コハルノートへおかえり3

 勇気を満タンに補充して、翌日意気揚々と紗綾に学校で謝る……はずだった。

 私はさんざん雨に打たれたせいで、土日をつぶして寝込むほどの風邪をひいてしまったのだった。金曜日に帰ったあと元気もりもりとごはんを食べていたはずが、土曜日に起き上がることもできずにうなされていた私に、ママは「小梅ちゃんでも風邪をひくのねえ」とのんに言いながらも、雑炊を作ってくれた。

「夏風邪はバカがひくっていうのと、何か混ざって間違ってない、ママ?」

 もやの中でさまよっていた思考がようやく現実へ戻ってくると、暇で仕方がない。だけれど念のためと、普段はほわんとしているママに月曜のきょうまで休みを厳命されてしまった私は、居ても立ってもいられないほど学校へ行きたかった。もちろん授業のためなんかじゃない。紗綾に会いたいのだ。

「まだ怒ってるかなあ」

 先ほど食べたうどんのせいか、すうと眠気が訪れる。どうせ起きていてもすることはないのだから、寝てしまったほうが気持ちは楽だ。引き込まれるがままに私は眠りにみ込まれた。

 目を覚ましたのは、ママの能天気に私を呼ぶ声が耳に入ったから。空がラベンダー色に染まりかけていた。ずいぶん寝ていたようだ。

「小梅ちゃーん? 起きたー? 今お友だちお通しするからぁ」

 寝間着にしているのは中学時代のジャージだ。病気なのだから着飾る必要はないけれど、もう少しマシなパジャマに着替える猶予ぐらい与えてほしい。

 それにしても誰が来たのだろうかと思いながら起き上がったとき、ドアを開けたのは紗綾だった。左手には二つのカップが載ったお盆を持っている。

「風邪、大丈夫?」

 ばっちりと目が合ったとき、私は気まずさよりも嬉しさが先に立って、紗綾に駆け寄る。紗綾の手からお盆を取り上げ、近くにあった机に置いた。

「紗綾、来てくれたの? ありがとう! あ、お客さんにお茶を持たせて。まったくママったら。あ、あのね、私紗綾に──」

「ごめんね!」

 謝罪の言葉を口にしようとした瞬間、謝罪の言葉に遮られてしまった。紗綾が人の言葉を遮ることなど滅多にない。さらに謝る側は私であるはずなのにと目を丸くした。頭の中が白くなっていると、紗綾が慎重に言葉を選びながら紡ぐ。

「私の八つ当たりだったの。小梅ちゃんは何も悪いことなんてしてないのに、勝手に私が怒って……もう一緒に話せないかもと思ったら、私……」

 そこで言葉が途切れたのは、紗綾がえつをこらえているからだ。

 そのけなな様に、私の目もじんわりと熱くなる。

「私こそごめんね。私考えないでしゃべるから、いつもそれで人を傷付けて。紗綾を傷付けてごめんね。直接謝ろうと思ってたの。ごめんね、来てくれてありがとう」

 紗綾にガバリと抱きつき、力の限りに抱きしめた。私の背を紗綾の手が優しくでる。その後は二人でワーワーと子どものように泣きじゃくり、しゃくり声が止まる頃には真っ赤に目をらしていた。恥ずかしさにお互い誤魔化すように笑みを浮かべる。

「許してくれてありがとう、小梅ちゃん」

 紗綾の輝かんばかりの笑みを見て、私は疑問をぶつける。

「でも私の言葉がきっかけで、何か紗綾を怒らせたんでしょう? 謝りたいの。でもなんで傷付けちゃったのか、何に謝らないといけないのかわからなくて」

「それは、もういいの。小梅ちゃんは何も悪くなかったんだし」

「よくないよ! ねえ、私たち友だちだよね? ちゃんと教えて? 知りたいの。私、人を傷付けてそのまま通りすぎるなんて、そんな自分のままでいたくない」

 迷って迷って、紗綾はぽつりと言葉をこぼした。

「……私は桜に散ってほしくなかったの」

「桜?」

 確か、お花見をしようと言うついでに、もう日曜日には散ってしまうとか、そういうことを口にした。だけど桜が散ってほしくないとはどういうことだろうか?

