それから三日後、師匠の執筆が終わった。それでもまだ、俺は自分の心を決めあぐねていた。

 タナカに原稿データを送信した後で、師匠はぐったりと巣の中に体を投げ出す。

「おなかすいた~ぁ」

 時間はちょうど夕刻、おやつを食べるには遅いが、晩飯にはまだ早い。俺は少し考えてから、師匠に声をかけた。

「外でごはんしましょうか?」

「外で!」

「師匠も頑張ったことですし、花野先生も呼んで、ミニ打ち上げってことで」

「みっちゃんも!」

 こうして俺たちは駅前にあるファミレスで少し早い夕食をとることになったのだが、ここに大事件が待ち受けていた。

 集まったのは俺と師匠と花野ミツ……タナカにも声をかけたのだが、彼は仕事が残っているということで少し遅れてくることになっていた。席についた俺たちはさっそくメニューを開く。

「お師さま、いきなりお肉とか食べちゃダメ、体がびっくりしちゃいますからね」

 花野ミツは師匠の隣に席を決めて、べたべたべたべたと甘えているが、この日だけは目をつぶる。せっかくの楽しい会食をぶち壊しにする趣味は俺にはない。

「ねえ、お師さまぁ、豆腐のサラダとか、いいと思うの~」

「……肉。ステーキ……」

「だからぁ、そういうのいきなり食べちゃダメ」

「じゃあ、ハンバーグ。ハンバーグはミンチだから消化がいい」

「え? あ? そうかも!」

 グダグダな会話に、さすがの俺もツッコミを入れる。

「そんなわけあるかー!」

 さっとメニューを広げた俺は、それを師匠の方へ差し出した。

「和食メニュー、ここから選んでください、少しは胃への負担も少ないでしょう」

「うん、わかった」

「それから花野先生、今日は俺のおごりなんで、好きなもの頼んでください」

「うっわ、むかつく」

 憎まれ口は叩かれたが、別にぎすぎすした雰囲気はない。花野ミツは花野ミツなりにこの食事を楽しんでいる様子だ。

「お師さま、ドリンクバーもつけちゃいましょうよ~」

 そんな和やかな雰囲気に水差すは痩せた長身の男!

 見知らぬ男が俺たちのテーブルに歩み寄り、ひどくなれなれしい様子で師匠の肩を叩いた。

「あら~、柴木先生じゃないですか~」

 師匠はプイと横を向く。

「その名前、嫌い」

「じゃあ、何とお呼びすればいいんです? 若菜先生? 山田先生? 高金先生? それとも……レジェンド?」

「どの名前も嫌い」

「やれやれ、相変わらずワガママな大先生だなあ」

 男は師匠の隣に無理やり座ろうとしたが、もともとが二人掛けの座席に師匠と花野ミツで精いっぱい、彼の入り込む余地はない。それに花野ミツが師匠を引き寄せて「しゃーっ!」と猫に似た威嚇音をあげるのだから、男は仕方なく俺の隣へと腰を下ろした。

「花野先生さあ、そんな顔すると女の価値下がっちゃうんじゃない、せっかくJKなのにさあ」

 口のきき方は失礼、態度は横柄、どこからどう見ても好感度ゼロ。俺はここまで虫の好かない男には、今まで会ったことがない。しかも彼の目には俺の姿は少しも映らないらしく、こちらには一つも視線を向けようとはしない。

 男は俺の前に置いてあったグラスをいきなりつかみあげると、それがさも自分のために用意されたものであったかのように中身を飲み干してしまった。

「まっず、水道水じゃん。だから安い飯屋って嫌いなんだよ」

 それから男は、行儀悪くテーブルに肘をついて体をぐっと前に乗り出した。

「ねえ、先生、俺のところにも一本、書いてくださいよ~」

 あとで知ったことだが、この男は散英社の編集者であった。名は鷺山雄一、出版界での通り名は『マムシのユウさん』――とはいっても、彼の何かをたたえるためにつけられた仇名ではなく、ごらんのとおりの態度の悪さからつけられた蔑称なのだが。

 このころの彼は、作家から蛇蝎のごとくきらわれているのだからロクな仕事などなく、編集部内でも窓際へと追いやられそうになっているところだった。つまり、出版界で一番手に入りにくいと言われる不在作家の原稿を手に入れれば一発逆転、出世のチャンスもあるだろうと、そんな理由で師匠をつけまわしていたのだ。

