支えになりたい

翌朝、レナが出勤してすぐに、事務所の電話が鳴った。


(朝からなんだろう…。)


レナは荷物を置いて電話に出る。


「ハイ、須藤写真事務所です。」


「おはようございます、川田です。主人がいつもお世話になっております。」


須藤に代わって事務所を切り盛りしている、先輩の川田の妻からの電話だった。


「おはようございます。こちらこそいつもお世話になっております…。」


「実は…昨夜遅くに、主人が救急搬送されて、そのまま入院しまして…。」


「……えっ?!」


奥さんの話では、川田は肺気胸と言う病気で、若い頃に軽度の肺気胸を患っていたが、それは手術などせず自然に治癒したものの、今回は弱っていた部分に過度なダメージがかかって症状が重いので、手術が必要らしい。


肺の回りの嚢胞と言う部分の、破れた箇所を切除する手術を受け、1週間ほど入院して安静に過ごし、その後は経過を見ながら無理のないように自宅療養をしなければいけないそうだ。



レナは電話を切った後、パソコンで“肺気胸”を検索してみた。



背が高く痩せ型の若い男性に多い病気で、肺の回りの嚢胞と言う部分が破れて空気が入り、肺を圧迫するため、呼吸がしにくくなるらしい。


胸以外にも、肩や背中が痛くなると言う。


過度のストレスや疲労によって発症することもあり、無理をしがちな働き盛りの世代にはよくある病気らしい。



(そう言えば川田さん、最近疲れてたみたいだったな…。顔色もあまり良くなかったし…。よく背中の辺りが痛いって言ってた…。)


レナはパソコンを閉じて、事務所のみんなの仕事のスケジュールが書かれたホワイトボードに視線を移した。


(川田さんがいなかったら…誰が須藤さんの代理を務めるの?!川田さんの撮影は、誰に振ればいいの?)



「おはようございまーす。」


レナがオロオロしていると、出勤した後輩の山根が不思議そうにレナに声をかける。


「片桐さん、どうかしました?」


「あっ、山根くん…。川田さんが…。」


先ほどの電話の内容を伝えると、山根は驚いた様子だったが、撮影のスケジュールを確認してから、オロオロしているレナの方を向いた。


「片桐さん、落ち着いて。今日は川田さんの撮影の予定はないみたいだけど、明日からは僕と片桐さんだけじゃ、とてもじゃないけど回せません。まずは須藤さんに連絡しましょう。」


「あっ…、そうだね…。」


レナはニューヨークの須藤に電話を掛け、川田の病気の事と、川田が復帰するまで少なくとも半月ほどはかかる事、それまで事務所の人手が足りない事などを伝えた。


須藤は少し考えて、一度日本に帰ると言った。


「こっちの仕事もあるから、すぐと言う訳には行かないんだけどな…。できるだけ早く行けるようにするから、それまではレナが川田の代わりに、なんとか事務所を回してくれるか。とりあえず、こっちのスタッフ何人かそっちに行かせるよ。」


「わかりました……。」



レナは電話を切って、ひとつ大きなため息をつくと、事務所のパソコンを開いて今後のスケジュールの詳細を確認し始めた。


(とりあえず…私が一番歳上で先輩なんだから…しっかりしないと…。)




“今日は遅くなります。

昨日のカレーと、冷凍室の中の御飯を温めて食べるか、外で夕飯済ませてね”



テレビの歌番組の収録が終わったユウは、楽屋でタバコに火をつけながら、レナからのメールを見た。


(そっか…遅くなるんだ。)


ユウはタバコをくわえたままシャツのボタンを外すと、灰皿に灰を落として少し考える。


(どうしようかな…。どっかで飯でも食って帰るか…。)


着替えて帰り支度が済んだ頃、ユウのスマホが鳴った。


(あ…シンちゃんからだ。)


「もしもし。」


「あっ、ユウ、今いいか?」


「うん。」


「これからうち来ないか?もちろんレナちゃんも一緒に。」


「レナ、今日は仕事で遅くなるって。だから、一人で飯でも食って帰ろうかと思ってたとこなんだ。」


「そうか…。じゃあ、迎えに行ってやるから、ユウだけでも来いよ。車、レナちゃんが通勤に使ってるんだろ?」


「オレ、今テレビ局にいるから。マネージャーに送ってもらうよ。」


「そうなのか?じゃあ待ってるぞ。」


電話を切ると、ユウはマネージャーに頼んで、シンヤの家まで送ってもらう事にした。


高校2年の時に同じクラスになった三浦慎也は1年間留学していたので1つ歳上だが、同じ軽音部で活動していた親友で、今は作家をしている。


シンヤの妻の麻由は、出版社の編集部に勤めているが、来月中旬に出産を控えて産休に入っている。


ユウとレナの小学校4年の時からの親友で、ユウは今もマユを旧姓で“佐伯”と呼ぶ。



(そうだ。レナにメールしとこう。)



