コハルノートへおかえり

石井颯良/KADOKAWA文芸

コハルノートへおかえり1

 ──世界は平等に不平等なのよ。あなただけが幸せなんじゃない。あなただけが不幸せなんじゃない。でもどこかの誰かがとても幸せで、同時にどこかの誰かがとても不幸でも、その不平等は平等に振り分けられているの。誰がその立場になってもおかしくはないの。

 そしてその幸福も不幸も、あなたが決めているの。

 ねえ、そのままでいるつもり、×××──?



第一話 桜が香るまで待って



 稲妻が走った。よくそんな表現を聞くけれど、あの日あのとき私を襲ったのは目の覚めるようなふくいく

 あの瞬間に流れたのは、私の人生を変えた一陣の香りだった。

 まどろみを運ぶ春の香りのようで、

 眠気を覚ます果実の香りのようで、

 優しく包み込む樹の香りのようで、

 幸せを運ぶよろずの香気。

 大げさでもなんでもなく、運命というのは唐突に目の前に現れるのだと思った。

 どんなに遠くにいても、どんなに悲しいできごとに見舞われたとしても、私の帰る場所は間違いなくあの場所となったのだ。


    ◆  ◆  ◆


 高校へ入学して、一週間。浮き立っていた私たち新入生も、ようやくクラスの中に自分の場所をいだした頃。私は友だちのと図書館で勉強をしていた。早々に勉強に嫌気を覚え、私は目の前に座る紗綾をなんともなしに見やる。

 同じ中学出身だというのに、会話を交わしたのは高校へ入ってからのことだ。紗綾は和風美人というべき容姿と、新入生代表のあいさつをするほどの頭脳、加えて優等生。かろうじて入学を許された私とはなんの接点もなく、接点がなければ今でもただ同じクラスの中にいるだけの存在だっただろう。

 私の視線に気付いた紗綾が、手が止まっている私に顔を曇らせる。

「何かわからないところでもあった? それとも疲れちゃった?」

「いやー……」

 受験戦争をようやく終えたかと思えば、すぐに次の戦争準備が待っている。そのことにすでに私はあんたんとしていた。

「何か楽しいことないかなーと思って」

 私がただ飽きているだけだと気付いた紗綾は、仕方ないなあと苦笑する。

「帰りにどこか寄り道していく? うめちゃんが好きな一番街のカフェとか」

「行く行く! 大好き、紗綾!」

 私たちの通うあかほし女子高等学校は、と呼ばれる街にあった。カトリックの教えを元にした学校は、校内に教会があり、シスターたちが住み込んでいる。聖母像があちこちにさりげなく配置され、広い芝生に囲まれた噴水のあるゆったりとした広場の雰囲気は、小江戸のちゃきちゃきとした空気とは校門を隔てて別世界のようだ。

 少しだけ田舎で、いにしえを誇りにしながらも少しだけ近くの都会にあこがれる街。土蔵が並ぶ目抜き通りからは、小さな通りが無数に延びる。シャッター街になりそうな危うい時期もあったけれど、今ではまた活気のある街へと戻ってきている。地区ごとに昔なじみが集まり、地域の活性化を案じることもある。窮屈さもあるけれど、そのなじみ心地は妙に快いものでもある。

 私たちは地区が違うけれど、二人とも学校から歩いて三十分圏内であるため、朝は紗綾と待ち合わせて徒歩で通っている。もちろん私が待ち合わせに遅れ、紗綾がうちへ迎えに来ることのほうが多いのだけれど。

 なんでこんな才色兼備な紗綾が平凡、もしくはそれ以下の私なんかと一緒にいてくれて、面倒を見てくれて、かつこんなにも優しいのか。いまだに謎だ。

 初めて紗綾と直接会話を交わしたのは、高校の入学式の日だった。まだ私にとっては紗綾が「つきしろさん」だったときだ。


 式が始まる前、教室でのわずかな待機時間の隙を狙って、月代さんの並外れたオーラに美意識の高い子たちが群がっていた。

「月代さんって、長い髪なのにさらさらだよね。何のコンディショナー使ってるの?」

「肌もすごい白いしさぁ。ねえ、きょうの帰り一緒にクレアモールで買い物して帰ろうよー。使ってるコスメとか教えて!」

 月代さんは、同じ中学出身だった。中学校でも有名だったため、私は知っていたけれど、多分月代さんのほうは私のことなど知らないだろう。

 まくしたてる群れに、月代さんはされ、うまく対応できないようだった。月代さんは派手な部類ではないため、彼女たちの趣味とは何一つ合わないように見える。どちらかというと私のほうが話は合うのかもしれない、と分不相応にも思った。

