コハルノートへおかえり7

 朝霧さんからの連絡が来たのは、月曜日の朝のことだった。

 例のごとく慌てて家を出て、そのショートメールに気付いたのは朝礼が終わってからのことだ。知らない番号からのメッセージに、不安がぎる。だがメッセージを見ると、そっけない一言、だけれど発信者は明確だった。

『香りができたので、きょうの放課後にでも』

 狂喜しながら紗綾に伝え、待ちに待った放課後、私たちは駆け足で学校を出た。

 コハルノートの扉を開けると、朝霧さんがいつもの笑顔で出迎えてくれた。

「今日は冷たいお茶にしたほうがよさそうだね」

 定位置になりつつあるカウンターの一番端の椅子に腰掛けると、私たちの目の前にすぐに冷たいお茶の入ったグラスが置かれる。一口飲むと、ただの麦茶のようだった。

 珍しいと思いつつ一気に飲み干し、少し落ち着くと、朝霧さんが私たちの前に小さな瓶を置いた。それは雑貨屋さんで見るようなもので、素っ気ないラベルにただ一言「KIOKU NO.1」と書かれている。

「僕が調合した香りのブレンドオイルです」

 おもむろふたを開け、先日の細長い紙(ムエットと呼んでいた)に、その一滴を垂らす。

「感じてみてください」

 ムエットにはかすかにオレンジ色のような染みができている。だが、鼻に近付けなくてもその豊かな香りがふわりと鼻孔をくすぐった。

「うわあ……」

 感嘆しか出てこない。

 あのときの雪のような桜吹雪が、一瞬目の前に広がる。

 まずはさわやかな果物のような香りがしたかと思うと、すぐに甘さが広がる。その甘い香りも一言で「こう!」と断言できるものではない。花畑のようなものもあれば、せつけんのようなものもある……どんどんと私たちを引きずり込むような奥深い香りだ。

「本当にこれが桜の香りなんですか? こんな香り感じたことありませんけど」

 紗綾がいぶかしげにたずねると、朝霧さんは困ったような笑みを作る。

「できるだけ近いように調合はしているけど、記憶というのは主観が入るから。違うと言われたら何度でも作り直すよ」

 紗綾はその香りに集中していたようで、珍しくほうけた様子で朝霧さんに訊ねる。

「どうして、おばあちゃんの記憶の香りがわかったんですか? こんなにすぐに」

「咲いてるだけで香りの強い桜っていうのはいくつかあるんだけど、散歩の途中に出くわすなんていうものはあまりないんだ。でもその中の駿河台匂はもしかしたらと思って。おばあさまに聞いたらやっぱりもうでたところが近い場所だったし」

