虚ろな瞳

「ただいま…。」


仕事を終えたユウが帰宅した。


(あれ…?)


玄関にレナの靴はあるのに、リビングは真っ暗だった。


(どうしたんだろ…。)


ユウはリビングの電気をつけると、レナの部屋のドアをノックする。


「レナ…帰ったよ。」


声を掛けても返事がないので、ユウはドアを開けてみた。


頭から布団を被り、ベッドに潜り込んでいるレナを見て、ユウは首を傾げる。


(寝てるのかな…?)


「レナ…?」


そっと布団をめくると、レナは、うっすらと目を開けた。


「レナ、ただいま。」


ユウがレナの頭を撫でようとした時。


レナは体をビクリと震わせた。


そして、ユウの顔を見た途端、声をあげた。


「やっ…!!怖いよ、やめて、ユウ!!」


「えっ…?」


レナは涙を流しながら、必死で抵抗するように手足をバタつかせる。


「嫌…!!やめて…!!ユウ…!!」


何が起こっているのかわからず、ユウは取り乱すレナを落ち着かせようと抱きしめる。


「レナ?!落ち着いて…。」


「嫌…怖い…こんなの私の知ってるユウじゃない…!!」


(えっ…?!)



レナの言葉に、ユウの中の遠い記憶が蘇る。


どんなに想っても届かないレナへの想いを、乱暴にぶつけてしまったあの日の、苦い記憶。


力ずくで、無理やりレナを自分のものにしてしまおうとした。


「どうして…そんな事するの…?!」


レナは涙を流しながら、悲しそうに呟く。


(レナ…あの時の夢見てる…?)


ユウはレナを抱きしめて、優しく頭を撫でる。


「ごめん…もう、あんな事しない…。ごめん、レナ…。怖がらせてごめん…。」


何度も何度もそう言って、ユウはレナを抱きしめた。



いつしかレナは、涙を流しながら眠った。


ようやく落ち着いて眠ったレナを、ユウはただ抱きしめる事しかできなかった。


(もう十何年も前の事なのに…夢を見てうなされるほど、オレはレナに怖い思いをさせてしまったんだ…。)


ユウはレナをそっとベッドに寝かせて、布団を掛けてやると、小さな声で呟いた。


「怖がらせてごめん…レナ…。」




レナは夢の中をさまよっていた。


現実と夢の境目がわからなくなりそうなほど、とてもリアルな夢だった。



―――ユウに無理やり押し倒され乱暴に抱かれた後、うずくまって泣いているレナのお腹がだんだん大きくなって行く。


(何これ…?怖いよ…。)


大きくなったお腹の中で、何かが蠢いている。


突然お腹が痛くなったと思ったら、レナはたくさんの人に覗き込まれながら、眩しいライトの下で、膝を立てて両足を開いた体勢で寝かされていた。


今すぐ逃げ出したいのに、恐怖と痛みで体は動かず、声も出せない。


(嫌だよ…痛い…怖いよ…。助けて…。)


やがて下腹部に激しい痛みを感じて、たくさんの人の手で、お腹の中にいた何かが取り上げられた。


誰かがレナのそばにやって来て、おくるみに包まれたそれを見せながら笑って言う。



「オレの子供を産んでくれてありがとう。」



おくるみに包まれていたのは、蒼白い顔をした赤ちゃんだった。


そして、その子を抱いていたのは、意地悪くニヤニヤ笑うシオンだった。


次の瞬間、レナはたくさんの車が行き交う道路沿いの歩道に立っていた。


レナの隣で子供を抱いているシオンを見たユウが、レナをじっと見つめて悲しげに呟く。



「レナ…オレの子供は産んでくれないんだね。こんなに好きなのに…。さよなら、レナ…。」



そう言ってユウは、猛スピードで走ってくるトラックの前に身を投げ出した。


激しい衝撃で、ユウの体が遠くに弾き飛ばされる。


ドサリと道端に打ち付けられたユウは、頭から血を流している。


そしてユウが、視線だけをレナに向けて、息も絶え絶えに呟いた。



「レナと…家族を…作りたかった…。」



涙を流しながらユウが目を閉じる。


そしてピクリとも動かなくなった――――




「いやーっ!!」


レナの傍らでうたた寝をしていたユウは、レナの突然の大きな叫び声に驚いて目を覚ました。


「レナ?!」


「嫌…死なないで…ユウ…。」


「えっ?!」


「ユウ…死なないで…。」


ユウはレナを強く抱きしめる。


「レナ、オレはここにいるよ。レナを置いて死んだりしないから…。」


ユウの腕の中で、レナが涙を流して呟いた。


「ごめん…ちゃんと…ユウの赤ちゃん…産むから…。どこにも行かないで…。ユウの…赤ちゃん…産むから…。ごめんね…ユウ…。」


(えっ?!)