“お疲れ様。収録終わったよ。

シンちゃんの家に行くから、レナも早く終われたらおいで。”



ユウはレナにメールを送ってスマホをポケットにしまうと、昨日のレナの様子を思い出した。


(昨日もあまり元気がなかったな…。まだ気にしてるのかな…。)


レナがモデルを続けながらカメラマンをしている事について、今まで悪く言われた事がなかったので、ユウも書店で聞いた女の子たちの会話には少しショックを受けた。


(世間の目は厳しいな…。レナと須藤さんが婚約してた事なんて、オレとの騒動に巻き込まれてなければ、世間の人に知られる事なんてなかったのに…。)


ユウとレナが付き合い始めて半年が経った頃、かつてユウと関係を持った事のあるグラドルの陰謀で、二人の熱愛騒動に始まり、ユウの女性遍歴やレナの過去、ある俳優とレナの熱愛騒動の捏造など、多くの脚色を加えた記事が週刊誌に掲載され、世間で騒がれた事があった。


その時ユウは、自分のしてきた身勝手な行動を後悔して落ち込むあまりに塞ぎ込んで、愛するレナの事も遠ざけ、挙げ句の果てには俳優との熱愛の記事を鵜呑みにして、レナを傷付け、自らレナを突き放してしまった。


その時レナはひどくショックを受けて、ユウと一緒に暮らした部屋を出て行った。


その後、勘違いしていたユウに事実を教えてくれたのがシンヤだった。


そしてシンヤは、事故に遭って大怪我をしたユウに、“せっかく命拾いしたんだから、伝えたい事は言葉にして伝えろ、そうすればちゃんと伝わるから”と、言ってくれた。


思えば、初めて自分の出生の事実を打ち明けたのも、シンヤが初めてだった。


ユウには幼い頃から父親がいない。


母親の直子から、父親とはユウが生まれてすぐに離婚したと教えられていた。


しかし本当は、まだ生まれて間もない頃に実の母親に置き去りにされたユウを、仕事で忙しい父親と一緒になって世話をしてくれたのが、父親の友人だった直子だった。


その後二人は次第に惹かれ合うようになり結婚したのだが、結婚生活を送ったのはわずかな期間で、ジャーナリストだった父親は、仕事で内戦の起こる危険な地域に行って命を落とした。


それから直子が、血の繋がらないユウを女手ひとつで育ててくれたのだ。


高校生になる少し前にその事実を知ったユウは、複雑な思いを抱いて大人になった。


自分を捨てた母親のように、いつかレナにも捨てられるのではないかと恐れていた事が、レナを傷付けてしまった事にも繋がっている。


実の母親にも必要とされなかった自分は、生まれてきてはいけない子供だったのかも知れないと思っていたユウを、“私にとっては必要で、誰よりも大事な人だから”と言って、レナは優しく包み込んでくれたのだ。


複雑な生い立ちのせいで結婚の意味がわからずにいたユウだったが、幼い頃から極度の人見知りで人前に出る事を避けてきたレナが、ユウを守るために世間を騒がせた騒動の矢面に立ち、堂々と“ユウを愛してる”“私にはユウしかいない”と言ってくれた事で、レナを一生愛して守りたいと思い、結婚に踏み切る事ができた。


(なんかいろいろあったな…。)


子供の頃からずっと隣にいたのに、失う事や傷付く事を恐れて、想いを伝える事もできないままレナを傷付け、誰にも行く先を告げず逃げ出してしまった事や、レナと離れて過ごしたロンドンでの長い日々。


10年後に再会して、レナへの想いを再認識したのに、レナにはその時、須藤と言う婚約者がいた事にショックを受け、叶う事のない恋を終わらせようと、またレナを傷付け、突き放してしまった苦い思い出。


それでもユウを選んでくれたレナをずっと大事にしようと心に誓ったのに、またひどく傷付けてしまった事や、レナがこれ以上ユウの過去を知って傷付かないようにと無理して笑っていた事にも気付かずに、たった一人で何度も泣かせてしまった事…。


(もうレナを悲しませたり泣かせたりしないように、しっかりしないとな…。これからは、オレがレナを支えて守らないと…。)


