わけがない。師匠はぽやっととぼけた顔をあげて気の抜けた声を出す。

「はい?」

 あまりに緊張感のない声に、俺の方が脱力してしまう。

「ねえ、師匠、ここはシリアスな感じじゃないんですか」

「え、シリアスな感じ?」

「こう、遠くに去って行った過去を懐かしむ的な……メロドラマな感じじゃないんですか」

「あ~、なるほど」

「あんた、本当に文章の師匠ができるほどすごい人なんすか……」

 実はこの時はまだ、花野ミツやタナカがお師さんだ先生だと呼んで彼女を崇め奉る理由が、俺にはわかっていなかった。確かに俺の作品をゴーストライティングしてみせるという模倣の腕は認めるが、しょせんは模倣なのだから、一次創作に遠く及ぶはずがない。俺にとって師匠はかわいい飼い猫――それ以上でもそれ以下でもない、単なる手のかかる同居人だったのである。

 しかし師匠は、俺の言葉にぼんやりとした表情で答えた。もしかしたら、ちょっとだけ傷ついていたのかもしれない。

「そうか、もうすぐ三か月たつね」

 そういえば、師匠は三か月のお試しという約束で俺の家に転がり込んだのだ。ちょうどその時、あと一週間ほどで約束の三か月に届こうとしていた。

「君は私を師匠とは認めない、そういう見解でいいかな?」

 師匠の言葉にうろたえて、俺は意味もなく両手を振り回す。

「え? あ? えあっ?」

「だから、君は、私が君の師匠にふさわしいとは認めてくれない、そういうことでしょ?」

「そ、そういうことじゃなくてですね……」

「いいよ、慣れてるから」

 そう言ったっきり、師匠はノートパソコンに視線を移してしまう。

「仕事終わらせちゃうからね、詳しい話はその後ね」

 その後は、ただただノートパソコンをたたき割るような打鍵音を響かせて、師匠は顔さえ上げようとはしない。だから俺は仕方なく、この問題に対する答えを自分で探さなくてはならなかった。

 俺はここまで状況に流されるままに師匠との同居を受け入れてしまっていた。しかしよく考えてみれば、俺と師匠は男と女であり、恋人でもないのに同居している状況はちょっと異常な気もする。

 かといって、師匠と男女の仲になろうとは考えられない。俺の性欲がちょっととか、師匠が女性として胸以外に武器がないとか、そういうことではないのだ。めっちゃぶっちゃけ本音を言うと、俺のカラダは師匠にもちゃんと反応する。特に着替えの時に大きな胸がちらりと垣間見えるとか、油断した猫のように甘えて体を擦りつけられたりすればてきめんに――男なら当然の機能がちゃんと働くのだ。

 それでも、無理やりに自分の欲望を師匠にぶち込んで、彼女を泣かせようとは思わない。というか、泣かせることが怖い。師匠は俺に対して心を許したしぐさや愛情らしきものを見せてはくれるが、それが俺の思う愛情と同一のものであるという確信が持てない。俺に無体なことをされた後も、いまのように無邪気な愛情を注いでもらえる自信はない。

 まったく自分勝手な感情だと思う。俺は結局、懐いた猫を手放したくないだけなのだ。

 だからといって、ただ彼女を自分の手元につなぎとめておく、ただそれだけのために『師匠』と認めるのはいささか不実が過ぎる気もする。思い悩んだ俺が最初に頼ったのは、タナカだった。

 数日後、俺の呼び出しに応じて、タナカはやってきた。その日はカロリーメ○トを箱買い――それも薄っぺらい陳列用の箱ではなく、段ボールで買いこんで持ってきたのだから、俺は玄関先で少し戸惑った。