一体どんな夢を見ているのか、レナは何度も謝って、ユウの赤ちゃんを産むから、とくりかえす。


「レナ…。」


ユウはレナを抱きしめながら、優しく背中をさすった。


「レナ、無理しなくていいんだ。オレはレナがいてくれたら、それだけでいいんだよ。」


「嫌だよ…。怖い…。やめて…。痛い…。ユウ…。」


悪夢にうなされ混乱して涙を流すレナを現実に引き戻そうと、ユウはレナの肩を強く揺すって大きな声で呼び掛ける。


「レナ!!目を覚ませ、レナ!!」


ユウが何度か呼び掛けると、レナは固く閉じていたまぶたをゆっくりと開いた。



「レナ…大丈夫か?」


ユウが声を掛けると、レナはビクリと肩を震わせ、そっとユウの顔を見上げた。


「……あ…。ユウ…。」


まだ夢と現実の区別がつかないのか、レナは怯えたように視線をさまよわせている。


「大丈夫、全部夢だから…。」


ユウはレナの背中を優しく叩く。


「……うん…。」


「怖い夢、見てたのか…?」


「………うん…。」


「そっか…。」



レナの見ていた夢の中で、一体どんな事が起こり、自分はレナに何をしたのだろう?


気にってしょうがないユウだったが、今は何も聞かないでおこうと決めた。


「水でも飲む?持って来ようか?」


「……うん…。」


レナの頭をポンポンと優しく撫でて立ち上がったユウは、キッチンに行って、冷蔵庫から冷えた水のボトルを取り出した。



怯えて、怖い、ユウやめて、と言っていたレナが、ユウの赤ちゃんを産むから死なないで、と何度も謝っていた。



(オレがそばにいても大丈夫なのかな…。でも…あんなレナを一人にはしておけない…。)


複雑な思いでユウはレナの部屋に戻る。


ユウが部屋に戻ると、レナはベッドの上に座って、ボンヤリと壁の一点を見つめていた。


「ハイ、水。」


ユウが水のボトルを差し出すと、レナがビクッとして身をすくめる。


「あ…ありがと…。」


受け取ろうとしたレナの手から、ボトルが転がり落ちた。


「……。」


レナの手が、小刻みに震えている。


ユウはボトルを拾い上げ、キャップを開けてレナの手に握らせた。


レナはゆっくりと口元にその手を運び、少しずつ水を飲み込んだ。


そしてまたボンヤリと壁を見つめている。


「水…もう、いい?」


「うん…。」


ユウはレナの手からボトルを受け取り尋ねる。


「何か食べる?」


レナは黙って首を横に振った。


ユウは、レナがうなされて寝汗をかいている事に気付いた。


「汗かいてるな。タオルと着替え、持って来ようか?」


「…うん…ごめん…。」


ユウは脱衣所からタオルとレナの着替えを持って来て、メイク落としシートでレナの顔を優しく拭いてやった。


「化粧くらいは落としとかないとな。」


「うん…ごめんね…。」


「謝らなくていいから。」


メイク落としが済むと、ユウは濡らしたタオルでレナの顔と首を拭いてやる。


「少しはさっぱりした?」


レナは黙ってうなずく。


「体も拭く?タオル濡らして来ようか?」


少しボーッと壁を見た後、レナは静かに首を横に振った。


「自分で着替えられる?」


「うん…。」


「じゃあ…オレ、ちょっとタバコでも吸ってくるから。腹も減ったし、ついでに何か食べようかな。着替え終わったら、その辺に置いといていいよ。」


「……うん、ごめんね…。」


(また“ごめん”か……。)


レナを部屋に残し、ユウはリビングのソファーに座ってタバコに火をつけた。


(どうしてやるのがいいんだろう…。)


そばにいてやるのがいいのか、それともそっとしておくべきなのか。


どんなに優しく抱きしめても、レナはユウに怯えて震えている。


(一体どんな夢…?)



昔の事や、子供を産む事、ユウが死んでしまう事を恐れる夢。


レナは最近いろんな事がありすぎて、不安やストレスで疲れているのかも知れない。



(だけど…今頃になって、どうして高校時代の事なんて…。)


確かに、自分のした事は、レナを怖がらせて傷付けたのだと思う。


だけどレナとその話をした事もあるし、今までその事でうなされたりはしなかった。


(どんな夢だったのかな…。夢の中のオレ、レナにどんなひどい事したんだ?!)


キッチンのコンロの上に置かれた鍋を見たユウは、朝早くからレナが作っていた料理はなんだったのかと、鍋の蓋を開けてみた。


「豚汁…。」


鍋には具だくさんの豚汁。


(せっかくだから、食べようかな…。)


ユウは鍋を火にかけ、豚汁を温めてお椀によそった。


「うまいな…。」


朝からこんなにたくさんの具材を下ごしらえして料理するのは大変だっただろうと、ユウはその味を噛みしめる。


(何もなくたって、レナが笑っていてくれたらそれだけでオレは幸せなのに…。)



明日の朝起きた時、レナは今夜の夢の事を覚えているだろうか?


もし覚えていても、嫌わないでいてくれるだろうか?