ユウがぼんやりと考えているうちに、マネージャーの運転する車はシンヤのマンションの前に到着。


マネージャーに挨拶をして車を降りたユウは、シンヤとマユの住む部屋へ向かった。



「いらっしゃい。久し振りね。」


お腹の大きなマユが、玄関でユウを出迎えてくれた。


「おじゃまします。また大きくなったなぁ…。もうすぐだな、出産予定日。」


「うん。もう、37週目に入ったから、いつ生まれても大丈夫なんだって。」


マユは笑いながら、愛しそうに大きなお腹を撫でる。


「そうなんだ。なんかドキドキするな。」


子供の頃からよく知っているマユが、もうすぐ母親になると言うのは、不思議な感覚だった。


(佐伯、すごく優しい顔してる…。これが母親の顔なのかな…。)


リビングに通されたユウは、シンヤの隣に座った。


「シンちゃん、久し振り。」


「おぉ、久し振りだな。そうそう、神戸のバウムクーヘン、ありがとな。うまかった。」


「うん。」


ライブツアーで神戸に行った時、レナと初めて神戸の街を観光したお土産にと買って来たバウムクーヘンの事だ。


(レナと一緒に神戸観光して…楽しかったな…。また行きたいな。)



「相変わらず順調そうね。」


マユが料理を運びながらユウに声を掛ける。


「うん、まぁ、なんとか。」


「ソロデビューには驚いたけどな。」


シンヤが取り皿にユウの分の料理を取り分けながら笑う。


「あぁ…。あれはヒロさんの陰謀だよ。レナのためにって。」


「レナちゃんのため?」


「うん…。いろいろとつらい思いさせて、何度も一人で泣かせたから。オレの素直な気持ちを歌にしてやれって。…いただきます。」


ユウは照れ臭そうにそう言うと、マユの手料理を口に運ぶ。


「おっ、うまい。」


「当たり前だ。」


シンヤが得意げに笑う。


「ところで、レナは元気にしてる?」


マユがテーブルについてユウの方を見た。


「うん。元気…と言えば元気だけど、最近ちょっと悩んでると言うか…気になる事がいろいろあるみたいだ。」


「気になる事?」


「うん…。」


(妊娠とか出産の事は、今は佐伯に言わない方がいいかな…。もうすぐ出産なんだし…。)


「モデルとカメラマンを両方続けてる事とか…。」


「今更じゃない?」


「うん。この間、二人で出掛けた時に、本屋で知らない女の子たちにその事であまり良くない話をされてるの、たまたま聞こえちゃって。あれから多分、その事すごく気にしてる。それがレナなんだから気にする事ないって言ったんだけど…。」


「そうか…いろんな人がいるからな。レナちゃんも昔と違って有名になっちゃったから。」


「うん…。オレとの騒動があったせいで、いろんな事が表沙汰になったから。何も知らない人は、オレと付き合う前にレナがどんな経緯で須藤さんと婚約したとか、どんな思いでオレを選んでくれたとか、そんな事もわからないのに、うわべだけ見て話すだろ。」


