コハルノートへおかえり4
病室を出ると、春の柔らかな日差しではなく、夏の入り口が開かれたようなじんわりとした暖かい空気がまとわりつく。
私は思わずため息をついた。苦しみのものではない。今しがた聞いてきたあやさんの恋物語に胸が詰まり、ときめきと共に思わず漏れたものだ。
「素敵な話だったねえ。なんだか漫画かドラマみたい。おじいさんもとてもロマンティックな人だったんだね。いいなあ、なんか聞いてるだけでドキドキしたあ」
「私も初めて聞いたの……だから桜にこだわってたんだ。でもどうしたらいいんだろう。桜の香りだなんて、また新しい謎ができちゃったみたい」
紗綾も横で
「そう! 香りだよ! ねえ、紗綾、おばあちゃんの想い出は桜の香りって言ってたよね。だから、そのときの桜の香りをかいだら元気が出ないかな!」
「それは私も思ったけど……小梅ちゃんは桜の香りってかいだことある?」
「う……正直そんなもの感じたこともない」
「だよねえ。何か他の花の香りと勘違いしているのかなあ?」
「桜の香りかあ……ねえ、いつもの雑貨屋さんに行ってみない? 確かアロマオイルだかっていうのを置いてあったよね。その中にないかな」
うーんと言葉を濁しながら、紗綾は困ったような顔をする。
「一応、前に見に行ったことはあるんだけど」
「でもちょうど桜の時期だし! 新商品で入ってるかもしれないよ!」
私が勢い込んで言うと、紗綾は苦笑して頷いた。
「そうだね。行ってみよう」
そして、駅からほど近い繁華街にある、よく立ち寄る雑貨屋さんの片隅に置かれた香りコーナーに私たちは駆け寄った。だが残念ながら、アロマオイルと書かれたコーナーに桜の香りはない。
「お香ならあるのにね。これだと、どうなんだろう」
「うーん……桜の香りかなあ。とりあえず買ってみようかな。ちょっと待ってね」
紗綾はそう言ってレジへと再び駆けていく。
私は待ってる間に手持ち
何か違う、と思った。
本物の香りはこんな人工的なものじゃなくて、もっと自然に近くて……。でもどうしてそんなことを思ったのだろう。
そのとき、ハッとあることに気が付き、慌てて私はポケットの中を
「小梅ちゃん、おまたせ……どうしたの?」
最後に取り出したもの。それは先日あの店でもらった名刺だ。
「ここ! 行ってみない?」
紗綾はまじまじと名刺を見つめ、少し驚いたように目を見開く。
「この住所って、あの改装していたお店? どうしたの、これ。まだあの店オープンしてないよね?」
紗綾の質問にどこから話を始めればいいのかわからず、言葉を探すがなかなか出てこない。
「とにかくついてきて! きっとあの人ならどうにかしてくれるから!」
「あの人って? きゃ、小梅ちゃん!?」
問答無用とばかりに紗綾を引っ張ってずんずんと店のほうへ向かう。ここからなら、二十分ほどで着くだろう。いや、今のまま行けば十五分もかからないかもしれない。
店のドアに手を掛けたところで、私ははたとある考えに至った。
はたして、きょうも朝霧さんはお店にいるのだろうか?
思い至った瞬間には、すでに身体は動いていて、
濃厚な、懐かしくて、新鮮で、泣きたくなるような香り。
ドアの開いた音に気付いた朝霧さんが、カウンターの中で顔を上げる。ばっちりと目が合うと、一瞬で恥ずかしさと、戸惑いと、安心感が胸によぎって、思わずふにゃりと笑顔になる。朝霧さんがあのときと同じ笑顔を私たちに向けてくれたから。
「いらっしゃい。友だちと仲直りできたんだね」
そして横の紗綾に目を向けたとき、その笑顔が少し固まった気がした。
(なんだろう?)
