ドラゴン・すげーや!ズ ~タナカ怒りの鉄拳~

 その翌日から、師匠はすごい勢いでパソコンを打ち始めた。巣の中に座り込み、胡坐の中に抱きこんだ小さなノートパソコンのキーをズガズガと重厚な音が響くほどに叩き込む。俺はこれを見かねてホームセンターで980円程度の小さなちゃぶ台を買って来たのだが、これは師匠の打鍵の勢いを増すのにずいぶんと最適だったらしく、俺はノートパソコンが真っ二つに割れてしまうのではないかと、本気で心配をした。

 驚くことにこれ、まだ執筆前の準備だったのである。

 タナカは執筆までの流れを知り尽くしているのか、師匠がパソコンに向かい始めたその日の夜に我が家を訪れた。

「お、はじまりましたね」

 彼が差し出したが段ボール箱を見て、俺は目をむく。

「これ! こんなものを師匠に食べさせる……いや、飲ませる?」

 それは機能食ゼリー飲料だったのだ。具体的には十秒メシを謳いにしているあれだ。

「こんなもの、いらないですよ、師匠にはちゃんと飯を食わせますんで!」

 俺はそれを突っ返そうとしたが、タナカはものすごい力で段ボールを俺に押し付けた。

「無理でしょ、あの状態になった若菜先生には、もう誰の声も届きませんよ」

「そんな大げさな……ついさっき、声かけたら普通に飯食いましたけど?」

「ええっ、若菜先生がですか? へええええええええええ!」

「驚きすぎでしょ」

「いやいや、驚き足りないくらいですよ。ふうん、なるほどねえ」

「何がなるほどなんですか」

「ずいぶんと若菜先生に懐かれているんですね」

 その後でタナカは、急に「!?」な顔つきになった。

「だからって若菜先生といちゃこらできるとか夢みてんじゃね~ぞ? あれは文章しか愛せねえ女だからなぁ?」

「タナカさん、口調口調」

「おっと、これは失礼。まあ、あなたのことを信用していないわけじゃないんですよ、ただ、若菜先生が特殊すぎるから、心配することも多いと、そういうわけです」

「わかります。師匠は何というか……見ててハラハラする」

「ねえ、高見沢さん」

「俺の名前!」

「ええ、花野先生に教えていただきましたから。っていうか、一世一代の大告白をしようとしてるんだから、話に集中してくださいよ」

「あ、はい」

「さてと……僕はね、若菜先生のことが好きなんです」

「それって恋愛的な意味で?」

「そうですね、この年まで独身を貫いてしまったってことは……まあ、そういうことでしょうね」

 知ってた……というか、そんな気がしてた。だからタナカの言葉に驚きはなかった。むしろ俺が驚いたのは、この唐突なタイミングでその事実を俺に伝えたというタナカの行動の方にである。

 タナカは少し寂しそうに目を伏せてつづけた。

「ま、僕の片思いですけどね。何しろ俺は、若菜先生に愛してもらえるような文章が書けないんですから」

「文章って、そんなの、書いてみなくちゃわかんないじゃないですか」

「いやあ、だいぶ昔にね、すでにフラれてるんですよ、僕の文章」

「文章がフラれるって、どんな状況なんですか?」

「まあ、若さゆえの見栄とフカしで書き上げたものをね、完全否定されて、こう……心がポッキリと折れちゃったんです」

「ひでえ」

「そうですね、その当時はひでえと僕も思いましたけどね、いまは感謝しています。何しろ僕はあれで、編集者になろうと決めたんですから」

「はあ、文章が書けないから、せめて……ってこと?」

「いえいえ、僕は自分で文章が書きたいのではなく、出版に耐え得るような良作を世に送り出したいのだと気づかされて……それでこの道を選んだんです」

「良くはわからないけど、大変でしたね?」

「なんですか、そのあいまいな慰め」

 大きな声で明るく笑った後で、タナカは少しだけ声を落とした。

「それにね、僕は若菜先生を愛してはいても、彼女の才能までを愛してやる自信がないんです」

「才能を愛するんですか?」

「ええ、才能を。何しろ若菜先生の才能を愛するということは、若菜先生のあれを受け入れるということですからね」

 タナカが指さすクローゼットの中には、前のめりになってパソコンに向かう師匠。鬼気迫る勢いでダガダガ打鍵する姿は迫力がありすぎて、うかつに声をかけることさえためらわれる。安っぽい小さなちゃぶ台は打鍵の勢いに耐えようと細い金属製の足を踏ん張って入るが、それが撓るほどの勢いだ。