「世間の人たちには、ちょっとした話のネタくらいの事なんだろうけど…。レナ本人にとってはつらいわね。」


「うん…。」


ユウは口をへの字に曲げてうつむくレナの顔を思い出して、小さくため息をついた。


「レナちゃん、一人で頑張り過ぎるとこあるからな。」


「しっかり支えてやってよ、片桐。」


「うん。オレがつらい時、レナに支えてもらったから。今度はオレがレナを支えないと。」


「ユウ、いい男になったじゃん。」


「茶化すなよ、シンちゃん…。」



それからしばらく、3人で食事を楽しんだ。


10時を過ぎても、レナからの連絡がない事が心配になったユウは、レナに電話を掛けてみる事にした。


「もしもし…。」


「あっ、レナ。まだ仕事終わらない?」


「うん…。ちょっと…終わりそうにない…。」


明らかに元気のない様子のレナの声に、ユウは何があったのかと、いても立ってもいられなくなる。


「今、事務所?」


「うん。」


「ひとり?」


「うん、ひとり。」


「迎えに行くよ。」


「えっ…。でも、いつ終われるか、わからないよ。」


「だからだよ。これから行くから。」


「うん…。」


電話を切ったユウは、シンヤとマユに、これからレナを迎えに行く事と、食事のお礼を言って部屋を出ようとした。


「ユウ、車で送ってやるよ。今日はそのつもりで、酒飲んでないから。」


「ありがと、助かるよ。」




ユウはシンヤの運転でレナの事務所に向かう。


「さっきの話だけどさぁ…。」


「ん?」


シンヤは運転をしながらタバコに火をつける。


「あっ、ユウもタバコ吸っていいぞ。マユの前だから我慢してたろ?」


「あぁ、うん。」


ユウもタバコに火をつけた。



「でさ、レナちゃんの悩みって…あの話だけじゃないだろ?」


「わかるの?」


ユウは驚いた顔でシンヤを見る。


「なんとなくな。ユウ、いろいろって言ったじゃん。」


「さすが売れっ子作家、シンヤ先生…。」


今は作家として活躍しているシンヤだが、昔から、シンヤは人の気持ちに鋭い。


「なんか、言いにくい事か?」


「いや…。出産間近に控えてる佐伯の前では言いづらいなと思って。」


「なんだ?話してみろよ。」


「うん…。シンちゃんにも関係ある事だと思うけど、いい?」


「おぅ、遠慮なんかすんなよ。」



ユウは、レナが出産祝いのベビー服を買いに言った時に、店員に言われた言葉や、その事でレナが妊娠と出産に対して不安になっているようだと話した。



「オレたち男だからさ、どんなに頑張っても、一生経験する事はできないじゃん。」


「そうだな…。そばにいてやるくらいしかできないもんな。」


「オレはさ…正直言うと、レナが妊娠とか出産を望まないなら、ずっと二人でもいいって思ってる。」


「うん。」


「だけど、不安になるって事は、レナもやっぱりオレとの子供が欲しいのかなって。前にそんな話をした時は、今はピンと来ないけど、いずれはオレと家族を作りたいって言ってたし。」


「うん、まぁ…そうだよな。」


シンヤは静かに呟いた。


赤信号でシンヤはゆっくりとブレーキを踏む。


そして、少し考えてから、静かに口を開いた。


「前にさ、マユが流産したじゃん。」


「うん、そうだね。」


「妊娠とか出産って…本当に、何があるかわからないんだよな…。オレも前にマユが妊娠した時は、当たり前みたいにその子を抱けると思ってたから。」


「うん…。」


シンヤは短くなったタバコを灰皿の上で揉み消すと、小さくため息をついた。


「でもさ、後でわかった事だけど、あれはマユが無理したからとか、そういう事が原因じゃないんだ。たまたま、生命力の弱い受精卵が着床してさ、妊娠したってだけで…。だから、マユのお腹の中で育つことができなかった。その証拠に、マユは痛みとか自覚のないまま流産って事になったんだよな。それが余計にマユを苦しめたのかも知れない。」


「うん…。」


信号が青になり、シンヤはゆっくりとアクセルを踏んで車を発進させた。


「お産に何があるかなんて、誰にもわからないよ。マユとまた暮らし始めてしばらく経った頃にさ、マユのお腹に子供がいるってわかった時…オレ、正直言うと、怖かったもん。またマユを悲しませるんじゃないかって。」


「うん…。」


「今は、子供が無事に生まれてくれる事と、マユが無事にその子を抱ける事を祈るしか、オレにはできないからな。」


「そっか…。」


ユウも短くなったタバコを灰皿の上で揉み消すと、小さくため息をついた。


「妊娠とか出産って言うのは、オレたちにとっては、永遠に未知の世界だな。」


「確かにな。」


窓の外に流れて行く夜の街の景色を眺めながらユウがポツリと呟く。


「もし、オレたちに子供ができたとしたら…オレは、その子を愛せるかな…。」


ユウの言葉に、シンヤは、生まれたばかりの自分を置き去りにした母親の血を引いている自分にも子供が愛せるのかと、ユウもまた不安に思っているのだと気付いた。


「大丈夫だよ、ユウ。」


シンヤは左手でユウの肩をポンポンと叩く。


「ユウはユウなんだから。レナちゃんの事、愛してるだろ?」


「うん。」


「それなら大丈夫だ。それに、妊娠がわかったからって、いきなり生まれてくるわけじゃないんだから。愛する奥さんのお腹の中で少しずつ大きくなって行くんだ。必死でその子を守る奥さん見てたら、そんな奥さんも、これから生まれてくるその子も、愛しくて仕方ないって思えるようになるから。」


「うん…そっか…。」


シンヤの言葉は、ユウの心に、優しく温かく染み込んだ。


(オレとレナも…いつかそんなふうになれたらいいな…。)