「駿河台匂……駿河台のお屋敷に植えられてたというオオシマザクラの一種ですね」

「なんで紗綾まで知ってるの!?」

 私の驚きに、紗綾は少し恥ずかしそうに答えた。

「だって、私もそこまでは調べていたもの」

「やっぱり私だけ何もしてなかったんだ」

 落ち込むように肩を落とすと、紗綾がぎゅっと私に抱き付く。

「何言ってるの。小梅ちゃんが動いてくれなかったら、私この店に来ることもなかったじゃない。本当に感謝してるよ」

「それに僕も香りを作ろうとは思わなかった」

 みんなの優しさがじんと心に染みて、涙が出てきそうになる。

 私が突っ走ったことで、感謝されることがあるなんて。でも、そんなことで涙を見せるなんて恥ずかしい。私はおどけるように言った。

「私でもたまには役に立てるんだね」

「もう、小梅ちゃんはわかってない。小梅ちゃんはね──」

 紗綾が言いかけたとき、オルゴールの音色が流れた。紗綾の着信音だ。

 紗綾がその発信元を見て、ハッとしたように電話に出る。断りもないことから、相当急いでいることがわかる。

「もしもし、どうしたの?」

 深刻な表情が、どんどんとあおめていく。

「うん……わかった。急いでいく。わかってる!」

 最後は断ち切るように通話を切った紗綾は、しばらくぼうぜんとして手元のスマホを見つめた後、顔を上げた。

「お父さんから……おばあちゃんが意識を失ったって……もしかしたらこのまま……」

 これがそうはくというものかとわかるほどに真っ白になった紗綾を温めたくて、私はぎゅっと抱き付く。抱き返してくる紗綾の手が微かに震えていた。

「大丈夫? 私もついていこうか?」

 そのまま訊ねると、紗綾は腕の中でふるふると小さくかぶりを振った。

「大丈夫、家族以外は病室に入れないし。大丈夫……」

 自分に言い聞かせるような紗綾の言葉は頼りない。私は何とか励ますことができないかと考えを巡らせて、ふとカウンターの上の小瓶が目に入った。

 紗綾を一度放し、その手にぎゅっと小瓶を握らせる。

「紗綾。おばあさんはきっと大丈夫!」

「そうだよね……大丈夫、大丈夫だよね……」

 すでに涙を目にめた紗綾を、適当な言葉で励ますことはできない。だけど……、

「大丈夫だよ、この香りをかがせてあげて。きっとあやさんは目が覚めるよ」

 根拠はないが、私はそう信じている。そう伝えるために、ぎゅっとその手ごと紗綾の手を握ると、紗綾はようやく自分の手の中のものに気付いた。

「ね、早く行ってあげて」

 紗綾の目をのぞき込むと、紗綾はようやく決然と立ち上がる。

「ありがとうございました」

 紗綾は朝霧さんに丁寧に頭を下げると、しっかりとした足取りで店を出て行った。

 紗綾の姿が見えなくなった途端、私の手も震えてくる。それを抑えるように、両手を握りしめた。

 カタンと小さなガラスの音に振り向くと、朝霧さんがティーカップを出してくれていた。温かな湯気は、安らぎの香りを私へ届ける。雨の日に出してくれたお茶だった。

 朝霧さんは相変わらずカウンターの中で何かをしていて、こちらに気を遣わせようとしない。

 私は一口飲んだところで、急にひらめいた。

 土曜日の答えを。

 私は朝霧さんを軽くにらみつける。

「朝霧さんはずるいです」

「ずるいって、何が?」

 朝霧さんがいつもの笑顔でこちらを向く。

 そう、『いつもの』笑み。

 誰に対してもまったく変わらない笑顔。

 でもやはり目は合わない。

「だっておかしいですよ。そんななんでもないような顔をしながらなんでもできちゃうなんて」

「なんでもなんて言いすぎだよ。できないことばっかりだ」

「ちょっと話して、ちょっと調べただけでこんなにいろんなことがわかっちゃう人を、できないことばかりなんて思いません。だから私わかったんです。朝霧さんの正体」

「……僕の正体?」

 朝霧さんの顔から表情が消えた。すっと何かに魂を取られてしまったかのように。

 なぜそんな顔になるのかわからず、私は壊してしまった空気をなんとか元に戻そうとあえて弾むような声を出す。

「そう、朝霧さんは魔法使いなんです。ハーブとアロマの魔法使い。落ち込んでいた私に元気をくれて、あやさんに記憶の香りを作り上げる。現代の魔法使いです」

 私はおどけながら、魔法を操るかのように指を振る。

 朝霧さんは一瞬きょとんとして、すぐに笑う。それはいつもの笑みよりも深くじりしわを刻んでいる気がする。

 天にも昇る気持ちというのはこういうことだろう。なんせマリア様を極上の笑顔にさせたのだ。

 だが、すぐにその元気はしぼんでしまった。紗綾の不安が自分のことのようにぎる。

「どうしよう。私、紗綾に無責任なこと言いましたよね。あやさん、大丈夫かな」

「君たちは本当に仲がいいね、大丈夫だよ。その想いは伝わってる」

「朝霧さんにもそういう人はいますか?」

「いたし、多分いるよ」

 気にさせる返答だ。遠いところに思いをせるような。

 しかしそれはごく一瞬のことで、すぐに朝霧さんは私の前に意識を戻し、いつもの顔で笑む。

「自分の嫌いな名前を呼ぶのを許せる相手なんて、心を許しているあかしでしょう。それは月代さんにも伝わっているし、彼女だって君を他に譲りたくないぐらい想っているみたいだし。その気持ちがあれば、奇跡は起きると信じたいよね」

「はい。奇跡でもなんでもいいです。だからあやさんには……」

 そこで違和感が頭を過ぎる。朝霧さんを見ると、朝霧さんはいつもの笑顔でどうしたのかと問いかける。

「……私、自分の名前が嫌いだって、朝霧さんに言いましたっけ?」

「……ちょっと前に話していたよ?」

 そうだっけと首を傾げる。だけど今はそんな小さな疑問を考えている場合ではない。

「私、あやさんが目を覚ましてくれると信じます。本当にありがとうございます。忙しいのに無理を言ってしまって」

「こちらこそ、関わらせてもらってありがとう。こんなふうに香りを創ることなんか初めてだったから、楽しかったよ。楽しかったっていうと、不謹慎かな」

「そんなことはないと思います。けど、私わからないんです」

「何が?」

「どうしてこんな開店直前の忙しいときに、私たちに付き合ってくれたんでしょう? お店の開店なんて、きっと私じゃあ想像がつかないくらいに忙しいはずでしょう? 開店して落ち着くまで待ってって言うことだっておかしくない。いくら興味があったといっても、自分のお店のことのほうが絶対大事ですもん。どうしてですか?」

 どうしても今やらなければならないという義理は、朝霧さんにはなかったはずなのだ。いくら未来の客候補だとしても、高校生が通うような店ではなさそうだし、常連になるまで待つのは気が長すぎる。

「もちろん朝霧さんの優しさといえないこともないんですけど。だけど、朝霧さんって、人の事情に踏み込む人じゃないでしょう?」

 またやってしまった。思いついた言葉は、考えるということもなく私の口からするりと滑り落ちる。しかし、出てしまったものは仕方がない。

 私は朝霧さんの目をじっと見つめ、答えを待った。

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