祈りの花舞う日よ

たつみや

                   

男は、夜の中を走っていた。

小さな島は闇に沈んでいる。中天にさしかかった月は細く、その光はかろうじて己の存在を示すだけの頼りなさ。弓形のそれが徒に男の不安を煽る。

森を抜け、家々の並ぶ集落に着くと闇はむしろ深まった。石造りの扁平な建物はその影で闇を養い、男を威嚇するかのようだった。だが男は怯まず歩を進める。胸にある不安よりも恐ろしいものなど、今はないのだから。

ほどなく男は一軒の家の前で足を止めた。雨の少ないこの季節、窓や戸に葦の葉で編んだ簾をかけることはまずない。だが石壁にぽかりとうつろな口が開いているだけの他の家と違い、ここにはそれがあった。葦の葉の間から薄く灯がもれている。男は簾をはね上げて名を呼んだ。

「イカルス」

 家の主である青年は突然の訪問者に驚くことなく、炉端に座ったまま穏やかな笑顔で男を迎えた。

「来たのか、ミノス」

それがあまりにいつもどおりの態度だったから、男は自分がなにか早とちりをしたのではないかと思った。けれど親友の手元で炉の火に光っているものが、そんな期待を一瞬で切り裂いた。

「さすがだな」

イカルスが言った。

「こんな時間に南の岸に舟を着けられるのは、おまえだけだ」

「なぜ俺が、南から上陸したと思う」

 暗い気持ちで男は尋ねた。

港には着けられないからな。イカルスは答える。

「沖には帝国の戦艦がいるし、湾は武装したうちの連中で溢れている。どちらも手負いのトゲアナグマみたいに気をとがらせているからな。今のおまえがあんなところを通ったら、とても俺のところまで来れないだろうよ」

そんな言葉と研がれた刃の光に突かれ、男の胸が絶望に染まる。やはり彼は承知しているのか。この島の民が本国の決定に背き、今宵ひそかに戦準備を整えて港に集っていることを。

「っ、なぜだ!」

男は思わず叫ぶ。

「おまえたちが抵抗しても父は考えを変えないし、俺もなにもしてやれない!」

「そんなもの、端から期待してないさ」

イカルスは笑う。エウロカ大陸の覇者、太陽帝国。広大な大陸の西半分を手中に収めただけでは飽きたらず、海をも越える貪欲な支配者に狙われたのだ。逆らわず被害を最小限に抑え、民を守ろうというおまえの父は正しいと。

わかっているのだ、彼は。そうであろう。イカルスは聡明だ。こんな小さな島で土と海と空だけを糧に暮らす小民族であったが、彼より頭の回る者も、先見のある者も、男は他に知らない。そこに一縷の望みをかけていたというのに。

「イカルス」

 男は諦めきれずに友の名を呼ぶ。イカルス、イカルス族の若い長よ、考え直すことはできないのかと。皆に慕われるおまえの言葉で、逸る島民を宥めることはできないのかと。だが友人は静かに首を左右に振る。魚油の暗い橙の光の中で、彼の繊細な銀の髪が揺れた。

「いくら俺でも、もう止めようがない」

「……おまえの父にはできたのにか?」

「俺の父が本国に従ったのは、おまえの父が俺たちの生活を保障したからだ。今回とは違う」

「しかし」

「無理だ、ミノス」

 懸命に言い募ろうとする男を遮って、イカルスは笑む。

「俺たちは歌を捨てることはできない」

 エルザの湖よりもなお澄んだ水色の瞳が、三日月の形に細められた。長い睫毛の下に半分隠れたその宝石から目を離せないまま、男は強く唇を噛む。わかっている。わかっているとも。彼らの歌は祈りであり、親から子に伝える教えであり、心を表す大切なものだ。

その類稀なる美声は獣の心を落ち着かせ、草花を育て、風を呼んで空を舞うことさえできる。そして彼らが愛し祈りを捧げる樹、羽毛のような美しい花と香りの良い実をつけるハネノキは、彼らの歌がなければ決して開花しない。