夢の事なんてキレイに忘れて、いつもみたいにレナが笑ってくれたらいいとユウは思った。



レナの部屋のドアをそっと開けると、レナは着替えを済ませて、ベッドの中で眠っていた。


(良かった…眠れたんだ…。)


レナが脱いだ服を手に取り、ユウはレナの寝顔を見つめる。


(またうなされたら困るから、今夜はここにいよう。)


レナの服を脱衣所の洗濯かごに放り込むと、ユウはまた眠っているレナの傍らに座り、どこか不安そうなその寝顔を見つめながら、いつしか眠りの淵に落ちた。




誰かがユウの肩を揺する。


(ん…?)


ゆっくりとまぶたを開くと、ベッドの上でレナが何かを言おうと口を開く。


「レナ…。おはよ…。」


ユウが眠そうに目をこすりながらレナの顔を見ると、レナは唇をかみしめた。


「どうした…?」


レナは、ユウの顔を見ながら、ゆっくりと口を動かす。


“声が、出ない”


「えっ…?!」




ユウは、レナを助手席に乗せて車を走らせる。


車内にはただ、カーラジオから洋楽が流れ、二人の間には沈黙が流れた。


車を運転しながら、ユウは先程聞かされた医師の言葉を思い出していた。



“失声症ですね”




朝起きると、レナの声が出なくなっていた。


ユウは、須藤に電話をして事情を説明し、レナを耳鼻咽喉科に連れていった。


しかし、声帯や喉にはなんの異常もなく、おそらく精神的なものだろうと、医師から紹介状を出され、心療内科を受診する事になった。


レナの診察を終えた医師にユウだけが呼ばれ、レナの病気はストレスや精神的なショックから突然声が出なくなる、失声症と言う病気だと告げられた。


1週間ほどで治る人もいれば、何ヵ月も声が出ない人もいて、何がきっかけで声が出るようになるかはわからない。


原因が何であるかは本人にもわからない場合があり、それを追及するのは本人にとって負担にしかならず、病状が悪化したり長引いたりする事もあるので、ただ、心身ともにゆっくり休ませる事が大事だと言われた。


ユウは、医師に最近のレナの様子や夕べ悪夢にうなされていた事などを説明し、レナは安定剤など、いくつかの薬を処方された。



「もう昼だな…。レナ、お腹空いた?」


ユウが尋ねると、レナは微かにうなずく。


「昨日レナが作ってくれた豚汁があるな。家に御飯ある?」


レナは首を横に振る。


「じゃあ、その辺のコンビニでおにぎりでも買って帰ろうか。」


うなずくレナを見て、ユウはコンビニへ向かった。


レナを車に残し、ユウはコンビニでおにぎりやコロッケなどの惣菜を買った。


そして、コンビニの外で須藤に電話をする。


レナの病状を伝えると、須藤は少し考えて、しばらく仕事を休んで療養するようにと言った。


「ここ最近、レナには随分無理をさせてしまったからな…申し訳ない。」


須藤の言葉に、ユウは顔をしかめる。


「それだけじゃないみたいです…。仕事が忙しいだけじゃなくて、いろいろ悩んだり不安な事があったようなので…。」


「そうか…。何か力になれる事があったら、遠慮なく言ってくれ。オレはしばらく日本にいるから。またレナの様子を教えてくれるか?」


「わかりました…。」


須藤との電話を終えたユウは、レナを連れて帰宅した。


「須藤さんが、しばらくゆっくり休めって。」


レナは眉を寄せて、何かを言おうとする。


だけど声が出ないので、メモ用紙とペンを持って来て、文字を書き始めた。



“こんな時に私まで休む訳にはいかない”



それを読んだユウはレナの頭を優しく撫でた。


「しょうがないよ。声が出ないと、困る事もあるだろ?それに須藤さんがしばらく日本にいるから、レナを休ませてやってくれって。」


レナはうつむいて唇をかみしめる。


「とりあえず、昼飯にしよう。ゆっくり休めば、きっとすぐに良くなるよ。」


ユウの言葉に、レナは小さくうなずいた。



その日からレナは、自分の部屋にこもりがちになった。


朝起きて、食事の支度や家事を済ませると、自分の部屋にこもってボンヤリと膝を抱えて壁を見つめている。


ユウが声を掛けると、小さくうなずいたり首を横に振ったり、時には文字で言葉を伝える。


ユウが近付くと、ビクッと肩を震わせ、身をすくめる。


その様子を見たユウは、きっとレナがあの夜見た夢を覚えていて、ユウに怯えているのだと思った。




レナの声が出なくなって、1週間が過ぎた。


その夜ユウは、部屋にこもりっきりのレナの代わりに夕飯の用意をしていた。


(相変わらず、部屋にこもりっきりだな…。)


刻んだ野菜を炒めながらユウはため息をつく。


以前、週刊誌に過去の事で記事を書かれて塞ぎ込んでいた時、レナはきっとこんな気持ちだったんだろうなとユウは思う。


そばにいても、どうする事もできないもどかしさ。


本当は抱きしめて大丈夫だと言って安心させてやりたいのに、レナは今、他の誰でもないユウに怯えている。


(オレのしてきた事が、今になってこんな形でレナを苦しめているのか…。)


伝えられない想いを乱暴にぶつけて、何度もレナを傷付けてしまった。


週刊誌にレナと俳優との熱愛が報じられた時には、レナの言う事を聞こうともしないで、嫌がるレナを強引に押さえつけ乱暴に抱いて、ひどい言葉を投げ付けた。


どんなに悔やんでも、過去は変えられない。


(どんなに謝っても足りないけど…今のオレがレナのためにできる事はなんだろう?)


