コハルノートへおかえり8

「あやちゃんの名前はあやりからきているって」

 一機が何を伝えようとしているのかさっぱりわからず、あやは目を丸くしながらもうなずいた。

「ええ、母がそう付けたと」

「僕の名前は、一機です」

「ええ、そうですね」

「つまり、機織に必要な道具ということで」

「……はい」

 一機は顔を真っ赤にしながらも、あやを真っ直ぐに見つめている。あやも目をらしてはいけないのだろうと、一機をじっと見つめて待った。

「あやちゃんの綾目を、僕にも織らせてくれないだろうか。一生、死が二人を分かつまで、共に一つのはくを織り上げませんか」

 突然の申し出に、あやはぽかんとして、しばらくしてから自分の目から涙がこぼれていることに気付いた。

「はい……はい」

 答えた瞬間に、一機の姿が消える。あんなに誇りと咲いていた桜も、暖かな陽の光も消え、一人で暗闇にいる。

「一機さん? 一機さん、どこに……」

 言って……思い出す。

「そうだ、一機さんはもういない」

 死んでしまった。共に生きてきた中のほんの何年かにすぎないのに、人生のほとんどを失ってしまったようだ。

「一緒に布帛を織り上げるというのは噓だったんですか?」

 苦しさに身を縮めていると、ふと身体が温かくなった気がした。そして一機の声が聞こえる。

「あやちゃん、僕らは長い長い布帛を織ってきたでしょう」

 そして、あの桜の香りに全身を包み込まれた。ああ、そうだ、この香り……。

 目を覚ますと、孫の紗綾が手を握りしめて泣いていた。胸元にハンカチが置かれていて、香りはそこからしているようだ。

 そうだった。私たちが織ってきたものはたくさんあって、今でも私を支えてくれている。

「……紗綾ちゃん……泣いているの?」

「おばあちゃん! よかった」

 その手の力強さから、じんわりと温かさが広がっていく。

 とても幸せな時を紡いできた。だけど、今もその幸せは傍らにある。すっかり忘れてしまうところだった。その感情をみしめると、思わず涙が出た。

「おばあちゃん、苦しいの?」

 違うと否定しようとして、声が出なかった。呼吸器をつけられていた。できる限りの力で私たちの織り上げた幸せを握りしめる。

 違うんだよ。これは悲しみの涙じゃないんだよ。

 幸せなの。

 幸せの香りのせいなのよ。


    ◆  ◆  ◆


「ごめんなさい。私、空気読まないって、友だちにもよく嫌がられるんです」

 朝霧さんは苦笑して誤魔化そうとして、負けたというように白状した。

「月代さんが『無理なものは無理』って言ったのを、覚えてる?」

「えっと……そんなこと言ってましたっけ?」

「桜のアロマがないってわかったとき。『無理なものは無理』って。僕はそれが嫌だったんだ。それに友だちのことであんなに必死になってるのに無下にはできないよ」

 れるお茶と同じように、静かに丁寧に紡がれる言葉の続きを、私は待った。朝霧さんは砂時計をひっくり返して、カウンターの上に置く。

「確かに無理なこともあるかもしれない。でも僕がなんとかしてあげることができたら、その言葉を聞いてしまった僕の気持ちが軽くなる。時間は戻せない。だから忙しくてもなんでも、今やらないといけないことだったんだ」

 そこで私たちはやっと目が合った。

 心の奥まで見透かされていると思うほどの真っ直ぐな視線を、私は受け止めた。ふっと朝霧さんの目の皺が深くなって、逸れる。いつもの鉄壁の笑みがほんの少し崩れる瞬間を見せてくれるくらいに昇格したらしい。

 私はこの瞬間がとても好きだと思った。

 何故だか、もっとこの人にこんな顔をさせなくてはと思ってしまった。そうやって調子にのるのが私の悪い癖だとわかっているのに。

「とても個人的な理由で、すっきりしました」

「気をもませてしまったみたいでごめんね」

「いえ。ところで、週末の開店の準備はいかがですか? こんなに美味おいしいお茶が出てくるなんて、きっとすぐに大評判になりますよ」

「それが、やっぱりもう一人が週末までに間に合いそうもなくてね。カフェまで手も回りそうにないから、しばらくは店頭販売だけ……できても決めておいたブレンドの試飲ぐらいになりそうだな」

