1-3 ゴキブリ男
【SIDE:咲波春馬】
俺は、異世界転送トラックに乗って田瀬介通りを走っている。
あの後、再びマンダーレを訪ねたが、普通に居た。
景色もいつものものに戻っていた。マンダーレが言うにはどこにも行っていないらしい。では俺が見たのは一体何だったのだろうか。
前回失敗しているからかマンダーレから何故か給料が出なかったため生活費がギリギリだ。
変な所で律儀なのがマンダーレだ。
フィーユの食費の分今までと比べると出費が厳しくなってきた上、妙なぐらい食べる。
異世界からの異邦人でもできるバイトがどこかにないだろうか。
今回も、マンダーレに指示を受けてトラックに乗り込んだと言う訳だ。
歩道の端で白猫があくびをしてくつろいでいた。野良猫だろうか。
猫は気まぐれに立ち上がるとぴょこんと道路に飛び出してくる。一瞬、ひやりとしてブレーキペダルを踏みそうになったが、この猫はどちらにしても、轢かれない。何故なら……
突然トラックの前に黒い影……古株がが突っ込んでくる。
猫を助けようと飛び出してきたつもりだっただろうが、猫は驚いて轢く前にさっとどこかへ行ってしまった。
古株はトラックの前に取り残される。
シナリオ通りだ。これが転送用トラックでなければ猫に命をかけた古株は死んでいる。
そして、何かがぶつかる様な大きな音が聞こえた。思わずブレーキを踏んで目を逸らしてしまった……。
「いや、待て……大きな……音……?」
恐る恐る顔を上げた俺が見たのはフロントガラスに張り付いた古株の姿だった。黒目がちの目は瞬きもせずこちらをじっと捉えている。
喜怒哀楽の表情が無く、ただただ石像のようにフロントガラス越しに俺を見つめている。
よく見ると、古株は手にトンカチを握っている。
その時、古株は手に持ったトンカチを振り上げると、思い切りフロントガラスに叩きつけた。ガラスに大きなヒビが入る。
全身の体温が急激に下がっていくのを感じた。
「うわぁぁぁ!!」
俺はほとんど半狂乱ににアクセルを踏み、ハンドルをきり古株を振り払う。古株はしがみつききれずに道路に振り落とされて転がった。
そのまま旋回してアクセルを踏み込んだ。ミラーで確認すると古株は爬虫類の様に地面を這いずりながら猛スピードで追ってきていた。
益々体温が下がるのを感じた。
更に車の速度を上げる。もはやあれは人間ではない。あのドロリとした目、無感動な表情。
バックミラーを見るともうそこまで古株は迫っていた。カサカサと服が擦れるゴキブリの様な音が聞こえてくる。トラックのスピードに追いつてきている。
更に呼吸が乱れてくる。
気付くとヒビのせいで見辛くなった前方は突き当りになっていた。この速度では曲がりきれない。
「くそぉぉぉ! 何だってんだよぉ!」
あまりの恐怖に硬直した身体から絞り出した叫びが虚しく車内に響いた。同時にどうしていいか、思考が追いつかずに思わず目を閉じた。
次の瞬間、身体がフッと軽くなる。トラックがしばらく余力で走っていたが、それもやがて止まると俺はゆっくりと目を開けた。
まず目に飛び込んできたのはもう見慣れたサイケデリックだった。
「……マンダーレ、か?」
「春馬くん! 大丈夫?」
俺がトラックを降りると心配した様子でマンダーレが駆け寄ってくる。俺は腰が抜けてしまっていた。
「あ、ああ、なんとか……な」
まだ呼吸が荒かった。冷たい汗が次々と滲み出てくる。
「本当は駄目なんだけど、春馬君が襲われてたから咄嗟にこっちから勝手に喚び出しちゃったよ」
「はぁ、はぁ、た、助かったよマンダーレ。何なんだ一体」
「多分、例の『世界の意思』がついに強硬手段に出てきたって事だと思うんだけどね」
「くそっ! ちょっとくらい休ませてくれよ」
こっちはフィーユとナスタッドに獣愚と既に手一杯なのだ。これ以上面倒な事になるのは流石に洒落になっていない。
「なぁ、マンダーレ。『世界の意思』って何なんだ」
「えっ! その……」
……。