夕飯ができあがると、ユウは料理をテーブルに並べ、レナを呼んで座らせた。


相変わらずレナは虚ろな目をしている。


(レナ、だんだんひどくなってるような…。)


ユウは食卓に着くと、少しでも気晴らしになればと、リモコンを手に取りテレビをつけた。


(何かお笑い番組でもやってないかな。)


テレビには、生放送の歌番組が流れ、若いアイドルグループが歌い踊っている。



ガタンッ。



大きな物音に驚いて、ユウはテレビからレナに視線を移す。


イスから立ち上がったレナは目を見開いて、テレビの画面を見つめた後、頭を抱えて床にうずくまった。


「レナ?!」


ユウがそばに駆け寄ると、レナが苦しそうに胸を押さえた。


(えっ…?!レナ、息が…。)


ユウはレナを抱き寄せ、背中をさする。


「レナ、大丈夫か?」


レナはうまく呼吸ができない様子で、苦しそうに何度も短く息を切らせている。


(息がうまく吐き出せてないのか?)


「大丈夫だよ、レナ。ゆっくり息吐いて。」


ユウはレナの背中をさすりながら声を掛ける。




しばらくするとようやく呼吸が整ったレナは、紙に走り書きをした。



“テレビ消して”



ユウは訳もわからずテレビを消す。


(一体どうしたんだ…?!)




それからレナは、ユウの作った夕飯をほとんど食べる事ができないまま食事を終えた。


レナの体は、ずっと小刻みに震えている。


ほとんど手をつけていない料理を前に箸を置くと、レナは口の動きだけで“ごめんね”と呟いて、部屋に戻って行った。


レナに、一体何が起こったのだろう?


ユウはパソコンを開くと、先程のレナの症状を調べ始めた。


(過換気症候群…。)


一般的に、過呼吸と言われているが、それは精神的な不安などからくるものらしい。


原因や症状、発作が起きた時の対処法などを調べて、ユウは首を傾げる。


(それにしても、突然なんで…。)


ユウがテレビをつけた時、流れていたのはただの歌番組だった。


何がそんな症状を引き起こしたのだろう?


ユウは訳がわからないままパソコンを閉じた。


「レナ…。」


ユウはレナの部屋をノックして、そっとドアを開けた。


(寝てるのか…。)


レナは膝を抱えて床に座り込んだまま、睫毛を涙で濡らしてうたた寝をしている。


(夜、あまり眠れてないのかな…。)



最近、レナは自分の部屋にこもりっぱなしで、夜もユウとは別々に眠っている。


(オレはそばにいてやりたいけど…レナは、オレにいて欲しくないみたいだ…。)


一緒にいても、レナは落ち着かない様子でうつむいて視線をさまよわせ、ユウと目を合わせようとしない。


(そんなに、オレの事…怖くなったのか…。)


ユウはレナをそっと抱き上げて、優しくベッドの上に寝かせた。


レナの体に布団を掛けてやると、優しく髪を撫でる。


(どれくらい…レナの笑った顔、見てないんだろう…。)


ユウを見てニッコリ笑うレナ。


“ユウ大好き”と言って、頬にキスしてくれたレナ。


帰宅したユウを“おかえりなさい”と嬉しそうに出迎えてくれたレナ。


特別な事なんて何もなくたって、レナが笑ってくれるだけで嬉しくて、幸せだった。


ユウはレナの寝顔を見つめて、心の中で問い掛ける。


(レナ…また、笑って…ユウ大好きって…言ってくれる?)


ユウはレナの頬にそっとキスを落とす。


(何度もつらい思いさせて、泣かせたのに…レナはいつもこんなオレをまっすぐに愛してくれて、すぐそばで支えてくれたんだ…。今度は…オレがレナを支えないと…。)





その日、ユウはレナの母親であるリサの元を一人で訪れていた。


レナの病気の事を伝える事と、大事なお願い事をするためだった。



`アナスタシア´の社長室で、ユウはリサにレナの詳しい病状を話した。


話を聞いたリサは少し驚いていたが、申し訳なさそうにユウに謝る。


「ごめんね、ユウくん。レナがそんな事になってるなんて知らなくて…。あの子は私に心配掛けないように、いつも気を遣ってるから…。」


「いえ…。オレはレナの夫だから、レナに何があっても支えるつもりでいます。」


「ありがとう。レナはいい旦那さんを持って幸せね。」


リサは穏やかに笑ってユウを見る。


「レナは真面目過ぎるところがあるから、なんでもちゃんとしなくちゃって思って、自分でも知らないうちに自分を苦しめているのかも知れないわね。」


「すみません…オレが頼りないばっかりに、レナに負担を掛けてしまって…。」


「そんな事ないわ。ただ、目の前で事故を見たのはショックだったでしょうね…。あの子は事故で父親と祖父母、3人も大事な人を亡くしてるから…。前にレナがユウくんと別れてここに来た日に、その話をしたの。あの時、伝えたい事は伝えておかないと私みたいに後悔するって言ったんだけど…。」