一瞬の違和感に、私の考えが
「お
私の頭の中ではあやさんから聞いた話や、雑貨屋さんで見たあの香りの小さな瓶はいくらぐらいしていたか、私のおこづかいでも買えるものなのだろうかと様々なものが光の速さで次から次へと通り過ぎていく。これでは整理するどころか、まとまることがない。
またもや唸りそうになっていると、朝霧さんがくすりと笑う。
「まだオープンしてなくて雑然としているけど、それでもよければ中へどうぞ」
うっすらと額に汗をかいている私たちに、朝霧さんはカウンターの前の席を示す。
私たちが席に座る前に、手際よく動く手は、すでに何かのお茶を淹れていた。
「……いつオープンなんですか?」
紗綾が不承不承というように口を開く。
「うーん。来週の土曜日かな」
「え? もうすぐなんですね!」
「そう。遅れてるやつがいつ来るのかわからないんだけど、そろそろ開けないとね」
差し出されたカップの中身をくんくんとかいで、私は驚きの声をあげた。
「この前のと違う!」
色はこの間のものと同じなのに、清涼感が強くなっている。
朝霧さんが感嘆するように
「鼻がいいんだね」
「だって、なんかうっすらとどこかでかいだことがあるような、でもこんなにすっきりした香りでもなかったような……。なんだろう。うー、思い出せない!!」
一口含んだ紗綾も驚いたように朝霧さんを見上げる。
「これ、ラベンダーが入ってますか?」
さすがに紗綾はハーブティーを飲んだことがあるらしい。……私の勝手なイメージだけど、そういうおしゃれなものが似合う。
「そっか、ラベンダー……ってこんなにいい香りだったっけ?」
もやもやとしたものが晴れた私は、早速次の疑問を訊ねる。
「なんで紗綾は驚いてるの?」
「だって、ラベンダーを飲むって、あんまりイメージがなくて。昔飲んだときにはもっとまとわりつくような味で気持ち悪くなっちゃって。だからサシェとか、ポプリとか、そういう香りで楽しむほうがいいんだって思ってたから」
何故だか
しかし朝霧さんはそんな紗綾の
「ラベンダーは香りで楽しむほうが一般的だし、人工香料なんかもよく作られるほど人気なものだよね。だからこそ、味でも楽しんでほしい。ちゃんとしたものを少しだけお茶に混ぜると、
私も一口飲み込み、その言葉通りだとこくこく頷く。
「本当にさっぱりしてる! この前のはりんごみたいな甘味があって優しい味だったけど、きょうのはなんだか疲れが取れる感じ!」
褒め立てる私に、朝霧さんは笑顔で
「とりあえず、さっきの話を最初から聞かせてくれるかな? 僕にも手伝えることがあるかもしれない」
私は朝霧さんがちゃんと受け止めてくれたことに
「あのですね──」
私が話しだそうとすると、紗綾がカウンターの下で私の上着の
「桜の香りを探しているんです。紗綾の、この子のおばあさんの想い出の香りなんだそうですけど、いま病気で元気がなくて。だからその想い出の香りをかいだら元気が出ないかなと思って。でも私たち何の知識もないし、頼れるのは朝霧さんしか思い浮かばなくて。アロマオイルでしたっけ? 桜のものって買えませんか?」
「桜の香りか……」
朝霧さんが
「いいよ、小梅ちゃん。帰ろう。おばあちゃんのことなら大丈夫だから」
「でも、あやさんあんなに懐かしそうな顔をしてたじゃん。それに紗綾だって、早く元気になってほしいって心配して。ねえ、朝霧さん、桜のアロマオイルだってあるんでしょう? ありますよね?」
考え込んでいた朝霧さんは顔を上げ、ゆっくりと紗綾を見た。紗綾は少し
「そういえば、名前を聞いてなかったね」
朝霧さんの唐突な言葉に、紗綾はきょとんとする。一瞬で毒気を抜かれたようだ。
朝霧さんは私のほうを向いて、にっこりと笑う。
「もう名刺で知っていると思うけど、『コハルノート』の朝霧澄礼と申します」
ようやく私は自分が一切名乗ったことがなかったことに気付く。一瞬で耳まで熱くなり、背中に汗が流れる。
「く、紅林小梅です!」
「……月代紗綾です」
紗綾も不承不承と名乗る。
「紅白なんて、いいコンビだね」
私は朝霧さんの言葉の意味を測り兼ね、首を傾げる。紗綾は意味がわかったのか、ぷいとそっぽを向いた。
「すみません! 私、ずっと自己紹介した気でいて、あの、それで──」
「桜の香りならあるよ」
私は立ち上がり、紗綾も思わず朝霧さんに目を向ける。
「あるんですか!」
「でもないとも言える」
