単独行動

 東部環境事務所に三度目の夜パトが巡ってきた。今回は伊刈、遠鐘、喜多の三人のシフトで、長嶋はNGになった。

 「班長どこから行きますか」Xトレールのハンドルを握った喜多が伊刈を見た。

 「行司岬へ向かって」

 「漁港の駐車場を見張るんですね」

 「そうじゃない。灯台の喫茶店がやっているうちにコーヒーを飲もうかと思って」

 「え、いきなりさぼりですか」

 「夜は長いよ。チームゼロは八時間二交替シフトだけど事務所は朝まで一班なんだから息抜きしながらやろう。長嶋さんはまじめだからさぼるのムリだけど今夜は職員だけだからね」

 「班長なんか開き直りましたね。灯台の喫茶店って美味しいんですか」遠鐘が言った。

 「はっきりいってコーヒーはだめだけど一応あそこからなら漁港を見張れるかなと思って」

 「深夜営業だったらよかったですね」喜多が言った

 海の観光はオフシーズンとあってヴィスタマーレは開店休業状態だった。三人は張り込みに好都合な窓際の席に陣取った。目のいい喜多が漁港を見下ろすベストポジションに座り、伊刈は逆に灯台を見上げる位置に座った。遠鐘は張り込みには関心がない様子で、メニューを最初から最後まで点検し結局バナナジュースを注文した。男も三人寄れば一人くらいジュースを頼むやつがいるものだと伊刈は内心おかしかった。遠鐘のキャラにバナナジュースは不思議と似合っていた。

 「今夜は本課からの指示はなしですか」喜多が漁港の様子を気にしながら尋ねた。

 「さあわからない」伊刈はどうでもいいように応えながらコーヒーの香りを確かめていた。

 「わからないってどういうことですか」喜多がまじめに聞き直した。

 「本課から連絡がないんだ。今夜回ってるメンバーもわからない」

 「連携しないんですか」

 「教えてもらえないんだ。本課の夜パトはこれからは勝手に回るんだってさ。予定もわからないし結果もわからない」

 「それってひどくないですか。そんなんで技監は平気なんですか」

 「もちろん文句を言ったそうだよ。そしたらなんて言われたと思う」

 「なんですか」

 「夜パトの予定は事務所には秘密だとはっきり言われたって」

 「それってつまり事務所から情報が漏れるからとかって意味ですか」喜多の指摘は鋭かった。伊刈もそうだと思っていた。

 「チームゼロのパト車の動きが読まれてたってことで相当神経質になってるみたいだ。事務所の今夜の予定は伝えてある。仁義だからな」

 「それで応答なしですか」喜多はまだ納得できない様子だった

 「本課が好きにするならこっちも好きにやればいいじゃん」伊刈は飲み残したコーヒーをカップの底で転がしながら喜多に目で笑いかけた。

 「もしかして班長、もう夜パトやる気なかったり」遠鐘がバナナジュースを飲みながらもぐもぐと言った。鋭い指摘に伊刈はぎくりとした。

 「夜パトも二か月たってだいぶ様子が変わったみたいじゃないか。最初のうちはは夜回ってないと思ってるダンプの掴み取りだったけどね」

 「掴み取りっていうより鰯の大群を追い回すイルカでしたね」遠鐘がうまいたとえをした。

 「だけど今はもう違ったよ。穴屋にいいようにあしらわれてる。連中も見張りを立ててて夜パト車が近付く前に逃げちゃうらしいんだ。見張りは市庁舎の車庫の前にも居るって聞いたよ」

 「すごいですね。そこまでやるんですか」遠鐘が他人事のように言った。

 「ほんとにスパイ映画みたいなことあるんですね」喜多が言った。

 「せいぜいヤクザ映画だよ喜多さん。いやほんとのヤクザだったか」

 「事務所のXトレールも見張られてるかも」伊刈が二人の顔色を見比べながら言った。

 「ほんとですか」喜多が眼下の漁港の様子を気にしながら言った。

 「チームゼロは八時間交替だから引き継ぎをやるだろう。その引継ぎ場所に事務所の駐車場が使われてたろう。それがばれてたらしい。それで今は引継ぎ時間も引き継ぎ場所も毎晩変えてるらしいよ」

 「チームゼロも大変なんですね。だから事務所に寄らなくなったんですね」遠鐘が言った。

 「だからってパトロールの予定まで内緒にするのはちょっとどうかと思いますよ。事務所まで信用しないなんて絶対おかしいですよ」喜多はどうしても本課のやり方が納得できない様子だった。

 「あっダンプです」喜多が海岸通りを走行しているダンプを発見した。「二台つるんでますよ」

 「どっちへ行くと思う?」伊刈が聞いた。

 「まだこの時間だったら、やっぱり漁港の駐車場でいったん待機じゃないですか」

 「いくぞ」伊刈が伝票をつかんで立ち上がったので二人も後に続いた。三人はXトレールに乗り込み崖際からダンプの走行する方向を見定めた。喜多の予想に反してダンプが国道を直進するのが見えた。