 私が首を傾げると、紗綾は少し困ったような悲しそうな顔をした。

「おばあちゃんがね、今入院していて」

「え! 大変じゃない! 大丈夫なの?」

「うん……肺炎で、もう体調はよくなってきたんだけど……すっかり気が弱っちゃって。桜が散るのを見て悲しそうにするの。それがつらくて」

 紗綾のご両親は忙しい人で、彼女はほとんど祖父母に育てられたようなものだと、以前笑って話していた。その表情からは大好きで仕方がないという愛情があふれていた。私までほっこりとうれしくなったほどだ。おじいさんはもう何年も前に亡くなってしまったらしいけれど、おばあさんまで入院してしまったらかなりこたえていることだろう。

 私はそんなことも知らずに能天気に地雷を踏んでいたのだ。

「ごめんね……私ひどいこと言ったんだ」

「違うの、小梅ちゃんは何も知らなかったんだし、何も悪くない!……だけど、どうしたらいいのか、私もうわからなくて」

「わからないって何が?」

「おばあちゃんは桜に何か深い想い出があるみたいなの。……私もいろいろ調べてみたけど、万策尽きちゃった」

 大好きなおばあちゃんのために何かしてあげたいと思うのは当然のことだ。それなのに力になれないなんて、情の深い紗綾には歯がゆくて仕方ないだろう。

「……ねえ、私もおばあちゃんのお見舞いに行っちゃだめかな?」

「小梅ちゃんが? 多分喜ぶとは思うけれど」

「紗綾がわからないものを私がわかるとは思ってないよ。でも二人で話を聞いたら、何か違うものが見えてくるかもしれないでしょう? それに紗綾の大事なおばあちゃんだもん。私もお見舞いしたいよ」

「わかった」

 一瞬笑顔になった紗綾だったが、急に怖い顔になって、私にずいと迫った。

「だけどその前に、小梅ちゃんはまず自分の体調を治すこと! いい?」

 美人にすごまれると、それが友だちでも冷や汗が流れるほどの迫力だ。

「モチロンデス」

 紗綾が帰った後、ママが心配するほどもりもりとご飯を食べた私は、すぐに再びベッドに戻る。心配事が解消されたこともあって、ぐっすりと眠ると、翌日にはすっかり完治していた。紗綾への愛の力だと私は信じている。

 その週の中程、私たちは学校の帰りに紗綾のおばあさん、あやさんの病室を訪ねていた。あやさんは思っていたよりも明るく、紗綾によく似た上品な笑顔で私を迎え入れてくれた。孫が友だちを連れてきたということに大層喜び、次に不思議がった。確かにいくら友だちのおばあさんが入院しているからといっても、見舞いに来るというのは少しいき過ぎだろう。

 私はなんと説明したものかと迷いながらも、いつものごとく、頭の中に流れるがままに言葉を口に乗せる。

「すいません、私が紗綾に無理に聞き出したんです。おばあさんが桜に何か深い想い出があって、落ち込んでいると。そのことについてどういうことなのか聞きたくて! 急に押しかけたうえに立ち入ったことをお聞きしてごめんなさい!」

 一気に言い切ると、あやさんは「あらまあ」と口を丸くすぼめる。次いで孫へ無償の愛のこもった視線を送る。

「心配かけてごめんね、紗綾ちゃん。悪いおばあちゃんだねえ」

「そんなことない……けど、私も気になる。何かできることがあるならしたいってずっと思ってたの。なのに何もできなかった。でもね、あきらめてたら小梅ちゃんが励ましてくれた。一緒に手伝ってくれるって! おばあちゃん、話してくれる?」

