借りぐらしのアリエネエ ~さらば師匠、また逢う日まで~

 そう、俺は覚悟が足りなかったのだ。気づけばいつの間にか約束の刻限となっていた。

 師匠と俺が出会って三か月目のその日は折よく日曜日、俺は朝っぱらからクローゼットの巣の中に大きく胡坐をかいている師匠の前にちょこんと正座させられていた。

「で、どうすんの?」

「どうしましょうか……」

 さっきからずっとこればかり……話が前へ進まないのだ。師匠がついに大きなため息をついた。

「ねえ、本当のことを言っていいよ。どんなにみっともなくても、たとえいいわけだってかまわないの、君のいうことは全部受け止める。私、まだ今日の間は師匠だからね」

「本当のことですか……実は、まだ迷っています」

「私が師匠っぽくないから?」

「いえ、実を言うと、とっくの昔に、俺は……」

 俺はこの女性を『師匠』だと認めているのだ。いつから……おそらく、最初にあったあの瞬間から。俺は無意識のうちに彼女の『強さ』を認めていたからこそ、これを家に招き入れたのだと思う。

 これまで俺は、小説を書くのにあまりにも考えなしだったような気がする。いや、PV獲得だの、読者との交流だの、そういった『戦略』は考えていたが、文章の『強さ』に求められるものはそこではないのだと、この三か月でいくつも思い知らされてきた。

 そう、今の俺は師匠についていけば『強く』なれることを知っている。しかし、それは俺が目指していた『あわよくば出版』とは全く別方向へと延びる茨道だ。この道を行けば、きっと後へ引き返すことはできない。

「俺は……確かにぬるい考えでしたけど、それでも……自分が書いた作品への愛がないわけじゃない。俺は、『異世界の車窓から』を書きあげたいんです」

 俺が力強く言えば、師匠は飛び切り優しい笑みを返してくれた。

「君はさ、ようやく本当のことが言えるようになったよね」

「師匠のおかげです。師匠がいなかったら俺は、だらだらと『あわよくば』の気持ちだけであの作品を書き進んで、そのままネットの海の中に埋もれさせてしまっていたでしょう」

「ってことはさ、いまは『あわよくば』じゃない気持ちがあるわけだ?」

「あるんですけど……笑いません?」

「何を笑うの?」

「俺が見つけた目標は、あまりにもちっぽけだから……」

「いいから、言ってごらん。絶対に笑わないって約束する」

「師匠を……笑わせたいです。他の誰でもなく、ただ師匠だけを楽しませたいです」

「へえ、なんで私?」

「師匠は俺の小説にさんざんダメ出ししたけれど、一度も『だから書くな』とは言わなかった。下手だのまだまだだのは言われたけれど、『だから書くのをやめろ』とは言わなかった。だから俺……師匠のためにあの小説をきちんと完結させたいです!」

「たぶん、辛いし、苦しいよ?」

「わかってます。だけど、オレが書いたら、少なくとも師匠は読んでくれるんでしょ?」

「当たり前じゃない、私はあんたのファンで、だからこそあんたの師匠になったんだから」

「だけど師匠、俺はこの作品だけは自分一人で書き上げたい。どんなに技術が無かろうと、どんなに文章が弱かろうと、この作品だけは……自分の力で書き上げて、師匠に読ませたい」

「つまり?」

「あと三か月、猶予を下さい。俺、『異世界の車窓から』をきちんと完結させるんで、そのうえで師匠に判断してほしいんです、本当に俺があなたに弟子入りするにふさわしいかどうか」