「すみません…。」


ユウはレナを傷付け、突き放してしまった事を思い出して、唇をかみしめる。


「いろいろあったものね…。でも、私はレナがユウくんと結婚できて良かったと思ってる。子供の頃から、あの子はユウくんの事、ずっと大好きだったんだもの。そのユウくんに、こんなに大事にしてもらえて、あの子は幸せね。」


「そうでしょうか…。」


「そうよ、自信持って。私が力になれる事があったら、遠慮なく言ってね。私はあなたたちの母親なんだから。」


「ありがとうございます…。じゃあ…早速なんですが…。」


ユウはリサに、今月末のCM録りと写真撮影の事について話をした。


その時にレナの状態がどうなっているかはわからないが、もし良くなっていなくても、人に迷惑を掛ける事を何よりも気にするレナが、撮影日を延期したいと言うとは思えないので、できるだけ最小限の人数で、できれば家にいるのと同じくらいリラックスした状態で撮影してもらいたいと話した。


撮影日はもう目前に迫っているので、細かい事は決まっているのかも知れないが、そこをなんとか広報に掛け合って欲しいとユウはお願いした。



すると、リサはCM撮影の責任者を社長室に呼び、自らレナの病気の事を説明して、頭を下げてくれた。


CM撮影の責任者は、レナを子供の頃から知っている人だったので、事情を聞くとすぐにCM制作会社に連絡を取り、事情を説明してお願いしてくれた。


すると、先方もこちらのお願いを承諾する代わりに、ひとつ条件をつけた。


「その代わりと言ってはなんですが、コンセプトに合うCM曲を、ユウさんにお願いしたいそうです。短期間での曲の制作をお願いする事になりますが、先方も早急に対応して下さるとのことですので…。」


他ならぬレナのためだと、ユウは迷わずその依頼を引き受ける。


「わかりました。全力で取り組みます。」


ユウが返事をすると、広報の責任者は、制作会社の担当者にユウの返事を伝え、打ち合わせの話をして電話を切った。


「ユウさんの事務所の方には、制作会社の方から連絡するそうです。」




それから二日後、ユウは`アナスタシア´の広報部へ出向き、広報部や制作会社の、CM制作に携わる人たちに改めて事情を説明して頭を下げ、新しいCMコンセプトについて相談した。


少しでもレナの力になりたい。


どんな時でも、レナには、大切な母親のリサの築いた`アナスタシア´を背負う人気モデルであり続けて欲しい。


それがきっと、レナにとっての自信に繋がり、世間にもその存在を認めてもらえるとユウは思った。





スタジオに行ってくると言って、ユウが出掛けた。


レナは一人きりの部屋で、ボンヤリと考える。


声が出なくなって、どれくらい経つのだろう?


(このまま声が出なかったらどうしよう…。)


事務所が大変な時に、自分まで仕事を休んで、みんなに迷惑を掛けている事が申し訳なくて、このまま休み続けていいものかとレナは悩む。


(だけど…もしかしたら、こんな未熟で半人前の私なんていなくても…事務所にとっては、痛くも痒くもないのかも…。)



お昼が近付いた頃。


喉が渇いたレナは、キッチンへ向かおうとリビングを横切った。


テーブルの上には、お弁当箱が置かれている。


蓋を開けて覗いてみると、おにぎりや卵焼き、ウインナーなどが詰められていた。


お弁当箱の横には、1枚のメモ。



“お弁当作ってみた。

お昼にお腹空いたら食べて。

残さず食べてくれたら嬉しい。”



冷蔵庫を開けて水を取り出すと、レナはイスに座って、ユウの文字を読み返す。


(私…ユウに気を遣わせてる…。)


仕事以外はずっと家にいて、レナの様子を窺うように優しく声を掛けてくれるユウ。


部屋にこもりきりのレナを責めもせずに、ただ優しく見守ってくれる。


(ただでさえ、主婦としても全然ダメなのに…こんな私が奥さんじゃ…ユウはちっとも幸せなんかじゃないよね…。)


シオンに無理やり押し倒されて、高校時代のあの日のできごとを思い出してしまった。


だけど、ユウとシオンは違う。


シオンと違って、ユウはレナを誰よりも愛してくれている。


わかっているはずなのに、ユウの事が大好きなはずなのに、なぜかユウが触れようとすると、怖くて体が震える。


急にユウが怖くなった理由を知られるのが怖くて、ユウ以外の人に襲われそうになった事をユウに知られたくなくて、目を合わせる事ができない。


(ユウだけ、って…言ったのに…。)