「本当に何なんだよ! それのせいでこっちは散々な目に合ってるのになんで何も教えてくれないんだよ!」
俺はマンダーレに詰め寄った。
「俺にはそれを知る権利がある筈だ! いっつもそうやってはぐらかしてよ! 俺は! ……俺は」
「は、春馬君」
「俺……は……」
握った拳の力が緩む。そのせいで目から涙が出そうになったので服の裾で拭った。体温が下がったかと思えば今度は頭がかっと熱くなっていた。
「ごめんね、私も教えてあげたいけど、詳しい事は分かってないし教えるのも禁じられてるから、その……」
本当に済まなそうな表情のマンダーレが言った。
「い、いや。わかってる。今のは、俺が悪かった。ちょっと混乱しててな……頭、冷してくるよ」
つい興奮してまくし立ててしまった。
純粋にイライラしていたと言うよりは、とにかくあの恐怖を忘れようと、少しでも紛らわそうとしたのだ。
「はぁ……本当に頭冷やした方がいいな、これは」
そう呟くとそっと目を閉じた。
古株がまだいるとも限らないので本線に戻るのは危険だとも思ったが、構わずに本線に戻った。
戻ると古株はすっかりとその姿を消していた。夜の路地にはエンジンがかかりっぱなしのトラックが一台不自然に放置されているだけだった。
俺はそのトラックに乗ると家に向かって走り出した。
「俺は……どうすればいいんだ」
俺は所詮要は、下働きの人間という立場だ。
お上の神の秘密をそうやすやすと話していいはずがない。マンダーレもわざと焦らしている訳では無いのだ。
ならば、こうしてくどくどと悩む事自体が無意味な行為なのかも知れない。
*******
古株に襲われたあの日から、何も起こらずに比較的平和な数日が経った。
最近、ナスタッドとフィーユは忙しそうにしている。何か調べものがある様だが、知らない世界では中々上手く行ってないようだ。基本的に暇なので手伝ってやろうと思ったが断られてしまった。なので何を調べているかは俺には知る由もない。
他に変わった事と言えばフィーユが家事をし始めた事くらいだった。
これでただの穀潰し卒業かと思われたが何かとフィーユが持ち前のポンコツぶりを遺憾なく発揮するので以前とあまり変わっていない。
本人は至って真面目にやっていてのポンコツぶりであるので責めることもできない。ただ嫌になるほどに酷いと言う訳でもないので実際、家事への苦労は減ったような気がする。
特に言うとフィーユの料理は一度出てきたが確かに何とも筆舌に尽くしがたい味がした。それは流石にオーバーな表現かも知れないが。
味はそんなに悪くないのだが、やっぱり何かが違う。その何かが分からない。欠けているのかもその逆なのかも分からない。
なので料理は俺の担当だ。
マンダーレとは古株とは別件のいつもの仕事があるので一度行ったがどうにも顔を見れないという有様だ。あの時ついかっとなってしまった事には深く反省したのだが、微妙な距離感を感じてしまう。
「……おい、フィーユ。みかん何個食べるつもりだよ」
フィーユはこたつに入ってみかんの皮を剥いている。みかんが好きなのか最近すごいペースでみかんがなくなっていく。異世界にはみかんはないのだろうか。
「すいません、いやー、つい食べ過ぎちゃいますね」
と、いいつつ皮を剥く手は止めない。
「まったく。俺、買い出し行ってくから」
「みかんもお願いします」
「だからどんだけ食べんだよ……」
フィーユに見送られて俺はスーパーへ向かった。もう月が出始め
、落ちた日の残光の薄橙色と夜の紺色のグラデーションが出来ていた。
曲がり角を曲がろうとしたその時だった。ユラユラと足取りのおぼつかない人影が現れた。
「お前は、古株……?!」
果たしてその人影は古株であった。あの一件きり何もなかったので油断していた。手に握られたナイフは月の光を反射して薄く光っていた。
俺は咄嗟に勢い良く駆け出した。俺の手に負える相手ではない。
走りながら俺はちらりと後ろを確認した。しかし、そこには既に古株の姿は無い。
なんだぁ、見間違えかぁ。