「もったいないですね。残念です。朝霧さんのお茶は美味しいのに」

「それよりも、バックヤードにものがあふれててね。それが開店までに片付くかどうかのほうが心配だよ」

 私はたわごとに笑いながら、一つの考えが湧きだして、溢れそうになるのをとどめて留めて……しかしそれはやはり一度調子にのってしまった私には無理なことだった。

「私、お手伝いに来ちゃだめですか? お片付けの」

 言ってしまった言葉に、ごくりとつばみこんだ。

 片付けなんて、自分の部屋でもしたことがない。いつでも物が溢れていて、でも在りがわかっているから問題ないと思ってるぐらいだ。そんな私が片付けの手伝いになんてなるはずがない。そんなことわかっているのに。

 だけど、それならまたここに通う理由ができる。

 興味を持ってしまった。ただそれだけのことで、私はもっとこの店に、もっと朝霧さんの近くにいたいと思ってしまった。

「でも……」

 言いよどんだ朝霧さんに拒絶の言葉を吐き出させないように、私は慌てて口を開く。

「もちろん放課後だけになっちゃいますけど、掃除ぐらいだったら役に立つかもしれないですし。実は片付けはほんのちょっと……だいぶ苦手なんですけど、体力はあるし。買い物でもなんでもこき使ってくれたら、今回のお礼が少しはできるかなあなんて思ったり。朝霧さんは自分がやりたくてやったって言ってくれましたけど、私は本当に感謝しているんです。あ、紗綾だって絶対感謝してるはず。その分だけでも、できることを返したいんです。だからお願いします!」

 まくしたてて頭を下げた私に、朝霧さんの笑い声が優しく降ってくる。

「わかった。それじゃあ手伝ってもらおうかな」

「本当ですか? ありがとうございます!」

「お礼を言うのはこっちのほうだよ。本当に助かる」

「助けられるようなお手伝いができるといいんですけど……」

 不意に心配になってつぶやくと、朝霧さんは笑い声を上げた。私はびっくりして目をみはる。朝霧さんは破顔して、いたずらっぽい目で私を見た。

「お手伝いついでに、もう一つ頼んでしまおうかな」

「なんでしょう! できることならなんでも」

「ブレンドティーのラインナップを増やそうと思ってね。その試飲もしてくれる?」

「むしろ、そんなの私がうれしい!……けど、私なんかでいいんですか? 私、全然詳しくないんですけど」

「それでいいんだ。小梅ちゃんの素直な感想が聞きたい」

 名前を呼ばれて、ドキリとする。あんなに嫌っていた名前なのに、何度も呼ばれたくなってしまうような毒を盛られたようだ。

「だけど、多分それは開店までに全部は無理だろうから、しばらく通ってもらうことになっちゃうだろうな。それでもいい?」

 朝霧さんの目がますますいたずらっぽく笑っている。

「それって、開店してからもここに通っていいってことですか?」

 大きく喜びを表して、私ははっと気付いて止まる。

「……それって、結局私の得になってませんか?」

 朝霧さんのレトリックに気付いて、まゆを寄せると、朝霧さんは意に介した様子もなく、澄ました顔で自分もお茶を口に運ぶ。

「お店のためだよ」

 この顔を崩すことは、きょうはもうできないだろう。

「仕方ない。お手伝いですもんね」

 私はわざとらしく一つ息を漏らすと、生徒手帳から店の名刺を取り出した。

「じゃあお手伝いついでに、もう一つお節介をします」

 その名刺に私はシャープペンシルで、言葉を書き足した。

「名刺、少し変えたほうがいいと思います」

 店の前に書いてある紹介が物足りないと思ったのだ。

『あなただけの香りと味を調合いたします コハルノート』

「ねえ、どうでしょう?」

 朝霧さんは少し考えて、口元をほころばせた。

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