シンヤの車を降りたユウは、自販機で缶コーヒーを買って、レナが勤める須藤写真事務所に足を運んだ。


事務所のドアを開けると、レナは難しい顔でパソコンとにらめっこをしている。


「レナ。」


「ユウ…。」


「ハイ。お疲れさん。」


「ありがと…。」


ユウの差し出した缶コーヒーを受け取ると、レナはタブを開けてコーヒーを静かに飲んだ。


「どうした?」


「うん…。」


レナは、川田の病気の事や、須藤や応援に駆け付けてくれるスタッフが来るまでの間、川田が抜けた穴を埋めるためにどうすればいいのか、ずっと考えていると話した。


「今までは、事務所の事、川田さんが全部やっていてくれたから、私は割り振られた仕事だけに専念できたんだけど…。川田さんは撮影の仕事もこなしながら、こんな大変な仕事をしていたんだね。」


「そっか…。」


ユウはレナの頭を優しく撫でる。


「とりあえず、明日の仕事をなんとかしなくちゃって…。私も山根くんも、別の仕事が入ってるんだけど…川田さんが行くはずだった仕事、どうしても日にちと時間がずらせなくて…。」


レナは泣きそうな顔でパソコンの画面を見つめている。


「あの子は?ほら、いつもアシスタントについてる女の子。」


「ルミちゃんはまだ経験も浅いし、こんな大きな仕事に一人で行かせるわけにはいかないよ。かと言って、私や山根くんの仕事も代われないし…。明日はまだ、ニューヨークのスタッフも来られないだろうし…。」


レナは両手で顔を覆って考え込んでいる。


「どうしよう…。」


どうしてやる事もできず、ユウはただ、レナの背中を優しくポンポンと叩く。


「とりあえず…明日、もう一度みんなで相談して、先方にお願いしてみるしかないよ。レナがどんなに一人で悩んでも、どうする事もできないだろ?他のスタッフにメールして、明日早めに来てもらうとか…。」


「うん…。」


レナはパソコンから山根とルミに、明日の朝はミーティングをしたいから30分早く出勤して欲しいとメールを送った。


程なくして、山根とルミからの返信を確認すると、レナはパソコンの電源を切って静かに席を立った。


時刻は11時を回っている。


「ごめんね…こんな事に付き合わせて…。」


「大丈夫だよ。さ、帰ろう。」


「うん…。」



事務所を出ると、ユウは運転席に座り、レナは助手席のシートに身を沈めた。


「ありがと…。ユウが来てくれなかったら、私あのままどうしていいか、ずっと悩んでたと思う。」


「うん…。仕事に関してオレは何もできないけど、レナの事はちゃんと支えるから。」


「ありがと…。」


疲れきった表情で、レナは静かに目を閉じた。


(かわいそうに…。よっぽど疲れてるんだな…。)




帰宅すると、レナはシャワーを済ませ、ベッドに入ってすぐに眠りについた。


(レナ…もしかして、今日はまともに食事もしてないんじゃ…。)


疲れきってぐっすり眠っているレナの髪を、ユウは優しく撫でる。


そっとレナの隣に横になると、ユウは、優しくレナを抱きしめた。


(こんなにレナが疲れてるのに…オレは何もしてやれないんだな…。)



翌朝、ユウはいつもより早く起きて、レナのために朝食と、簡単なお弁当を作った。


(オレがレナにしてあげられるのは、これくらいだからな…。)


昨日よほど疲れたのか、レナはまだぐっすりと眠っている。


(起こすのかわいそうだけど、今日は早めに出勤しなくちゃいけないし…。)


ユウは、眠っているレナを優しく起こす。


「レナ…起きて。」


「うん…。」


「今日は早めに出勤するんだろ。」


「あっ…。そうだった…。」


レナは慌てて起き上がると、時計に目をやる。


「どうしよう…。朝食作る時間ない…。」


「大丈夫、用意できてるから。」


「えっ…?」


ユウはレナを抱きしめて、優しくキスをする。


「おはよ。」


「おはよ…。」


「着替えて顔洗っておいで。」


「うん…。」


それから二人で、いつもより早い朝食を済ませると、レナは慌てて後片付けをしようとした。


「いいよ、オレがやっとくから。」


「でも…。」


「いいって。オレ、今日は1日家にいるから。ほら、これ持って仕事に行きな。」


ユウから差し出された紙袋を受け取ると、レナは驚いた顔でユウを見上げる。


「これ…?」


「弁当、作ってみた。」


「えっ?!」


驚くレナの頭を撫でながら、ユウはレナの顔を覗き込む。


「レナ、昨日まともに食事もしてないだろ?」


「うん…。」


「今日のお昼はこれでも食べて、仕事頑張れ。食べないと、体がもたないから。」


レナはユウにギュッと抱きついた。


「ありがと…ユウ…。」


「うん。ほら、行っといで。」


ユウはレナの背中をポンポンと叩いて、微笑んだ。


「行ってきます。」


「いってらっしゃい。」


ユウが優しくキスをすると、レナは微笑みながら、小さく手を振って家を出た。



車を運転しながら、レナは助手席のシートの紙袋をチラリと見た。


(ユウ…優しいな…。)