 あやさんは困ったような、少しはにかんだ様子で微笑み、窓の外に視線をやった。そこにはほとんど散ってしまった桜の木が見える。

「そんなにすごい出来事があったわけじゃないのよ。本当に日常の一部。でもね、桜はおじいさんとの想い出なの」

 紗綾のおじいさんは紗綾が中学へ上がるのを見届けて逝ったと聞いた。だからなおのこと、紗綾とあやさんが二人で過ごしてきた時間というのは、かけがえのない大切な……失いたくない時間のはずだ。

「どんな想い出なんですか?」

「そうねえ……香りかしら」

「桜のですか?」

「そう、桜の香り」

 私と紗綾は顔を見合わせた。紗綾はきょとんとした顔をしていて、多分私も同じような表情をしているだろう。

 あんなに満開に咲く桜のはずなのに、香りなんて感じたことはなかったからだ。

 そんな私たちの困惑をよそに、あやさんは懐かしむように想い出を語りだした。

「桜の下でねえ、かずさん……おじいさんに結婚を申し込まれたの」


    ◆  ◆  ◆


 染井吉野が咲き誇る時期はとうに終わっていた。八重桜もそろそろ散ろうかという春の終わりに、何の成り行きか、二人きりで知り合いのお宅へお遣いに行かされた。二人の両親が戦前からお世話になっていたという道場のご隠居へのあいさつだ。一機は一時習っていたこともあるらしいが、あやはほとんど知らない人だ。そんな人へのお遣いを少し不思議に思っていた。用事を済ませた帰り道、近くの神社へ寄り道をしようということになった。

 おさなじみという気心の知れた仲ではあるが、男女が、ましてや年頃の二人が並んで歩くのは気恥ずかしく、あやはずっとうつむいて、三歩後ろを歩いていた。そのため、一機が突然足を止めたのにも気付かず、背中にぶつかりそうになって、初めて驚きと共に顔を上げた。一機は気にした様子もなく、天を仰いだまま目をつむっている。陽の光を感じてでもいるのだろうか。一向に人目を気にする様子のない一機に、あやはかすように声を掛けた。

「一機さん? 何をしているの?」

 あやの問いかけに、ようやく一機は目を開けて、あやに笑いかける。

「ごらんよ。桜が咲いてる」

「桜?」

 一機と同じように天を仰ぐと、古い屋敷の土塀の中から抜けだそうかというように、一本の桜が誇りと咲いていた。遅れた狂い咲きだろうか。だが、それがどうしたというのだろう。あやは不審そうに一機に視線を戻した。一機は心得たようにこたえる。

「あやちゃん。目を瞑って、思い切り空気を吸い込んでごらん」

 一機は幼いときから、ときどきこうして周囲を惑わす行動をとったものだ。けれど、それはいつでもあやに新鮮な驚きをもたらしたことを思い出す。小さい頃は、少し年上の一機を本当の兄のように思いつつ、ひそかにあこがれてもいたのだ。

 言われた通りに目を瞑って、空気を胸いっぱいに吸い込む。

 そこで久方ぶりに、一機の思惑どおりの驚きを味わった。

「……香りがする。甘い香り」

 目を瞑っているのに、一機が隣で笑っていることが分かる。

「いい香りでしょう。僕はこの季節にここへおまいりに来るたびに、この道を通ることにしているんだ」

「この桜はいつもこの時期に咲くの? 狂い咲きではなくて?」

「そうなんだ。あやちゃんにも教えたくて、無理に用事を作ってもらったんだ」

 仕組まれたお遣いだったことに、目を丸くする。中学校へ上がる頃には、一機と遊ぶこともなくなり、一機が高等学校へ進むとほとんど会うことさえなくなっていた。きょう顔を合わせたのも久しぶりのことだった。

「どうしてそんなことを?」

 朗らかに笑っていた一機の顔がにわかこわる。真剣な表情に、あやの心臓は一瞬大きく揺れた。

 予感と緊張、少しの期待。

「前に教えてくれたよね。あやちゃんの名前はあやりからきていると──」

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