コハルノートへおかえり2

 ……今思い返しても、どうしてそれから紗綾が私とずっと一緒にいてくれるのかよくわからない。

「……なんで梅から桜に変わっちゃったのかな?」

「なあに、何の話?」

 唐突な私の言葉に、紗綾は首を傾げる。

「お花見はどうして桜になったのかなって。やっぱり桜のほうがきれいだもんね、梅より……そうだ! お花見しない? 明日あしたは土曜日で授業半日だし、そのあとお花見しに行こうよ!」

 窓の外に桜の木を見つけて、私は大きな声を出した。慌てて紗綾が口の前に人差し指を立てる。そうだ、ここはせいひつな図書館。他の人の、特に図書委員の視線が痛みを感じるほどに突き刺さる。

 私は声を潜めて、身を乗り出すように紗綾に畳みかける。

「だって、日曜日は雨が降るって言ってたし、きょうだってこんな曇ってるし。きっと明日が最後のチャンスだよ。受験でずっと引きこもってきたんだからさ、ちょっとぐらい陽の光を浴びてもいいと思わない?」

「そうね……」

 紗綾も窓の外を眺め、覇気のない声でこたえる。さすがの紗綾も勉強に疲れを感じているのだろうか。

 私は励まそうとして、さらに言葉を継ぎ足す。

「ちょっとは休憩も必要だよ。桜だっていつまでも待ってくれないんだから。今だけだもん。桜なんてあっという間に散っちゃうじゃん。あ、もちろん風に舞う花びらもきれいだよ。でもやっぱり──」

 私の言葉を止めたのは、紗綾がバタンと勢いよく教科書を閉じる音だった。静かな図書館中の視線を再び集める。マナーとルールを大事にする紗綾には珍しい行動だ。

 私があつにとられていると、紗綾はかばんに手早く荷物を詰め込む。終えると私をちらりと一瞬だけ見て席を立ち、図書館を出て行ってしまった。その視線はミツバチが獲物を刺すような鋭いもので、だけれどその針が抜けた瞬間に自分の命もついえてしまうような悲哀がこもっていた気がする。

「私、何か、した……?」

 お腹の底のほうから、もやもやと黒い感情が立ち上る。

 私はただお花見に誘っただけだ。なのに、なぜあんな目で見られた上に、無言でこの衆人環視の中へ置いていかれないといけないのか。いらちのままに乱暴に鞄に荷物を放り込み、ずんずんと私も図書館を出た。きっとこの時間差があれば、紗綾に追い付くことはない。意外と紗綾は早足だから。

 ロッカーでローファーに履き替えて、私はようやく雨がしとしとと降り始めていることに気付いた。

 ますます私は腹立たしくなる。

 置き傘なんて家に忘れている私はれて帰るしかない。いつもだったら紗綾が傘に入れてくれたはずなのに。二人で一緒に楽しく、少し別れが名残惜しく帰っているはずなのに。

 私は怒りのままに外に一歩を踏み出す。

 小さな霧状の雨粒が、かっかっとしている顔に当たり、意外と気持ちがいい。冷たい雨は、一歩進むごとに私の頭の熱を冷ましていってくれる。

 いつもは私がどんなにまくしたてようと、紗綾は穏やかに話を聞いてくれる。きょうは何が違ったのか。

「私、なんか変なこと言ったかな」

 あまりお花見に気乗りした様子ではなかったのを無理に誘ったけれど、本当にダメなとき、いつも紗綾はちゃんとはっきりと断ってくれた。それなのにきょうは何故?

「やっぱり余計なこと言っちゃったんだ」

 しかし、考えても考えても、自分の発言の何が紗綾の気に障ったのか、さっぱり解明できない。

 考え事と後悔で足取りは重くなり、その間に雨は大粒に膨らむ。身体に当たる感覚も強くなり、制服がなんだか重くなってきた。顔もきっとずぶ濡れだ。

 だけれど、それはもう一つのしずくも隠してくれる。

「このまま、明日も話してくれなかったりして……」

 ──そんなのやだ!

 謝るにしても、理由がわからなければ、それは上っ面の言葉だ。それをしてしまっては、紗綾の友だちと胸を張って言えなくなってしまう。

 どうしたらいいんだろう。それがわからないのは、まだ紗綾のことがよくわかっていないからだ。ずっと昔からの友だちのようで、だけれどまだ仲良くなってから一週間。たった一週間なのだ。最初からなかったことのように、関係がリセットされてしまってもおかしくはない。

 ──やだよう。

 焦る気持ちに身体は付いていかず、おろそかになった足がもつれ、私は道端に倒れ込んだ。見事にすっころんだまま、目の前に次々と生み出される波紋をぼうぜんと眺めていた。

 波紋はじわりと私に届き、身体だけではなく心の奥底まで冷やしていくようだ。それなのに目だけは熱く、規則正しいはずの円がゆがんで見える。これが今の私の世界だ。

 そのときだった。急に私を打つ雨が消えた。

 一瞬の期待と、それを打ち破る現実。

「大丈夫?」

 その声は優しく甘い、男の人の声だった。

「だ、大丈夫です」

 立ち上がりながら顔を上げるが、涙で揺らいだ視界では、つまびらかな世界は見えない。だけれど柔らかな空気をまとったその人の周りには雨垂れが反射して、キラキラとした光が散っているようだ。