 「どうしますか」喜多が伊刈の指示を仰いだ。

 「追跡開始」

 「了解です」Xトレールはフルスロットルで坂道を降りた。国道とのT字路の右手に登坂中のダンプのテールランプが見えた。

 「誘導車はいないみたいでしたね」喜多が言った。

 「無線も使っていないようです」ハンディレシーバーを操作しながら遠鐘が言った。

 「あれっ路肩に止まりましたね」

 「そのままやりすごして」伊刈の指示で喜多はダンプを追い越した。

 「後ろのダンプだけナンバー見えました。3310でした」遠鐘が言った。「あのダンプ常習ですよ」

 「班長ダンプがUターンします。尾行に気付いたのかな」

 「ばれてもともと。こっちもUターンだ」伊刈は喜多に指示した。ダンプは登ったばかりの坂道を降りて海岸通りに戻り、そこから細い県道に折れた。

 「ずいぶん用心深くなったな。誘導車もいないし無線も使わないか」伊刈が感心したように言った。

 「毎晩夜パトに追い回され続けてれば、これくらい用心するのは当然の学習ですよ」遠鐘が言った。

 「坂道の途中で細い林道に折れました。この先は細い林道で尾行は難しいです」喜多が言った。

 「林道の出口に先回りしたらどう」

 「いい作戦だ。それで行こう」伊刈が遠鐘の提案に頷いた。

 Xトレールはダンプが進入した林道の反対側へと向かった。ダンプはヘッドライトを消して最徐行で進んでいた。林道を通過する時間は五分だ。ぎりぎりのタイミングでなんとか林道の出口に先着した。

 「ダンプいませんね」喜多が言った。

 「いまに出てくるよ」伊刈が答えた。三人は林道の出口に目を凝らした。十分待ったがダンプは姿を現さなかった。

 「ダンプ消えましたね」喜多が言った。

 「林道の途中にいるんだと思います。二台ですからUターンはムリです」遠鐘が応じた。

 「持久戦だな。このダンプは絶対に捕まえような」伊刈が二人を鼓舞した。

 Xトレールを林の中に隠してしばらく待っていると別方向からヘッドライトが近付いてくるのが見えた。やがて黒い軽が目前をフルスピードで通過した。

 「アルトだ。アランの誘導車ですよ」

 「追ってみるか」伊刈に指示されるまでもなく喜多はXトレールを茂みから農道に出した。

 「あっ戻ってきました」アルトがフルスピードでUターンしてきた。喜多はギリギリのタイミングでXトレールを路肩の茂みに寄せて衝突を回避するのが精一杯だった。路面から片輪が逸れて車体が大きく傾いた。

 「すいませんガーターしちゃいました」喜多が運転ミスをわびた。

 「いやナイスウェスト。それより顔見たか」伊刈が喜多を見た。

 「ええ」

 「僕も見た。あれがアランか」ヘッドライトに照らされてアルトのフロントで輝いた二つの眼を思い出しながら伊刈が言った。

 「どこに行こうとしてたんでしょうか」

 「この先のJRのトンネル脇の現場を開けるんじゃないですか。しばらく活動してなかったし案外穴場だと思います」遠鐘が喜多の疑問に答えた。

 「どんな様子か確認してみよう」伊刈の指示で喜多はXトレールの体勢を立て直した。車体が左右に大きく揺れた。四駆でなかったら確実にスタックしているところだった。

 JR琴山トンネルの手前で行き止まりになる林道の左右は自社処分場がいくつも並ぶ産廃銀座だった。もともとは大きなゴルフ場ができるはずで用地買収が進められていたのだが、バブルが崩壊して開発計画が放棄され虫食い状態に地上げされた山林が産廃ブローカーに狙われたのだ。深い谷津に向かって林道がまっすぐに切れ込んでいた。谷津の底はもとは田んぼだったのだろうが今は荒れはてた藪野になっていた。冷たく暗い谷津の対岸に小高い丘が盛り上がっていた。その直下にJRの琴山トンネルがあるはずだった。喜多がXトレールを林道の奥へと進めると左右に次々とトタン塀で囲われたミニ処分場が現れた。

 「ここはハリマですね。里見工業に自社処分場跡地を承継させたスクラップ屋ですよ。こっちにもあるんですね」遠鐘が自社処分場の一つを見ながら言った。

 「ちょっと中を見てきます」喜多が車を停めるや、遠鐘は懐中電灯を手にして車を飛び出して門扉に近付き、ひらりと身をかわして場内に消えた。

 「あいつ、まるで忍者だな」伊刈が遠鐘の背中を見送りながら言った。

 ハリマの処分場に入った遠鐘は穴に落ちないように用心しながらざっくりと場内を点検した。闇の中にまだ埋め終わらない穴が口を開け、周囲にはダンプからこぼれた自動車のシュレッダーダストが散らかっていた。だが新しいものではなかった。最近活動した形跡はないようでタイヤ痕もなかった。今夜ここは動きそうにないなと思った。遠鐘がハリマを調査している間、伊刈は道路の反対側の処分場の調査にでかけた。資材置き場のような空き地に廃材が散らかっていたが不法投棄現場とまでは断定できなかった。

