第10話 ホワイトからブラックへ

 世界は暗黒に包まれている。……否、事情に詳しい者ならこう言い変えるだろう。

 世界は光に満ちている。きらきらきらきら輝き過ぎて、一つ一つの輝きがわからなくなっている。

 人々は混乱している。情報の溢れすぎた世界で。

 結局のところ、バランスが重要だったのだ。朝でもなく、夜でもない。

 昼間こそ、人々がもっとも生活しやすい時間帯だ。

 だが、情報社会の夜は終わり、神々しすぎて人々を焼き尽くす朝がやってきた。

 民衆の目は、まだ太陽の光に慣れていない。なのに、太陽を直視している。

 このままでは目が潰れてしまう。

 その危機を知っていた彼らは私に、光の見方を教えてくれた。

 私と同じような境遇の子どもたちに、生きる術を。

 世界の真実を教え、渡り歩くための技術……ハッキング能力を授けた。



 ※※※



 薄暗い部屋の中、ブルーライトが少女の顔を照らしている。

 エリックは絶対に怒る。それだけはカリナでもわかった。

 カリナはハッカーとして天才的だと自負している。これは何度も思い返すし、何度も言われてきたことだ。それでもわからないことは多い。

 むしろ、わからないことの方が多い。エリックは、自分を養子に迎えたおっさんは、合法的倫理欠如事案を目の当たりにしながらも、違法行為を肯定しなかった。

 例え必要だとしても、違法であるなら責任を取るべきだと言う。

 言葉としてならそれは正しい。

 悪いことはしちゃいけないのは当たり前だ。

 だが、例えば……違法行為をしなければ救えない命と対面した時も、あのおっさんはその理論を振りかざすだろうか。


「答えは、見えてるけどね」


 カリナの数少ないわかること。エリックは確実にその人間を救い、そして違法行為の責任を取る。そういう人間。

 軍では不良大尉と揶揄されていたようだが、ここでいう不良とは現代的な倫理観をきちんと遵守することだ。軍では、倫理観をかなぐり捨てることが優秀だとされていた。

 だから、不良。不真面目。出来損ない。

 誰よりも優秀なのに。

 そんな理不尽を、彼は受け止めてしまう。不満を言いながらも、妥当性はあるとして必要以上の反抗をしない。

 軍に対してクーデターを引き起こしたりはしない。無関係な人が巻き込まれ、悪しき前例を作ってしまうから。

 自分も別にそこまで過激に主張を通せ、とは言わない。だが、悪い奴のせいで、これ以上彼が不利益を被ってしまうのは耐えられなかった。

 エリックにそのことを伝えても、我慢しろ、と言うだろう。

 自分が悪く言われるのは耐えられる。

 でも、別の誰かが……命の恩人が、そうやって、バカにされるのは。

 悪党のせいで、命の危険に晒されるのだけは――。


「……」


 無言で視線と指を動かす。不審な企業のリストアップは終了している。

 後は順番に機密データにアクセスしてしまえばいいだけだ。

 何も心配はいらない。

 保険は既に掛けている。



 ※※※



 他にいいアイデアはあるようにも思えたが、最善手として数多の戦場を渡り歩いた頭脳が導き出した解決策は、この密会だった。

 エリックはカフェのテーブル席に座り、相手を待つ。前回、待ち合わせした相手には辛酸を舐めさせられた。だが、今回の相手はそのような危険性はない。もしそうなったとすれば、相手が一枚上手だったと認めざるを得ない。

 無礼な思考をコーヒーで押し流し待っていると、戦術眼で人畜無害と分析された相手が、にこやかな笑顔で現れる。


「待たせちゃいました?」

「いや。悪かったな」

「いいえ、全然平気ですよ。意外でしたけど」


 文香が対面に着席すると同時にアンドロイドがアップルティーを運んでくる。ありがとうございます、と会釈して、彼女は一口含んだ。


「好みだと聞いてたんでな。カリナから」

「そうだろうと思いました。カリナちゃん、自分の話より誰かの話をするのが大好きだから。いつもエリックさんの話してるし、だからきっとお家では私の話をしてくれてるんだろうなって。あ、で、でも」

