クリスマス
クリスマスイブは土曜日だった。伊刈は東京湾を見下ろす小高い山の頂上にある風変わりなイタリアンレストラン・ボローニャに大西敦子を誘った。犬咬からは海岸通りを走り続けて三時間のドライブだった。観光地には寄らずに二人水入らずのランチを食べるだけの計画だった。この店を覚えたのは十年前、地元に住んでいる県庁の同僚からだった。その時は漁船を山の頂上まで持ち上げて客室に改装したのが話題の店だったが、今はもうその漁船は朽ちてしまった。それでもママの魅力と料理の味で常連客がついていた。
東京湾から太平洋へと抜ける峠道の途中に「ボローニャは右」という小さな看板があった。案内に従って山道に折れるといきなり幅員二メートルの曲がりくねった尾根沿いの道になった。もちろん対向車が来たらすれ違えない。待避場所もないので長距離のバック覚悟の道だった。小さなT字路がいくつか続き、その都度「ボローニャはこっち」という手作りの案内看板があった。まるで童話の中で小人が経営しているレストランみたいだと大西ははしゃいでいた。最後に急な坂道を登りきると山の頂上に出た。崖際に車輪止めの丸太を置いただけの駐車場にはクリスマスだというのに先客はなかった。
ボローニャはママが一人でやっているレストランだった。食材は全部自家製というのが自慢だったが、ハーブガーデンというのは店の周囲の小さな野菜畑のことだった。手作りの生ハムとソーセージも自慢の一つだが、燻製機は駐車場の済にある錆びたドラム缶だった。下ごしらえをした肉をドラム缶の中に吊るして下から薪でいぶすのだ。朽ちた漁船の脇に古材で建てた物置のような店舗があった。細長い客室は軒を伸ばして窓を貼り付けたもので、まるで昔の農家によくあった鶏小屋だった。テーブルは三つしかなく、この日のランチタイムは結果的に伊刈と大西の貸切りだった。大西はボローニャという店名による期待を大きく裏切られる状況に絶句していた。だけどママは相変わらず美人だった。四十代後半になるだろうが色あせない気品があった。伊刈たちをがたつく扉の中で出迎え大西を品定めするように一瞥した。ママは注文を取るでもなく自分も客席に座り込んで世間話を始めた。伊刈も気さくに応じた。たちまち猫が膝に乗り犬が足元に寝そべった。どっちも丸々太っていた。ママの話題は豊富で大西も飽きなかった。しかしいつ注文を取るのかだんだん不安になってきた。
「そうだ料理を作らないとね」大西の不安を感じ取ったようにママが言った時には来店から三十分以上過ぎていた。ママ一人の店なのだからママが話し込んでしまったら料理を作る者はいなかった。
「料理はお任せしますよ。嫌いなものはないですから」
「ワインは飲まれますか」
「彼女は飲みますよ」
「わかったわ。でも一応お連れの女性にはメニューをお見せするわね」ママは大西に手書きのメニューを渡すとキッチンに引き上げた。そのまま大西の注文を聞きに来る様子はなかった。
「変った店ね。食べ終わるのに三時間かかるって言ってたけど、料理を作らないからなのね」
「一人でやってるんだから話し始めたら作れない」
「料理の腕は大丈夫なの」
「ママ曰くスパゲッティは麺を茹でてソースとからめるだけ。日本でいえば丼めしだって」
「それはそうかもしれないけど」
「あらかじめ言っておくけど、ここのパスタはどこのスーパーでも売っている国産の乾麺だよ」
「自家製生パスタとかじゃないんだ」
「ママはね、大手パスタメーカーのマイフレンドスパゲッティの創業者社長の愛人だったんだって。だからそこのメーカーのしか使わない」
「ほんとなの」
「最初に来たときは漁船の前でご満悦の社長の新聞記事が飾ってあったよ」
「なるほどね。で、その社長は」
「この山よりもずっと高いところに引っ越した」
「そっか」
「がっかりした?」
「ううんかまわないけど。でも全部自家製食材のお店だっていうから生パスタなのかと思ってただけよ」
「自分の会社のだから自家製だろう」
「それもそうね」
「第一生パスタなんて饂飩みたいで食べられたものじゃないよ。アルデンテが好きなイタリア人に生パスタはありえない」
その時二人の足元で何かが動いた。大西が驚いてテーブルの下を覗き込むと鶏が卵を産むところだった。
「よかった、これでおいしいカルボナーラが食べられそうだ」
「ここって保健所の検査は大丈夫なの?」大西は伊刈のジョークが聞こえなかったのか目を丸くして立ち上がり鶏に席を譲った。
スパゲッティが茹で上がる間、ママはエスプレッソを振舞ってくれた。舌がしびれるほど苦い本格的なイタリアンローストだった。それを美味しそうに伊刈が飲むのを大西は不思議そうに眺めていた。
「よくこんな苦いの飲めるね」
「苦いの嫌いだっけ」
「ビール以外はだめ」
「慣れると甘みが感じられるようになる」
「嘘でしょう」
「コーヒーのよしあしは甘みでわかる。最初は苦くても最後に甘さが残るコーヒーがいいよ」
「なんでも詳しいね」
「銘柄なんてよくわからないけど自分の舌を信じてじっくりと味わうだけ」
「ワインとコーヒーどっちが好き?」
「コーヒーの香りは一瞬ではかないのが残念だね。ワインのほうが香りは長持ちする」
「どっちも好きってことね」
「正解」
「みんなが伊刈さんに騙されてる秘密がわかった気がしたわ」
「なに?」
「どんなことでも自分の言葉で説明する。そうでしょう」
「不法投棄はまだ説明できてないかな」イタリアンローストの苦味を舌先に転がしながら伊刈は山の頂でトンビが旋回するのを見上げた。トンビなら不法投棄現場をどんな狩場にするだろうかとふと思った。
産廃水滸伝 ~産廃Gメン伝説~ 5 透明人間 石渡正佳 @i-method
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