「どっちなんですか!?」
思わずツッコミを入れてしまう。
「ごめんごめん。でもちょうどタイミングがよかったね。多分君たちの想像してる香りとは少し違うけど、これが一般的な桜の香りだよ」
そう言って後ろを向いて何かをしていた朝霧さんが差し出したのは、春先によく見かける和菓子だった。ちゃんと懐紙と
「
「そう。桜の葉に含まれるクマリンという成分が、主に桜の香りの元だから桜の香りっていうものはある。だけど今回の場合は、咲いている花の香りのことなんだよね?」
「そう! そうなんです!……それはないんですか?」
朝霧さんは少し眉根を寄せて、言いにくそうに言葉を濁す。
「あるにはあるんだけど、桜のエッセンシャルオイルというのはまだ出回るほど作られていないんだ」
「あるのに売ってないんですか? なんで?」
朝霧さんは少し視線を右下に向けて考えてから、手元のポットをくるくると回す。中に残っていた少しのお茶が、それに合わせてくるくると回る。
「エッセンシャルオイルを作るにはいろいろな作り方があるんだけどね、桜の場合は難しいんだ。例えば何キロというたくさんの花びらを使っても、たった一滴ほどができるぐらい。その精製に成功したのも最近のことだし、流通させられるほど確立されてはいないんだ。手に入れられたとしても、その一滴が何万もするかもしれない」
「そんなあ……」
私はがっくりと椅子に倒れ込む。
「確かに、手に入らないなら、ないのと同じですね……」
絶句して
「帰ろう、小梅ちゃん」
ひどく冷たい声だった。
「紗綾?」
「無理なものは無理なんだよ、小梅ちゃん」
痛いほどにきつく結ばれる手。
「ちょっと待って、紗綾、まだ何かあるかもしれないでしょう。そんな簡単に
止めるのも聞かず、私の手を引いたまま、紗綾は振り向かずにドアへと一直線に向かう。こんなにツンケンとした態度は紗綾らしくない。何か桜の香り以外のことで気に食わないことでもあっただろうか。
紗綾がドアに手を掛けたとき、朝霧さんの言葉が静かに響く。
「君がほしいのは、桜の香り? それとも『桜の想い出』の香り?」
一瞬開いたドアが外の空気を招き入れた。その無味乾燥な空気に、改めてコハルノートの濃厚な香りが私の鼻孔をくすぐった。
振り向いた紗綾は、人を射殺せるほどの鋭さを伴った視線で朝霧さんを睨みつける。
「それはどう違うんですか? 想い出の香りならあるとでも?」
「だって、君のおばあさんの中にはあるんでしょう?」
朝霧さんは紗綾の態度を気にした様子もなく、先程と同じ笑みをたたえている。
先程と、なに一つ、変わらない、笑み。
「桜のエッセンシャルオイルが、君のおばあさんの記憶の香りだとは限らない。もしくはブレンドしたもののほうが近い可能性もある」
「あなたにはそれが作れるというんですか?」
「確実に、とは言えないけれど」
朝霧さんの言葉を信じるかどうか紗綾が迷っている隙に、私は紗綾の手からするりと抜け出す。走り戻って、バンと手のひらをカウンターに叩きつけた。
「作ってもらえるんですか?」
「僕にできる限りのことでよければ、試させてもらいたい。いいかな」
「いいも何もこっちがお願いしたことで……あ、でもあんまり高いと困っちゃうんですけど」
私の言葉に、朝霧さんは吹き出すのをこらえるように、口元に手を当てた。
「お金はいらないよ。僕にとっても挑戦だからね。君たちにも協力を仰ぐし、本当に作れるかどうかもわからない。本当に実験なんだ。それでもいいかな?」
「いいです、もちろん、いいですよ! ね、紗綾、いいよね! 私たちができることならなんでもします。何をしたらいいんですか?」
「いくつかブレンドオイルのテスターを渡すから、それをおばあさんにかいでもらって、感想を聞いてきてほしいんだ」
「ブレンド? って、桜のアロマオイルとは違うんですか?」
エッセンシャルだとか、ブレンドだとか……知識のない私の頭はすでにこんがらがっている。それが表情に出ていたのだろう、朝霧さんが穏やかに説明を足してくれる。
「純粋なエッセンシャルオイルは主に植物を精製して作られたものを指すんだ。アロマテラピーっていってね、欧米では医療としても使われることがある。エッセンシャルオイルは一つの香りしか使っちゃいけないわけじゃなくて、いろいろ混ぜ合わせて多様な香りを作ることもできる。だから月代さんのおばあさんの想い出の香りを作ってみようかと思ったんだ」