 彼が最初にしたのは金の話だった。

「で、いくら欲しいの、いくらなら書いてくれるわけ?」

 師匠は花野ミツに抱き着き、声もなく震えている。だから仕方なく、花野ミツが口を開いた。

「お師さまは金では動かない」

「へ!」

 男は鼻先で嗤った。

「じゃあ、名前? 著者欄に名前が載ればいいのかな?」

「そういう問題でもない。お師さまは、タナカ以外の編集者からは絶対に仕事を受けない」

「それって、WADOWAKAと専属契約を結んでるってこと? 大丈夫、WADOWAKAさんには内緒にするからさあ」

 彼としては親しみを込めて微笑んだつもりだろうか、しかし、その笑顔は薄い唇を大きく横に引き伸ばしただけで目元は一切動かないのだから、まるで小動物を追いつめようとしているときの蛇の表情そのものだった。

 さて、蛇に狙われた獲物である師匠は、おびえて花野ミツに縋りつきながらも、存外はっきりとした声で答えた。

「あんた、嫌い」

 花野ミツは勝ち誇ったように師匠の体を抱え込み、男に向かって短く言う。

「帰れ」

 それでも邪悪と狡猾を併せ持ったこの男がひるむことはない。さもさも自分は正しいのだと主張しようとするかのように胸を張り、師匠をにらみつけた。

「これだから若い女ってのは……あのねえ、あんた、作家でしょ、遊びで書いてるわけじゃないでしょ? お金をもらうのに、えり好みするとか、ちょっとプロとしてのプライドなさすぎるんじゃないかなあ」

 俺はさすがに自分だけが無関係な顔というわけにもいかず、男に向かって声をかける。

「あの~」

 見事に無視された! 男はこちらには顔も向けず、もちろん何らかの反応をするでもなく、テーブル越しに花野ミツと師匠をにらみつけている。

「別に金を払わないってわけじゃないですよ、あんたの言い値で払ってあげるって言ってるの。それだって破格の対応なわけよ、本来だったら、金額を決めるのはこっちなんだから」

 鼻先にかけて吐き出すような厭味ったらしい話し方。それでも俺は頑張って胸を張り、男の言葉を遮る。

「あの、ですね、金銭的なものでは無く、信用的な部分で契約に合意できないってことで、仕方ないんじゃないですかね」

 男は、やっと俺の方を見た。ただし、足元に落ちているゴミを見るような目つきで。

「なんだあ、あんた?」

「俺は、その……」

 何と答えればいいのだろうか、俺はいまだ胸を張って師匠の弟子だと名乗る覚悟はできていないのだから。

 ところが師匠の方は、急に花野ミツから離れてすっと背筋をたてた。

「弟子君は、私の弟子だから! 失礼なこととかしたら、絶対にあんたのところでは書かないから!」

「はあ、弟子ねえ……つまり作家さんってことか」

 俺は恐縮するばかりだ。

「や、いや、作家って言ってもネットで書いてるだけで……」

「ああ、作家ごっこね」

 男は鼻先で俺を嗤い、薄情そうなその顔をぐうっと近づけてくる。

「あのさあ、少しは賢くなりなよ、俺、編集者だよ?」

「それが何だっていうんですか」

「わかってないなあ、あんたの面白くもない作品だってさ、俺が一声かければ書籍化のチャンスがあるの。逆に言うとさ……俺を怒らせたら、あんた、一生ウチで書けねえよ?」

 少し返事に困って黙り込んだ俺を見て、自分が勝利したと勘違いでもしたのだろうか、その男はさも楽しそうに「くは、くは」と声をたてて笑った。

「まあ、俺はどっちかっていうと優しい男なんで、そういうことしないし。ねえ、あんたの作品、とりあえず編集会議にかけてあげるから、印刷しておいでよ」

 俺はこの唐突な展開に驚く。

「読んでもいないのに?」

「あ~、必要ないない、どうせ読者は文章なんか読まないから。アニメ化でもすれば別だけど、小説なんてどれも大差ないない」

「いや、でも、それって……」

「難しく考えないでさ、このビッグウェーブに乗っちゃっておけっての。んでさ、あんたを作家にしてあげる代わりに、あんたのお師匠さん、説得してくんねえかなあ」

「なるほど、つまり出版のチャンスという餌をやるから犬になれと」

「そうそう。なんだ、弟子君は意外に賢いじゃん」

「お断りだ」

「は? なにて?」

「お こ と わ り だ」

 瞬間、男の表情が完全に消えた。と、同時に、俺の右手に鋭い痛みが走る。

「うがあ!」

 いつの間にか俺は右の手首を後ろ手にねじりあげられて、情けなくテーブルに頬を押し付けられていた。俺の腕を関節が鳴るほどにねじっているのは、もちろん『マムシ男』だ。彼は冷たいほどに落ち着き払った声音で俺にささやいた。

