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「それなんですけどね、師匠はゴーストライターじゃないですか」
タナカの表情は変わらず春の穏やかさをたたえて……しかしその背後から、肌を刺すような冷たい冬の風が吹いたような気がした。
「いま、なんとおっしゃいました?」
俺は大慌てで取り繕おうとする。
「いや、違いますよ! ゴーストが悪いとかじゃなくて、俺は一次創作がやりたいわけじゃないですか! だから、実際にどんな感じで指導されるのかなって、聞いてみたかっただけです!」
「ふん、まあ、いいでしょう。花野先生のことはご存知ですよね?」
「ええ、良く存じてます」
「彼女は、それこそネット小説で恋愛ものを書いていたのですが、そのころは固定の読者もほとんどなく、新作をあげてもPVは一ケタという底辺作家でした。それがいまや、誰もが認める大作家ですよ?」
「それは、花野先生に才能があったからでしょう」
「才能ねえ、それはもちろんですけど……例えば、シャドウボクシングってご存知ですか?」
「いちおう、形ぐらいは?」
「これ、こうなんですけどね」
缶コーヒーを置いたタナカが、すっと腰をあげてこぶしを構えた。ボクシングは良くわからないが、素人目に見てもキレイなフォームだ。タナカの小太りの体が二回りほど締まって見えるのは気のせいなどではなく、下半身に重心を残して背筋を張り詰めた美しい姿勢のせいだろう。
「しっ! ししっ!」
鋭い呼吸の音に合わせて突き出されるパンチは、もはや拳の動きなど見えない。ただ体を右にひねり、左に倒し、縦横無尽に動くタナカは風を纏っているかのようにも見えた。
やがて、拳を止めた彼はふいと俺の方に向いて平然とした顔でいう。
「ね?」
彼の呼吸が一つも乱れていないことも驚異だが、いきなり意味も解らず同意を求められても戸惑うばかりで……俺は仕方なく首をかしげた。
「え?」
「う~ん、わかんないですか、たぶん僕の感覚だと、三発目の左フックの時に体が大きく右にぶれたと思うんです」
「なるほど?」
「そういうフォームの確認は自分の感覚だけでは決してできない、だから近くにいて見守ってくれるコーチか、もしくは鏡の前でやるものなんですよ」
「つまり、師匠はコーチなわけですね」
「いいえ、あの人は鏡です」
「それって、コーチみたいに丁寧な指導はしてくれないってことです?」
「いいえ、コーチならば他人だから指導にも手心を加えてくれる。しかし、あの人は鏡だから、手心もクソもありゃあしない、覗き込んだ自分の卑小な心をそのまんま見せつけられる、何度も何度も……ただ、ありのままを見せつけられる。ま、当たり前ですよね、他人の文章の良いも悪いもそのまま反映して書く不在作家が務まるくらいなんですから」
「それって……」
「強くなりますよ、間違いなく」
「ち、ちなみに、花野先生以外の師匠の弟子って、やっぱりプロの人ばっかりなんですか?」
「あなた、本当に弱いですね……プロか否か、そんなことでしか強さをはかれないんですか」
「だって、作家の良し悪しってそこじゃないんですか?」
「若菜先生には、今現在、あなた以外に四人のお弟子さんがいます。一人は花野先生なのでご存知ですよね。もう一人は通称『パパ弟子』さん、文学界でも大御所と呼ばれるベテラン作家さまなので、間違いなくプロですね。もうお一人は文章ではなくアニメの世界で大成されていまして……これは若菜先生が悪いのではなく、彼が本当に自分のやりたいことを見つけ出した結果ですね。そしてもう一人は……あなたもネットで小説を書いているなら聞いたことぐらいあるんじゃないですか、『クロハネ』という作家を……」
「な! クロハネ!?」
それはカケヨメに突然舞い降りた『漆黒の羽をもつ創作神』――ランキングの中に彼の名前を見ない日はなく、新作を書けば瞬く間に数十万PVを獲得するネット小説界のキング、いくつかの出版社から書籍化の打診はされているのに、自分は『ネット作家』だからとデビューを断り続けていると話題の男でもある。
「クロハネ先生が今の作風を獲得したのは、若菜先生の一門に入ってからですよ」
「まさか、師匠って本当にすごい人なんじゃ……」
「今さら気づいたんですか。まあ、そんな方ですから、もちろん若菜先生の指導に耐えきれずに逃げ出した者も数知れずですけれどね。僕は少なくとも、あなたには逃げてほしくないかなあ」
「逃げなかったら……俺も強くなれると?」
「もちろん」
それでも即答はできなかった。かわいらしい猫のように思っている女性を形だけ師匠とあがめるのは、逆にバカにしていることになるような気がしたからだ。
「もう少し、考えさせてください」
俺のこの答えが、タナカにはまぶしいもののように思えたのだろうか、彼は目を細めて俺を見た。
「『師匠』という名前の野良猫を拾ったと思えばいいのに?」
「それは俺の流儀に反します」
「やっぱり、あなたはそういう人ですよね。いいですよ、ゆっくり考えてください」
タナカはベンチの上から自分が飲んでいたコーヒーの缶を拾い上げて、それを公園のごみ箱に向かって投げた。いかにも公園らしい口の広い籠型のごみ箱だが、それでもコントロールの難しい空き缶一個を投げこむには少し小さすぎる。それでも空き缶は、まるでひもで引かれたようにきれいな軌跡を見せつけてゴミ箱の中へと落ちた。
「よっしゃ!」
タナカが少年のような明るい笑顔でガッツポーズを決めるから、俺も少し笑う。
「すごいっすね」
「いやあ、昔よりはぜんぜん」
そう言って、俺たちは明るく別れた。だからその後、師匠とのこれからを考えるにも、俺は暗くならずに済んだのだ。しかし、それでも結論は出なかった。
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