タナカはすっと足を下し、俺に向かって深く頷く。

「それでいいんですよ、『高見沢先生』。あなたは作家として捨ててはいけないものをご自分で守った」

 それから彼は、自分が床に引き倒した男の胸倉をつかんで額がぶつかり合うくらいに顔を寄せた。

「さて、そんな作家先生をお守りするのが僕の仕事、ここからは僕があなたの相手ですよ」

 マムシ男の方は、もちろんそれぐらいで動じるわけがないのだ。気合一咆、タナカの手をはじいて開かせる。そのまま肘からえぐるようにして拳を叩きこむが。

「呀!」

 その拳よりも早くタナカの手刀は空気を裂いて、かの攻撃を弾いた。

「ここではお店に迷惑がかかる、表に出ましょう」

 タナカの口調は柔らかく、その顔は柔和だが……なんていうか、背後に虎のかたちをしたオーラを纏っているような気がする。

「なるほど、さすがはWADOWAKAの大編集者様、ちゃ~んと周りにも気づかいのできるいい子ですってか、そういうの、気に食わないねえ」

 ゆらりと立ち上がった男、この背後に見えるのは蝮!

 タナカの背後に控えた虎が、大きな口を開いて蝮を嘲り笑った。

「僕にもね、嫌いなものが二つあるんですよ。一つは水加減を間違った柔らかいごはん、そしてもう一つはね……作家が下だの、編集が上だの、そういうことばっかり気にしてろくに仕事もできない無能な人間ですね」

「言ってくれるじゃあないの」

「別に誰のこととは言ってませんけど……ねえ、散英社の『お荷物編集』さん?」

「上等だ、るぅぁあ! 表出ろぃ!」

「こっちこそ上等じゃぁ! かかって来いや、シャバ僧がぁ!」

 二人の男が店外に向かって走り出す。と、この争いを見守っていた店内の客たちがそわそわと立ち上がり、次々とレジに向かった。きっとタナカとマムシ男の戦いを見届けようという魂胆だろう。

「師匠、俺たちも。俺たちもタナカさんを追いましょう」

 俺はすでに椅子から半分ほど腰を浮かせていたのだが、師匠も、そして花野ミツまでが、少しも動じることなく座席に座ったままであった。

「見に行っても、逆に邪魔になるだけだし」

「そうね、タナカなら、まず負ける心配はないし」

 再びメニューを広げてしまうあたり、この二人はタナカのことをかなり信頼しているのだといえよう。

 むしろ師匠はわずかに憐憫を含んだ優しいまなざしを俺に向けて聞いた。

「腕、大丈夫?」

 花野ミツもこれに続く。

「弱いのにイキがるからだ」

 その後で、二人は顔を見合わせて、少しだけ「ふふっ」と笑いあった。

「でも、弟子君、かっこよかったねえ」

「そうですねえ、ミツも少しだけ見直しちゃいましたぁ」

 二人に嘲笑された俺は、少しむくれて椅子に身を投げ出す。

「すいませんねえ、弱くって」

 師匠は俺の態度に心から驚いた様子で、目を真ん丸にして言った。

「何言ってるの、君は十分に強いよ」

「慰めはいらないですよ」

「慰めなんかじゃないよ。腕っぷしは確かに弱いかもだけど、作家として一番大事なものを守る強さは持っているじゃない」

「作家として大事なもの?」

「そう、作家として一番大事な……プライド」

 師匠はパラリとメニューをめくりながら俺に聞いた。

「本当は、わかってるんじゃないの?」

「なにがです?」

「私の弟子になるということの意味……わかっているからこそ、悩んでるんじゃないの?」

「そうかも……しれませんね」

「まあ、もう少し悩むといいよ。とりあえずごはんごはん~」

 師匠はすっかりいつもの通り、屈託のない猫のような奔放さでメニューを眺めている。花野ミツはそんな師匠の横顔をうっとりと眺めている、これもいつも通り。

 しかし俺だけはいつも通りではなく……自分がとても大事なことを見落としているような気になって、そわそわと落ち着かない気持ちになっていた。いや、本当はもう、答えなどとっくの昔に出ていたのかもしれない。それでもそれを認めるには、あと少しだけ勇気が足りなかったのだ。

 子猫のような師匠の表情を眺めて、俺は誰にも気づかれないように、そっとため息をついたのだった。

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