自分が望んだ事でないとは言え、他の人に体を触られた。


ユウに嫌われたらどうしよう。


ユウがいないと、生きていけない。


でも、ユウに触れられるのが、怖い。


(このままじゃ、どっちにしてもユウに嫌われる…。声は出なくてもせめて…前みたいに、ユウと…。)




“ごちそうさま。ありがとう。”


帰宅したユウは、テーブルの上のメモと、水切りカゴの上のキレイに洗われたお弁当箱を見て微笑んだ。


(ちゃんと食べてくれて良かった…。)


ユウはレナの部屋のドアをノックして声を掛ける。


「ただいま、レナ。」


声を掛けてもいつもみたいに部屋から出て来たりはしないんだろうなとユウが思っていると、静かにドアが開いた。


レナはユウの目から視線を少しそらしながら、口の動きだけで、おかえり、と言った。


「うん。ただいま。」


ユウは、久し振りのレナの“おかえり”が嬉しくて笑顔になる。


「お弁当、食べてくれたんだ。」


ユウの言葉に、レナはコクリとうなずき、また口の動きだけで“ありがとう”と言う。


「うん…。どういたしまして。」


レナが“ごめん”じゃなくて“ありがとう”と言ってくれた。


(久し振りにレナと会話してるな…。)


まだ目を合わせる事はできないし、会話と言うほどの会話でもないかも知れない。


ついこの間までは当たり前だった事が、今のユウにとっては、とても嬉しかった。




レナはキッチンで夕飯の支度をしている。


(こうしてると今までと変わりないな…。)


キッチンに立つレナの背中を、ユウは愛しそうに目を細めて見つめた。


ユウはコーヒーでも飲もうと立ち上がり、キッチンに行って、レナの隣に立つ。


「今日の晩飯は何?」


すぐ隣で手元を覗き込むユウに驚いたレナは、ビクッと肩を震わせた。


レナの手から、持っていた玉ねぎが床に転げ落ちる。


ユウは転げ落ちた玉ねぎをじっと見てから、静かに拾い上げた。


「ごめん…ビックリさせちゃった。」


レナは首を横に振る。


「手伝おうか?」


“大丈夫”


「そっか…。コーヒー、淹れてくれる?」


レナがうなずくと、ユウはリビングに戻って、ソファーに身を沈めた。


(少し離れてたらいつもと変わらないのに…近付くとやっぱり、前とは違うんだって思い知らされる…。もしレナの病気が治らなかったら…前みたいに、レナと笑ったり、見つめ合ったり…愛してるってキスして…抱き合う事は、もうできないのかな…。)



コーヒーを飲み終えたユウがお風呂に入っている間に、レナは夕飯の支度をした。


ユウがお風呂から上がると、レナが作った親子丼と味噌汁を一緒に食べた。


「やっぱり、レナの作る飯はうまい。」


ユウは嬉しそうに親子丼を掻き込む。


「おかわりある?」


レナはコクリとうなずく。


「やった。」


簡単な物なのに、レナの作った料理を美味しいと言って嬉しそうに食べてくれるユウを見て、レナはなんだか申し訳ない気持ちになる。


(ユウ、優し過ぎる…。私なんて…全然ダメなのに…。)



夕飯の後片付けを終えたレナは、お風呂に入って、お湯に浸かりながら考えた。


(どうして声が出ないんだろう…。)


結局、原因はなんだろう?


仕事に対する悩みや疲れなのか。


妊娠と出産への不安なのか。


交通事故の現場に、偶然居合わせた事なのか。


それとも…。


(やっぱり、シオンくんなのかな…。でも…もしかしたら…ユウ…なのかな…?)


ついこの間までは当たり前のように、ユウと抱きしめ合ったり、キスをしたりしていた。


ユウが優しく大切に抱いてくれると、愛されている事とユウを愛している事が実感できて、とても嬉しくて幸せだった。


(それなのにどうして…。私はユウが好きなはずなのに…。ユウも私を大切にしてくれているのに…。もう前みたいに、無理やり乱暴にしたりしないって、約束もしたし…今は私の嫌がる事なんてしないのに…。)


考えるほどに、ユウを怖がる自分の気持ちがわからなくなる。


(もしかしたら…ユウが怖いなんて、勘違いだったりして…。前みたいに、当たり前のようにキスして…ユウに抱かれたら…勘違いって気付くのかも…?そうすれば…前みたいに、自然に一緒にいられるかな…?)



