コハルノートへおかえり5

 さんたんたる試験が終わった金曜日、私たちは朝霧さんと待ち合わせをした場所へ真っ直ぐ向かった。病院の入り口にはすでに朝霧さんが来ていて、さりげなく壁によりかかって、文庫本を読んでいた。

 初めて見る私服はやはり白いシャツと、ほんの少しだけラフさを出すベージュのチノパン。近付くとふわりと深い森林のような香りがした。私たちに気付いた朝霧さんは本を閉じ、かばんに仕舞う。どんな本を読んでいたのだろうか。

(あのときの香りだ)

 朝霧さんと出会ったときの香り。やはりあれは朝霧さんの香水の香りだったのか。もう一度その柔らかい香りを感じたいと思ったが、その香りは過ぎるほどにさりげない。鼻をくんくんとさせても、もう感じなかった。もしかしたら、服に移り香が残っていただけなのかもしれない。

「行こうか」

 いつもの笑顔に促され、私たちはあやさんの病室を訪ねた。

 紗綾から話を聞いていたはずなのに、あやさんは驚きに目を丸くさせる。

「あらあら、こんな美人さんが来るとは思ってなかったわ」

 朝霧さんは意に介する様子もなく、丁寧に頭を下げ、どこから出したのかブーケのようなものをあやさんに渡す。まるで魔法のようだ。

「そんな気を遣ってもらわなくていいのに」

「突然訪ねてしまって、申し訳ありません。お邪魔にならなければいいのですが」

 それはプリザーブドフラワーのアレンジ飾りで、小さな病室の机の上においても邪魔にならないほどのものだ。あやさんのじりしわが深く刻まれる。

「まあ、かわいいお花。これ枯れないというものよねえ。うれしいわ。花は気分が明るくなるから。ありがとう。でもこんなおばあちゃんに何の御用かしら?」

「桜の香りのことです」

 個人的な話を聞いてしまって申し訳ないと一言の断りを入れて、朝霧さんは早速本題を切り出した。

「僕があなたの記憶の香りを創るお手伝いができるならと思って、きょうはお会いしたいと思いました」

「あら、まあ」

 あやさんも事態が飲み込めず、あつに取られている。

 朝霧さんは雑談を交えながら、あやさんに香りの説明をしている。

 それをぼーっと眺めていると、朝霧さんの周りの空気が柔らかく光っているように私には見えた。まるで出会ったときのように。

 なぜだろうか。こんなにも空気を和らげる力は。

 私自身も暖かい空気に包まれながら考える。

 そうか、この人は周りのことをよく見ているのだ。相手の機微を細かにみ取って、先へ先へと回っているのだろう。だから相手やその場の空気までも和らげるのだ。

 思いついたらまっしぐらで周りが見えなくなってしまう私とは大違いだ。

 こんな人になりたい。ふとそう思った。

 朝霧さんは食事などを食べるベッドの台の上に、いくつかの小さく細長い筒を並べていく。あやさんが興味深そうに手にとってふたを開けると、スプレー式の容器だった。

 ざっと十本近くはあるだろう。一つ一つに番号が書いてある以外は、同じ容器であるようだ。

「これは市販品の香りなのですが、パッケージからイメージを持たれてしまうといけないので詰め替えただけです。これをこうやってムエットに吹きかけて……」

 そうして細長い紙にスプレーを吹きかける真似をする。

「ここでは他の方の迷惑にもなると思うので、どこか外か換気のできる場所でやってもらえるとありがたいのですが」

「ええ、散歩のときなんかにできると思うわ。これを全部、匂いをかいでみればいいのかしら? それで、それをどうするの?」

「記憶の香りに似たものがあるかどうか、確かめてほしいんです。一度に全部やろうとすると鼻が香りにマヒしてしまうので、できたら少しずつ。無理のない程度で」

「でも! 早くできたらそれだけ早く記憶の香りが作れるんですよね!」

 私が思わず口を挟むと、朝霧さんはゆっくりとそれらを元の袋に戻しながら、穏やかな笑みで続けた。

「僕のほうでもまだ調べたいことがあるし。おばあさまの体調もあることだから。ゆっくりで大丈夫だよ。ありがとう、心配してくれて。月代さん、おばあさまと一緒にお願いしてもいいかな」

