青天の霹靂
翌日。
レナが休みを返上して出勤した事もあり、その日の仕事は無事にこなすことができた。
(問題は明日か…。)
今日は半休を取ってもらった分、明日が休みだった山根には川田の代役を務めてもらうため、午後から出勤してもらう事にした。
(ルミちゃんの休みは明後日か…。明後日は忙しくなりそうだから、悪いけど1日ずらしてもらうようにお願いして…。)
スタッフのスケジュールを調整しながら、レナはため息をつく。
(私は当分休めそうにないけど…こんな時だし…。ニューヨークのスタッフもいつ来られるかハッキリしてないし、今後のためにもアイドルユニットの撮影、頑張って早く終わらせたいな…。)
レナがパソコンの画面を見ながらあれこれ考えていると、メールが届いた。
(あっ、須藤さんからだ…。)
“とりあえず、こっちのスタッフを二人行かせる。
明日には日本に着くから、明後日から仕事させてくれ。
オレも週明けにはなんとかそっちに向かう。”
須藤からのメールを読んで、レナはホッと胸を撫で下ろした。
(良かった…なんとかなりそう。)
2日後、ニューヨークのスタジオで働く日本人スタッフの二人が応援に駆け付けた。
一人はレナと同期入社でニューヨークでも一緒に仕事をしていた男性スタッフの加藤史彰(ふみあき)。
もう一人はレナが初めて会う女性スタッフの宮崎桃華(ももか)。
二人ともその実力を須藤に認められている優秀なカメラマンだ。
「レナさん、久し振り。」
「加藤くん久し振り。今回は無理言ってごめんね。」
ユウと離れてニューヨークの須藤の元にいた時に、もう二度と聴くことはないと思っていたはずの`ALISON´のCDを日本から買ってきてスタジオで流した青年が、加藤だった。
(今、私がユウのそばにいられるのは、加藤くんのおかげでもあるのかな…。)
「はじめまして、宮崎桃華です。」
「はじめまして、片桐怜奈です。今回は無理言ってすみません。」
「あぁ…あなたがレナ…。」
「えっ?!」
初対面のモモカに、突然名指しにされて驚いたレナは、不思議そうに首を傾げる。
「あの…私が何か…?」
「いえ、須藤さんから、よくあなたの話を聞いているから。」
「私の話…?」
一体どんな話なんだろうと思ったが、とにかく今は、仕事が優先だと思い、レナは加藤とモモカを加えたスタッフ全員でミーティングを始めた。
いつもギリギリのメンバーでなんとか仕事をこなしているが、やはり今回のような緊急事態が起こったら、自分たちだけの力ではどうにもならず、非常に困る。
そろそろ新人の募集も須藤に考えてもらわなければと思いながら、レナは川田の仕事を加藤とモモカにそれぞれお願いした。
「レナさん結婚したんだよね。おめでとう。」
「あっ、うん…ありがとう。」
加藤は撮影現場に向かう準備をしながら、嬉しそうにレナに話し掛けた。
「須藤さんから見せてもらったよ、結婚式の写真!レナさんの旦那さんって、`ALISON´のユウなんだね!!」
「うん…。」
「今度会わせてよ。オレ、すっかりファンになっちゃって。」
「そうなんだ。今度、頼んでみるね。」
レナと加藤が会話していると、モモカがそばに来てレナをじっと見た。
(な…何…?なんなの?)
「えっと…何か…?」
レナがおそるおそる尋ねると、モモカは悪びれもせずサラリと言う。
「…須藤さんはあなたのどこが良かったのかなーって思っただけ。じゃ、行ってきます。」
「…いってらっしゃい…。」
(それってどういう意味?!)
モモカの言葉の意味がよくわからず、レナは怪訝な顔で首を傾げる。
「あー…気にしないで、レナさん。モモさんはアメリカ育ちだから、ちょっと物言いがストレートなんだ。モモさん、レナさんの事が気になるんだね。」
「それって…。」
「レナさん、須藤さんと婚約してたよね?」
「あぁ…うん…。」
「まぁほら…モモさんも女だから、いろいろ複雑な気持ちなんだよ。」
「そうなんだ…。」
かつて婚約していた時期があったとは言え、須藤との間には恋愛の関係などなかったのに、初対面のモモカに敵対視されているなんて、レナにとっては腑に落ちない。
「加藤くんは、須藤さんが私との婚約を解消した理由、知ってるの?」
「須藤さんからなんとなくは聞いてる。」
「そうなんだ…。」
ここに来てまた、須藤と婚約していた過去が蒸し返される。
最近、過去の事をいろいろと蒸し返されたり、知らない人に詮索されたりする事が多いように感じた。
(とっくに済んだ事なのに…。)
レナと加藤は準備を終えると、それぞれの撮影現場に向かった。
今日の仕事を終えて事務所に戻ったレナは、帰り支度をしていた。
(なんとか今日も乗りきれた…。)
レナはパソコンの画面を見ながら、明日の仕事のスケジュールを確認する。
(明日もなんとかなりそうだな。)
レナがホッとしてパソコンの電源を切ろうとすると、モモカが事務所に戻って来た。
「お疲れ様です。」
「お疲れ様。」
モモカと二人きりの慣れない空気に、レナは落ち着かない。
「レナ、あなたいくつ?」
唐突なモモカの言葉に、レナは驚く。
「30ですけど…。」
「そう…私より5つも若いんだ。」
「そうなんですか…。」
レナはモモカが何を言いたいのかわからず、返答に困る。
「須藤さんが結婚まで考えてたって言うから、どんな大人の女性なのかと思ってたけど、歳のわりに随分幼いのね。」
「えっ?!」
(…それってどういう意味?!)
「須藤さんと婚約解消した後、すぐに別の人と結婚したんでしょ?」
「……。」
確かに、須藤との婚約を解消した後すぐにユウと付き合って、それから1年も経たないうちに結婚した。
でも、それはレナの気持ちを理解した須藤が、背中を押してくれたからだ。
(私…何かいけない事した…?)
「それでもまだ須藤さんの下で働けるなんて、私には理解できない。」
いつか週刊誌に書かれた記事のようだと思いながら、レナは黙って唇をかみしめる。
「あなたは幸せになれたから良かったんでしょうけど…。須藤さんの気持ちを考えた事なんてある?」
「えっ…。」
「気付いてないんだ。じゃあ、お疲れ様。」
「お疲れ様でした…。」
モモカが事務所を出ていくと、レナはしばらくの間、呆然と立ち尽くした。
(須藤さんの気持ち…?)