レナはお風呂から上がると、ソファーでビールを飲みながらアコースティックギターを弾いているユウの隣に、そっと座った。


「ん…?」


ユウが優しい目でレナを見る。


「聴きたいの?」


レナが小さくうなずくと、ユウは嬉しそうに微笑んで、ギターの弦を弾く。


ユウのギターは優しいメロディーを奏でた。


(あ…この曲…。)


ユウのソロ曲『嘘つきな君と僕』だった。


自分の知らないユウがいる事に、気付かないふりをして笑っていた。


傷付くのが怖くて、知らなくて済む過去なんか知りたくないと、耳を塞いだ。


ユウに気付かれないよう、一人で泣いていた。


そんなレナに、もう一人で泣かないで、思いっきり泣いても怒っても責めてもいい、もう無理して笑ったりしないで、どんな君も愛してる、とユウは歌ってくれた。


(こんな私じゃ…ユウを困らせて苦しめるだけだよ…。こんな私なんかより…ユウを愛して幸せにしてくれる人、たくさんいるよ…。)


レナはポロポロと涙をこぼした。


「レナ…?」


ユウはギターを弾く手を止めて、優しくレナの頬に流れる涙を拭う。


「なんか…悲しくなっちゃった…?」


レナは静かに首を横に振る。


「…レナは…オレといるの、もう…つらい?」


涙を目に溢れさせながら、レナはうつむいて何度も首を横に振る。


「そっか…。ごめん、変な事聞いて…。」


ユウはレナを抱きしめようと腕をレナの背中に回しかけた。


でも、レナの肩がビクリとすくみ上がるのを見て、腕を下ろし、ギュッと拳を握りしめる。


「レナが怖がる事とか、嫌がる事は…もう絶対にしないから…安心して。」


そう言ってユウは寂しげな笑みを浮かべた。


(違うよ…嫌なんかじゃない…!!)


レナはユウの手をギュッと握った。


「えっ…。」


ユウがレナの方を見る。


レナは、ユウの手を握ったまま、顔を上げて目を閉じた。


やや間があって、ユウの大きな手が、レナの頭をそっと撫でた。


「レナ…無理なんかしなくていい…。」


(えっ…?!)


レナが目を開くと、ユウが悲しげに笑いながら小さく呟いた。


「震えてるし…。それにレナは…オレにキスして欲しい時……。」


ユウは言いかけた言葉を飲み込むと、レナの頭をポンポンと優しく叩いて、静かに立ち上がり部屋に戻って行った。



ユウは自分の部屋に戻ると、ごろりとベッドに横になり、レナが握った手の感触を確かめるように、じっと手を見つめた。


(無理なんかしなくていいのに…。)


レナはレナで、苦しんでいるのだろう。


ユウに怯えながらも、このままではいけないと勇気を出して、震える手で自らユウに触れたのだと思う。


でも…それが逆に、ユウにとってはとてもつらかった。


(無理しなくちゃ、オレに触れる事もできないんだな…。)


キスをして欲しい時、レナはユウの手を握り、甘えたような目で、ユウの顔を見上げる。


それはまるで、目で自分の気持ちを伝えようとしているように。


(レナはオレにキスして欲しい時、目を閉じたりしないんだ…。じっと、オレの目を見つめるんだよ…。)


ユウを見つめる茶色い瞳を思い浮かべながら、ユウはため息をついて目を閉じた。




自分の部屋に戻ったレナは、ベッドに潜り込んで涙を流して泣いた。


(ユウを、悲しませちゃった…。)


どうしてこんなふうになってしまったんだろう?


誰よりも大切なユウを悲しませているのは、他でもない、自分自身だ。


何をどうしても、ユウを悲しませてしまう。


(ユウは何も悪くないのに…。)


このまま、ユウの優しさに甘え続け、一緒にいていいのだろうか?


(こんな私なんか…いない方が…。)





“うちに来ないか?

子供の顔、まだ見てもらってないから”


スタジオで曲作りをしていた合間に、シンヤからのメールを見てユウは少し考える。


(確かに…いろいろあって、まだシンちゃんの子供の顔、見せてもらってないな。)


ユウは一人で行くことになりそうだとシンヤに返信してから、レナにも一緒に行かないかとメールを送ってみたが、やはり行かないと返事が来た。


(今はそっとしといた方がいいのかな。)





「かわいい…!」


ユウはシンヤとマユの赤ちゃんの顔を見て、思わず呟いた。


レナに見せてもらった写真より、やはり実物は何倍もかわいい。


「だっこしてみるか?」


赤ちゃんの顔を覗き込むユウに、シンヤはそっと赤ちゃんを抱かせる。


「小さいなぁ…。」


初めて抱いた新生児は、小さくて、あたたかくて、柔らかい。


「名前は何て言うの?」


「誠。誠実な子になるように。」


「マコトかぁ…。よろしくな、マコト。」


ユウの腕の中で、小さな手足を動かしているマコトを見て、ユウは優しい笑みを浮かべた。


「片桐も、早く子供欲しくなった?」


マユの何気ない一言に、ユウは苦笑いする。


「いや…。かわいいけどな…。オレは、レナがいてくれたら、それだけでいいや。」


あんなに不安そうにしていたレナに、子供を作る事を無理強いなんてできないとユウは思う。


「子供、欲しくないの?」


マユは不思議そうに尋ねる。


「うん…欲しくないって言うか…。レナが望まないなら、オレもそれでいい。二人っきりで歳を重ねて行くのも、幸せかなって思ってる。」


「えっ?!レナが、って…どういう事?」


「いや…これがオレたちらしい夫婦の形なら、それでいいんだ。それに、オレがいい親になれるとも思えないし…。」


マユの出産に居合わせた事や、その後の妊婦さんと赤ちゃんの事があって、レナが妊娠と出産への不安を募らせている事は、マユには言えないと思い、ユウは言葉を濁す。


「片桐…。なんか隠してるでしょ?」


「いやいや…。」


「隠してるでしょ?」


マユに問い詰められ困った顔をしているユウを見て、シンヤが呆れたようにため息をつく。


「ユウは隠し事ヘタ過ぎる。」


(この二人にはかなわないな…。)