 「ハリマは少なくとも半年は動いてません」車に戻った遠鐘が報告した。

 「どうしてわかるの」伊刈が尋ねた。

 「穴の崩れ方とか草の生え方とかいろいろです」

 「奥にも捨て場があるんだろう」

 「ええ林道の行き止まりに大きな捨て場があります。ヤマジが逮捕された現場です」遠鐘が答えた。

 「倅が六甲建材で殴られたヤマジかい」

 「そうです。まだ収監中ですから、たぶんそこは動かないでしょう」

 「一応調べてみよう」

 ヤマジの捨て場は谷津の一番下にあった。JRの線路に沿うように数万トンの産廃が積まれた現場だった。三人は車を降りて散り散りに懐中電灯をかざしながらヤマジが積上げた産廃の山を登った。傾斜はなだらだが廃棄物を乱雑に投棄しただけの現場は足元が悪く夜目には歩きにくかった。線路側は境界ぎりぎりまで廃棄物が積まれていて十五メートルを超える崖になっていた。傾斜も急でガラを蹴飛ばしたら枕木を並べた柵を越えて線路まで転がっていきそうだった。左手には琴山トンネルの出口が見えた。右手に行けばすぐに倉本駅だった。

 「かなり大きな捨て場だけどヤマジってどんな会社なの」伊刈が喜多を見た。

 「オーナーは庄野という女です。もともとは大きな材木問屋の一人娘だったそうで山持ちなんですよ。逮捕された西は庄野とは内縁関係で六甲建材に殴られたのは西の連れ子だそうです」

 「会社の名義は庄野じゃなく庄野の娘です」遠鐘が補足した。

 「複雑なんだな。庄野か娘がもしかして夜の女王だったってことはないのかな?」伊刈が二人を交互に見ながら言った。

 「庄野は年恰好が全然違いますよ。それから長嶋さんの話だと庄野の娘は普通のOLだそうですよ。社長は名義貸しみたいなもので不法投棄には関与していないんだそうです。どっちも女王じゃないと思います」喜多が言った。

 「そんなのわかんないよ」

 「それはそうですけど」

 「班長、車両です。たぶんアランの軽です」遠鐘の声に振り返るとXトレールを停めた場所の近くまで来た軽がUターンするのが見えた。

 「やっぱりここを動かすつもりなんでしょうか」喜多が言った。

 「今日はここに居続けよう。アランがうろちょろしてるってことは嵐山が動くのかもしれない」

 Xトレールを林道の入口の目立つ場所に停めて固定監視を始めるとアランのアルトが何度も様子を見に来てはUターンしていった。五分と辛抱できない。気短かな伊刈もあきれるほどだった。

 「追い散らしてみるか」短気ではひけをとらない伊刈がアルトの追跡を指示した。喜多がエンジンをふかしてアルトを追った。パワーでは勝るXトレールだったが、アランのドラテクは尋常ではなかった。それでもなんとか国道まで追い散らした。

 「いったん琴山トンネルに戻ろう」伊刈が追跡を中止するまでもなく国道にはすでにアルトのテールは見えなかった。逃げ足は天下一品だった。

 「ダンプは林道から出て来ませんね。いっそこっちから林道に入ってみませんか」喜多が伊刈の気持ちを察したように提案した。

 「道路にダンプが停まっているだけじゃ、見つけたとしても指導にならない。動くのを待つしかないよ」

 「じゃずっとここにいるんですね」喜多は伊刈を見た。

 「このままじゃ膠着状態だな。現場をあけて油断させてみようか」

 「その間どこに行きますか」

 「いつものファミレスで夜食はどう」

 「いいですねえ」遠鐘がすぐに同意した。

 「いいんですか本課に無断で持ち場を離れて」喜多はちょっと不満そうだった。

 「さっきも言ったけど本課は二交代なのにこっちは朝までなんだ。適当に休憩しないと持たないよ」

 「わかりました。腹ごしらえですね」気がはやっている喜多にとっては拍子抜けのするブレークタイムだったが、伊刈にすっかり心酔しているので逆らわなかった。

 三人は現場を離れて早めの夜食をとることにした。二十四時間営業のファミレスは田舎の夜のオアシスだ。客は四分の入りだが朝まで粘る客もいる。捨て場の関係者も立ち寄る可能性があったので周囲のテーブルの様子に気を配りながらテーブルを選びドリンクバーから持ってきた思い思いの飲み物をテーブルに並べた。食事の味には期待していない。最初からドリンクバーが目当てだ。

 「現場を離れちゃってほんとにいいんですか。長嶋さんなら現場にずっと居続けたんじゃないですか」喜多が不安そうに言った。

 「ここにいる間に不法投棄されたらって思ってる?」伊刈は二杯目のラテを飲みながら答えた。出がらしみたいなコーヒーだがラテなら飲めた。

 「ええそうです」

 「確かに現場の前に居続ければその現場は不法投棄できない。それは長嶋さんの言うとおりだ。だけど嵐山は複数の現場を同時に開いて夜パトを撹乱してるんだ。チームゼロのパト車が何台かちゃんとわかっててそれよりも多い数の現場と逆監視車を揃えてる。それにね、たとえ今夜はうまく阻止できたとしてもうちは明日の夜は回れないんだ。しかも本課は事務所と連携するつもりがない。だったらうちは一晩で成果を挙げる方法を考えないとね」