「俺はねえ、嫌いなものが二つあるんだよ。一つは貧乏、もう一つは編集者の命令に逆らう生意気な作家かな」

 俺の腕はさらに高くひねりあげられた。耳元で自分の肩の関節があげる不穏な悲鳴が聞こえる。あまりの激痛に声さえ上げられず、ただ冷や汗が額を流れて落ちるばかりだ。

 男は今度はひどく楽しそうな声で、きっとわざとなのだろう、俺の耳を舐めまわすような声で囁く。

「俺は優しいから、謝れば許してやらないこともないぜぇ。ほら、俺をあがめろよ、お作家様になりたいんだろ?」

 これを見ていた店員は驚いて、すぐに俺たちのところへとすっ飛んできた。

「お客様、他のお客様もいらっしゃいますので、こういったことはちょっと……」

 しかし、底意地の悪いマムシ男がこんなのとぐらいで揺らぐはずはないのだ。

「あんた、本部クレームとか、好き?」

「え、本部クレームですか?」

「そ。俺はねえ、仕事の打ち合わせ中なの。そりゃあ確かにちょっとヒートアップしちゃってるのは悪いけどさ、そういうのって、よくあることじゃん? な~の~に~、店員さんが神経質で注意しに来たばっかりに~、大事なお仕事の話が~、流れちゃったって、クレームいれることになっちゃうかもね~」

「う、ぐ……」

「わかったら、さっさとお冷のお代わり持ってきてよ。本当に気の利かない店員だよね、社員教育とかどうなってんの?」

「し、しかし……」

「あ~、くちごたえ~、生意気~。接客業なのに、素直に『はい』って言えないんだ~、これはクレームかな~」

 店員が顔を真っ赤にしてキッチンへと飛び込んでいったのは、店の責任者に相談に行ったのだと信じたい……信じたいが……俺の肩の関節はすでに限界が近い。

 マムシ男は少し笑いを含んだ声を師匠に向かって投げた。

「ほおら、あんたがこれ以上強情張るなら、大事なお弟子さんの腕がポッキリ行っちゃうかもねえ、どうする? どうする?」

 俺は痛みに耐えて声をあげる。

「師匠! ダメですからね、こんな奴のいうことなんて聞いちゃ!」

「でも、弟子君、腕が……」

「絶対にダメ! こいつのいうことなんか聞いたら、師弟の縁を切りますよっ!」

 さらにねじりあげられる俺の腕と、少し興奮して荒れ始めたマムシ男の呼吸。

「ふへえ、カッコいいじゃん、ドシロート。気にいったよ、あんたの作品読んでやるから、持って来なよ」

 俺は店内に響き渡るくらいの大声で叫んだ。

「読んでいただかなくて結構だ!」

「ふん、ドシロート、何ならポイントだっけ? それ、くれてやってもいいんだぜ。社内のパソコンでちょいちょいと細工して、あんたをトップ作家にしてやることだってできるんだが?」

「ふざけるな、俺はそんなことのために書いてるわけじゃない!」

「へえ、じゃあ、ポッキリといっちゃおうか。痛い思い出もしたら、目が覚めるんでしょ」

 さらなる負荷が俺の肩を大きく前へと押し出す。腕の骨が耐えかねてあげるミシミシという不穏な悲鳴が、激痛に苦しむ俺の耳にやたら大きく響いた。

「そら、折れるぞ」

 すわ……と思ったその時、派手に響いたのはカンフー映画でよく聞く鳥鳴に似た声。

「ゥアチョーォオオオオオオ!」

 軽い衝撃とともに、俺を押さえつけていたマムシ男の手が離れる。自由を取り戻した体で横を見れば、先ほどまで俺を押さえつけていた男は椅子から転げ落ちてテーブルの下に這いつくばっていた。顔をあげれば、蹴りぬいた脚のかたちもいまだそのままに立つ、小太りの体……。

「遅くなってすみません、大丈夫ですか、先生方」

 にっこりとほほ笑むタナカの仏顔は優しくて、俺の目の端には安どの涙がにじんだ。

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