レナはモモカの言葉が頭から離れず、グルグルと思いを巡らせながら帰宅した。
「おかえり。」
「ただいま…。」
口をへの字に曲げて、元気のない様子で帰宅したレナを、ユウは心配そうに見つめる。
「どうした?」
「ん?」
「なんかあった?」
「ううん…何もないよ。」
明らかに様子がおかしいのに、何も話そうとしないレナを膝の上に座らせ、ユウは優しく髪を撫でる。
「何もないって顔じゃないよ。」
「うん…。」
何をどう伝えればいいのか、どうして今になってこんな事で悩まなくてはいけないのか、うまく言葉にする事ができず、レナは黙ってユウに抱きついた。
「ん…?」
ユウは優しくレナを抱きしめ、何度も頭を撫でた。
「なんか、つらいの?」
「うん…わかんない…。」
「そっか…。」
(何か、嫌な事でもあったのかな…。)
相変わらず何も話そうとせずに、ユウの胸にしがみつくようにして小さくなっているレナの背中を優しくトントンと叩きながら、ユウはそのまま何も言わずに抱きしめていた。
ユウの温かい胸に抱かれて、レナは黙って目を閉じる。
(ユウ…あったかい…。)
幸せなはずのユウの腕の中で、モモカに言われた“あなたは幸せになれたから良かったんでしょうけど、須藤さんの気持ちなんて考えた事ある?”と言う言葉を思い出して、レナはどうしていいのかわからなくなる。
(私は…ユウと幸せになっちゃいけないの?)
ユウはレナを抱きしめながら、静かに尋ねる。
「レナ、腹減ってるだろ?」
「…うん…。」
「腹減ってると元気出ないから、夕飯にしようか。ちゃんと食べないと。」
「うん…。」
まだうつむいたままのレナの額に優しくキスをして、ユウは微笑んだ。
「冷蔵庫に挽き肉あったから、今日はハンバーグ作ってみた。」
「なんか…ごめんね。」
「謝る事ないよ。オレがしたくてしてる事なんだから。」
「でも…。」
「じゃあ、ごめんじゃなくて、大好きって言ってキスしてくれたら嬉しい。」
レナが見上げると、ユウは優しく笑う。
「ありがと…。ユウ、大好き…。」
レナはユウの唇にそっとキスをした。
「ユウ、料理上手だね。」
「そうか?」
「うん、美味しいよ。」
「かわいい奥さんのためだからな。」
ユウの作ったハンバーグを口に運びながら、レナはユウの優しさが嬉しくて、思わず笑顔になる。
「やっと笑った。」
「うん…。」
気付かないうちに誰かを傷付けたかも知れないけれど、誰になんと言われても、今、ユウと結婚して一緒にいられる事は、自分にとって最高の幸せだとレナは思う。
「ユウの奥さんになれて、幸せ。」
「レナにそう言ってもらえて、オレも幸せ。」
二人は顔を見合わせて、幸せそうに笑った。
翌日のお昼。
サンドイッチを食べながら昼休憩を取っていたレナのスマホが、メールの受信を知らせる。
(マユからだ…。)
“この間は会えなくて残念だったね。
出産までに一度ゆっくり会いたいから、近いうちに都合のつく日があったら教えて。”
マユからのメールを見ると、レナはスケジュールを確認して、久し振りの休みが取れる日をマユに伝えた。
(出産かぁ…。マユはもうすぐお母さんになるんだ…。私には想像もつかないな…。)
いずれはユウの子供が欲しい。
でも、今はまだ不安の方が大きくて、想像する事さえ怖い気がする。
(自分のお腹で人の命を育てて、命懸けで産み出すんだよね…。ものすごく怖いよ…。私にそんな事ができるのかな…。)
週明け、ニューヨークから須藤が駆け付けた。
須藤は手際よく指示を出して仕事を振り分けたり、自ら先方にお願いして撮影の日程を先延ばしにしてもらったり、現場に出向いて撮影をしたりする。
そして川田の代理を務めていたレナの申し出を聞き入れ、新しいスタッフを増員する事を約束してくれた。
レナは、須藤が来るまでの間、川田の代理をなんとか無事にこなせた事に安堵した。
(良かった、これでもう大丈夫…。私の仕事も生活も、今まで通りに戻れる…。)
ここ最近、仕事の事でいっぱいいっぱいになり過ぎて、家事が思うようにできていなかった。
そんなレナに負担をかけないように、ユウが先回りして家事をしてくれた事は、嬉しくもあったけど、同時に申し訳なさも込み上げた。
(私、ひとりであたふたしたり、いっぱいいっぱいになったり…結局、回りの人の助けがないと何もできないんだ。社会人としても主婦としても、全然ダメだなぁ…。)
モモカから言われた“歳のわりに随分幼い”と言う言葉をふと思い出して、なんとも言えない複雑な気持ちになる。
(やっぱり私が頼りないって事だよね…。)
事務所の後輩たちやユウに助けられてばかりの自分が情けなくて、レナはため息をついた。
(カメラマンとしても半人前、モデルと言うにはお粗末過ぎるし…。おまけに、主婦としても全然ダメ…。母親になれる自信もない…。私、このままでいいのかな…。)
ユウはどう思っているのだろう?
いつも“オレの世界一かわいい奥さん”と言ってくれる、優しいユウ。
ユウは“すべてにおいて満足している”と言ってくれたけれど、大好きなユウのために、もっといい奥さんになりたい。
いつかは、ユウの手に我が子を抱かせてあげたい。
そして、子供をしっかり守り育てられる母親になりたい。
(私、もっとしっかりして、ちゃんと頑張らないと…。今日は久し振りに早く帰れるし、ユウのために美味しい夕飯作らなくちゃ!!)