安堵して立ち止まり前に向き直った。
「んん……見間違え……じゃ、ないよなぁ」
そしてその目の前の道路には古株はいた。俺は息を呑んだ。どういう訳かこのしばらく分かれ道の無いこの道路を回り込んだらしい。
そうだ、警察を呼ぼう。一応人間の形をしているので相手にされないという事はないはずだ。
携帯電話を探してポケットに手を突っ込んだがどこにもなかった。家に忘れたらしい。
そういえば、財布も無かった。俺は何をしに来たのだろうか。
古株はナイフを振りながらじりじりと距離を縮めてくる。逃げた所で追いつかれるだろう。
「獣愚の時は何とかなったし、やるか」
俺は拳に、息を吹きかけると自分に期待をこめて古株に突っ込もうとした……が、俺の突撃は別の声によって止められた。
「……それっ!!」
その聞き覚えのある声の後、古株の体の周りが薄水色に光だし、キンと高い音が辺りに響いた。古株を見ると、厚い氷の中に下半身を閉じ込められていた。
「フィーユ!」
「は、春馬さんっ、これは」
その声の主はフィーユだった。
「えっと、その内説明する。それより、これ魔法か」
「はい。まぁ、体の周りに氷を作っただけですけど。その内溶けますよ」
それから数秒程古株は狂気的とも言える程にジタバタと暴れていたが突然動きをピタリと止め、ガクリとうなだれた。
確認すると気絶したようだった。
「春馬さん、お財布忘れたでしょ。届けに来たんです。意外と抜けてるところあるんですねぇ」
お前に言われたくは無いとは思ったが、そのおかげで助かった。素直にお礼を言っておいた。
「へぇ〜凄いのねぇ」
古株をどうしようか考えていると後ろから声がした。
振り返ると見知らぬ女性が立っていた。長い黒髪を下の方でまとめている。スタイル抜群で背も女性としては長身だろう。ただでさえ突き出た胸をさらに主張するかのような胸元の開いた服を着て胸の下で腕を組んでいる。
「まるで魔法……ね。面白いわ」
い、一般人に魔法を見られてしまった。何とか誤魔化さないと!
「いや、凄いでしょう。このマジック。はは、あはは」
「そっちの子がやったのかしら」
そう言ってフィーユに近づいた。
「……ま、いいわ。こんな道端で大掛かりなものの練習したら駄目よ」
「い、以後気を付けます」
「じゃあね。春馬クン」
「えっ? あ、ちょっと!」
俺の制止も聞かずにその女は行ってしまった。何故、俺の名前を知っているのだろうか。
側に立つフィーユはぽかんとしていた。
「春馬さん、知り合いですか」
「いや、あんな人は知らないと思うけど」
フィーユが訪ねてくる。記憶を探ってみたが、やはりあんな人の記憶は無かった。もっとも、ただ忘れているだけかもしれないが。
「……春馬さんもやっぱり、ああいう人が好みですか」
フィーユがほんのりと顔を赤くしながら聞いてくる。
「……?」
「いや、だから……その、胸……とか」
突然の発言に思わず吹き出しそうになる。
「んー、ま、そうだな」
とりあえず、適当にあしらっておく。だが、一応本音だ。
確かに、フィーユには凹凸が無いと思う。貧乳だ。たが、それを気にしつつも今も最初に会ったときと同じ、ぴっちりの服だ。
洗っているとき以外は基本的にあの服装だが余計にスタイルが強調されるのに何故わざわざ着るのだろうか。
確か、プロッセータの魔法使いの正装だったか。
「お、おいフィーユ?」
見るとフィーユは膨れっ面でさっさと家に向かって歩き出していた。途中、振り返ってあかんべえをされた。
……まだ、財布受け取ってないんですけど。
フィーユを呼び止めようとした時、古株が地面に現れた黒い渦に飲まれているのに気がついた。
唖然と見つめていると、古株が渦に飲まれきる直前にカッと目を見開いて俺の顔をじっと見つめた。
しかし、そのまま渦に飲まれその渦も消えてしまった。まだ、古株の脅威が去った訳ではなさそうだと直感した。
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