「そんなことできるんですか、すごい!」
世界に一つだけの、自分だけの香りも作れるというわけだ。だけど、それで想い出の中の香りまで作れるものなのだろうか。手がかりもほとんどないというのに。
「それで、テスターを渡すときに実際におばあさまにお会いしたいのだけど」
「……そんなことしていて、開店準備のお邪魔ではないんですか?」
「そうだ! 来週の土曜日なんですよね!? そっか、忙しいですよね。どうしよう」
冷静な紗綾と、頭の中が再びぐるぐると迷路を作り出す私に、朝霧さんは軽い口調で言った。
「店の準備といっても、あとは細かい仕事だけで、その合間にやるから心配はいらないよ。だけど、開店してしまったらできそうもないから、できるだけ早いほうがいいかな。桜も散ってしまうしね」
私は心の中にはてなマークを浮かべたまま、勢い込んだ。
「大丈夫だよ、ね、紗綾。あやさんならきっとお客さんを喜んでくれるでしょう」
「それは……そうだろうけど」
紗綾は朝霧さんをじっと
朝霧さんはそんな紗綾を見ているようで、少し視線を
私たちは実力テストの終わる金曜日に約束を取り付けて店を出た。
「ねえ、あの人本当に大丈夫なの?」
なぜか紗綾は訝しげだ。
「大丈夫って、大丈夫に決まってるよ!」
「なんで?」
「なんでって、だって……紗綾、笑わない?」
紗綾は神妙にこくりと頷く。
「だって、だって、なんだかマリア様に似てない?」
「…………え?」
手を合わせて仰ぐような私に、紗綾はきょとんとしている。
「すごくそれだけで神聖な気持ちにさせられちゃって。優しくて穏やかだし、マリア様が生きてたらこんな感じなのかなあって」
「まさかそれだけの理由?」
私も神妙に頷く。
「それに助けてくれた恩人だし。多分できないことを言うような人じゃないと思う」
「それは小梅ちゃんの直感?」
「そう! だから安心してね!」
私の直感が信用度九十パーセント超えであることを、紗綾も知っている。
私は紗綾と両手をつないで、ぶらぶらとブランコのように揺らす。まるで子どもが遊んでいるように。
しかし、紗綾は浮かない顔で動かされるままに手を眺めていた。
「どうかした、紗綾? さっきもなんか店でおかしかったよ?」
「……小梅ちゃんはあの人のこと好きなの?」
「うん、好きだよ。だってあんな優しい男の人なんてほかにいないよー。でも……」
私が紗綾の手を放すと、紗綾は驚いたように私を見つめる。
私はそんな紗綾がかわいくて、首に飛び付いた。
「でも紗綾のがもっともっと好き。愛してる、紗綾ちゃん」
「小梅ちゃん……」
紗綾も私の背中をぎゅっと抱きしめて、ぽんぽんと子どもをあやすように
学校でも、紗綾は私以外の人にはあまり心を開いていないように見える。朝霧さんに対するようなツンツンした態度ではないが、当たり障りのない反応で濁しているように感じるのだ。だからこんな紗綾の照れた顔なんて、他のクラスメートは見たことがないだろう。
私だけが知っている、私だけの紗綾。大声で言いふらしたいような、このまま宝箱の中に隠しておきたいような複雑な気持ちになる。
「ねえ、紗綾は私のこと信用してくれるでしょう?」
言い終える前に、答えが返ってくる。
「もちろん」
「だから紗綾は朝霧さんを信用してる私を信じて。きっといい春が過ぎていくよ」
それぞれの家へ帰る分かれ道で手を振って、曲がり角を曲がる。後ろを振り向いても、当然紗綾の姿はない。
見知った街でも、夕日に照らされた姿を見ると、違う街に紛れ込んでしまったような、やっと帰ってきたというような気持ちになる。ノスタルジアとはこういうことをいうのだろうか。
あの店も同じだ。
帰りたかったところへ戻ってきたように、泣きたくなるほどほっとする。
それでいて、少し怖い。
紗綾と出会ったこと、あやさんの病気のこと、桜の香りのこと、異国のようなコハルノートに、その店主朝霧さんのこと──私の中の新しい扉が次々と開いていくようで。目まぐるしく、焦りを感じ、何者かに惑わされている……まるで不思議の国に迷いこんだアリスのようだ。
出口の光は見えているのに、それがどの扉から
香りに導かれるように扉は開き、私の未来が変わりはじめている。
私はそう直感して、走って家に帰った。開いた扉に
まだもう少しだけ、安穏の中で
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