その日の仕事を終えたレナは、慌てて帰り支度をして事務所を出ようとした。
「レナ、ちょっといいか。」
「ハイ?」
須藤に声を掛けられ、レナは足を止めて振り返る。
「なんでしょう?」
「来月予定してた`アナスタシア´の撮影なんだけどな、オレが今回こっちにいる間に撮影できるように、ちょっと前倒しにして今月末にしてもらったんだ。撮影、ユウくんと一緒だからな。CM録りの日にポスター撮りの予定入れてもらった。」
「そうなんですか…。」
(ユウと共演…?なんか照れ臭いな…。)
「ユウくん元気か?」
「あ、ハイ…元気です。」
「レナはお疲れか。今回は無理させて悪かったな。ずっと休み取ってないんだろう?」
「ハイ…。」
「レナ、明日休んでいいぞ。オマエの仕事はオレが引き受けるから。」
須藤の言葉に、レナは慌てて首を横に振る。
「それはダメです。私、撮影のスケジュールを見て、ちゃんと休みを取る予定にしてますから大丈夫です。」
「無理する事ないんだぞ?」
「いえ、本当に大丈夫ですから。」
レナは断固として譲らない。
「そうか…。じゃあ、無理だけはするなよ。」
「ハイ、ありがとうございます。それじゃあ今日は、久し振りに早く帰らせてもらいます!」
「おぅ、気を付けてな。ユウくんにうまい飯でも作ってやれ。」
「そうします!お疲れ様です!」
嬉しそうに笑って事務所を出るレナを、須藤は優しい目で見送る。
そんな須藤の横顔を、モモカは切なげに見つめて、小さくため息をついた。
(今日の夕飯、何にしようかな…。ユウの好きな物…。)
レナは車を発進させる前に、ユウにメールをする事にした。
“今日は久し振りに早く終われたから、今から買い物して帰ります。
夕飯、何か食べたいものある?”
メールを送って程なくするとスマホが鳴り、レナは嬉しそうにユウからの電話に出た。
「ユウ!」
勢いよく電話に出たレナの嬉しそうな声に、ユウは思わず吹き出しそうになるのをこらえた。
「レナ、お疲れ様。今、事務所?」
「うん。これから帰る。」
「じゃあ、迎えに来てくれる?オレも仕事終わって、今から帰ろうと思ってたとこ。」
「うん!」
電話を切ったレナは、嬉しそうに笑みを浮かべて車を発進させた。
ユウとレナは、近所のスーパーで夕飯の材料を買って家に帰る事にした。
「何食べたい?」
「そうだなぁ…。」
手を繋いでスーパーに入ると、ユウがカートを押してレナが食材を選ぶ。
「魚食べたいな。サバの味噌煮がいい。」
「うん、わかった。あとは、茶碗蒸しなんかどうかな?」
「いいね。食べたい。」
「じゃあ、卵も買って帰らなくちゃ。」
二人で仲良く買い物をして、スーパーの外へ出た時。
キキーッ!!
ドン!!
突然のブレーキ音と衝突音。
スーパーの目の前の道路で、車とバイクが衝突事故を起こした。
バイクの運転手は、衝撃で数メートル先に飛ばされてしまった。
車は制御を失い近くの電柱に衝突して止まる。
車の運転手は、電柱に衝突して割れた窓ガラスで怪我をしているらしく、額から血を流して気を失っている。
「……っ!!」
レナは驚き、目を見開いて立ちすくむ。
恐怖で身動きが取れないでいるレナ。
辺りは騒然となり、誰かが救急車を呼ぶ声が響く。
レナは、小さく肩を震わせている。
「レナ…大丈夫か?」
「あ……。」
あまりのショックで言葉も出ないレナを抱き寄せ、ユウはレナが落ち着くまで、背中を優しくさすった。
やがて救急車が到着し、車とバイクの運転手が搬送される。
「大丈夫だよ。」
「うん……。」
「歩ける?」
「…うん…。」
ユウはレナの手を引いて車に戻ると、助手席にレナを座らせ、荷物をトランクに積んで、運転席に座った。
まだ呆然としているレナのシートベルトを締めてやると、ユウは優しくレナの頭を撫でた。
「帰ろうか。」
レナは、小刻みに震える手でシートベルトをギュッと握りしめ、黙って小さくうなずいた。
家に帰ると、ユウはレナをソファーに座らせ、カフェオレを入れた。
そして、レナの隣に座って、優しく包み込むように抱きしめた。
「レナ…大丈夫?」
「うん…。」
「ビックリしたよな。」
「うん…。怖かった…。」
「そっか…。」
父親と祖父母を事故で亡くした事や、結婚前にユウが事故に遭った事を思い出して、突然目の前で起こったできごとに恐怖を感じたのだろうと思ったユウは、少しでも安心させようと、何度も優しくレナの頭を撫でた。
しばらくすると、レナはユウの作ったカフェオレを飲んで、小さく息をついた。
「少し、落ち着いた?」
「うん…。」
「あの人たち、きっと大丈夫だよ。救急隊の人の呼び掛けにも、ちゃんと答えてたし。」
「うん…。たいしたことなければいいね…。」
「いろいろ考えちゃった?」
「うん…。」
「オレは、レナを残して死んだりしないから。ちゃんと、戻って来ただろ?」
「うん…。ユウがいてくれて良かった…。」
胸にギュッとしがみつくレナをユウは優しく抱きしめ、額にキスをした。
「ずっと一緒にいるって、約束したもんな。」
「うん。もう、離れたくない…。」
「大丈夫だよ。レナのお父さんと約束したし。もう2度とレナを離す気なんてない。」
少しホッとしたように小さく笑みを浮かべるレナに、ユウはそっとキスをした。
「死んじゃったら、もうレナとキスもできないし、抱きしめられないから。」
「うん…。ユウ、ギュッてして。」
ユウはレナをギュッと抱きしめる。
「あったかい?」
「うん…。あったかい…。」
ユウの腕に抱かれて、レナはポツリと呟く。
「ユウがいてくれないと…私、もう、生きていけない…。」
それからしばらくして、なんとか気持ちの落ち着いたレナは、キッチンに立って夕飯を作り始めた。
ユウは手伝おうかと言ったが、レナは黙って首を横に振って、ひとりで黙々と料理をした。
ユウはタバコを吸いながら、さっきのレナの言葉を思い出していた。
(レナがあんな事言うなんて…珍しいな…。)
最近、疲れているせいなのか、何か悩み事でもあるのか、レナは元気がない。
(レナの悩み事とか不安とか…全部取り除いてやれたらいいんだけどな…。)
その後、レナにしては珍しく、少し味の濃いサバの味噌煮と、少し蒸しすぎた茶碗蒸しを二人で食べた。
「ごめんね…。今日は久し振りに早く終われたから、ユウに美味しい夕飯作ろうと思ってたのに…。」
「ん?大丈夫だよ。レナの作る料理は、オレにとっては全部うまい。」
「無理しなくていいよ…。」
「無理なんかしてないって。」
(ユウはホントに優しいな…。それに引き換え…主婦なのに料理もまともにできないなんて…私ってホントにダメダメだ…。)
2日後、久し振りに休みが取れたレナは、朝から家事を済ませ、仕事に行くユウを送り出した後、マユの家に向かった。
(マユに会うの久し振り…。)
玄関で出迎えてくれたマユは、大きなお腹を重そうに抱えて歩く。
(すごいな…。妊婦さんって大変そう…。)
「今日はシンヤ、打ち合わせに行ってていないんだよね。夕方から出版社のパーティーがあるんだって。」
「そうなんだ。この前、三浦くん、賞もらったんだよね。すごいなぁ…。」
マユの淹れてくれた温かいお茶を飲みながら話していると、マユは時々顔をしかめる。
「マユ…どうかした?」
「うん…。なんか今日は朝から、いつもとちょっと違う気がする…。」
「いつもと違う?」
何が違うのかわからず、レナは首をかしげる。
「うん…。昨日より、この子が下の方にいる感じがするし…お腹の張り具合が違うと言うか…自分でお腹触っても感覚がないくらい、パンパンに張ってる…。それになんて言うか…時々、痛いような…。」
「えっ?!」
レナはどうしていいのかわからず、オロオロしてしまう。
「落ち着いて、レナ。大丈夫だから。」
「でも…。」
「もしもの時は、病院に連れてってね。」
「うん、わかった。」
(落ち着かなくちゃ…。こんな時に私が慌ててどうするの!!)
