バターコーヒーの夢
めめ
窓際の彼女
母の肩に手をかけ、自分のベッドに戻った。
シーツがまだ温かいから、それほど時間は経っていなかったらしい。
「明日は父さんも一緒に来るから」
再びベッドの上で横になる僕にどう声を掛けたらいいのか、母は分からなかったのだろう。
下手なことを言うよりは、と病室を出て行ってしまった。
───最悪だ。
文字通り、僕が生きてきた中で最も悪い状況だ。
たった今、僕の未来はどす黒い光に覆われてしまったのだ。
「視力は二度と戻らないでしょう。それどころか、失明する可能性もあります」
医師が告げたのは、たったそれだけだった。
部活をどのくらい休まなければならないだろうとか、何日くらい入院するのだろうとか、そんなことを考えていた自分があまりにも滑稽で、笑う気にもなれなかった。
死んでしまいたいとさえ、思えてしまった。
そんな時だった。僕を呼ぶ声がしたのは。
「少年、君はいつ退院するんだい?」
二人部屋だなんて聞いていなかった。
声のする左の方へ顔を向けるが、僕の目に声の主は映らない。
「わからない。ずっとここにいるかもしれないし、すぐに追い出されるかもしれない」
「そうか」
まあいなくなるまで仲良くしてくれと、声の主は言う。
その声からするに、僕より五つか六つくらい上の女性であるらしかった。学校で聞き慣れたそれよりもほんの少し低くて落ち着いている声。だから、多分僕より年上。
僕を少年と呼んでいたから、きっと彼女には僕の姿が見えているのだろう。それなのに自分は彼女を見ることができなかったから、少しだけ腹が立つような、腑に落ちないような、そんな気分だった。
「なあ少年。君はここを出たら何をしてみたい?」
それからも、彼女は僕に声を掛けてきた。
「私はね、将来教師になりたいんだ。ここを出たらたくさん勉強して、大学に行って、色んな試験を受けて。そして学校で働きたい」
決まって、彼女は夢の話ばかりしてきた。
ここを出たら何をしたい。将来は何になりたい。
光も夢も失った僕は馬鹿にされているのだろうか。そんな風に思われたから、僕は彼女の声に応えなかった。
僕は陸上部に所属していて、長距離でそれなりの実績を持っていた。
だからスポーツ推薦で大学へ行く予定だったし、将来はそれに関係する仕事をしたかった。
そう、したかったのだ。
光がなくて、どうして走れるだろう。どうして、他人の走りを指導できるだろう。
僕は、彼女の話を聞くのが心底嫌だった。
それでも、彼女は語るのを止めない。
「少年、私が初めて担当するクラスにはどんな子たちがいると思う? 活発な子たちだろうか。それとも、本が大好きな大人しい子たちだろうか」
「私は、何年生を任されるんだろう。力には自信がないから、六年生なら大変そうだと思わないかい?」
彼女の教師に対する憧れは相当強いようで、彼女が口を開くたびにそんなことを聞かされた。
「死にたがっている僕に将来の話ばかりして、そんなに楽しいのか」
一度だけ、僕は彼女に言葉を返した。
その時彼女がどんな顔をしたのかなんて知る由もないが、不思議なことに悲しそうな表情を浮かべていた気がする。
ただ、この日だけは、彼女の声がぷつりと途絶えた。
彼女の気を害してしまっただろうかと僕は反省した。だが、その必要はなかったらしい。
「なあ少年、窓の外を見てみなよ。中庭の芝生が青々としてきた。夏が来る知らせだね」
翌朝、彼女は病室から見える景色を語り始めた。
こんな僕に嫌がらせをしているのか。それとも、昨日の仕返しのつもりなのか。
僕にとって青いのは病院の中庭の芝生なんかじゃなくて、彼女そのものだった。隣の芝生は青く見える、と言うだろう。僕には見えない景色が、外の世界が、彼女には見えている。それだけで、僕は彼女に劣等感を覚えた。