「一応努力はしてみるが、不快な言動があれば指摘してくれ。改善する」


 顔を赤らめる文香にエリックは微妙な面持ちとなる。デリカシーに欠けているという指摘は何度か受けているが、どこをどう注意していいのかが未だにわからない。


「大丈夫ですよ。エリックさん、私を傷つけようとはしていないですし」

「そういうものか? セクハラやパワハラで訴えられたくはないんでね。自分で自分を逮捕しなくちゃいけなくなる」


 厳密にはよほど悪質なものでない限り逮捕までいかないが、きっとまとめサイトに載るくらいには話題性のあるニュースとなってしまうに違いない。


「まぁ……そうですね。私ぐらい顔見知りになっていれば別ですけど、初対面の若い人とはあまり話さない方がいいかもしれません」

「肝に銘じておく」


 助言を素直に受け取って、コーヒーを啜る。会話が途切れてしまうが、その沈黙は何を話すべきか迷っているゆえに発生したものではない。

 文香は少しこちらの様子を観察して、決心した表情を作った。


「あの!」

「……言ってくれ」

「カリナちゃんの様子が変だってこと、ですよね?」

「その通り」


 適当に頼んだ軽食が目の前に運ばれてくる。フォークでチェリーパイを弄んだ。


「私も感じてたんです。前は……なんていうか、とっても明るかったのに、最近はなんか……後ろめたさを感じると言うか……」

「あいつは……何か隠し事をしてる」


 そこまではエリックも掴んでいる。だが、それが何かという確証は得られていない。カリナはスーパーハッカーだ。プロテクトは堅牢で、エリックの技術を持ってしてもそう簡単に突破はできない。厄介なのは、彼女は侵入の形跡の有無にかかわらず、セキュリティを常にアップデートすることだ。既に強固なセキュリティに守られているハードディスクの中の、一部のデータフォルダだけを。

 本業に関わるデータは、エリックにもアクセス権が譲渡されている。そもそも、基本は二人で兼用している。プライベートフォルダは独自の認証を必要としているが。

 だが、問題となるフォルダは、家族には内緒のプライベートフォルダよりも防護が堅かった。そこまで躍起になって隠す必要がないはずのものだ。

 それがなんであるかは推理は容易だ。何なら直接聞き出してしまえばいい。

 などと、解決策は既に何十回も頭の中を巡っている。だが、実行は今のところできていない。


「もしかして、エリックさんはそれが何なのか知っているのでは?」

「知らん」

「ごめんなさい、言い直します。予想できているんじゃないですか?」


 肯定も否定もせず、エリックはパイにフォークを突き刺した。サクッと音がして切れ端が切断される。


「でも、それを訊き出してしまったら関係性が壊れるかもしれない。だから、訊けないでいる、と。そしてそれはカリナちゃんもわかっている。だから秘密にしている」

「そうかもな」


 文香の感性は平凡な部類であるとエリックは考えている。それはマイナスであるどころかプラスだ。特殊な環境で育った男に、十七年生きた少女のありきたりな感性は、とても参考になる情報だった。これから発生する脅威に対して、自己防衛の手段を確立するための。


「そういうことって、よくありますよね。私だって……エリックさんの言う通り、家族と相談するべきでしたし」

「いや、あれは俺の早計だった。ああなっても仕方なかったさ」

「いえ……。あの時は、あなたとカリナちゃんが来てくれたから、私は……無事で済みました。けど、もし誰にも気づいてもらえなかったら? 歴史で習いましたけど、今から百年以上前は、監視カメラも、GPSも、行動管理ログも存在してなかったんですよね。そういう時代だったら、きっと……私は殺されていたかもしれない。いえ、今の世界だって似たようなものです。監視システムは強化された。人々は、互いに互いを見張るようになった。その目をかいくぐるために、犯罪者たちは同じタイミングで事件を起こすようになった。下手したら、今の方が酷いかもしれません。目はたくさんあっても、どれが本命なのかわからない。そして、囮の事件も紛れもなく本物で、そっちも対処しなくちゃいけない。私、エリックさんが自己防衛にこだわるの、わかる気がします。あなたは、不器用だから、意図しない風に取られてしまうかもしれないけど、あなたの本心は、単純に誰にも傷ついて欲しくない。だから、いざという時のために備えておくようにって」