 その光景はまるでマリア様が私に傘を差しだしているのではないかと錯覚させる。

 はっと気付き、私は慌ててごしごしと顔をぬぐう。泣いていることがばれないように。

 目をこすりながら、逆の手で額に張り付いていた前髪を必死で伸ばしていると、肩に温もりが降ってきた。同時に、ふわりと香りに包まれる。

 心が澄むような森林の香り、そこにかすかにかんきつ系にも似たようなものが混じる。

 汚れたガラスを拭ったように、ようやく正常に戻った視界の先には、香りと同じく優しい面立ちの男の人が私の頭上を通り越して手を伸ばしていた。再び香りが漂う。

 服に染みこんでいた香りなのだろうけれど、私はこれと同じ香りをかいだことはない。香水だろうか。だけど他の人に感じるものよりも、いたわるような優しさがある。

(匂いと人って似るのかな)

「これ持ってくれる?」

 傘の柄を私の手に押し付けるように手渡すと、ガチャガチャと扉にかぎを差し込んでいる。白いシャツに、黒いズボン。よくあるお店のユニフォーム。ということは、私は店の前ですっころんだまま寝転がっていたということだ。迷惑なうえに恥ずかしく、今度は顔が赤くなりそうだ。

 怒りに任せて歩いてきたから、どこまで歩いてきたのかわからない。ここはどの辺りだろうかと店構えに目を向けたとき、

「さあ、中へ入って」

 傘を私に渡してしまったその人は、さっさと中へと入っていく。

 開いたドアから、ふわりと香りの大群が私に襲い掛かった。

 花畑のような。

 お日さまに照らされた原っぱのような。

 雨に濡れた土と草いきれのような。

 火にくべられた木が音を立ててぜるような。

 ……そして森林の中を歩いているような気がした。

 その複雑に入り混じった空気は、柔らかく私を店内へ誘っているようだ。

 そこでようやく私はどこまで歩いてきていたのかわかった。

 学校と自宅のちょうど中間辺り。長らくシャッターの閉じていた店が、昨年の秋頃から改装を始めていた。前を通るたびに西洋のアンティーク調に変わっていく店。いつ開くのかと気になっていた。何の店なのかはわからないが、下町にもなじむような、だけれどあこがれを抱かせるには十分な風体は、期待を気球ほどに膨らませる。開いたら二人で行こうと紗綾と約束をしていた。

 また紗綾のことを思い出して、じわりと目が熱くなる。

 私はプルプルと頭を振って、考えを頭の中から振り落とそうとする。

 いつまでも中へと入らない私を、男の人はちゆうちよしているのだと勘違いしたのだろう。

「濡れても大丈夫だから、そのまま入っていいよ。何もないけど、乾いたタオルと温かいお茶はあるから……心配ならドアを少し開けておいて」

「いえ、そんな心配は!」

 男の人はパタパタと中へ駆けていってしまい、私は一人残される。暗くてよくは見えないが、開け放たれたドアから入る光によって垣間かいま見えるのは、整然とものが並んでいる店内だ。入る者を出迎えるときを静かに待っているようだ。それに男の人のシャツもズボンも、丁寧にアイロンがかけられていた。最近は物騒な事件も多いけれど、この人は信用できる人だと確信し、私は店の中へと足を踏み入れた。

 余計なことはたくさんするけれど、私が唯一自信を持っているのは、直感を信じると間違いはないということだ。

 スカートからポタリポタリと雫が落ちる音で、ずいぶん濡れそぼっていたのだとようやく知った。うつむいて、その雫の垂れる様子をただ眺める。これでは男の人も心配になって声をかけるはずだ。

「なにやってるんだろう、私」

 乾いたちようが思わず口かられた。

 大事な友だちを怒らせて、自棄やけになって途中で傘を買うこともなく、人の店の前で転がって……全くのバカでしかない。

 どん底まで落ち込みそうになったとき、私を励ますようにパッとあかりがいた。

 そのタイミングのよさに顔を上げると、店内はまさに異空間だった。床も壁も天井も暗い色調の木で揃えられた店内は、どこか外国のお屋敷……いや、魔女のやかたのようにも思える。閉じたドアだけが濃く深い赤で塗られていて、やはり外界と閉ざされた空間だということを主張しているようだ。

 中央には広いコの字型のカウンター。オープンキッチンのようになっていて、向こう側には様々な柄のポットやカップがきれいに棚に並べられている。右側にはやはり深い色調の木でできたアンティークのテーブルと赤いソファーのセットがいくつか。左側には壁際を覆い尽くすように、棚に瓶が並んでいる。中に入っているのは花や草のようなもの……私には何なのかわからないものでいっぱいだった。

 灯りも直接人には当たらないように、間接照明であったり、ランプシェードが草で覆われて陰っていたり。普段は日光で十分なのだろうが、やはり異国か物語の中に紛れ込んでしまったようだ。

