ぐらりと傾いだ。慌てて受け止める。
「だ、大丈夫か、あんた? 倒れたりして……」
怪我が悪化したのだろうか。あれだけ怪我をして動き回れば当然ではあるが――ハルはゆるゆると首を振る。
「大丈夫……浄化するのに、霊力を多く使うから、力が抜けるだけ。少ししたら戻るから。それより、これは君が……」
アキラに身を委ねたまま、結晶を押しつけてくる。ハルを落としてしまわないように気をつけながら、アキラはその結晶を握り締めた。
少しだけ、暖かい。
「……持ってて。君の、お母さんの、願い、だから……」
「願い……?」
「あやかしは……人の闇に、宿る……それを倒した後に、白銀の結晶が残るのは……恐らく、人の願いが結晶化したから、だと思うんだ。だからこれは……」
「……母さん……」
母の願いの結晶。それが、最期に残されたということなのだろう。光と影の、影の部分を消滅させたからこそ、光だけが残るのだ。きっとそういうことなのだろうと、アキラは思った。
ハルは、泣きそうな顔で呟く。
「ごめんね、こんな形でしか、救ってあげられなくて……」
「いえ……」
突然飛び込んで来て、人の母親の命を奪った。だが、もしもこの人が来なければ、自分は母に殺されて、母は化け物として街を徘徊していたのかもしれない。正直に言えば、今だに悔しい。それでも。
「……ありがとう、ございました」
自分を救ってくれて、ありがとう――母を救ってくれて、ありがとう。アキラの脳裏に今浮かぶのは、その気持ちだけだった。
***
――コトン、とお皿が置かれる。ハッとして顔を上げると、ハルが静かに微笑んでいた。
「出来たよ、チャーハン」
「あ……ありがとうございます」
記憶の底に沈んでしまっていたらしい。アキラは慌てて身体を起こし、座り直す。
「もしかして、思い出してた?」
「はは……バレました?」
「さっき、その話したの、僕だから」
「……ですね。それがきっかけで、思い出しました。あんとき、ハルさんが母さんを浄化してくれなかったら、ヤバかったなって……」
今、こうして生きていられるのはハルのおかげだ。あやかしという存在すら知らなかったアキラでは、あの時は本当にどうすることも出来なかっただろう。あの時も感謝の念しか抱かなかったが、今もその気持ちは変わっていない。
だが、ハルは苦笑する。
「まあ……禁止事項全部破ったから、あの後大変だったけど」
「あー……あやかしと対峙するのは必ずツーマンセルで、一般人を巻き込まないよう人のいない場所へ誘導する、浄化の力を使っていいのは司令官とほのかさんだけ……ですもんね。確かに、何一つとして守ってない……」
組織の約束事を指折り数えながら挙げていく。まさに禁止事項違反のオンパレードだ。
「すっごい怒られたよ。一週間謹慎の上減給。反省文も書かされた」
「げ、マジっすか。すみません」
「僕がやりたかっただけだから。家族は、大切にしたいでしょ」
「……そう、ですね。俺、親父がいなくて、母さんだけだったから」
「うん……守ってはあげられなかった。けど、せめて結晶だけは、ね」
「ははっ……ホントは結晶も、司令官に渡す決まりですもんね」
「結晶、なくしたことになってるから、秘密にしておいて」
「わかってます。ま、バレてる気もするけど。司令官鋭いし……」
「まあ、それならそれで……」
コップに麦茶を入れてから、ハルはアキラの向かいに腰を下ろした。飄々としているように見えて意外と繊細なハルは、アキラの母親を救えなかったことに未だに傷ついている。それが表情からわかる。
いや、違う。傷ついているのはアキラの母のことだけじゃない。この世の中の全てのあやかしを救えないことに、常に傷ついている。それでも、彼らがもうこれ以上人を殺めずに済むように、これ以上の犠牲者が出ないように、救う命と救わない命を選別することそのものに、傷ついている。
本当はこの人は、あやかし祓いには向いていないのだ。それでも、あやかし祓いになるしかなかった。それだけの才能を持って生まれてしまった。今日までにどれだけ苦しんできたのか、アキラには想像も出来ない。
ひとつだけ息を吐いてから、ハルはいつもの彼に戻った。
「けど、アキラが突然押しかけてきたときは驚いた。弟子にしてください、なんて。どうやって僕の家、わかったの?」
「根性で、とにかく歩き回って探した感じですね。あんときは、霊力ないとあやかし祓いになれないとか知らなかったから……俺もハルさんみたいに、人を助けられるって信じて疑わなくて」
「本来、霊力がないとあやかしを見る事も出来ないから。でも、身内があやかしになったら、その姿を見ることが出来る。そしてそれが刺激となって、霊力が身につく場合がある……君はその通りになった」
「それもこれも、ハルさんのおかげです」
「よかったのかは、わからないけどね。でも……とにかく、君はあやかし祓いになった。これからは、人を救う側に回れる」
「やりますよ、きっちり。ホントは、もう俺みたいな想いするやつがいなくなるのが一番だけど」
アキラが願うのはそれだけだ。もうこれ以上、誰も苦しまずに済みますように。けれど、そのためにはあやかしになってしまう根本的な理由を探すしかないのだが――
「……とにかく、食べて。今日はさっさと寝たらいい」
「はーい。んじゃ、いただきます!」
今は考えてもわからない。それなら、出来ることからやっていくだけだ。つまり、今存在しているあやかしを、苦しみの中から救い出す。
そもそも考えるのには向いていない。だからさっさと諦めて、アキラはハルに作ってもらったチャーハンを食べ始めた。
ガツガツと食べるアキラを、ハルは小さく笑って見つめている。
「……僕も食べよ。いただきます」
二人分の食事の音が静かに響く。
アキラの初任務の日は、こうして終わりを迎えたのだった。
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