 「夜パトさえ始めればうまくいくと思ったのにそんなにうまくいかないものですね。」

 「どっちみちダンプは毎晩百台も集まるんだ。チームゼロのパト車三台じゃ相手が本気になったらムリだよ。チームゼロをたとえ倍増したってムリだろうな。そうは10トン屋が降ろさないだよな」遠鐘はのん気な冗談を言いながらリンゴジュースを音をたてて吸った。

 「喜多さん、こんなところで聞くのもへんだけど例の計算どう」伊刈が話題を振った。

 「穴屋の損益計算書ですか」

 「うん」

 「だいたいできてます」

 「それちょっと教えて」

 「そうですねえ」喜多は周囲を見回した。「売り上げは簡単です。ダンプ一台二万五千円とすれば一万台なら二億五千万円です。一台三十立米とすれば三十万立米の現場ですからだいたい六甲建材くらいの規模です」

 「なるほど」伊刈は頷いた。「費用のほうはどう」

 「ここら辺の山林は一ヘクタールで二千万円ってところだと思います」

 「へえどうやって調べたの」

 「実は父から聞いたんです。犬咬の山林ならそれくらいだろうって」

 「いいねえ、やっぱりお父さんはプロだな」

 「作業員の日当が一人二万円として十人で二十万円、二百日だと四千万円です。あとユンボのリース料とか鉄板のリース料とかがあります。これを一日十万円とすれば二百日で二千万円です」

 「ここまでで八千万か。後は」

 「それで終わりです」

 「上部組織のピンハネがあるだろう」

 「それわかりませんから」

 「ピンハネは五千円だよ。ただし一人じゃない。地元のヤクザ、上部組織、仲介ブローカーにそれぞれ五千円だろうな」

 「それじゃ売り上げの半分がピンハネですね」

 「ヤクザってのは半分は上が跳ねるんだよ。これで収支が出るだろう」

 「売り上げが二億五千万円、ピンハネが一億五千万円、経費が八千万円として、穴屋の手取りは二千万円です。意外と儲からないですね」

 「一現場で二千万円、しかも税金がかからないから丸儲けだよな。悪くないだろう」

 「そうですが何億円も儲かるのかと思ってました」

 「十現場やれば二億円じゃないか」遠鐘が言った。

 「なんかおかしいですよね。法律を守らず不法投棄やってるやつがベンツに乗ったりフェラーリに乗ったりしてるのに法律を守らせてるこっちはそんな車一生乗れないって」

 「喜多さんは乗れるよ。だって税理士になるんだろう」遠鐘が皮肉ではなさそうに言った。

 「うちの親父みたいな中小企業専門の税理士じゃやっとクラウンかな」

 「それでも市にいるよりはいいと思うよ。早く税理士になりなよ」遠鐘が無責任にはやした。

 「そのつもりですが今は産廃が面白いですから」

 「もしかしてミイラ取りがミイラになっちゃったかな。なんか喜多さん変わったね」

 その時伊刈の携帯が鳴動した。

 「嵐山の居場所がわかりました」安警の蒲郡部長からの通報だった。

 「どこですか」

 「ミレナリオってパチンコ店の駐車場です。今どちらですか」

 「椿海市内の国道です」

 「じゃ近いですね。こられますか」

 「嵐山を見たんですか」

 「アランの黒いアルトと別の赤いミラが路上で何やら情報交換をしていました。そこでミラを追跡したところこの駐車場に入ったんです。嵐山の女の車のようです。女に運転させて助手席で指揮しているに違いありません」

 「嵐山がミラに乗ってるんですか」

 「そこまでははっきり見えません」

 伊刈は二人を見た。「嵐山の女の軽がパチンコ屋の駐車場にいるってさ。森井町でも見かけたことがある赤いミラだろう」

 「行きましょう」喜多がキーをつかんで立ち上がりかけた。

 「待って。今から行ってもどうせもうそこにはいやしない。しばらく様子を見よう」伊刈は動かなかった。

 「嵐山の女の動きはどうですか」伊刈がまた携帯の通話に戻った。

 「今動きました」

 「追跡してみてください」

 「わかりました」

 蒲郡が追跡しているのを知ってか知らずか、ミラはショッピングモールの交差点を右折し新築の民家に入っていった。

 「女の家を確認しました。どうしますか」蒲郡部長が伊刈に連絡した。

 「蒲郡さんどうしてチームゼロに連絡されないんですか」

 「あちらさんは勝手に回るんだそうです。居場所を教えてくれないんですよ」

 「なるほどそういうことですか。またミラが動き出さないか一時間後にまた見てください」

 「わかりました」

 通話を終えた伊刈は二人を見た。「嵐山の女が家に戻ったそうだよ」

 「嵐山のヤサがわかったんですね」遠鐘が言った。

 「嵐山と女が家に帰ったんじゃもう今夜の活動はないですかね」喜多が言った。

 「女の車が家に帰っただけだ。嵐山が乗ってたって確証はない。安警の尾行にだって気付いてるはずだよ。アランがうろうろしてる以上今夜は何かやると思う。女の車を家に帰したのはこっちの目をそらせるための偽装かもな。これまでも夜パトの裏をかいてきた透明人間のことだから油断ならない」