しばらくすると、マユは少し表情を歪めたかと思うと、今度は突然眉間にシワを寄せて、ゆっくりと立ち上がった。
そして、入院の準備とおぼしき荷物の中から何かを取り出し、何も言わずにトイレに向かう。
(えっ?!何?!なんなの?!)
再びリビングに戻って来たマユは、座り込んでどこかに電話を掛け始めた。
事態が飲み込めず、レナは混乱した頭で目線をさまよわせる。
(何?!何が起こってるの?)
電話を切ったマユが、少しつらそうにレナの顔を見て呟いた。
「破水した…。レナ、悪いけど病院に連れてってくれる?」
(は、破水って何ーっ?!)
オロオロしているレナの手をギュッと握ると、マユは少し無理をして笑い掛ける。
「レナ、落ち着いて。大丈夫だから。」
「う、うん。とにかく、病院ね?」
「うん、お願い。」
レナは大きく深呼吸をくりかえし、片手にマユの荷物を持ち、もう片方の手でマユを支えながら歩く。
(とにかく落ち着かなくちゃ!!私がマユを無事に病院へ連れて行かなくちゃ!!)
マユがバスタオルを後部座席に敷くと、レナはその上にそっとマユを座らせ、深呼吸をして車を発進させる。
「病院どこ?」
「中央病院…。」
「わかった!!」
できるだけ衝撃を与えないように慎重に車を走らせ、レナは必死でマユを病院へと運ぶ。
その間に、マユはシンヤにメールを送った。
“さっき破水した。
今、レナの車で病院へ向かってる。
破水したから、早い出産になると思う。”
妊娠を機にマタニティー雑誌の編集部に異動しただけあって、マユには出産の知識がある。
(まさか予定日よりこんなに早くお産になるとは思わなかったけど…ここで私までうろたえたら、レナはもっと不安になる…。私は冷静でいなくちゃ…。)
病院に着くと、マユは受付で事情を話し、迎えに来た産婦人科のスタッフに付き添われて産婦人科病棟へ案内された。
診察室で内診や分娩に向けての処置を終えて分娩着に着替えたマユは、病室のベッドで時折つらそうに表情を歪めて横たわる。
(どうしよう…!私、どうしたらいいの?)
またオロオロし始めるレナの手を握り、マユは静かに呟く。
「落ち着いて、レナ。これからお産になるけど…大丈夫だから…。」
「マユ……!」
陣痛の波がやって来ると、マユは痛みに耐えるように息を荒くしてうずくまる。
しばらくすると、少し表情をゆるめて、安堵したように息を吐く。
そしてまた何分かすると、苦しそうにお腹を抱えてうずくまる。
(どうしよう…私、何もしてあげられない…。マユがこんなにつらそうなのに…!)
レナは少しでもマユの苦痛が取り除ければと、無意識に腰をさすった。
「マユ…頑張って…!」
「ありがとう…そうしてもらうと、少しラクになる…。」
レナが出産に対して恐怖を抱かないように、マユは必死で声を殺して陣痛の痛みに耐えた。
「マユ、頑張って…。赤ちゃんも、頑張って…。」
レナは何度もそうくりかえしながら、マユの腰をさすった。
「もう少し、その辺り強く押してくれる…?」
「わかった、ここでいいの?」
「うん、そうしてもらうと、ラクになる…。」
先程から、マユが表情をゆるめるのと、つらそうに表情を歪める間隔が短くなっているような気がした。
「三浦さん、内診させて下さいね。」
産婦人科のスタッフがマユの内診をして、ゴム手袋を外すと、ニッコリ笑った。
「順調に子宮口開いて来たわよー。その調子で頑張ってね。もう少しよ!」
「ハイ…。」
(何?!子宮口開いて来たって何?!こんなにつらそうなのに、まだ頑張らないといけないの?看護師さん、なんでそんなに笑えるの?!)
お産に対しての知識がまったくないレナにとって、何もかもが初めてで、どうしていいのかわからず泣きそうになった。
「レナ…もうすぐ、この子に会えるって。」
マユはとてもつらそうなのに、優しい笑みを浮かべた。
(お願い、早く無事に生まれて来て!)
