コハルノートへおかえり6

 あやさんが香りを確認するまで、私には何もすることがなかった。紗綾はそれが終わるまで毎日病院へ通うようだ。必然的に私は暇を持て余す。しかも土曜日の半日授業。夕飯までの有り余る時間を一人でつぶすのは、紗綾と出会ってしまった今は、もう寂しくて耐えられない。

 帰り道、私が寄ったのはもちろんコハルノートだった。

 今度はこんこんとドアをノックしてからドアを開ける。返事は聞こえないが、ドアノブを回してみる。すると軽く回った。かぎが開いているのだから、いるのだろう。

「朝霧さん、紅林です。紅林小梅です。朝霧さーん?」

 すると、トントンと階段を下りる音がする。朝霧さんはカウンターの奥、バックヤードの暗がりから出てきた。どうやらその奥に階段があるようだ。確かに建物は二階建てだった。

「あれ、どうしたの?」

「上はもしかして倉庫ですか? 全然気が付かなかった」

「いや、僕の住まいだよ。広い場所はいらないからね」

「え? ここに住んでたんですか?」

 私の驚きに、朝霧さんはいつものように笑う。

「ちょうどよかったというのかな。これから出かけようと思うんだけど、一緒に来る?」

「行きます!」

 答えてから、はっとする。

「ち、ちなみにどこまで行くんですか?」

 定期にしているPASMOの中に、いったいいくらのチャージがあっただろうか。

 私の頭の中はいつものようにぐるんぐるんと回りだす。朝霧さんはすっかり慣れたように笑う。

こう稲荷いなりの辺りをぶらぶらと。そんなに遠くないから大丈夫だよ」

「こうぶ、いなり? どこですか、それ」

かんの辺り……あきばらって言ったほうがわかりやすいかな」

「ああ……あんなところになんで?」

 行ったことはないが、テレビでよく見るけんそうの街という印象だ。

「そこに香りがあるかもしれないから」

「香りが。それなら……って、紗綾たちから返事が来てないのに、もう答えがわかってるんですか?」

「答えかどうかはわからないけれど。この間おばあさまたちがおまいりしたのが講武稲荷だったと聞いてね。少し思い当たるものがあるんだ」

「それなら早く行きましょう!」

 のんびりと戸締まりを確かめる朝霧さんをかしているが、肝心の電車に乗る頃になると、私はそっとたずねた。

「どうやって行くんですか?」

 朝霧さんはいつものように笑って、手の平を少し丸めるようにして、私の耳のそばに寄せる。そして内緒事をするように、耳にささやいた。あの香りとともに。

「僕について来ればわかるよ」

 まさかの出来事に、私の顔は真っ赤になって立ち止まる。

「電車行っちゃうよ?」

 のんに言う朝霧さんを少し恨めしく思いながら、私は慌てて電車に飛び乗る。

(なんかいけないところに連れていかれそう!)

 あんなに甘い声でささやかれたら、ついていくことに躊躇ためらってしまう。

(絶対……絶対朝霧さんって天然だ!)

 電車に乗っている間ずっと身構えている私に、朝霧さんは不思議そうな顔をしていた。電車がどんなに揺れても踏ん張り、決してつりかわを放さず、朝霧さんから目を離さず。そんな私に朝霧さんも手を貸すことはなく、少し離れて立って、ときどき私のほうに視線を向けながら、窓の外を眺めていた。

 降りたのは秋葉原ではなく、まるうち線のちやみず駅。朝霧さんによると、神社への距離はどちらも同じくらいだけれど、こちらのほうが静かで、かつ行ってみたい場所にも近いのだという。

 まずは神社にお詣りをしてから、ぶらぶらと歩き出す。

「案外小さな神社でしたね」

「そうだね。まあ、近隣の人に愛されてきた神社みたいだし」

「なんであんな小さな神社にお詣りに行ったんでしょう。確かもっと大きな神社がこの辺りにもありましたよね。お正月によくテレビに出てくる、なんだっけ」

「神田神社かな。確かに有名な神社だし、ご利益も合ってるんだろうけれど」

「ご利益? どんなご利益があるんですか?」

「勝利の神様だよ。そっちは人が多いだろうから、講武所、昔の武道場だね。それのあったところに建てられた神社に来ていたんじゃないかな。恐らくおばあさまたちの想い出の時代は戦争が始まった頃だろう?」

「あ!」

 私はおばあさんたちの若い頃の時代まで思いをせてはいなかった。ただ安穏とした自分と同じ様子で想像をしていただけだ。

「ずるい……」

 思わず口にした言葉は、朝霧さんには届かなかったようだ。

「え、何か言った?」

「いいえ、何も」

 先ほど驚かされたことの意趣返しに、私はあえて口にしない。

(なんでそんなに何でもわかっちゃうの? それじゃあ私はいつまでも追いつけない)