 圧倒されて入り口に突っ立っていると、男の人がタオルを抱えてきてくれた。

「ごめん、女の子の着替えになるようなものがなくて」

 男の人は困ったように、手のタオルに目を下げたままだ。私はそれを丁寧に受け取って頭を下げる。

「いえ、ジャージがあるので。ありがとうございます」

 タオルで顔を拭うと、その温かさに気とるいせんが再び緩むほどほっとした。トイレを借りてジャージに着替えると、男の人は棚から取り出したのだろういくつかの瓶を傍らに、ティーポットにお湯をいでいた。所在なく突っ立っていたが、そのコポコポという音に誘われるように、男の人の前のカウンター席に腰を落ち着かせた。

 知らない場所に知らない人と居るというのに、これほど心が落ち着いているのは不思議だった。それほどまでに、この人はすっと人の心に染み入るような雰囲気でたたずんでいるのだ。

「あの……」

「その……」

 二人の声が同時に響く。続けようとした言葉を、ぐっと食い止めると、男の人は無言でこちらの言葉を待っているようだった。それなのに、いつもはとめどなくあふれてしまうはずの言葉が、なぜか消えていた。

 私が無言のままでいると、男の人は口元を和らげた。

「その制服、よく見るんだけど、この近くの学校なのかな?」

 ポットからお茶が注がれる音と、男の人の声が二重奏のように重なる。

「最近ここに来たからね、よく知らないんだ」

 問うでもない。興味でもない。ただの雑談。

 その気遣いが伝わってくる。

「よく知らない場所にお店を出したんですか? どうして?」

「さあ……知らない場所だったからかな。でも、なんだか懐かしい場所だったから」

 その言葉の意味はわからない。でも私にはうれしい言葉だった。私はこの街が好きだから。褒められることは単純に嬉しい。

「どうぞ」

 差し出されたカップには、リンゴジュースのような黄金色の飲み物が注がれていた。カップを口に運ぶと、ふわりと花のような甘い香りがした。

 かいだことのなかった香りに、私が警戒するようになかなか口をつけないでいると、男の人は「そうか」とつぶやいた。

「ハーブティーは飲んだことがない?」

「ハーブティー……初めてです。ここはハーブティーのカフェなんですか?」

 男の人はポットに余っていたお茶をもう一つのカップに注ぎ、お茶を口に含む。その味に満足したように、柔らかな口角を一層緩ませたような気がした。

「カフェもいずれはと思ってるんだけど、とりあえずは販売だけかなあ。ハーブティーとエッセンシャルオイルと。アロマテラピーは知ってる?」

「雑貨屋さんにありますよね。だからお店に入ったときにいい香りがしたんだ」

 男の人は私の言葉に少しだけまゆじりを下げて、困ったような顔をした。

「雑貨屋さんかあ……」

 また私は失言してしまったのだろうか。苦いものを洗い流すように、私はカップにようやく口をつけた。

「──おいしい!」

 香りと違い、もやもやとした心が一瞬で晴れ渡るようなすっきりとした味だった。そのことに驚いてパッと顔を上げると、男の人がビクリと後じさった。

 私はきょとんとしたまま男の人を見つめる。

 そこで初めて気が付く。

 私がこの人の顔を……ちゃんと目を合わせるのは初めてだったということに。

 男の人は目をみはって、がくぜんとした顔をしている。この人は何に驚いているのだろうと不思議だった。

 だけど、私はさぞかし間抜けな顔をしていることだろう。だってその人は、絵画に出てくるような端整な顔立ちをしていて、紗綾とは違うれいさだ。まるで、

「……マリア様」

 学校で見慣れたあの顔。安らぎを与える表情。

 だから私は救われたのかと思ってしまった。

「マリア様?」

 なぜか私と同じようにきょとんとしていた男の人も、私の呟きで我に返ったようだ。

「あ、いや、その……マリア様みたいにきれいな顔だなあと思って」

 恥ずかしくなって顔を赤らめながらも、その顔から、澄んだ目から、視線をらすことができない。男の人も今度は私を観察するようにじっと見つめている。それがまた居住まいをそわそわとさせる。ふっと視線を外されたときにはほっとしたほどだ。

 男の人はカウンターの端に手を伸ばし、何やら紙片を私に差し出した。

「ハーブティーとカフェの担当がこっちに来るのが遅れていて、オープンまで遅れているんだけど。今月の下旬には開くから、よかったらまた遊びに来てね」

 渡されたのは名刺のようだった。店の名前も書いてある。柔らかい笑みに励まされるように、私は名刺を握りしめながら前のめりになってうなずいた。

「私、友だちとケンカしてすごく落ち込んでいたんですけど、お茶を飲んだら一気に元気が出ました! 絶対仲直りして、一緒に来ます! 本当にまた来ちゃうので、よろしくお願いします!」

 握った手を顔の前で振ると、ほのかな樹の香りが漂う。その名刺には『香りと味を調合いたします コハルノート』その下に『店長 あさぎり すみ』と書かれていた。

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