 「そろそろ現場に戻りませんか」喜多が伊刈を見た。

 「そうだな。ちょうど琴山トンネルが動く頃合だ」伊刈が時計を見ると、ちょうど午前零時だった。

 「行きましょう」喜多が先頭に立って駐車場に向かった。

 琴山の林道に戻ると驚いたことに深ダンプが何台か数珠繋ぎに駐車していた。

 「ドライバーが逃げます」喜多が叫んで車から飛び出した。一斉に藪の中に駆け込む男たちの後姿が見えた。喜多の足では追いつけそうになかった。

 「ダンプほんとに出てきましたね。さすがだなあ。まさにウナギ漁ですね」遠鐘は逃げるドライバーたちを追いかけようともせず手放しで感心した。確かにダンプを油断させる伊刈の作戦は図星だった。

 「ドライバーに逃げられちゃいました」喜多ががっかりして戻ってきた。

 「逃げてもらってよかったんじゃないか」伊刈は余裕の表情だった。

 「どうしてですか」喜多が意外そうな顔で伊刈を見た。

 「上手に逃がしてやるのがプロの警備だって安警の蒲郡さんが言ってたでしょう」

 「どういう意味ですか」

 「刃向かわれたら危険、逃げてくれたほうが安全だろう」

 「だから安心警備ってわけじゃないですよね」遠鐘が冗談を言ったが喜多には聞こえていないようだった。今日の喜多はやけに興奮していた。

 「ダンプがあるんだからそのうち戻ってくるよ」伊刈が喜多をなだめた。

 「それに藪の向こうは線路とトンネルですから逃げようがありません。トンネルの上にもJRの境界の柵がありますからね」遠鐘が言いそえた。

 「どうせどっかからこっちを見張ってるだろうからしばらくここにいようか。とりあえずダンプを調べちゃおう」

 三人で分担してダンプの調査を開始した。ダンプは全部で六台だった。一台ずつナンバーがテンプラ(偽造)かどうかを調べ荷台に上って積荷を検査した。ドアはロックされていなかったが警察ではないので車内に入ってまで調べるのは控え、窓から懐中電灯で照らして誰か隠れていないかだけ確認した。そこに安心警備車が到着した。

 「ほうダンプ入ってますね、さすがだなあ。どうしてここに目をつけたんですか」車を降り立った蒲郡部長が感心したように言った。

 「班長が女のミラがわざと家に引き上げたのは囮だろうって。それで手にのったふりをして油断させたんです」喜多が説明した。ファミレスに居たとは言わなかった。

 「なるほどねえ。伊刈さんに本課のチームゼロを指揮してもらいたかったですなあ」

 「そんな話をしたって意味ないよ。僕は本課より環境事務所でよかったと思ってるよ」伊刈がすかさず自重した。

 「ドライバーは向こうへ逃げたんですね」蒲郡部長はドライバーが潜んだ藪を睨みつけた。「この藪は地元の者でも抜けられませんね。乾いているように見えますが足元は湿地でドロドロですからきっと難渋してますよ。丘に登ったとしてもトンネルの上にはJRの敷地を囲った柵があるんで、それを越えないと県道には出られない。たぶんどこかでこっちを見張ってますね」

 「蒲郡部長と遠鐘さんは全く同意見てわけだ」喜多がちょっと妬いたように言った。

 「連中が諦めて出てくるまでしばらくここに居座りましょうか」蒲郡が伊刈を見た。

 「安警はアランを牽制してください。こっちはヤマジの現場に動きがないか見てきます」

 「わかりました。アランの動きを封じましょう」

 ダンプが道をふさいでしまったので伊刈たちは徒歩でヤマジの現場に向かった。

 「この塀新しくないですか」坂道を降りる途中喜多が右手のトタン塀に気付いた。

 「さっきは車で降りたんで気にしなかったけど確かに以前あった塀とは違いますね。新しい処分場かもしれませんね」遠鐘が答えた。

 「入口が見当たりません」喜多が言った。

 「裏側の林道から進入するんじゃないか」伊刈が言った。

 「ちょっと中を見てみます」身軽な遠鐘が塀に手をかけて伸び上がった。「わお」塀にぶらさがったまま遠鐘が固まった。

 「どうした?」伊刈が遠鐘を見上げた。

 「すごいことになってます。塀際ぎりぎりまで穴が掘られてますよ」

 「これ見てください」一番端の鉄板が外せるように細工されているのに喜多が気付いた。場内を覗くと遠鐘が報告したとおり塀ぎりぎりまで大穴が掘られていた。夜目ではっきりしないが懐中電灯の光が届く限界の深さだった。