「ふふ、いい面構えになったよねえ」

 師匠は俺の言葉には答えず、少し腕を組んで考えを巡らせ始めた。

「あの、師匠?」

「何よ?」

「ダメですか?」

「ダメじゃないけど……三か月でいいの?」

「それ以上は、俺が寂しいです」

 俺はこの時、花野ミツに頼んで三か月の間、師匠を預かってもらおうと考えていた。その旨を師匠に伝えれば、彼女は頷いて了承を示す。

「つまり、三か月の間は私にいっさい頼らないってことね」

「師匠、ここからは少し不埒なことになるんですが、聞いてくれますか?」

「不埒? つまり、一人で完結させることができたら、ご褒美にセックスさせろとか?」

「なっ! なんでそういう下世話なことになったんですか!」

「だって君、オフパコ狙いだったんでしょ」

「それは、そうなんですけど……」

 ここまで三か月、師匠と暮らしてきた日々を思い出す。何しろ師匠は家事一切ができない女なのだから、生活の面では俺の負担の方が絶対に大きい。もっともそれも、猫を飼っていると思えば耐えられないわけではなく……むしろ俺は、もはや師匠のいない生活など考えられないほどに、彼女を……。

「愛しているんです」

「ああ、愛しているのね」

「あ、えっと……エロい感じの愛じゃないっすよ?」

「知ってる、家族の愛情ってやつでしょ。君が教えてくれたんじゃん」

 師匠は少し遠くを見るような目つきをして、ふっくらとした唇の間に言葉を食んだ。

「家族……いいかもね」

 ふっと口元を緩めて、師匠はとびきり明るい声を出す。

「ねえ、最初に私にくれようとしたプレゼント、まだ持ってる?」

「あ、オフパコの時の? ああ、たぶんこの辺に」

 俺は部屋の隅に転がっていた鞄を引き寄せて、その中から高級そうな小さい包みを引っ張り出す。しかし師匠は顔をしかめて、両手を振った。

「違う違う、そっちじゃなくて」

「え、こっち?」

 ぼこぼこと不定形のぬいぐるみを包んだそれは、中身が柔らかいことも相まって多少くたびれている。それでも師匠は満面の笑みで両手を差し出した。

「それ、ちょうだい」

 師匠に物欲がないことを聞いていた俺は驚いた。だが、無邪気に両手を差し出す彼女の言葉を拒む理由は何一つない。本来ならこれは、出会ってすぐに彼女に渡されるはずのものだったのだし、男の俺がぬいぐるみなどもっていたって仕様がないのだ。

 俺が包みを手渡すと、師匠は其の包装紙をバリバリと破いた。小気味よい音が部屋に響く。

「わあ、かわいいじゃない!」

 包みの中から現れたクマのぬいぐるみを抱きしめて、師匠は「くふ~」と満足そうに笑った。

「これ、私のだから」

 はじめて見せた所有欲、それは彼女なりの約束だったのだ。師匠は、自分がいつも座っている古着の巣の中にそのクマを置いた。

「私が帰ってくるまで、このままにしておいてね」

 甘えた声で俺に命令する師匠はとびきり可愛い。俺は胸のあたりがうずうずするような気持ちを押さえて、つとめてクールに答えた。

「師匠こそ、ちゃんと三か月、待っててくださいよ。勝手に放浪の旅に出たりしないでくださいよ」

「わかってるって、どこかに行くときはちゃんと行先を言ってから! 覚えたし!」

「ん~、ちょっと違うんだけど……ま、いっか」

 もはや抑えられるわけがない。俺は両手を伸ばして師匠の体を抱きしめる。

「『行ってらっしゃい』、師匠」

「うん、『行ってきます』、弟子君」

 俺はいまだに師匠のすべてを知っているわけじゃない。しかもこの時はまだ、師匠の哀しい過去も、そして彼女が一つ所に自分の居場所を決めるというのがどれほど大きな意味を持っているのかも、何もかもすべてがわからないことだらけだった。それでも俺は、この師匠に一生ついていこうと……そしていつか彼女と肩を並べて胸を張って生きていける自分になろうと、このとき、固く誓ったのだった。

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師匠の飼い方! 矢田川怪狸 @masukakinisuto

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