レナは泣きたくなるのをこらえて、またマユの腰をさする事しかできなかった。
「マユ!!」
慌てた様子のシンヤが病室のドアを開けて、ベッドの上のマユに駆け寄った。
「シンヤ…!!」
それまで声を殺して必死で痛みに耐えていたマユが、シンヤの顔を見た途端に涙を浮かべて声を上げた。
「痛い…痛いよ、シンヤ…怖いよ…。」
「大丈夫、オレがついてるから!!もうすぐこの子に会えるんだよ。マユはお母さんになるんだろ?頑張れ!!」
「うん…頑張る…。」
レナは、その光景を呆然と見ていた。
さっきまで、レナを不安にさせないようにと、マユが必死で痛みと不安に耐えていたのだとレナは気付く。
(三浦くんが来てくれて良かった…。)
マユはシンヤの手を握り、シンヤはマユに優しく声を掛けながら、もう片方の手でマユの腰をさすった。
(やっぱり夫婦なんだな…。マユ、三浦くんが来てくれて、やっと安心したんだ…。)
しばらくすると、また産婦人科のスタッフがやって来て、マユの内診をした。
内診を終えたスタッフが、ゴム手袋を外して優しく笑う。
「三浦さん、よく頑張ったわね。子宮口全開になったから、この波が引いたら分娩室に行きましょう。いよいよ赤ちゃんに会えるわよ!さぁ、ゆっくり大きく息を吐いて…そう、上手よ。頑張って、元気な赤ちゃん産みましょうね。もうひと踏ん張りよ!!」
「ハイ…。」
それから程なくして、マユはスタッフとシンヤに付き添われて分娩室に移動した。
レナは、分娩室の外で、無事に赤ちゃんが生まれて来ることを祈った。
(お願い…。マユも赤ちゃんも、どうか無事で…!!神様、今度こそマユに元気な赤ちゃんを抱かせてあげて下さい…!!)
時折聞こえてくる、マユに掛けられるスタッフの声と、つらそうなマユの声、マユを励ますシンヤの声を耳にしながら、レナは、両手を握りしめて祈る。
そして、元気な赤ちゃんの産声が聞こえると、レナは急に身体中の力が抜けて、ぺたんと床に座り込んだ。
(良かった…!!生まれたんだ…!!)
レナは放心状態で、廊下の長椅子に身を預けていた。
どれくらいの間、そうしていただろう。
しばらくすると、産後の処置を終えたマユが、スタッフに付き添われて分娩室からゆっくりと歩いて来た。
(えっ?!もう歩けるの?!)
驚くレナを見て、マユは笑みを浮かべた。
「レナ…ありがとう。無事に生まれた…。」
「うん…良かった…おめでとう、マユ…!」
マユはスタッフに付き添われて、ゆっくりとした足取りで病室へと向かった。
分娩室から出てきたシンヤは、レナの顔を見ると、両手を取って頭を下げた。
「ありがとう。レナちゃんのおかげで、無事に生まれたよ。新生児室にいるから、顔見てやってくれる?」
「うん!」
新生児室では、生まれたばかりのマユとシンヤの赤ちゃんが、新生児用のベビーベッドで手足を動かしている。
「元気な赤ちゃんだね。」
「うん。男の子だから、これくらいでちょうどいいかも。」
「かわいいね…。」
「うん…。マユ、頑張ったから。」
「そうだね。ホントに良かった…。」
レナは、さっきまでマユのお腹にいた小さな赤ちゃんを見て、嬉しそうに微笑んだ。
(すごいな…。さっきまで、この子がマユのお腹にいたんだ…。)
女の人はすごい、とレナは素直に思う。
(リサもきっと、大変な思いをして私を産んでくれたんだろうな…。こうやって、命が繋がって行くんだ…。)
でも、自分にもこんな大変な事ができるだろうか?
シンヤがマユの病室へ戻った後も、レナは新生児室の窓越しにマユの赤ちゃんをしばらく見ていた。
(ホントにかわいい…。ユウにも見せてあげなきゃ。)
それからスマホのカメラで写真を撮り、レナはマユの病室へ戻ろうとした。
お手洗いを過ぎた所で、つらそうに立ち止まっている妊婦さんを見掛けて、レナは思わず駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「ありがとうございます…。少しすると落ち着きますので…。」
レナは妊婦さんの腰をさする。
(この人も、これから出産なんだな…。)
少しすると、歪めていた表情をゆるめた妊婦さんが、ゆっくりと顔を上げる。
「もう大丈夫です…ありがとうございます。」
「いえ…。病室に戻りますか?」
「ハイ…。すぐそこなので、大丈夫です。」
レナは心配になって、その妊婦さんの病室の前まで付き添った。
「ありがとうございました。」
「いえ…。」
妊婦さんは頭を下げて病室へと戻って行く。
それからレナはマユの病室へ戻り、少しの間話をした後、あまり無理をさせては良くないと思い家に帰る事にした。
「じゃあね、マユ。ゆっくり体休めてね。」
「ありがとう。今日はビックリさせてホントにごめんね。シンヤがいない時に急にあんな事になったからどうしようかと思ったけど、レナがいてくれて助かったわ。」
「私なんて何もできなくて、オロオロしてただけだったよ…。三浦くんが間に合って、ホントに良かった。」
「ありがとう、レナちゃん。」
「そう言えば三浦くん、出版社のパーティーはどうしたの?」
「子供が生まれるって言って、ほってきた。オレにはマユと子供の方が大事だから。」
「だよね。じゃあ、また落ち着いたら赤ちゃんとゆっくり会わせてね。」
「うん。片桐にもよろしくね。」
マユの病室を出た後、レナは何やら廊下が騒がしい事に気付いた。
(なんだろう…?)
「島田先生!!208の丸山さんが──です!赤ちゃんも──で呼吸が──!」
「すぐ──用意して!!あと竹本先生呼んで──!!オペ室と麻酔科に──!」
ところどころ聞き取れないが、緊急事態が起こっているらしい。
(何…?)
医師と看護師が慌てて分娩室に駆け付け、程なくしてストレッチャーに患者を乗せ、声を掛けながら通りすぎていく。
「丸山さん、聞こえますか?!」
(あっ…さっきの……!)
先程、廊下でつらそうにしていた妊婦さんが、蒼白い顔でストレッチャーに乗せられ運ばれていく。
そしてその後を、小さな赤ちゃんも、泣き声もあげないで、同じように運ばれて行った。
(何…?何が起こったの…?!)