 「すごい穴だな。二十メートルはある」伊刈が言った。

 「危ないですよ、近付きすぎるとヤマ(崩落)が来ますよ」遠鐘が伊刈に警告した。

 「もしかしてヤマジの捨て場じゃなく、この穴を動かそうとしたのかな」伊刈が遠鐘を振り返った。

 「入口はやっぱり反対側ですね」喜多が穴の対岸に懐中電灯を向けるとうっすらと門扉が浮かび上がった」

 「いったんダンプをこっちの林道に隠しておいて後で誘導するつもりだったのかな」遠鐘が言った。

 「どうしますか」喜多が伊刈を見た。

 「もう一回現場を離れてまた夜明けに戻ってこよう」

 「えっダンプをノーマークにしてですか」喜多が信じられないといった顔で伊刈を見返した。

 「逃げちゃった運転手も明るくなれば里心がつくだろう」

 「里心って」

 「家に帰りたくなるって意味だよ」

 「このままダンプを見張ってた方がよくないですか」

 「いや現場にいたら出てこないからね」今夜の伊刈の作戦はいつもと違っていた。最初からコーヒーブレークをとったり長めの夜食をとったりわざと現場を手薄にしたりと相手とまともに戦わない作戦だった。

 「つまりウナギ漁ですね」喜多は意味がわからないながら伊刈の指示には逆らわなかった。

 「さて、どこで暇をつぶそうか。さすがにもうファミレスには戻りたくないし」

 「班長、時間はどれくらいですか」遠鐘が言った。

 「そうだなあ二時間したら戻ってこようか」

 「それだったら管轄外なんですが海城町に嵐山の新しい現場があるそうです。長嶋さんに聞きました」

 「県警が内偵を準備中の現場のことか」

 「ご存知だったんですか」

 「海城町に現場が増えたのもチームゼロ効果だよな。県庁はまだ夜パトやってないからな」

 「場所はわかりますから行ってみましょう」

 「夜の管外ドライブか。それもいいね」

 Xトレールは犬咬市を離れて海城町に入った。しばらくは平坦な田園が続いたが三十分ほど臨界工業地帯に沿った国道を走るとやがて小高い丘に出た。古代には蝦夷討伐の前線基地だったという由緒ある神宮がある丘だった。あろうことかその後背地に嵐山の新しい現場があった。これでは県警が怒るはずだった。現場の周囲は万能長城と呼ばれる鉄板の塀で囲われていた。今夜は動きがないようで三メートルもある門扉はしっかり閉じらていた。塀の際を百メートルほど歩いてみると崖際で塀が切れていた。現場に入ったとたんに十万立方メートルは入りそうな大きな穴がおぼろ月夜の暗がりの中に広がった。

 「確かにこれは嵐山の手口だな。こんな几帳面な埋め方は透明人間しかやらない」伊刈がしっかりと固められた覆土を確かめながら言った。

 「いつの間にこんなになったんでしょう」遠鐘が言った。奥にはまだ谷津が残っていたが、それもあと少しで対岸と一体になりそうだった。

 「夜パトが厳しくなったんで犬咬に来ていたダンプをこっちに振り替えたんだろうな。だけど油断すればまた犬咬に帰ってくるよ」

 「どうして戻ってくるんですか」

 「こっちには適地が少ないよ。やっぱり不法投棄やるなら犬咬が最高だよ。その前にこの現場でパクってくれるといいけどな」

 「ここで内偵が始まったのは同業者からの告訴が発端だそうです」遠鐘が言った。

 「それ聞いてなかった」伊刈が遠鐘を見た。

 「チクったのはここで土採取をやってた冶島工務所の社長だそうです。嵐山が穴を売れって強引に迫って、それを冶島社長が断ったら嵐山が頼んだチンピラにナイフで脅かされ小指を切られたんです。冶島が泣き寝入りせずに傷害事件で告訴したんだそうです」

 「それなら障害罪で嵐山をぱくれないのかな」

 「直接嵐山がやったわけじゃないし土地の名義も嵐山にはしていないそうですよ」

 「誰の名義か聞いたか」

 「例のアランです」

 「ムハンマド・アッラームか」

 「だったらアランをパクればしゃべるんじゃないですか」喜多が言った。

 「ほんとうはもうとっくに嵐山の逮捕状を取れるネタはあるんだけど金が見つからないんだそうですよ」

 「金って?」喜多が遠鐘に聞き返した。

 「これまで嵐山が不法投棄で儲けた金が五億円あるはずなんだそうです」

 「つまり金が見つかればその金をどうやって儲けたのかって追求できるわけですよね。逆に金が見つからないと不法投棄の首謀者ってことにできない」喜多が言った。

 「まあそういうことなんだろうな」伊刈が頷いた。

 「愛人の口座とかはどうなんですか」

 「それは真っ先に調べただろう。愛人の家、ベンツ、ゴルフ会員権、その程度じゃ五億円にはならないだろうなあ」

 「金まで透明ってことですね」遠鐘が言った。

 「不法投棄は現金収入ですからね。そのままキャッシュで持っていたらなかなか見つからないかもしれませんね」喜多が税理士の卵らしい言葉で締めくくった。

 夜明けが近い国道は嘘のように静かで不気味なくらいだった。走行するダンプは一台もなく、ときおり海産物や農産物を積んだセミトレーラーが東京方面に疾走していくだけだった。海岸通りからは太平洋の上空に赤く染まった東雲が広がり始めるのが見えた。