 保険、なんですよね。文香は自分で注文したケーキを切り分けて食べた。


「……訊くべき、だと思いますよ。私は」

「しかし、トラブルになること間違いなしだ」

「いいじゃないですか、トラブル」

「何?」


 予想外の物言いに、エリックは目を丸くする。文香はまたぱくりとケーキを頬張る。


「エリックさんとカリナちゃんって、家族でしょう。私が見た感じでは、父親と娘っていうより、兄と妹みたいな感じですけど、互いに大切に思っていることは間違いないです。なら、喧嘩したっていいじゃないですか。相手に自分の本音をぶつけて、喧嘩して――仲直りする。それは別におかしなことじゃないですよ。考えてみてください。本当は不満があるけど、仲が悪くなるのが怖いから意見を言わない――それは、短い期間だったら、いいかもしれません。でも、長いスパンで見てみると……そういう不満が積み重なって、致命的な亀裂となってしまうんですよ。離婚する夫婦は、喧嘩する夫婦じゃなくて、喧嘩しない夫婦の方が多いんです」

「家出する親子は喧嘩する親子だと思うがな……」

「でも、エリックさんなら絶対見つけ出すんじゃないですか? 例え、カリナちゃんがいなくなっても」


 エリックは質問に答えない。代わりにパイの切れ端を食べた。


「カリナちゃんはきっと待ってますよ。あなたが怒るのを」

「やるだけやってみる。今日はありがとう」


 エリックは礼を言って席を立つ。


「いいえ。あの……」


 文香が残したパイに目を走らせる。給仕係が皿を下げようとやってきたので、エリックは皿ではなくアンドロイドを下がらせた。


「切れ端を食べただけだ。直接口はつけてないから、好きにするといい」

「あ、いや、それもそうですけど」


 その返答でようやくエリックは思春期にありがちな金銭事情に思い当たった。


「もちろん俺のおごりだ。全部な」

「ありがとうございます……!」


 庶民的な笑顔を浮かべる文香。その笑顔に勇気づけられた気がして、エリックは自宅へと向かった。

 後は出るとこ勝負だ。例えどうなっても、カリナの安全だけは維持し続ける。



 ※※※



 

 作業中に呼び出されるのは甚だ不本意だったが、それでも断るわけにはいかなかった。相手の立場は関係ない。

 単純に、忙しそうにすると疑われる恐れがあるからだ。

 ゆえに、公園のベンチに座るその女性に声を掛ける。


「来たよ」

「やー、本当に来てくれたね、カリナちゃん。スレットハンターが犯罪者の元にのこのこと!」


 シーノは破顔して抱擁してくる。カリナは顔をしかめた。


「あなたはそんな悪い人じゃないでしょ」

「どうかなぁ。お金次第でなんだって請け負っちゃうフリーランスだよ、私」

「だから一番お金を出してくれている警察に雇われてるんでしょ?」

「ありーばれちゃったかな?」

「ばらしたんでしょ自分から」


 エリックの元同僚であり雇用主窓口係であるオリヴィアからの突然の連絡。それがカリナが公園に現れた真相だ。断ることもできたが、それは不審だった。通常業務である犯罪者の割り出しは、カリナであれば片手間でできてしまうほどのイージーワークだ。なのに多忙を理由にしてしまえば、他に何かしていることになってしまう。

