第4話(前編)
ハルの家は殺風景だ。
衣類を入れるための小さなタンスと一人で使うには少しだけ広いテーブル、座布団が四枚と、布団がひと組。それで全てだ。今日の夜に荷物を纏め、明日になったらいなくなっている。それすらも可能になるくらい荷物が少ない。生活感が薄い。
初めてこの家に来たときも、アキラはそのことに驚いた。だが、それから五年の時が過ぎても、その様子はまるで変わらない。
「適当に座って待ってて」
ハルはそう言うとキッチンへと向かう。とはいえ、リビングとキッチンとで距離があるわけでもない。冷蔵庫を開けるハルの方へ、アキラは声をかけた。
「準備手伝いますよ?」
「いい。今日は疲れてるだろ。初めての実戦なんだから」
「……はは、実は」
さらっと言われ、アキラは苦笑いするしかなかった。やはり先輩にはバレてしまうということなのだろうか。曖昧に誤魔化しながら、結局アキラは腰を下ろした。正直に言えば、もう足がガクガクしていた。
ハルはちらりとこちらを見てから、ほんのわずかに笑みを浮かべた。
「僕もそうだった。初めてのときは、予定通りにいかなくて」
「ハルさんが? ショコラ先輩と一緒なら平気そうなのに」
「最初なんてみんなそんなもの。だんだん上手くいくようになるよ」
「……だといいけど……」
今日の任務は、はっきり言ってギリギリセーフという感じだった。最終的に腕力でどうにかしたという感じだ。作戦は間違っていなかったと思う。アキラには細かいことはわからないが、真冬の立てた作戦はきっと正しかったはずだ。
ただ、思っていたよりも敵が強かった。物理的な力が想定外だったのだ。その結果、作戦が全ておじゃんになった。そこから――立て直せなかった。
真冬が悪かったとは思っていない。彼の言う通り、あと少しだけアキラが待っていれば作戦を練り直すことも出来たかもしれないのだ。だが、出来なかったかもしれない。既に終わってしまったことだ、もしも、を並べても仕方がない。
次は、もっと上手く真冬の作戦を実行出来るようにしよう。そのためには、もっと訓練をしなければ。それに、体力もまだ足りない。個人の訓練ももっと増やそう。
考え込むアキラの耳に、包丁の音が聞こえてくる。リズミカルに刻まれるそれに、アキラは不思議な心地よさを感じた。
「そういえば、アキラが僕の家に押しかけてきたのって、何年前だっけ?」
包丁のリズムに紛れて、ハルが訊ねる。
「……五年前、ですかね。あんときの俺、まだ高校生だったし」
「そう……」
ハルの声が曇る。そうなるのはわかっていただろうに、それでもこの話題を口にしたのは、さっきの会話が頭に残っていたからだろう。
誰も悪くない。ただ、運が悪かっただけ――ハルとアキラの出会いは、最悪な状況だったのだ。でも、仕方がなかった。だからアキラは、できるだけ感情を殺して淡々と口にする。あの日の、あの状況を。
「母さんがあやかしになっちまって、ハルさんに助けてもらって」
「助けてはないでしょ……助けられなかった」
「……そっすね。母さんは……あのとき、死んだから」
「ああなっちゃったら……殺すしか、なくて」
本当は、助けたかった。元の人間に戻したかった。ハルはそう言いたいのだろう。あの瞬間のアキラだって、そうあればいいと願っていた。
だが、それは叶わない。アキラは首を横に振る。
「いや……やっぱ、助けてもらいましたよ。俺じゃ、母さんを止めることは出来なかったから」
「……そう」
包丁のリズムは、途切れることなく刻まれる。
その音を聞きながら、アキラはひとりごちるように呟く。
「五年……か。長かったんだか、短かったんだか……ホントに突然でしたから」
「……そう」
「あれ……ハルさん来なかったら、どうなってたんだろうな……」
今度こそ、本当に独り言だった。返事が欲しかったわけではない。言っても仕方のないことを口にしているだけだ。
どうなっていたかなんて、考えるまでもない。
あのときハルが来なければ、自分は死んでいた。あの日、あの場所で――母親に、殺されて。
***
五年前。
高校三年にもなると、就職だ進学だとにわかに慌ただしくなる。アキラもようやく就職が決まり、手続きだなんだと学校にいる時間が長くなっていた。
今日も少し帰りが遅くなった。母と二人で暮らす家に急いで戻る。仕事をしている母に代わって家事をするのが自分の役目だ。いつも帰りが遅いから、この時間から夕飯の支度をしてもなんとか間に合うだろう。頭の中で計算をしながら自宅の扉を開く。
「たっだいまー」
誰もいないとわかっていても、挨拶だけはしてしまう。習慣というのは面白いものだと靴を脱ぎながらふと気付く。
母の靴が、玄関にあった。
「あれ、今日って母さん早番だっけ? おーい、母さーん?」
奥のリビングは玄関からでは見えない。アキラは母の名前を呼びながら家の中に上がった。だが――
「だめ……こな、いで……」
「えっ……?」
聞こえて来たのは、呻くような声。だが、間違いなく母のものだった。一体何故? 何が起こっている? 混乱したまま荷物を投げ捨てリビングに向かう。
「母さん!」
バンッとリビングの扉を開く。その瞬間、視界に飛び込んで来たのは母の姿ではなかった。
「なっ……か、母さん!?」
母親の姿を探す。だが、いない。目の前には、毛むくじゃらの化け物が一体。これは、現実なのか? 理解出来ない。混乱する。
蠢く化け物が声を上げた――聞き覚えのある声。ついさっき聞いたうめき声と、同じ。いや、しかし。アキラは首を振る。そんなわけがない。そんなわけが――
もう一つ、叫び。それは、先ほどよりももっとなじみ深い声だった。
「か……あ、さん……?」
返事をするように、再び咆吼。その化け物の声帯から発せられたそれは、確かに母のものだった。
「ちょ……う、そだろ……? なんで、母さんが化け物に……!?」
自分で言って、その現実感のなさに混乱する。そんなこと、あるわけがない。人間が化け物に変わるなんてことが、起こるわけがないのだ。きっとこれは夢だ。あるいは、幻だ。目を覚ませ。起きてくれ。そうして母を迎えるために夕飯を作らなければいけないのだから。自分に必死で言い聞かせる。それなのに。
「――ッ!」
毛むくじゃらの化け物が、大きく腕を振り回す。いや、違う。これは髪の毛だ。身体を覆っているのは、漆黒の長い髪。その向こう側に、爛れたような顔が見えた。
――その顔は、母とは似ても似つかない。じゃあ、偽物なのか? いや、だが、声は確かに――
髪が壁を叩く。部屋の中の家具を破壊していく。電気も割れた。両腕で顔を覆って降り注ぐガラスから身を守る。
その隙間から見た化け物の姿は、先ほどよりも醜悪に見えた。
「や……やめろ! なんで暴れんだよ!? いや……そもそも、なんでこんな――」
あれが母さんなわけがない。
あれは母さんだ。
どちらも認められなくて、アキラはとにかく叫んだ。
「母さん!」
呼べば、きっと返事をしてくれる。返事があれば、本当に母親なのかが分かる。混乱する中でアキラが出した結論がそれだった。だが――
「無駄だよ」
混乱するアキラに答えたのは、母親ではなかった。
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