 「もうすぐ夜明けです」喜多が言った。

 「よしそろそろ戻るぞ」ようやく伊刈が号令した。

 伊刈の読みどおりだった。夜明けと同時に現場に戻ってみると藪の中に逃げていたドライバーたちがダンプの脇にたむろしていたのだ。Xトレールを見てももはや誰も疲れきって逃げる気力もなかった。

 「そこを動くな」喜多が叫んだ。運転手たちは無反応だった。あまりのタイミングのよさにずっと見張られていたと思ったようだ。

 「どこの捨て場に入ろうとしてたんだ」伊刈が珍しくドライバーたちを睨みつけながら言った。

 「さあね。ここで待つように言われたんだよ」ドライバーの一人が答えた。「ところであんたら警察かい」

 「市のパトロールだ」

 「そうっすか。ずっと見張ってたんすね。もう帰ったかと思ったのに」

 「ここに入れって誰に言われたんだ」

 「無線で連絡があっただけで誰だか知らんよ」

 「男か女か」

 「男に決まってんだろ。女なんているのかよ」

 「外国人じゃないか?」

 「は?」

 「ここはいくらって聞いた」

 「捨て料のことっすか。それならニイゴ(二万五千円)でしょ」

 「産廃はどこから積んできたんだ」

 「それは勘弁してくださいよ。ここがだめならほかにいい処分場ないすかね」

 「とぼけたこと言うな。積んだところに持って帰れ」

 「そおっすよねえ」バカなことを聞いたと思ったのかドライバーは照れ隠しに頭を掻いた。

 「俺らこれからどうなるんすか」

 「免許書を控えさせてもらう。その後帰っていいよ」

 「ほんとすか。俺ら捕まるかと思った」

 「まだ捨ててないからな」

 「そおっすよね。まだ捨ててないもんな」

 三人で手分けしてダンプの写真を撮影し、免許証で運転手の人定をとり指導票にサインさせた。うなぎ漁作戦は大成功だったが、市職員には逮捕権がないのでせっかく捕まえたダンプもC&R(キャッチ・アンド・リリース)せざるをえなかった。

 「あいつら素直に帰るかな」喜多がダンプのテールを見送りながら言った。

 「この時間からやってる捨て場はないですよ」遠鐘が言った。

 「森井町へ行くぞ」伊刈が行った。

 「今からですか」喜多が尋ねた。「いくらなんでももうやらないんじゃないですか」

 「やられたかどうか確認する」

 「やられてないといいですね」

 「どうかなあ。相手は透明人間だからね」伊刈は悪い予感を感じながら言った。

 残念ながら、伊刈の予感は的中した。

 「班長、増えてます」喜多が森井町坂上の穴を見下ろしながら言った。「それにしてもどうやって覆土してるのかな。とてもユンボは降りられそうにないですよ」

 「いやうまく降ろすんだろうなあ」遠鐘が崖についたユンボの爪跡を見ながら言った。

 「どれくらい入ったんだろう」伊刈は遠鐘を見返した。

 「測ってみないとわかりませんが二十台くらいですね」

 「そんなにか」

 「二百平米の穴が二メートル上がれば四百立米です。深ダンプは一台二十立米ですから」

 「なんで二メートル上がったってわかるんですか?」喜多が遠鐘を見た。

 「地層ですよ。素堀の穴ですから地層が見えてます。それを覚えておけば昨日から何メートル上がったかわかります」

 「遠鐘さんの地質学は役に立つね」伊刈が感心したように言った。

 「喜多さんの会計学ほどじゃないです」

 「そんなことないです」喜多が謙遜した。

 「今夜はいろいろあったけど結果は一勝一敗だったな。相手に不足はないってことかな」伊刈は負け惜しみのように言ったが内心のショックは隠せなかった。

 琴山トンネルの活動は阻止できたが、森井町坂上の穴は動かされてしまった。嵐山は伊刈のチームだけではなく、本課のチームゼロも安警もまんまと出し抜いたのだ。いくら三チームで監視していても連携なくバラバラでは隙をつかれてしまう。嵐山との戦いは今夜も完敗だった。

 「透明人間恐るべしですね」喜多の言葉に伊刈は答えなかった。

 すっかり夜が明けた。無法状態の夜が終わり秩序のある光の世界が戻ってきた。Xトレールは朝のやわらかな光に包まれた海岸通りを事務所に向かった。

 「班長、あれ例のロードスターじゃないですか」喜多が言った。

 「そうかもしれない」

 「珍しくハードトップをつけてますね」

 「ちょっと停めてくれないか」

 Xトレールは海岸通りの路肩の駐車場に停まっているロードスターに近付いた。

 「二人はここで待ってて」伊刈は一人で車を降りてロードスターに近付いた。運転席にいたのは箭内瑤子だった。挨拶もなく助手席の扉を開けて乗り込んできた伊刈を瑤子は見向きもしなかった。