 ハネノキから採れる香料や油をそもそもの狙いとしていた男の父、先代のミノス王はそれゆえイカルス族の生活を保障した。だが同じものを欲しながら太陽帝国は違う。神聖キルケアを唯一神とし、属国にもそれを強要する彼らは、イカルス族にハネノキに祈ることも歌うことも禁じる宣言したのだ。

 だからイカルスたちは決起した。

 一万に満たない数ではなにもできないと、わかっていながら戦いを決意したのだ。

「……女と子どもは、闇に紛れて島から出した」

 なにも言えずにいる男から視線を逸らし、ふとイカルスは違う種類の笑みを浮かべる。

「おまえがもう少し早く来れば、別れくらいはさせてやれたのにな」

「……」

 クリュテ。親友の妹の名前を、男は音にせず呟く。兄と同じ美しい銀髪と澄んだ瞳を持った快活な娘。彼女が巻き毛を揺らしながら満開のハネノキの下で歌い踊る様は、神の国もかくやの光景だった。冗談が好きで、オリーブの塩漬けが好きで、赤い花が好きだった。彼女のために崖に咲く花を、苦心して何度も摘んだことを思い出し、男の指先が痛む。

「……こんなことにさえならなきゃ、いずれあいつを貰ってほしかったよ」

 反旗を翻した一族の娘を、これから帝国の一属になろうという国の王が娶るわけにはいかぬ。男にそれを言わせぬ優しさがまた痛い。

「……逃げてはくれないか」

 俯いて、男は言った。

「女と子どもを逃がしたように、おまえも……おまえたちもどこか帝国の目の届かない国まで逃げて、生きのびてはくれないか」

 帝国はおそらく追わない。今までもそうした話は聞いたことがない。彼らはハネノキを育てるために彼らの歌が不可欠だとは知らないのだ。

だから闇に紛れて船出すればいい。ひっそりと別の地に暮らす方が、今この場で無為に死ぬよりずっといいではないか。

「金貨をやるよ。宝石もやる。母の残した物だから国庫には響かないさ。それを元にどこかに土地を買って、おまえたちの村を作ってくれ。クリュテにハネノキの苗を託したんだろう? それを植えて、また歌ってくれ。ほとぼりが冷めたら俺も帝国の目を盗んで、会いに行くから」

 だが親友の心は動かない。ゆるゆると左右に振れる銀の髪。橙を浴びた輪郭に濃い影が落ちて、彫刻のようなその美貌を不吉に彩る。ふいに腹の奥から起こった震えに弾かれて、男はイカルスの両の肩を掴んだ。

「なあ、どうしても駄目か。どうあっても諦めてはくれないのか」

「……ミノス」

「いいじゃないか、この島でなくても。おまえたちは賢く強い一族だろう? どこでだって生きていけるだろう!?」

「ミノス」

「俺は、……っ、おまえを……っ!」

 失いたくない。美しく、賢く、優しい友を。けれど彼は、言葉を詰まらせる男の手を己の肩からそっと外して静かに言った。それは無理だと。

「持ち出したハネノキは、他の土地では育つまいよ。拠り所を失い、見知らぬ土地で小さくなって生きて行くか。ここで戦って死ぬか。俺たちにはもうそのどちらかしか残されていないんだ」

「………イカルス……」

「なあ、ミノス。おまえが立場も考えずに今宵会いに来てくれたことが、俺はとても嬉しい。おまえが俺にくれるものは、もうそれだけで充分だ」

 だからこの小さな島のために議会を動かそうとしたりはしてくれるな。男がすでに試みたことを見抜いたかのように友は言う。そしてきっと、これ以上のことができぬこともわかっているのだ。

「……どうしても駄目か」

 聞き分けのない子どものようにくり返す男の、乱れた髪を長い指が掻きあげる。そうして彼は微笑んだ。

「ハネノキと歌は俺たちの誇りだ」

静かな声で、しかしはっきりと告げる。

「それを失くしてしまえば俺はもう、俺を失ったも同然なんだよ」

 それ以上、男はなにも言えなかった。

 美しく賢く優しい友は、同時に誇り高い男でもあったのだから。


 