最近、レナが困っている時は、必ずユウが助けてくれる。


ほんの小さな事にも考え込んでしまうレナを、ユウは簡単に答へと導いてくれる。


(ユウがいてくれて良かった…。)


レナは優しいユウの笑顔を思い浮かべながら、事務所へと車を走らせた。




いつもより早く出勤したレナは、事務所のパソコンの電源を入れて、しばらく考え込んだ。


(どうしようかな…。私か山根くん、どちらかの仕事が早く終われたら、川田さんの穴を埋める事ができるんだけど…。それまでに、ルミちゃんに撮影の準備を済ませてもらって、すぐに取りかかればなんとかなる…?)



程なくして山根とルミもそろい、ミーティングを始めた。


「オレは早く終われても、そこまでの移動に時間が掛かるんで…ちょっと間に合いそうにないですね…。」


「そうだね…。じゃあ、私から先方の事務所にお願いして、あの子たちの撮影をなんとか早く切り上げさせてもらうしかなさそうだね。午前の仕事はどう?」


「それならなんとかなると思います。」


「じゃあお願いします。それからルミちゃんには、撮影の準備とか後片付けを…何度も移動しなくちゃいけないんだけど、お願いします。」


「わかりました。任せて下さい!」


「ニューヨークのスタッフが来るまでの間、無理もお願いする事になると思うけど…みんなでなんとか乗りきろうね。」


「ハイ。」


「頑張りましょう!!」



ミーティングを終えると、レナは例のアイドルたちの芸能事務所に電話をして、時間の調整が可能なメンバーだけでも、撮影の開始時間を前倒しにしてもらえないかとお願いした。


こちらの事情を説明すると、先方も仕方なく聞き入れてくれて、時間の調整ができるメンバーからスタジオ入りして、撮影を始める事になった。


(良かった…これで今日はなんとかなる…。)


電話を切ったレナはホッと胸を撫で下ろした。


そしてまたパソコンに向かって、明日のスケジュールを確認する。


(明日は私、休みなんだな。でも、こんな時に休んでるわけにはいかない…。明日は私が川田さんの撮影を引き受けて…山根くんは午前だけだから、今後に備えて半休取ってもらおうかな…。それからルミちゃんには…。)




朝食の後片付けを終えたユウは、コーヒーを飲みながらタバコに火をつけた。


(キッチンの後片付け完了…っと。あとは、何するかな。やっぱり洗濯とか掃除とか……。)



母親の直子が多忙で学生の頃には家事を手伝っていたり、その後もロンドンでのシェアハウス暮らしが長かったユウにとって、家事はたいした苦ではない。


それが忙しいレナにとって、ほんの少しでも助けになるのなら、これくらいは容易い事だとユウは思う。


(レナはいつも、仕事しながら家事もして…オレの事も気遣ってくれてるんだな。働く主婦って大変だ…。この先、もし子供ができたとしたら…レナはもっと忙しくなるんだろうな…。これからはオレももう少し、できる事だけでもしないと…。)


ユウはコーヒーを一口飲んで、タバコに口をつける。



子供ができたとしたら…と考えている自分を、以前からは考えられないと不思議に思う。


子供どころか、結婚だって考えられなかったのに、今はレナと結婚して本当に良かったと思っている。


結婚しなくても一緒に暮らしていれば…と思った事もあったけど、今はレナの夫として、誰よりも一番近くでレナを愛して守って、一緒に生きていきたい。


そんなふうに自分の考え方を変えてしまったレナはスゴイと、ユウは素直に思う。


(ガキの頃からずっと好きだった、大事な奥さんだからな…。オレがちゃんと支えないと。)



ユウはコーヒーの残りを飲み干すと、タバコを灰皿の上で揉み消して、立ち上がった。


脱衣所で洗濯物を仕分けて洗濯機に放り込み、スイッチを入れ、洗剤と柔軟剤を投入して、洗濯を始める。



洗濯をしている間、一通り掃除機を掛けた。


洗濯物を干し終わると、お風呂の掃除をして、やっと一息つく頃にはお昼前だった。



(腹減った…。もうすぐ昼か…。)