 優しくいさめられて、私はしゅんとうつむく。紗綾は励ますように、ぎゅっと手を握ってくれた。

「わかりました。祖母の体調と香りのメモ書きは私に任せてください」

「全部終わったら、ここに連絡をいただけますか?」

 朝霧さんはあやさんに名刺を渡す。

「お店をやっているの? あら、うちの近くじゃない。香りのお店なの?」

「はい。アロマとハーブの店です。退院したらぜひお孫さんといらしてください。退院される頃には店も開いているでしょうから」

「そう、これから開店なの。大変なときに申し訳ないわねえ」

 朝霧さんはそれ以上何も言わず、にっこりと笑ってやり過ごす。それから何か雑談を始めたようだ。あやさんも楽しそうに会話に応じている。

「おばあちゃん、私たちお茶買ってくるね」

 そう言って紗綾は私の手を引いて病室を出ていこうとする。私は後ろを向いたまま引っ張られたおかげで、足が絡まりそうになる。

「え、わわ、ちょっと待って、紗綾っ」

 病室を出たところでついに後ろにつんのめると、そのまま後ろからぎゅうと抱きしめられ、私は中途半端な体勢でとどまらざるをえなかった。少し腰が痛いけれど、下手に動いたら完全に紗綾を巻き込んで倒れ込んでしまう。

「ちょっと紗綾、どうしたの? のど渇いた?」

 紗綾は私の首元に顔をうずめたまま、ぷるぷると首を振る。肌をくすぐる絹糸のような髪の毛がくすぐったい。

 私はそうっと足元から体勢を整えていき、紗綾の頰を挟んで顔を上げさせる。

 紗綾はなぜかうるんだひとみで私を見ていた。

「……結果は小梅ちゃんからあの人に伝えてもらってもいい?」

「うん、それはいいけど……紗綾は朝霧さんのことが嫌い?」

「……苦手。本当は小梅ちゃんにも連絡なんて取ってほしくないけど……なんか小梅ちゃんもおばあちゃんも、あの人にどんどん私の居場所を取られていくみたい」

 意外な言葉に、私は思わず吹き出し、そのまま笑いだしてしまう。紗綾は少し怒ったように頰を赤くしている。

「だって! 小梅ちゃんはずいぶんあの人と仲良くなってるし。まだ出会ったばかりなのに」

「紗綾と話をするようになってからもそんなに経ってないよ」

「でも、なんか……あの人は空気みたいに気付かない間に入り込んでくるみたい」

「空気、かあ。うん、そうかも。なんだなんだ、紗綾は本当にかわいいなあ」

「小梅ちゃん!」

 頰を膨らませる紗綾に、私は目の端をぬぐいながら答える。

「私は朝霧さんみたいな優しくて穏やかで何でもできる人にあこがれてるだけだよ」

「……本当に?」

 不安そうな瞳をしている紗綾の腕をポンとたたく。

「朝霧さんは目標。紗綾は親友。どっちも大切だけど、まったく違うものなの。だから、紗綾が心配するようなことは何もないよ」

 そう、憧れの人。そして、目標の人。

 そんな人を目の前にすることができた私は、きっと幸運なのだろう。

「お茶買って部屋に戻ろう」

 いつものように手を握ると、紗綾は静かについてくる。きっと恥ずかしさと私の答えに納得していいものかもんもんとしているのだろう。

 病室へ戻ると、朝霧さんとあやさんはぽつりぽつりと和やかに会話を交わしていたようだ。私たちの姿を見ると、一足先にと、あっさりと帰ってしまった。ちょうど会話の区切りもよかったようだ。

 立つ鳥跡を濁さずというように。いや、かすかな香りだけを残して。

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