 城門の打ち壊される音がして、喝采と咆哮が黒煙にくすむ空に響き渡る。ミノス王と名を呼ばれ、男は重い瞼をのろのろと持ち上げた。

 枕辺に人影があった。近習のひとりであろうかと思い、すぐに否定する。老いた目でも、このように若い近習はいないことくらいはわかるのだ。瑞々しさを放つその影が眩しく、男は目を細める。近習でないのなら、反乱の徒であろう。ようやくかと静かに覚悟を決める男に、人影はまた呼びかける。

「ミノス王。あなたに会いにきた」

「……よく拝んでから殺したいか」

 ならばとくと見るがいい。枯れた喉を動かしてようよう喋る男の顔を覗き込むように、影が覆いかぶさってくる。天蓋の下で逆光から解放されたその顔をしっかりと認め、ようやく男は目を瞠った。

 銀の髪に澄んだ水色の瞳。この数十年、夢に見ることさえ避けてきた愛しい色彩がそこにあった。

「……イカルス……」

 思わず口走った老人に、青年は頷く。

「たしかにそれは俺の名だ。大叔父の名を継いだから」

「では……クリュテの……」

「祖母はあなたを友だと言っていた。大切な人だと」

「………おお……」

 痩せさらばえた身体が震える。生きのびていた。続いていたのだ。

「よく……よく……」

 これが死の間際の幻ではないことをたしかめたかったが、老いた病身は腕一本己の思うままには動かない。苦心していると青年の方から手が伸ばされた。張りのある若い掌が、弾力を失った男の頬を撫でる。久しく味わっていなかったぬくもりが伝わって、男の乾きかけた瞳を濡らした。

「イカルス。誇り高き友の名を継ぐ者よ。この国に残る同胞を、連れていけ」

 男は身を絞って訴える。あのときの蜂起した男たちは大敗した。長であったイカルスは首を刎ねられ、生き残った者たちは海の藻屑と消えることさえ叶わず、奴隷にされた。歌うことを禁じられた彼らを、男は帝国のいいなりに虐げてきた。だが帝国が倒れ、群衆が立ちあがった今なら、彼らは翼を取り戻せる。

「もちろん俺はそのつもりで来た」

 告げる声は凛々しく、男を見下ろす視線は硬い。憎んでいるだろう、軽蔑しているだろう。強大なものに頭を垂れ、己が身だけを可愛がるために友の一族を虐げた男だ。報いを受けさせたいと思うなら、そうすればいい。

 だが断罪を待つ男の耳を震わせたのは、裁きの言葉ではなかった。

「あなたはがんばった」

 驚きが男の五感を瞬間、覚醒させる。

「あなたは花実をつけなくなったハネノキを切り倒そうとする帝国を宥めすかし、歌以外で育てる方法を探させるという名目で俺たちの一族をこの国に囲った。おかげでまだ樹は半分も残っているし、一族は帝国本土に連れて行かれることもなかった」

 かの国に行けば、もっと惨い扱いを受けただろう。狙いだったハネノキの代わりに重い税をかけられ、進むはずもない研究を叩かれ、民からも帝国に頭を垂れた王として白い目で見られながら、それでも最低限この国とイカルスの一族が人として生活できるように尽くしてきた。労う口調は懐かしい友に似て、男の萎んでいた心を優しく慰撫する。

「イカルス……イカルスよ……」

男は震える瞼を懸命に開き、病に濁る目を叱咤して青年を見つめた。これを最期とばかりに視界が晴れ、鮮やか映し出された姿を親友そのものと思ったことこそ幻か。

うわごとのように名を呼ぶ男に、青年が微笑む。

あの別れの夜のように。

「ミノス。あなたの戦いを誇りに思う。我が一族の、永遠の友よ」

 そうして青年は、ひらりと身を翻し窓の向こうに消えた。開け放たれたそこから懐かしい歌声が聞こえる。だんだんと大きくなり、戦いの音を覆い尽くしていく。

男は静かに長い息を吐き、再び盲いていく目を閉じた。瞼の裏に白い花が舞い、太陽を弾いて銀の髪がたなびく。

 眠りを待つ男の額を、くちづけるように優しく花弁が撫でた。

 

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祈りの花舞う日よ たつみや @tatumiyan

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