タバコを吸いながらユウは、レナは今頃どうしているかと考える。


タバコを吸い終わると、ユウはレナのお弁当を作った時に多めに作ったチキンライスを温めて昼食を取ることにした。


(レナ、今日も忙しいんだろうな。ちゃんと昼飯食ってくれるといいけど…。)




お昼過ぎからスタジオに向かうため、レナはルミと一緒に少し早めの昼食を取ることにした。


「先輩、今日のお昼どうします?」


「あっ、私…今日は持って来たの。」


「じゃあ、私も何か買って来ますね。」


「うん。お茶淹れて待ってる。」


ルミがお弁当を買って帰って来ると、レナはユウが作ってくれたお弁当の蓋を開けた。


(わっ…オムライスだ…!)


オムライスの横にはウインナーとブロッコリーが詰められ、オムライスの卵の上には、ケチャップでニッコリ笑顔が描かれている。


(かわいい…。ユウって、いいお父さんになりそう…。)


レナがしげしげとオムライスを眺めていると、ルミがレナのお弁当を覗き込む。


「うわぁ!先輩のお弁当、かわいいですねぇ!!オムライスですか?」


「うん…多分。」


「多分?」


「私が作ったんじゃないの…。」


「えっ…もしかして、ユウさんが作ったんですか?」


「うん…。今朝は私より早く起きて、朝食とお弁当まで用意してくれて…。後片付けもしておくから早く行けって…。」


レナは少し照れ臭そうに、だけど幸せそうに、ユウの話をする。


「それはノロケですかぁ?羨ましいなぁ。」


「いやいや…そういうつもりじゃないよ…。」


「ユウさん、お料理できるんですね。」


「うん、上手だよ。学生の頃から一緒に料理したりしてたから、自然に身に付いたんじゃないかな。」


レナはユウが作ってくれたオムライスを一口食べて、ニッコリ笑った。


「美味しいですか?」


「うん、すごく美味しいよ。」


「いいなぁ…。カッコ良くて優しくて、お料理もできる旦那様…。先輩、素敵な旦那様がいて幸せですね。」


「うん…。」


(ユウがいてくれて、私、ホントに幸せ…。)


ルミの言葉に、レナは素直にうなずいた。


幸せそうに微笑むレナを見て、ルミもニッコリ笑った。




“かわいいお弁当、ありがとう。

すごく美味しかったよ。ごちそうさまでした。


ユウ、大好き”



レナからのメールを見たユウは、嬉しくて思わず口元をゆるめた。


(大好きって…!!)


いつも簡潔なメールしか送らないレナが、初めてそんな言葉をメールで送ってきた。


30にもなって結婚までしているのに、まるで付き合いたての中学生みたいだと照れ臭くなりながらも、ユウは嬉しさが抑えきれず、レナからの短いメールを何度も読み返す。


(こんな事、初めてだなぁ…。)


いつも言ってくれる言葉も、文字で見ると、また違った嬉しさがある。



“どういたしまして。

ちゃんと食べてくれて良かった。

午後も仕事頑張れ!


オレもレナが大好きだよ”



かなり照れ臭くなりながらも、ユウもレナにメールを返信した。


(いい歳してガキみたいで恥ずかしいけど…もしかしてこれって、世で言うバカップルと言うやつでは…。)



ユウからのメールを見たレナも、初めてメールで“大好き”と言う言葉を送った事や、ユウからも同じようにその言葉を受け取った事に、照れて顔を真っ赤にしていた。


(は…恥ずかしい…。けど、嬉しい…。)


ユウからのメールを読み返して、レナは思わず笑顔になる。


(ユウが応援してくれてるんだから、しっかり頑張らなくちゃ!)




「今日は無理言ってすみません。」


「いやー、しょうがないですよ。ちょうどうちも時間が空いてる子がいて良かったです。」


5人のアイドルユニットを担当しているマネージャーは、嫌な顔もせずそう言ってくれたが、予定より早く現場入りさせられたチナツとタケルは、少し不服そうだった。


レナはチナツとタケルに頭を下げる。


「こちらの都合で無理言ってごめんなさい。」


「はぁ…。」


「まぁ…その分、早く終われるなら。」


レナはカメラを手に、撮影の準備を始める。


「それじゃあ、早速始めますね。」



チナツとタケルのツーショット撮影から始め、それぞれのワンショット撮影をした。


その間に他のメンバーも現場入りし、滞りなく撮影は進んだ。


(良かった…。なんとか早く終われそう。)