「また、こんなものを……」

「いやいや、若菜先生、ちゃんと食べてます?」

「それが、おとといあたりから食が細くて、昨日はついに食事に手も付けなくて……」

「じゃあ、これ、いるでしょ」

「そっすね」

 俺が素直に段ボールを受け取ると、タナカはひょいと首を伸ばして室内を見やる。

「若菜先生は……相変わらず模写ですか」

 クローゼットは玄関から数歩のところにあり、しかも今日は扉をあけ放っているのだから間断ない打鍵音が室内に響き渡っている。

 と、ふいにその音がぴたりと止まった。タナカが少し興奮して叫ぶ。

「きたきた、きましたよ!」

 僅かな呼吸音のあとで、師匠の乾いた唇から言葉がこぼれた。

「『朝もやの中に立つ男は、たった今、人を殺してきたばかりだった』」

 タナカは身もだえまでしてこれを大絶賛する。

「素晴らしいです、阿藤海璃先生1998年作『葬花』を思わせる書き出しっ!」

「『彼がしきりに時計を気にしているのは、予定よりも死体の始末に手間取ったから。すでに約束の刻限は近い』」

「締め切りなら、僕が編集長に掛け合っておくので大丈夫ですよ、どのぐらいかかりそうですか?」

「『三日もあれば、そう言った後で彼はすぐに後悔した。せめて一週間は猶予を貰うべきだったのではないかと』」

「わかりました、一週間ですね」

 妙な感じで会話がかみ合っているのがなんとも不思議だ。これこそがタナカと師匠の絆がなせる業なのだろう。

「『今しばらく、彼にも苦労を掛けるのだろう、と男は思った』」

「だ、そうですよ、高見沢さん」

 いきなり話を振られて、俺は戸惑う。

「え、え、なに?」

「ですから、『あなたにはもうしばらく苦労かけちゃうけど、ゴメンね☆』だそうです」

「ああ、ああ、なるほど?」

「さて、若菜先生もいよいよ執筆に入られるようですし、喫茶店にでも行きますか。僕に相談があるんでしょ」

 すでにパソコンに指先を落としかけていた師匠は、ピクリと肩を震わせて言った。

「『運命を決めるもの、それは彼自身の意志ではなく、依頼者の温情なのだ』」

 タナカは驚いた顔で師匠を、それから俺をと交互に見て頷いた。

「ああ、なるほど、そういう相談……まあ、万事任せてください、若菜先生」

 それに応える隙すらなく、キーを打つ激しいリズムが始まった。それは俺たちが部屋を出た後もドア越しに響いてくるほどの大音量であった。

 俺は誰に言うともなくつぶやく。

「もっとキータッチの静かな奴、買ってやるべきですかねえ」

 しかし今、俺の隣にはタナカがいる。だから、俺の言葉は独り言にはならなかった。彼がすかさず聞いたのだ。

「それって、この先も若菜先生がここで暮らすならば、の話ですよねえ」

「ええ、もちろん」

「つまり、若菜先生を師として迎えると、そういうことでよいですかね?」

「いやあ、それで悩んでいるんですけどね」

 その後、俺たちは近くの公園まで歩いていった。なんだか静かな喫茶店でするには気恥ずかしい話だったし、人の出入りの激しいコーヒーショップでは落ち着いて語れないような気がしたからだ。俺とタナカは自動販売機で缶コーヒーを買って、公園の隅にあるベンチに並んで腰かけた。

 タナカ相手に性的な話をするのははばかられて、俺は短く「師匠にはこのまま家にいてほしいと思っている」ということを説明しただけだったのだが……タナカはそんな俺をまず嗤った。

「ご自分の小説も書かずに、ずいぶんとくだらないことを悩んでいるんですね」

「なんで、俺が小説を書いていないと知ってるんですか」

「だって、更新止まっているじゃないですか、えっと……『異世界A列車』でしたっけ?」

「『異世界の車窓から』ですけど……でも、チェックしてくださってるんですね、ありがとうございます!」

「それ、何にありがとうなんですか?」

「え、読んでくださったから、お礼を……」

「だから、なんで読まれたらお礼なんですか?」

「だって、読まれたらうれしいじゃないですか。だから『読んでいただけただけでうれしいです、ありがとう』ってことですよ」

「だったらそう言いなさいよ、作家のくせに言葉の足りない……」

 タナカはベンチに深く身を投げてコーヒーのプルタブを引き起こした。

「お礼を言うこと自体は悪いことじゃありませんがね、そのお礼に伴う理由が薄っぺらすぎるんですよ、あなたたちネット作家は」

「お礼に薄っぺらいとか分厚いがあるんですか」

「そうですね、じゃあ試しに……あなたの作品に対する私の感想を尋ねてみてくださいよ」

「え、あ……どうでした?」

「まず、物語が薄っぺらいですね。キャラクターが全く生きておらず、ただストーリーをなぞるだけの退屈な構成です。それに異世界に列車ごと転移するというアイディアは良いのですが、なんだか普通の旅が始まってしまって、主人公たちの乗り物が列車でなくてはいけない必然性っていうのが全くないですよね。そのせいで『列車ごと転移しました!』『うん、それで?』と読者は感じるでしょうね」

「うぎぎ」

「それでも僕は、あなたの作品、読みましたよ。ほら、お礼を言ってください」

「あ……ありがとうございます……」

「ふん、悔しいですか? 悔しいでしょう」

 缶コーヒーで唇を湿らせて、タナカは珍しく真剣な表情をした。

「うちには小説を持ち込んでくる作家志望も腐るほどいますがね、そいつらが口にするのはたった今、あなたが言ったのと同じ悔しさ交じりのお礼ですよ。ほんとうは作家としてのプライドも、作品に対する愛着もある、だけど相手が編集であれば仕事として時間をわざわざ割いてまで自分の作品を読んでくれた、その手間に関する感謝を言わなきゃならない。血を吐くような思いで口にした『ありがとう』ですよ。読んでくれたらみ~んな読者、誰もが私のファンなの~なんてかる~く考えてるやつとは一言の重みが違いすぎる」

「そんな、誰でも……ファンとか……思って……」

「じゃあ、オトモダチですか? もう少しプライドもちましょうよ、先生」

 それだけを言うと、タナカはパッといつも通りの温和な顔つきに戻った。

「ま、それは置いておきまして、若菜先生のことでしたっけ?」

「あ、はい」

「つまり師匠として認めているわけではないけれど、離れがたい程度の愛着はある」

「言い方がやらしいですね……」

「いいんじゃないですか、とりあえず師匠ってことにしておけば」

「そんな適当な……」

「そもそも、なんで若菜先生が師匠じゃいけないんですか、あの人なら間違いなく、あなたの文章を育ててくれるのに」

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