「今日はよく晴れているよ。文字通り雲一つない快晴だ。お見舞いに来た子どもだろうか。中庭で楽しそうに遊んでいる」
「中庭は水はけが悪いみたいだ。雨が上がってから随分と経っているのに、まだそこら中に水たまりがある」
「この時間になると、必ず中庭を通るおじいさんがいるんだ。おしゃれなハットを被っていて、少し古い黒ぶち眼鏡をかけている。奥さんのお見舞いかもしれないし、おじいさんが通院しているのかもしれない。ただ、帰る時に薬の袋を持っていないから、やっぱりお見舞いだろうね」
僕は、彼女のことが段々憎くなっていた。
今の僕には、もうどうしたって彼女と同じ景色を見ることはできないのだ。
だから、そこに広がる当たり前の世界を、当たり前に見えている彼女のことが憎かった。
いくら窓辺にいるからって、いくらその景色に感動したからって、僕に共感を求めるのは間違っている。
それでも、やっぱり彼女は語るのを止めなくて、僕の毎日は苦痛で満ちていった。
そんな、ある日のことだった。
時計も読めなかったけれど、外が静かだから遅い時間だったと思う。
「少年、私の話にいつも付き合ってくれているお礼に、この世のものとは思えないほど美味いバターコーヒーを飲ませてやろう」
そう言うなり、彼女は僕の手に何かを握らせてきた。
それはどこでも手に入る、ありふれたコーヒーの缶だった。
「人からもらったものを、そう簡単に疑うんじゃないよ」
僕は何がどうしてこうなったのかわからなかったが、期待半分、疑い半分でそれに口を付けた。
それは、この世のものとは思えないほど不味かった。
溶け切らなかったバターがそこら中に散らばっているし、缶に無理やりバターを入れたのだろう、飲み口が不自然に脂ぎっている。
そもそもコーヒーを飲み慣れていないのだから、僕にとってそれは飲むに堪えないものだった。
「どうだい、私の自信作は」
「この世のものとは思えない、という部分は当たっている」
彼女の言葉に返事をしないよう意識していた僕だが、この時ばかりはそうはいかなかった。
「なあ、君の舌がどうしてそれを不味いと感じたか、わかるかい?」
彼女が身を乗り出したのか、隣のベッドが軋む音とともに、少しだけ声が近くなった。
「確かに私は、コーヒーの苦みが残り、バターが溶け切らないように混ぜた。でも、それは苦みとバターの小片が残っただけだろう。では、どうしてそれを不味いと感じたのか。それは簡単だね、危険を回避するためだ。この味がするものは体に良くない、あるいは毒が含まれている。この味がするものは毒を含んでいるわけじゃないが、摂取し過ぎると体に悪影響を及ぼす。それを判断するための手掛かりとして、君は不味さを感じたんだ。なら、どうしてそんなことを判断しなくちゃならないのか。決まっているだろう、君が心の奥底で生きたいと強く願っているからだ。生きたくなければ、毒も何も怖くないからね。……どうだい、君の舌にとってそのバターコーヒーは飲むに堪えないものかもしれないが、口にするだけで自分が生きたいと願っていることを再確認できる代物だ。つまり、生を実感できるというわけだ。こんなに美味いものが、他にあるかい?」
短い沈黙。
「だから、そう簡単に死にたいだなんて口にするもんじゃない。これでも、私は君より年上なんだ。いろんな経験だってしてきた」
声が遠くなった。
彼女も、ベッドで横になることにしたのだろう。
もちろんどんな姿勢なのかと見ることはできなかったけれど、きっと天井を見つめていたはずだ。まだ僕が色も知らない、この部屋の天井を。
そんな彼女が、僕には星を眺める少女のように感じられた。行けるはずもない、手の届くはずもない星をただただ眺めている姿が、色も分からないただ真っ暗な天井を見つめる僕と重なったのだ。