その後なんとか気持ちを落ち着かせたレナは、車を走らせ自宅に帰りついた。
頭の中では、先程のできごとがグルグルと駆け巡り、混乱しながらも二人の無事を祈らずにはいられなかった。
夜になって仕事から帰ったユウは、ぼんやりとソファーに身を預けているレナに、怪訝な顔で近付いた。
「ただいま…。」
「おかえりなさい…。」
「どうかした?」
「うん…。」
レナはスマホを取り出して、マユの赤ちゃんの写真を画面に映し出すと、ユウに見せる。
「今日ね…マユと三浦くんの赤ちゃん、無事に生まれたの。」
「えっ、生まれたんだ!!良かったなぁ!!」
ユウは生まれたばかりの赤ちゃんの写真を見て嬉しそうに笑っている。
「かわいいなぁ…。この辺が、ちょっとシンちゃんに似てるかも…。」
「うん…。すごくかわいかったよ…。」
親友の二人の嬉しいニュースを伝えているはずなのに、沈んだ顔をしているレナを見て、ユウは心配そうに尋ねた。
「レナ…何かあった?」
「うん…。」
レナは、今日起こったできごとの一部始終をユウに話した。
予想もしていなかったマユの出産に居合わせた事や、その後たまたま出会った妊婦さんと赤ちゃんの事…。
レナはうつむきがちに、言葉を絞り出す。
「マユの赤ちゃんが無事に生まれてくれた事はホッとしたし、嬉しかったけど…その後に会ったあの妊婦さんと赤ちゃんの事考えると…心配で…。」
ユウは、レナが小さく震えている事に気付き、その華奢な肩を抱き寄せ、優しく頭を撫でた。
「怖くなっちゃった?」
レナは何も言わず、ただ黙ってユウの胸に顔をうずめている。
「レナ…無理しないでいいんだよ。オレには、思ってる事、正直に言って。」
ユウが優しく抱きしめると、レナが小さくうなずいた。
「ユウ…私…怖い…。」
「そっか…。」
ユウはレナの頭を撫でながら、ただでさえ妊娠と出産に対して不安になっていたレナが、突然のマユのお産に居合わせてしまった事や、たまたま出会った妊婦さんと赤ちゃんに起こった事を目の当たりにして、更に恐怖感を抱いてしまったのだと思った。
しばらく黙っていたユウが、優しくレナを抱きしめながら、静かに話す。
「レナ…。オレはさ、ずっとこのまま…レナと二人で生きて行くのもいいと思ってる。」
「でも…ユウだって…いつか子供ができたら、って…思ってるでしょ…?」
「うん…。そう思ったりする事もあるけど…やっぱり、レナに無理させたくないよ…。レナが妊娠とか出産を望まないなら、オレもそれでいいって思ってるんだ。オレにとって一番大事なのは、レナだから。レナと生きて行けたら、それだけでもう、じゅうぶん満足。」
「ユウ…。」
「そうすれば一生、大好きなレナだけ見てられるしな。子供にレナを取られる心配もないし、レナをずっと独り占めできるから、二人っきりでいるのも悪くないよ。」
ユウはレナの頬を両手で包んで、微笑んだ。
「だけど…それだと…リサや直子さんに、孫を抱かせてあげられない…。二人とも、きっと楽しみにしてると思う…テオさんも、私とユウの家族が増えるのが楽しみだって…。」
泣き出しそうな顔でそう言うレナの頬に、ユウは優しく口付けた。
「もういいよ、レナ…。今考えてもどうにもならない事を考えるの、もうやめよう…。こんなの…余計にレナが苦しくなるだけだ…。」
どれだけ抱きしめても、声を掛けても、今のレナから不安を拭い去ってやる事はできない。
(オレにはどうしてやる事もできないよ…。)
ユウの腕に抱きしめられながら、温かい胸に顔をうずめて黙り込んでいたレナが、いつしか寝息をたて始めた。
(レナ…よっぽど疲れてたんだな…無理もないか…。)
ユウはレナが起きないようにそっと抱き上げてベッドに運ぶと、優しく寝かせ、その寝顔をじっと見つめた。
そして、愛しげに髪を撫でながら小さく呟く。
「オレはレナがずっとそばにいてくれれば、それだけでいいよ。こんなオレに生きる意味を与えてくれたのはレナだから…それ以上の幸せなんて、他にないんだ…。」
レナは暗い部屋の中で目を覚ました。
いつの間にかベッドに横になっている。
(私…いつの間にか寝ちゃったんだ…。)
レナはぼんやりと壁に掛けられた時計を見る。
仄白く光る針が、蛍光塗料で浮かび上がった文字盤の数字の8を指し示そうとしている。
(大変…もうこんな時間!)
レナは慌てて起き上がり、ベッドから降りてリビングへ駆け込んだ。
ギターを弾く手元を見ていたユウが、ゆっくりと顔を上げ、優しい目でレナを見る。
「おはよ…。目、覚めた?」
「うん…。ごめんね…。もうこんな時間…。」
「仕方ないよ。レナ、疲れてただろ。」
ユウはギターを傍らに置くと、レナに向かってその長い両腕を広げて微笑む。
「おいで、レナ。」
「うん…。」
レナがそばに行くと、ユウはレナを膝の上で横抱きにして、優しく口付けた。
「少し、落ち着いた?」
「うん…。」
「レナ、ここ最近ずっと疲れてたもんな。だから、余計に気持ちが参っちゃったんだ。」
「そうなのかな…。」
「そうだよ。いろんな事がいっぺんに起こってさ…レナじゃなくても誰だって疲れるって。レナは頑張り過ぎるから、尚更だよ。」
「そんな事ないよ…。」
(頑張りが足りないから全然ダメなのに…。)
「オレの前では無理して頑張らなくていいよ。オレはどんなレナも好きだから。」
レナはユウの目から視線を外してうつむいた。
「ユウは、私を甘やかし過ぎだよ…。」
「ん?」
レナはユウの膝から降りて、静かに呟く。
「そんなに甘やかすと、私…どんどんダメになるよ…。ただでさえこんな…。」
「レナ…?」
「…ごめん…すぐに夕飯の用意するね…。」
黙ってキッチンに立つレナの後ろ姿を、ユウは見つめていた。
(レナがあんな事言うなんて…。オレ、何か気に障るような事でも言ったのかな…。)
レナは大急ぎで夕飯を作りながら考える。
(いくらユウが優しくても、それに甘えていたら私…いい歳して、何ひとつまともにできないままだ…。もっとちゃんとしなくちゃ。頑張るのやめたら…そのうちユウにも、好きだって言われなくなっちゃうかも知れない…。)
翌朝。
まだ夢うつつのユウは、いつものように長い腕で隣にいるはずのレナの温もりを探す。
しかし、手に触れるのは冷えた布団の感触だけだった。
(ん…レナ…?)