 そして、そうした不可解な言い訳は、自分の隠し事へと切り口となる。伊達にスレットハンターの仕事を見てきたわけではない。


「まぁ、うん。そうだけどね。オリちゃんに言っていいよって言ったから。エリックには内緒だよ?」

「内緒にしてももう気付いてると思うけどなぁ」

「かもねぇ」


 相槌を打ちながら、さして気にする様子もない。カリナの周りにはそういう人間ばかりだ。目に見えた弱点を突こうとして、実はそれが罠であったりする。世界は本当に危険だ。

 そしてそれが自分の形式上の養父が自己防衛を謳う理由だった。


「で、話ってなんなの? やりたいことあるんだけど」

「そのやりたいことについて」


 ドキリ、とする。例え疑われても何をしているかはわからない状態に設定しているはずだけど――。


「カリナちゃんさぁ、いつまでこの仕事を続けるつもり?」

「いつまでって……」

「スレットハンターのお仕事」


 動悸は収まったが、別の意味での緊張に襲われる。将来のことは考えたことがない。


「そ、それは……飽きるまで? 私はスーパーハッカーだから、転職しようと思えばいつでも――」

「無理だよね?」


 シーノの言葉は鋭い。真実は時にとても痛いのだ。


「ああ、うん。スキルの問題じゃないよ。技術面に関しては、最高峰のハッカーの一人だって考えてもいいでしょ。昔の住処の教育は技術の観点からしてみれば――素晴らしかった。でも、こういう問題はね、技術だけで終わる話じゃないの。……内面の方が重要だってことわかるでしょ」

「それは……その」

「だってさ、私だって引く手数多だよ。犯罪組織は私みたいに有能な犯罪者を喉から手が出るほど欲しがっているし、軍だって隙あらばスカウトしようとしてくる……スカウトマンの股間は蹴飛ばしてやったけど。私が警察に協力するのはね、オリちゃんがいるから。彼女がいなくなったら、私に協力する義理はなくなるし」

「どれだけ技術が優れていても、希望の職場につけるとは限らないってこと?」

「それもあるけど、一番は何がしたいかってことかな」

「何をしたいか? それは…………」


 すらすらと出てくるものだと思われた言葉は、一句たりとも紡げなかった。

 愕然とした表情でカリナはシーノを見つめる。シーノは表情を変えない。


「まぁ、君ぐらいの歳の頃はさ、みんな大体こんな感じ。何をしたいかわからない。そのこと自体はおかしくない。だけど、君は昔の出来事のせいでフィルターを掛けて、無意識的に考えることをやめている。それはダメだねぇ」

「私のこと知ってるんだ」


 ヒステリックになるよりも、冷静さを保つ方を選んだ。大方オリヴィア辺りに聞いたのだろう。そもそもこれが本題だとしたら、否が応でも過去は関わってくる。

 忘れたくても忘れられない。いや、絶対に忘れることなどできない。その時に習得した技術を利用している限りは。


「そうだね。オリちゃんに聞いた。ちょっと親近感湧いたかな」

「親近感って……私は」

「まぁまぁ、話を聞いて。君はまず、自分の目で世界を見ることが必要なの」

「私が情弱って言いたいの?」

「そうかも」

「なっ」

「なんてウソウソ。むしろ情報強者過ぎて何もわからなくなっている。情報を分析した結果に振り舞わされて、自分の意志とは無関係にあるべき姿の奴隷となってる」

「奴隷って……」

「そうでしょ。今の君はこうあるべきとしてこうなった。もちろん、それ自体は悪いことでも何でもない。なりたい自分になるなんて、誰だって目指してることだよ。けどね、君の場合は前提条件が間違っている。自分で決めたわけじゃなく、入手した情報にそうするべきと記載されていたから、自身の感情を度外視して怠惰的にマニュアルに沿って自分を形成しているだけ。それじゃあダメ。……言いたいことわかった?」