こちらの撮影が順調に進んでいる間に、ルミは次の撮影現場に移って準備をする。


ルミが次の撮影現場の準備をしている間、いつもルミがしてくれるアシスタントの仕事もレナが一人でこなして、なんとか撮影が終わる頃にはルミが戻って来た。



「お疲れ様でした。」


今日の撮影が終わると、ルミは片付けを始め、レナは次の撮影現場に向かう。


「ルミちゃん、よろしくね。」


「ハイ、ここ片付き次第、私も向かいます。」



目が回りそうな忙しさだったが、レナはなんとか予定通りに川田の代役も務め、目まぐるしい1日を無事に終える事ができた。




「ただいま。」


「おかえり。」


家に帰ると、ユウが優しく笑ってレナを出迎える。


「お疲れ様。」


ユウはレナを抱きしめて優しくキスをする。


「ありがと…。ユウのおかげで、なんとか今日は乗りきれたよ。」


「良かった。」


レナは部屋を見回して、驚いた顔でユウを見上げた。


「ユウ…家の事、いろいろしてくれたの?」


「ん?まぁ、暇だったし?たいしたことはしてないよ。」


「なんか今日は、ユウにいろいろしてもらうばっかり…。」


「当たり前だろ?オレたち夫婦なんだし。」


「ん…。ありがと…。」


レナはユウにギュッと抱きついて、温かい胸に顔をうずめた。


「ユウがいてくれて、私、ホントに幸せ…。」


「オレもレナがいてくれて幸せ。レナ、腹減ってるだろ?晩飯にしよ。」


「あ、うん。急いで用意するね。」


「いや、もうできてる。」


「えっ?!」


「簡単なものだけどな。カレーの残りがあったから、カレードリアにしてみた。あとは焼くだけ。」


「ユウ…。ありがと…。」



何から何までしてもらったのが嬉しくて、でも主婦としては申し訳ないような、複雑な気持ちになりながら、レナはユウにそっと口付けた。


「さ、晩飯にしよ。」


「うん。じゃあ焼くのは私がするね。」


「うん。」



それから二人で、ユウの作ったカレードリアとサラダを食べた。


「今日のお弁当、すごく美味しかったよ。」


「良かった。」


「ルミちゃんが、羨ましいなぁって。」


「羨ましい?」


「うん。カッコ良くて、優しくて、お料理もできる旦那様がいて、幸せですねって。」


レナの言葉に、ユウは照れ臭そうにうつむきながら、カレードリアを口に運ぶ。


「それは誉め過ぎ…。」


「そう?ホントの事だよ?」


レナは嬉しそうに笑う。


「そんなに喜んでもらえるなら、毎日でも作るけど?」


「ふふ…。嬉しいけど、ユウが毎日寝不足になったら困るから、気持ちだけありがたく受け取っとこうかな。」


「レナも、あんまり無理しないように。」


「うん。」


穏やかに笑うレナを見て、こんな些細な事でもレナの支えになれているんだと思うと嬉しくて、ユウも自然と笑顔になった。


夕飯の後片付けと入浴を済ませて、二人でソファーに座って缶ビールを飲んだ。


「レナ、明日は休みだっけ?」


「ううん、明日は出勤になった。」


「そうか…。大変な時だもんな。早く落ち着くといいな。」


「うん。」


ユウはレナを抱き寄せて、優しく髪を撫でる。


「じゃあ…今日は早く寝ないとな。」


「んー…もう少し…こうしてたいな。」


レナは甘えたようにユウを見上げる。


「そんな顔されたら、オレ、我慢できなくなるよ。それでもいいの?」


「…うん…。」


小さくうなずくレナにユウは優しく口付ける。


「じゃあ…あんまり無理させない程度に。」


「何それ…。」


ユウはソファーから立ち上がると、おかしそうに笑うレナの手を引いて、ベッドへと導いた。


二人でベッドに入ると、ユウはレナのパジャマを脱がせながら、優しくキスをする。


「ユウ…大好き…。」


「オレも、レナが大好き。」


ユウの唇がレナの胸元に触れると、レナは小さく肩を震わせる。


「レナ、愛してる。」


「私も…愛してる…。」


それから二人は、何度も唇を重ね、お互いの肌の温もりを感じながら、甘く幸せな一時を過ごした。




スヤスヤと寝息をたてるレナを見つめながら、ユウは優しくレナの頭を撫でる。


(無理させない程度にって言ったけど…レナ疲れてるのに、ホントに大丈夫だったのかな?オレのために無理して…なんて事は…。)




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