ゆっくりと目を開いて見ても、そこにレナの姿はなかった。
時計はまだ5時半を指している。
(まだこんな時間なのに…レナ、もう起きてるのか…?)
ユウは、目が覚めたついでに水でも飲もうと起き上がり、キッチンへ行ってみた。
「レナ…おはよ…。随分早いな…。」
「おはよ…。ごめんね、起こしちゃった?」
「いや…。」
レナは朝から忙しそうに料理を作っている。
「朝からどうしたの?」
「朝のうちに作っておけば、仕事で少しくらい遅くなっても大丈夫かなって思って…。」
「そっか…。」
ユウは冷蔵庫から取り出した冷たい水を飲みながら、たくさんの食材が用意された調理台の上を見た。
(無理しなくていいって言ったのに…。)
「まだ早いから、もう少し寝ててね。」
「…うん…。」
ユウは水を冷蔵庫にしまって部屋に戻ると、ベッドの上に寝転んで天井を見上げた。
(どうしてあんなに無理するんだろう。できることはオレがやるって言ってるのに…。)
少しでもレナを助けたいと思ってした事が、逆にレナの負担になってしまったのだろうか?
疲れているはずなのに無理をしてまで頑張るレナを見ていると、もうユウの手は借りないと言われているようで寂しい気がした。
(無理をしなくちゃいけない理由でもあるのか…。それとも、オレが頼りないから、安心して頼れないのか…?)
いつもより早く出勤したレナは、入念に今日の仕事の準備をした。
(いつまでも半人前じゃいられないよ…。)
須藤写真事務所に勤めて8年半。
一応、一人で仕事を任せてもらえるようにはなったが、いざと言う時に先輩だけでなく後輩にまで頼りにされないようでは情けないと思う。
(しっかりしなくちゃ。いい仕事をして、ちゃんと認めてもらえるようにならないと。)
勤めた年数や経験だけで評価される世界でない事はわかっている。
だからこそ、いい写真を撮りたい。
次もまた任せると言われるようなカメラマンになりたい。
(もっと頑張らなくちゃ…。)
「おはようございます。先輩、早いですね。」
「おはよう、ルミちゃん。」
ルミは荷物を置くと、今日のスケジュールを確認する。
「ねぇ…。ルミちゃん、最近写真撮ってる?」
最近、アシスタント業務がメインになっているルミが写真を撮っているところを、見ていないなとレナは思う。
「最近、与えられた仕事に手一杯で、撮ってないですねぇ…。」
「ルミちゃんも、そろそろ撮影の仕事、したいよね。」
「そうですねぇ…。練習しないと…。特に、人物はモデルがいないと撮れないですから。」
そんな話をしながら、レナはふと思い付く。
「時間がある時に、練習しようか。」
「えっ?先輩がモデルになってくれるんですか?」
「うん…。私も、撮る側と撮られる側の両方、練習した方がいいのかなって。私、子供の頃から`アナスタシア´のモデルやってるくせに、いまだにカメラ目線とか、カメラに向かって笑うのとか…ポージングとか苦手で…。」
「そうなんですか?」
「情けないんだけどね…。いい加減、慣れなきゃいけないなって、最近思ってる。」
「じゃあ、今度撮らせて下さいよ。」
「うん、お願いします。今日の撮影の前に、ちょっと早めに行ってやってみる?」
「是非!!」
「じゃあ、早速準備しよう。」
「ハイ!!」
レナとルミは朝のスタッフミーティングを終えると、早々とスタジオへ向かった。
スタジオに着くと、まずはアイドルユニットの撮影の準備を済ませ、メンバーが到着するまで撮影の練習をする事にした。
ルミがカメラを持ち、レナがモデルになる。
「うわぁ…緊張する…。」
須藤以外のカメラマンに撮られる事がほとんどないレナは、後輩のルミの練習とは言え、とても緊張していた。
「いつもは須藤さんと、どんな感じで撮影してるんですか?」
「うーん…。私が適当にあっちこっち向いてる間に、須藤さんが撮っちゃう感じ。」
「へぇ…。じゃあ、今日は先輩の苦手なカメラ目線で、笑ったり表情を作ったりしてポーズを取る練習をしましょう。」
「お願いします…。」
レナは立ち位置につくと、ルミの構えるカメラの方を向いた。
「ハイ。じゃあ、まずは目線こちらで。」
レナが緊張の面持ちでカメラに目線を向ける。
「表情固いですね。少し笑ってみて下さい。」
(こうかな…?)