ユウはマコトをそっとベビーベッドに寝かせると、その小さな手に自分の指を握らせながら、ここ最近レナの周りで起こった事を、ポツリポツリと言葉を選んで話し出した。


「夢でうなされて、ユウ怖いやめてって…。そうかと思ったら、ちゃんとユウの子供を産むから死なないで、ごめんねって…。その次の朝、レナ…声が出なくなったんだ。」


「えっ?!」


「それから仕事休んで家にいるんだけど…部屋にこもって、塞ぎ込んでるよ。」


「そうなの…。」


「オレがそばにいると、怯えてさ…。どうにかしてやりたいけど、どうしてやる事もできないんだ。オレと目を合わせる事もできなくて、ずっと虚ろな目でボンヤリしてるんだよ。」


苦しそうに話すユウに、マユは小さくため息をついた。


「あの時、私が急に産気付くとは思ってなかっただろうしね…。レナを怖がらせてしまったかな…。悪い事しちゃったわね…。」


「いや…。悪いとかじゃないんだけど…。いろんな事がいっぺんに起こって、レナの中で処理しきれてないって言うか…。」


それまで黙って話を聞いていたシンヤが、怪訝な顔でユウを見て呟いた。


「だけど、なんでユウの事が急に怖くなったんだろうな?」


ユウは唇をかみしめる。


「ロンドンに行く前も、帰ってからも、結婚する前にも…オレが一方的にレナを想って、レナの気持ちも聞かないで…勝手な想いを乱暴にぶつけて…レナを何度も傷付けてしまった…。その事を夢に見て、今になって恐怖に変わったのかな…。レナ、夢見て泣いて暴れて…“こんなの私の知ってるユウじゃない”って…。オレが昔レナに言われたのと、同じ言葉言ってたから…その時の事を夢に見たんだと思う。」


「でも…おかしくないか?今になってそんなふうになるって…。お互いに好きだから結婚までしたんだろ?」


「うん…。そうなんだけど…。」


「確かに、何かきっかけがあったはずよね。」


シンヤとマユは、不思議そうに首をかしげる。


「でも、原因は追及しない方がいいって。本人にとって負担にしかならないんだって。」


「そうか…。それにしても腑に落ちない…。」


シンヤはそう言って考え込んだ。


レナの病気の原因はなんなのかと考えているうちに、ユウは先日のできごとを思い出した。


「原因はわからないけど…そう言えば、この間レナが急に息ができなくなって…。過換気症候群ってやつ。あれも突然でビックリしたな。」


「そんな事があったの…。何か、よほどショックな事でもあったのかしら?」


「いや…。夕飯の時にテレビつけたら突然。」


「事故のシーンとか?」


「いや、そんなのじゃないよ。ただの歌番組で…アイドルグループが歌って踊ってた。」


その時のレナの様子を改めて思い出してみて、ユウは顔をしかめる。


「どうかした?」


「うん…。あの時レナ、テレビ見て、急にイスから立ち上がって、目を見開いて、頭抱えてしゃがみこんで…急に息ができなくなって、苦しそうに胸を押さえて…。それから呼吸が整ったら、テレビ消してって…。」


シンヤとマユは顔を見合わせる。


「おかしい。」


「うん、おかしいわね。」


「あの時はレナが大変な事になってたから気にも留めなかったけど…確かにおかしい。」


一体何があったのか?


だけど、それはレナにしかわからない。


それを今は、レナに問い詰める事もできない。


「何かあったのかしら…。」


「うん…。」



2時間ほどして、部屋に一人でいるレナの事が気になり、ユウはシンヤたちの家を後にした。


シンヤから、最近この近所にタイヤキ屋ができたと聞いたので、レナのために買って帰る事にした。


(懐かしいな。高校時代、駅前のタイヤキ…よく一緒に食べたっけ…。)


近頃のタイヤキは種類も豊富だと思いながら、何種類かを買って、ユウは車で家路を急いだ。




「ただいま…。」


ユウが帰宅した時、リビングは真っ暗だった。


(部屋にいるんだな。)


ユウは玄関で靴を脱いで、リビングの電気をつける。


「レナ、ただいま。お土産買ってきたよ。」


レナの部屋のドアをノックして開けてみても、真っ暗だった。


「レナ…?」


電気をつけてみても、レナはどこにもいない。


(えっ…?)


お風呂にでも入っているのかと思ったが、家の中は物音ひとつしない。


ユウはリビングのテーブルの上に目を留める。


そこには、“ごめんね”と一言だけ書かれたメモと、結婚指輪が置かれていた。


(レナ…?!)





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