「前に、私は教師になりたいと話しただろう。今の子どもたちは命を軽視し過ぎていると思わないか。馬鹿、みたいに簡単に死ねと言う。何かあればすぐに死にたいと言う。だから私は、子どもたちに命の大切さをもう一度教えてやりたいんだ」
「でも、その夢は私から随分と離れていってしまったらしい」
弱々しいくせに、針金のような声をしていた。
「なあ少年、私は明日の朝にはここを出ていくことになったんだ」
それは、唐突な話だった。
「もうここの世話が必要ない体になったんだ。それで少年、君は目がよくないのだろう? お見舞いの時ご両親の話が聞こえてから、私は君の目になろうと思ったんだが、どうにも上手くいかなかったみたいだ。気を悪くさせたのならすまない。いつかきっとよくなる、だなんて無責任なことを口にするよりはマシだと思っての行動だった」
「君の目は、色を失ってはいるがまだ光はぼんやりと汲み取れるのだろう。だから、いつかまた見えた時のために、私が色を塗ってやりたかったのさ」
それきり、彼女の言葉は途絶えた。
僕は、まだほとんど軽くなっていない缶を、ただただ握っているしかなかった。
次の朝、僕の頭の左から声がすることはなかった。
不思議なことに、僕は少し寂しさを感じていた。
あんなにうるさくて、僕にはないものを持っていて、それでいてどこか見下すような態度の彼女が消えてしまったことが、僕の心に穴を空けていたのだ。
出ていくときに、挨拶くらいしてほしかった。
そしてもう一つ不思議なことに、僕は彼女の姿を一度でもいいから見てみたいと思うようになった。
一度だけでいい。そのときたっぷりと目に焼き付けて、それから今度は僕がちゃんとした美味いバターコーヒーを飲ませてやろうと思った。
それからだった。
角膜のドナーが見つかり、移植に成功した僕は徐々に視力が回復し始めた。
それだけでなく部活にも復帰し、推薦を取り消されずに済んだのだ。
今まで通りの生活に戻るのは思っていたより簡単なことで、僕の日々はあっという間に過ぎていった。
そんな中、術後の定期健診で病院を訪れた時だった。
看護婦の一人に、僕は同じ病室だった彼女のことを尋ねた。
だが、どうしてだろう、看護婦は何かためらうような、そんな表情を見せた。そして、消え入りそうな声で教えてくれた。
彼女は亡くなったのだと。
それも、僕が入院している間のことらしい。
僕は、目の前が真っ暗になった。
色を失っていた頃よりも暗く、黒すら見えなかった。
話によると、彼女は重度の拒食症だったらしい。
初めは年頃の女の子によくあるものだった。それが段々エスカレートしていき、体調が崩れるようになった。そこで何かを口にしようとしたが、遅かったのだ。
本人が口へ運んでも、体がそれを受け入れない。それを繰り返すうち味もわからなくなり、彼女は食べることを避けるようになったという。
もちろん病院としても彼女を放っておけるはずがなく、点滴やチューブでの栄養摂取を試みた。
しかし、それを彼女は拒んだのだ。
私は生かされるのではなく、生きたいのだと言って。
ふざけるな、と僕は思った。
何が命の大切さだ。それを最も軽く見ていたのは、彼女ではないか。
たしかあの夜、彼女は言っていた。もうここの世話が必要ない体になったと。
彼女の入院する理由となった何かしらの病が完治したと思ったのだ。けれどそうではなかった。彼女のことが、もうここでは手に負えなくなったのだ。
あの夜僕に飲ませたバターも、病食で彼女が手を付けなかったものだった。
それから僕は部活を辞め、推薦も辞退し、受験勉強を始めた。
教育学部を目指すと言ったら、両親も友達もそれを受け入れてくれた。
遅くまで勉強するとき眠気覚ましにコーヒーを飲むが、今の僕にとっても、やはりそれは不味かった。
バターコーヒーの夢 めめ @okiname
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