 美人も大変だなあと私は思いつつ、式の行われるホールへ向かおうと席を立った。

「あの、私、きょうは早く帰らなくちゃいけなくて……」

「えー、なんで? ちょっとぐらいいいじゃん。どうせ教科書買いに行くついででしょ!」

「でも……」

 月代さんの態度にれたのか、彼女たちの一人が大きなため息をついた。

「もういいよ。月代さんみたいな優等生は私たちに付き合う気はないんだってさー」

「あーあ、残念。ねえ、そろそろホール行こう」

「行こ、行こ」

 彼女たちが急にそっぽを向いたことに、月代さんは心細そうに、小さく口を開いた。

「わ、私も……」

 小さな声が私にも聞こえたのだから、もっと近くにいた彼女たちにはちゃんと聞こえていたはずだ。だがそのささやかな求めは無視された。

「そういえばさ、きょうからスタバで新しい商品出るよね。飲みたーい!」

「じゃあついでにドラッグストアで新商品のコスメ見ていい?」

「もっちろん!」

 私は月代さんの肩がどんどん下がっていくのに耐えられなくなって、大きな声で彼女を呼んだ。

「月代さん!」

 突然遠くから呼ばれた月代さんはびくりと姿勢を正し、私のほうを振り返った。

 目が合った瞬間に、ほっとあんした顔。

 私はその表情を見て、月代さんが私を待っていたように感じた。

 私はつかつかと近寄って、月代さんの手をつかんで、にっこり笑う。

「ねえ、一緒にホール行こう。そろそろ時間だよね」

 そしてそのまま戸惑う月代さんをその場から無理やり連れだした。

 そのとき、月代さんの香りが私の鼻孔をくすぐる。

 ほのかに服についた線香の香り。その落ち着いた香りが、場のよどんだ空気をきよめていくようだった。私は彼女と仲良くなれる。そう直感がささやいた。

 だけれど、後ろからの聞こえよがしな声が私に突き刺さる。

「なにあれ、空気読めなさすぎじゃない?」

 私は誰にも聞こえないようにつぶやく。

「クラスメートを困らせる空気なら、読めなくていいよ、私は」

 ズキズキとむ心と怒りを抑えながら、私はずんずんと歩く。月代さんを引っ張ったまま。──これでよかったのだ。私の株など、彼女たちにはどうせすぐにどうでもよくなる。それよりも、月代さんの心を守れただろうか。

 ホールへの渡り廊下でずっと手を摑んでいたことに気付き、ようやく立ち止まる。

「ごめん。私余計なことしちゃった?」

 月代さんは首を振った。

「そんなことない。本当に助かったの……くればやしさんだよね。同じくらまち第四中の」

 話したこともない、視界に入ったことすらなかっただろうと思っていたのに、名前を知っていてくれたことが、私はとてもうれしかった。そこで私の悪い癖が出る。

「そう! 紅林小梅! 月代さん……紗綾って呼んでもいい? すごくきれいな名前だよね。私ずっと思ってたの。私もそういうきれいな名前だったらよかったのにな。よりにもよって小梅だよ。しかもみようが紅林だから、紅梅ってからかわれてさ。渋すぎると思わない! 親も冬生まれで梅が咲いてたからとか言ってさ、ちょっとは考えて決めてほしいよね!」

 それまで黙っていたのに急にペラペラとしゃべり始めたことに、月代さん、否、紗綾は目を丸くしていた。

 またやってしまった。私はこのちよとつ猛進で何度も失敗を繰り返している。

 これでは困らせていた彼女たちと同じではないかと案じたとき、紗綾はくすくすと笑い始めた。

「紗綾でいいよ、小梅ちゃん。私はかわいくていい名前だと思うけど」

「本当?……紗綾がそう言ってくれたら、なんだかそんな気になってきた」

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