レナは慣れないカメラ目線で笑顔を作る。
「もっと自然に…もう少しリラックスして下さい。ガチガチですよ。」
「ハイ…。」
(難しいな…。)
それからしばらくの間、ルミの注文になんとか応えようと、レナは何度もカメラに向かって笑顔を作った。
急にうまく笑えるようにはならなかったが、ほんの少しは上手にカメラを見られるようになった気がした。
(やっぱりこれも努力しないとね…。キャリアばっかり長いくせに、いつまでも須藤さんとしか仕事ができないんじゃ情けないし…。)
しばらく撮影した後、何枚も撮った写真をルミと一緒にパソコン画面で確認した。
「先輩、やっぱりキレイですねぇ。」
「いや…そんな事は…。」
「だんだん自然にカメラを見られるようになって来たような気がします!」
「ありがと。ルミちゃんが上手にリードしてくれたからだよ。」
きっとルミは、いいカメラマンになるだろうなとレナは思う。
(人当たりもいいし、リードが上手だ…。)
うかうかしていると、あっと言う間に追い越されてしまいそうな気がした。
(私も頑張らないと…。)
それからしばらくしてアイドルユニットのメンバーが到着し、写真集の撮影に取り掛かった。
レナは積極的にメンバーに話し掛け、今までよりも更にいい表情をカメラに収めようとした。
撮影は順調に進み、先に撮影が終わったメンバーが帰り支度をしてスタジオを後にした。
(最後はシオンくんか…。)
シオンは歳の割に大人びた表情をする。
あどけなさと大人っぽさの両方を持ち合わせていて、妙に色気もある。
(最近の子は大人っぽいな…。)
レナは感心しながら撮影を進めた。
「ハイ、お疲れ様でした。これで終了です。」
アイドルユニットの写真集の撮影が、無事に終了した。
「お疲れ様でした。」
シオンが軽く頭を下げてスタジオを出た。
ルミは別の撮影現場に行っているため、レナは一人で片付けを始めた。
(やっと終わったなぁ…。)
最初は若いメンバーに圧倒されてどうなる事かと思ったけれど、無事にすべての撮影を終える事ができて、レナはホッと胸を撫で下ろした。
後片付けが終わっても、シオンが控え室から出て来る様子がない。
シオンのマネージャーも、渋滞で迎えが遅れると言っていた。
(シオンくん、何してるのかな…。コーヒーでも持って行こうかな。)
レナは缶コーヒーを持って、シオンの楽屋を訪ねてみる事にした。
控え室のドアをノックして声を掛ける。
「シオンくん、入っていい?」
「どうぞ。」
控え室に入ると、シオンは制服に着替えて、テーブルの上にノートやテキストを広げていた。
「お疲れ様。これ、良かったらどうぞ。」
「いただきます。」
「…勉強中?」
「うん。」
「シオンくんって…17歳だっけ?」
「もうすぐ18。高3で、受験生。」
「そうなんだね。…数学?」
「うん…。数学、苦手で。」
シオンは缶コーヒーを飲みながら、苦々しい顔でテキストを見る。
「私、数学なら得意。わからないとこあるならマネージャーさんが来るまで教えようか?」
「ホント?じゃあ、ここ。」
一回りも歳下なのに、シオンはあまり構える様子もなく話をする。
(弟みたい。)
「えーっと…あぁ、これはね、この公式を当てはめて…。」
レナは何問か問題の解き方を教えた。
「久し振りに勉強すると楽しいな。」
「片桐さん、いくつ?」
(それを聞くか…。)
「30歳。シオンくんより一回りも上。」
「へぇ…若く見えるね。オレの母親の4つ下には見えない。」
「え…。」
「オレの母親は高校入ってすぐ妊娠して、学校辞めて16でオレを産んだんだって。」
「へぇ…。」
(16で出産?!私なんて30にもなって怖がってるのに!!)
「母親には女感じないけど、片桐さんなら一回り上でも、オレ、全然イケる。」
「えっ?!」
「片桐さんの旦那さん、`ALISON´のユウだよね?」
「うん。」
「やっぱり、噂通りスゴイの?」
「えっ…?」
シオンの言葉の意味がわからず、レナはシオンの顔を見る。
「前に週刊誌に書かれてたじゃん。」
「あ…。」
以前、週刊誌に書かれた、ユウの女性遍歴の事だとレナは気付いた。
「グラドルとか何人も食い散らかして、セックスがめっちゃ激しいって書いてあった。」
「……。」
(なんで今、そんな事言うの…?)
レナはいたたまれない気持ちで目をそらした。
「そのユウが選んだって事はさぁ…。」
シオンはニヤリと笑うと、想像もしていなかった強い力で突然レナの肩を掴み、机の上に押し倒した。
「片桐さんが、相当イイ…って事だよね。」
「……!!」
「数学だけじゃなくてさ…オレにも、大人のオンナってやつを教えてよ。」
「や……やめて……。」
「ユウとやりまくってんでしょ?今更もったいぶる事ないじゃん。」
「嫌…!!やめて……!!」
シオンは抵抗するレナを片手で軽々と押さえ付けて、首筋に唇を這わせ、もう片方の手でレナの胸をシャツの上から撫で回した。
「最初からこういう事期待して来たんでしょ?それともガキだと思って油断した?」
シオンの手がレナのシャツをたくし上げ、あらわになった素肌に触れた。
「やめて!!触んないで!!」
「いいじゃん、楽しもうよ。」
「嫌っ…!!」
レナは必死で抵抗する。
だけど、そのあどけなさからは想像もつかない程の強い力で押さえつけられ逃れる事ができない。
シオンの唇と舌先がレナの胸に触れる。
ユウ以外の人に無理やりそうされている事に恐怖を覚え、レナは声を出すこともできなくなった。
(嫌…!!助けて…ユウ…!!)
シオンがレナのジーンズのボタンに手を掛けた時。
「レナさーん、どこー?事務所に戻るよー。レナさーん。」
ドアの向こうで加藤の呼ぶ声がした。
(加藤くん…!!)
加藤の声を聞いて、シオンはレナから手を離した。
「残念…。いいとこだったのに。」
レナは慌てて起き上がると、乱れた服を整えて走って控え室を出た。
「あっ、レナさん。機材の搬送、手伝いに来たよ。」
「ありがと…加藤くん…。」
「どうかしたの?」
レナは必死で何事もなかったように取り繕う。
「なんでもない…。」
なんでもないと言いながら、明らかに様子がおかしいレナを見て、加藤は怪訝な顔をした。
「大丈夫?」
「うん、大丈夫…。機材、運ぼうか。」
レナが早足でスタジオへ行くと、ちょうどシオンのマネージャーが迎えに来た。
「遅くなってすみません。シオンは…。」
シオンの名前を聞いて、レナはビクリと肩を震わせた。
「控え室にいます…。」
なんとか平静を装って答えると、レナは慌てて機材を運び出す。
シオンとマネージャーが去り、レナは加藤と機材を車に積み終えてスタジオを後にした。
加藤は車を運転しながら、先程から落ち着かない様子のレナの事を気にしていた。
(おかしい…。何かあったのかな…?)
事務所で業務日報を書き終えたレナは、帰宅すると自分の部屋へ駆け込んだ。
ユウはまだ帰っていない。
レナはベッドに潜り込み、先程のできごとを思い出してベッドの中で小刻みに体を震わせた。
(怖かった…。あの時、加藤くんが来てくれなかったら、私…!!)
確かに、シオンの事を、自分よりずっと歳下の子供だと油断していた。
(でも、よく考えてみたら…。あの時…私もユウも、あの子と同じ高3だった…。)
レナの脳裏を掠める、高3の春の記憶。
それまでずっと誰よりも優しかったのに、突然大人の男に豹変したユウに押し倒しされ、無理やりキスされた。
あの時ユウは怯えるレナを押さえ付けて、首筋に唇を押しあて、ブラウスのボタンを外した。
(もしかしたら、あの時ユウは…あのまま無理やり私を…。)
先程のシオンと遠い記憶の中のユウが重なる。
レナは混乱する頭で、震える自分の体を抱きしめるようにして、ベッドの中で涙を流した。
(嫌だよユウ…どうして…無理やりそんな事するの?)
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