 シーノの言葉は少々抽象的だったが、十分理解できた。


「私自身の主体性を大切にしろってことね。過去とかそういうの、一旦リセットして」

「忘れろ、とは言わないよ。けど、一度そういう周囲のごたごたは排斥して、自分なりの結論を出して」

「何でそんなお節介をしてくれるの?」


 それはシーノだけに向けられた言葉ではない。エリックやオリヴィアにもだ。

 放っておいても、問題はないはず。なのに、なぜ……。


「んー……あえて、この言葉を君に送ろうかな。自己防衛だよ」

「自己、防衛……」


 カリナほどのスキルがある人間を、自分の都合で斬り捨てたら、将来社会の脅威になる恐れがある。だから、自己防衛。

 いや……それは早計だ。スキルの有無は関係ない。勉強すれば子供だってお手製爆弾を製造することができる。ハッキングの勉強も、ネットで調べればすぐできる。

 そういうのを防ぐための、自己防衛。情けは人のためならず、自分のためなり。


「ああ、社会的脅威阻止の名目もあるけど、単純に……嫌なだけってことだと思うな。嫌な気分ってのは最悪だ。だから、それを回避するためのお節介。自己防衛だよ」

「カッコつけちゃって」

「依頼主はオリちゃんだから、そっちにね。一応忠告しとくけどさ、彼女を怒らせない方がいいよ」

「知ってるよ。オリヴィアの怖さは」

「そう? ならよろしい。これで依頼は完遂したから、もう帰っていいよ」

「なんか冷たい言い方」

「そりゃあ私、氷の女王の使いですから」


 しかし一連の会話でもらったものを冷ますには足りない。この熱量はそう簡単には冷やせないだろう。

 カリナは笑顔を保ったまま、シーノと別れることにした。


「じゃあ、またね」

「うん、またね、カリナちゃん」


 公園の出口に向かいながら考える。

 ……もうしてしまったことは仕方ない。言い訳をしても怒られる。

 エリックのためだったから許して、なんて言うつもりもない。

 まだ、納得のいかない部分もある。正義のためなら違法行為もいいのではないか、なんて思ってしまう自分もまだ存在する。

 だから、徹底的に話し合おう。


(止める理由は単純。オリヴィアに怒られちゃうから。いいよね、私はまだ子供だし……)


 心のどこかで、自分は大人のように振る舞うべきだと思い込んでいた。

 今までに犯した罪を清算するために。

 だが、そういうのは一旦やめよう。ティーンエイジャーらしくしよう。

 いけないことをして怒られて。反省して。

 自分がどうするべきかを考えよう。

 カリナは上を向いて、自宅へと戻っていった。



 ※※※



「これでオッケー? ブランク」


 依頼をするならよりお得に。類似した依頼であればどちらも引き受ける。

 カリナを見送ったシーノは口座に振り込まれたお金にときめいていた。


『根本の解決にはならないだろうが』

「今追いかければ潰せそうだけどなぁ」


 シーノは自分の実力を適正に評価している。というか、自己分析ができなければ、自分という商品を売りに出すことはできない。えっちな意味ではないが。


『ここで逃せば、今以上に状況は悪化する』

「ま、そうだろうけどね」


 脅威の排除には時に不本意な選択を強いられることがある。柔軟性が必要なのだ。コンピューターウイルスの対処法はまさに、ウイルスへの対抗策と同じだ。

 ワクチンを接種する――あえて、病気に感染することが必要なのだ。

 それは犯罪も同じである。犯罪阻止は強固なシェルターに閉じこもることではない。

 あらゆるダメージを負いながらも、最終的に生き残ること。それが治安だ。

 どれだけ不快でも、その基本だけは古来から変わらない。


「さてっ、と」


 シーノはベンチから立ち上がり、背伸びをする。通行人を何人か魅了し、アンドロイドまでが釘付けになっている。……正確には、持ち主が入力した美人を見かけたら録画しろというコマンドを実行しているだけだが。

 シーノはさくっとクラックしてアンドロイドにマルウェアを仕込むと、移動し始めた。これは秘密漏洩防止を目的とした必要な措置のため、警察やスレットハンターに追跡される恐れはない。


『どこへ行く?』

「お金ができたらショッピングでしょ? 欲しい物があるんだよねぇ」


 シーノはいつもの調子で行き場所を告げると、ブランクとの通信を終えた。



 ※※※




 自宅に誰もいないとわかっていたが、それでもなるべく物音を立てないで部屋の中へと侵入する。

 いや……ただ帰っただけだが、まだ鼓動は妙なリズムを立てている。決意が簡単に揺らぎそうになっている自分のガラスハートに辟易しながら、カリナは物理型コンピューターの前に座った。


(やっぱ怒られるの嫌だなぁ)