 はたと止まる。

 私は朝霧さんに追いつこうとしているのだろうか、無謀にも。

「こっちだよ」

 朝霧さんは先に行っていて、曲がり角を指し示し、私を待たずに行ってしまう。

「ま、待ってください」

 私も慌てて走り寄り、曲がり角を曲がった……、

「うわあ……」

 春なのに雪が舞っている。初めはそう思った。

 だがよく見ると、花びらが風に吹かれているのだ。

 そう、もうとっくに散ってしまったはずの桜の花が。

 いつもはまくしたてて興奮するだろう私も、なんだかその光景に圧倒されてなかなか言葉が出てこない。

「なんで……」

 それを言うのがやっとだった。

「遅咲きの品種だからね。目を閉じてごらん」

 あやさんがおじいさんに言われたような言葉。私も同じように目を閉じた。

「匂いがします! 甘い花の香り! すごい、本当だったんですね!」

 驚きと共に朝霧さんを見ると、朝霧さん自身は目を閉じずにじっと桜を見つめていたようだ。

 まるで桜の香りごとその力を奪い取ろうとしているような、真剣すぎる表情。まばたきすら忘れたように、目を見開いて。

 その姿はあまりにも鬼気迫るようで、私は少し怖くなった。

「何を見てるんですか?」

 できる限り明るい声で話しかける。近寄って下からのぞき込むと、朝霧さんは珍しくたじろいだように、びくりと後じさった。

「花と……花の香りをかいでいたんだよ」

 消された言葉が気になるが、必死に必死に踏み込まないように気を付けた。なぜだかそこは、薄氷のような気がしたから。

「花の香りをかぐのに、じっと見つめるんですか?」

 笑いながら、私も改めて桜を見上げる。

 なぜこんな時期に咲いているのか。そして、朝霧さんはなんでこんなことまで知っているのか。

 ちらりと朝霧さんを見上げると、目がばっちりと合う。見つめ合っているようだ。

 恥ずかしくなって、慌てて目線を外して気が付く。

 朝霧さんと目が合うなんて、いつぶりだろうか。

 私は普段から人と目を合わせて話をするようにしている。それが親から教えられたことだったから。

 だけれど、朝霧さんは人を見ているようでいて、なかなか目を合わせてくれない。

 ──そんなことに今気付くなんて。

「これは駿するだいにおいっていう遅咲きの桜なんだ。しん宿じゆくぎよえんなんかにもあるんだけど、調べたらここにまとめて植樹されているって書かれていたから。場所もゆかりも近いほうがいいでしょう」

 ね、と優しく笑う。まるで私の心を読んだような発言だ。

 私が口を開きかけたとき、ピルピルと電話の着信音が鳴った。慌ててポケットから取り出してみると、紗綾からの着信だった。

「紗綾、どうしたの?」

『小梅ちゃん。あのね、おばあちゃんに全部確認してもらったの』

「え、もう?」

『うん。昨日から少しずつ進めていたみたいで。無理しないでほしいのに』

 昨日渡したばかりだというのに……あやさんもそれほど記憶に残っている香りを大切にしていて、再び感じたいと思っているのだ。

 横では朝霧さんがずっと桜を見上げ続けている。私が電話を切り終えて見上げると、朝霧さんがにこりと笑う。

「どれも違ったけれど、三番が一番近い?」

「え!? どうしてわかったんですか?」

「うん。きょう来てみてやっぱり正解だったな。あれは全部人工香料だから、同じだと感じるものはないと思ってたけど。少し迷っていたから……」

 そこで息を深く吸い込む。香りを味わうように。

 だけどそこで苦いものを吸ったように口の端を少しだけ固くして、息を吐き出した。

「自然ってやっぱりすごいな。この感覚を忘れないうちに帰ってもいいかな」

「もちろんです!」

 朝霧さんは電車の中でもずっとメモ帳に何かを書きつけていて、ちらりと覗いた私には書かれた文字がじゆもんのようにしか見えなかった。急ぐ朝霧さんと駅で別れ、私は自分の家路へと就く。

 ゆっくりと歩みながら、きょうのことを振り返る。

 いつもと違う朝霧さんの顔をいくつも見た気がした。

 いつも通り優しい朝霧さん。だけどきょうはいたずらっ子のような、それでいて大人の甘さが醸されて。そして、最後にみた気迫。いつもはなかなか人と目を合わせようとしない朝霧さんは、なぜ桜には目を合わせんばかりに見つめていたのか。

「本当に、なんなんだろう、あの人」

 私が見ている朝霧さんは、本当の朝霧さんなのだろうか。

 ふとそんな疑問が浮かび、ぷるぷると頭を振る。

 あの朝霧さんが偽物だというのか。否。偽物というのは、何か言葉が少し違う気がする。だけどうまい言葉が出てこない。紗綾だったら的確な言葉で言い表すことができるだろうか。

 次に会うのはきっと香りができたときだ。それまで私はそわそわともだえていなくてはならないのだ。耐えられるだろうか。

 元々は私が持って行った話だ。それを朝霧さんはこんなに短期間で謎を解明しようとしてくれている。あやさんも紗綾も、それにこたえるように頑張ってくれた。

 なのに私だけ何もしていない。みんなを引きずり込んだ責任は私にあるはずなのに。こんなに重大なことに足を突っ込むだけ突っ込んで、引っき回すだけ引っ搔き回しておろおろとしているだけだ。

 ただの傍観者よりも性質タチが悪い。そのことが歯がゆく、なく、しかし無力で。

 つい、朝礼のときのように両手を組み合わせる。

「どうか……」

 何を願ったらいいのかわからず、全ての祈りがこもるように言葉は消えた。

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