 「出してくれないか。後ろにパト車がいるから」

 「仕事中なんでしょう」

 「帰るところだ」

 瑶子はロードスターを発進させた。Xトレールが後からついてきた。

 「後ろの車どうするの。振り切ったほうがいいかしら」

 「まさか、そのままにしておけよ」

 「わかった」

 「この車どういうことなんだよ」伊刈は瑤子をとがめるように言った。

 「お見込みのとおりよ」

 「本所の捨て場にダンプを誘導してたのか」

 「伊刈さんは甘いわ。本所を箭内に紹介したのは私なのよ。借金を返す起死回生になると言ったら大喜びだったわ」

 「なんであんな連中を知ってる?」

 「話せば長いけど高校出て上京したての一年の間にね、いろいろあったのよ。女は一年で変わるわ」

 「どうして箭内と結婚したんだ」

 「土地があったからよ。男は土地よ、そうでしょう。全部抵当に入っていると知ったときは一生の不覚だと思ったわ。でも負けるわけにはいかない。いろんな人に相談してみて売れない山をお金にするにはゴミが一番だってことがわかったのよ」

 「箭内が逮捕されたあと家屋敷が競売されたみたいだけど金なかったのか。不法投棄で儲けた金はどうしたんだ」

 「儲けは私と本所で折半。箭内にはお小遣いだけだから借金なんて返せるはずがないわ」

 「あの入院も芝居か」

 「流産したのはほんとよ」

 「変わったんだな」

 「いいえ最初に会ったときから私はこうよ。伊刈さんが勝手に想像してた私は私じゃない。がっかりした?」

 「もうゴミはやめろよ」

 「どうせ犬咬じゃムリだからね。伊刈さんがここまでやるとは思わなかった。でも犬咬からはなくせても日本からは絶対になくならないわよ」

 「どんなことでも絶対ってことはない」

 「絶対よ。賭けてもいいわ。ゴミがなくなる日は来ないもの」

 「もしかして本所とまだつながってるのか」

 「もうとっくに切れてるわ。夕べは久しぶりに伊刈さんのお手並み拝見と思って来てみただけよ」

 「どうして夕べ僕が回ってたこと知ってる」

 「みんなばれてるのよ。市がどんなパトをやってるか、今夜のメンバーは誰か」

 「スパイがいるってことか」

 「一つだけいいこと教えてあげるわ。犬咬の不法投棄を仕切ってるのは県外のヤクザよ。そこを締めないかぎりこんなパトロールなんかいくらやったって意味がないわよ」

 「茨城だっていうのか」

 「もっと遠くよ」

 「じゃ栃木か」

 「お達者で。もう会うことはないわね。そろそろ後ろの車に戻ったほうがよくないかな」

 「そうだな」

 ロードスターはゆっくりと停車した。

 「伊刈さん、もう一つ言い忘れた」瑤子はサングラスをかけ直しながら車を降りようとする伊刈を初めて見た。

 「何?」

 「メリークリスマス」

 「あ?」

 「昔みたいにクリスマスディナーに誘って欲しかったわ」ロードスターは急発進し、みるみる車影が遠ざかっていった。

 「どうでした班長。やっぱり箭内の女房が夜の女王ですか」Xトレールに戻った伊刈に喜多が興味津々の様子で聞いた。

 「知らない女だったよ」伊刈は見え透いた嘘をついた。

 「長嶋さんは箭内の女房が女王だって言ってたけど、違うんですか。箭内が逮捕されたあと女王も見かけなくなっていましたし、てっきりそうだと」喜多は伊刈の苦しい心境も知らずにぶしつけな質問を続けた。

 「ロードスターを見たことは長嶋さんには内緒にしておいてくれないか」やっとのことで伊刈が答えた。

 「班長の唯一の欠点は女に甘いことですね」遠鐘がわかったようなことを言った。

 「女にしか聞けない話があるだろう。でもみんなの忠告は聞くよ。これから気をつける。それはそうと二人に相談がある」

 「改まってなんですか」喜多が真顔になった。

 「帰ってから技監と長嶋さんにもちゃんと説明しようと思うけど、うちが夜パトに参加するのは今夜で終わりにしようと思う」

 「どうしてですか? あんなに夜パトやりたがっていたじゃないですか」喜多が信じられないといった顔で聞き返した。

 「どうせうちのチーム四人じゃチームゼロについていけない。夜パトは本課に任せよう」

 「もしかして夜パト以上の何か名案があるんですか」遠鐘が山勘で言った。

 「そんなものないけど、やれることはほかにもあるって気がしてきたからね」

 「僕は班長を信じますよ」遠鐘がきっぱりと言った。喜多はハンドルを操作しながらどう答えていいかわからないように交互に二人に目を泳がせていた。

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