 起動すると、解析終了の文字が出ている。そういえば、出かける前にハッキングを仕掛けていた。エマージェンシーコールがなかったので、無事に成功したようだ。


「まぁ、せっかくだし」


 もうしてしまったことは取り返しがつかないので、確認だけはする。違法行為ポイントが無駄に加点されてしまうが、どうせ怒られるならきちんとやることだけはやっておこう。

 そんな軽い(そして重い)気持ちで解析結果を確認したカリナは、


「え……?」


 思わずログを二度見する。ダウンロードしたデータの中に、不審な金の流れが混ざっている。

 サーカスが事件を起こした途端に、業績が急上昇している……それだけなら、まだ怪しいだけだ。

 だが、まるで事件を予期していたかのように、対策を講じていたなら話は別だ。

 漠然とした対応策ではない。ピンポイント過ぎる。

 それに、全て一人の人物によって企画が発案されている。

 その人物の名前は――。


「ウソ……」


 呆然と呟いた瞬間に、ドアの電子及び物理キーが解除される。


「帰ったぞ」


 馴染みの声も玄関から響いてきた。カリナは忙しく立ち上がる。


「エリック、きっと怒るだろうけどそれはいったん後回し! わかったことがあって――」


 そうして玄関へと駆けこみ、


「えっ? あっ――」


 拳銃を構えるエリックを目視し、発砲音を聞いた。



 ※※※



 自分で自分を殴り飛ばしたくなるほどの冷静さだ。

 エリックは経験に基づいた心の的確過ぎる感情調整に吐き気を覚えながら事件現場を物色していた。


(プロだな)


 痕跡を見ながら判断する。一見しただけで何が起きたかわかるのは、素人の手口のような錯覚を覚えるが、明確な意図があれば話は別だ。

 そして、犯人には意図がある。挑発している。

 加えて、証拠自体は存在しなかった。映像自体は残っているが、犯人を特定する物証にはならない。

 なぜなら、事件の首謀者は他ならぬ自分だからだ。


「くそ」


 録画映像を再生して、自分に撃たれるカリナの姿を見る。エリックに偽装した何者かはスタン弾でカリナを気絶させると、そのまま連れ去った。

 現場は特に荒らされていないが、カリナの違法捜査の記録は細工されている。

 中身がわからないハッキングログしか残っていない。

 カリナが最後にどこを調べたかはわかるが、何を見たのかはわからない。

 だが、それが犯人にとって都合の悪い何かであったことは確かだ。

 しかし確証がなく動けば、冤罪を産む可能性がある。


「別に構わないさ」


 違法捜査自体をエリックは否定しているわけではない。

 違法捜査をするならば、それ相応の責任を取らなければならないと考えてるだけだ。

 オリヴィアから通信が入ったので、エリックは表示させる。


『大丈夫? エリック』


 オリヴィアは冷徹だった。軍の時のように。

 そしてエリックもまた、シャサールセクション時代の顔を覗かせている。


「悪いなオリヴィア」

『……別になれてるし』

「俺の推測では、これは帳消しになるようなものではすまなくなる」

『でしょうね。きっと』


 シャーロック・ホームズが難儀したジェームズ・モリアーティのように、恐らく敵は何も物証を残してないだろう。あるのは状況証拠だけ。ただ表で追っただけでは逃げられる。

 しかし、裏から追跡したとしても、何も証拠がない。つまりこれは捜査ではない。

 ただの犯罪だ。

 そして、それしか方法がないのなら――エリックは躊躇わない。


「スレットハンターは終わりだ」

『軍時代のあなたに戻るってことね』

「それよりタチが悪いな。すまんが後は任せる」

『いいわよ。私もちょっと動いてみる』


 通信を終えたエリックは機構拳銃を握るか悩んだ。が、なぜか拳銃の使用許可は下りたままだ。これから何をするかを話したのに、オリヴィアは相変わらず大胆な女である。

 機構拳銃とマテバをホルスターに仕舞い、エリックは部屋を後にする。

 狩人の表情で。

 ホームズがモリアーティの悪事を阻止するべく、ライヘンバッハの滝から飛び降りたように。

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