 タナカが深くため息をついた。

「いや、あの姿が怖いとか、そういうんじゃありませんよ。ただ、若菜先生は自分の人生を全て文章の才能に傾けてしまっているから……普通の恋人に望むようなことは望めないでしょうね。むしろこちらの人生を彼女にささげるような愛し方をしなくてはならない、それが、あなたにできますか?」

「え、なんで俺?」

「あれ? 若菜先生を狙ってるんじゃないんですか?」

「そんな馬鹿な、狙ってたら、とっくの昔に押し倒してますよ」

「ふうん、じゃあ、あなたにとって、若菜先生って、なんなんですか」

「何って……」

 一瞬の間があいたのは、自分でも俺と師匠の関係を図り損ねたから。俺は結局、この時のタナカの言葉に答えを返すことができず、逃げを打った。

「そういえばあれ、いよいよ小説を書いてるんですかね?」

「若菜先生ですか?」

「そう、なんか作家っぽいですよね、こう、ダカダカダカ~っと……いいなあ、いくらでもアイディアがわいてくるんだろうなぁ」

「本当にそう思ってます?」

「違うんですか?」

「あれは模写ですよ」

「もしゃあ? それって、あの、好きな作家の本を書き写すっていう、あれ?」

「そう、それです。やったことあるでしょ」

「いえ、一度も……」

 模写とは『文体模写』と呼ばれる文章練習法のことであるが、とかく初心者ほどこの単調な練習法を侮りがちである。この時の俺は初心者中の初心者、他人の文章を写すことに何の意味があるのかと、むしろ文章模写などする輩は、単に苦痛によって自分が努力しているつもりになりたいだけのバカ者なのだとさえ思っていた

 模写のやり方自体は簡単である。好きな小説と、書くためのツールを手元に用意するだけ、パソコンでも原稿用紙でも、何ならチラシの裏だってかまわない。作業自体は本に書かれている文言を一言一句、句読点までそっくり同じに書き写すだけなのだから。ただし、時間と根気のいる作業であるため、余裕のない現代人には練習のための時間の捻出の方が難しいのかもしれない。

 さて、この模写、同じ漢字を延々と書く漢字ドリルと同じ感覚でやっていては、その神髄にたどり着くことはないだろう……とはいっても、慣れるまでは本当に漢字ドリルのような淡々とした作業に感じるのだけど。これがあるとき、急に目が開いたかのように作者の呼吸が見えるようになる。目の前に作者がいるわけではないのに、自分のイメージの中に文章を書く作者の像がはっきりと結ばれる気がするのだ。

 考えてみれば、模写とはオリジナルの文章を書いた作者の手元の動きを再現する行為である。そして『句読点は呼吸で打つ』の俗説通り、手元に写し取られた文中の句読点から作者の呼吸を追体験する行為でもある。だからこそ、作者の呼吸を耳元に感じる。呼吸がやたらとうまくて息継ぎしたことさえ感じさせない作家もいる、逆に呼吸がひどく下手で読んでいるこちらまで苦しくなるような浅い呼吸を繰り返す作者もいる。こうした他人の呼吸を追体験することは、確かに自分の呼吸との差異を認め、より上手い呼吸を体得するのに効果的なのである。

 ところで、この時はまだ模写の神髄の体得に至っていなかった俺は、ひどく愚かなことを口走った。

「模写とか、うちの師匠も大したことないですね」

 タナカは特に腹を立てた様子もなく、ただひどく納得した顔で頷いた。

「なるほど、花野先生の言っていた通り、あなたは弱いんですね」

「弱いって、どういうことですか!」

「作家としての技量が足りていないということですよ。若菜先生のすごいところは見本を手元に広げることなく、句読点の一つも間違えない完ぺきな模写ができるところにある」

「それは、まあ……すごいかも?」

「しかも模写と同時にこれから書く物語のプロットを脳内で構築し、この精査を繰り返しているのですよ。そんなこと、あなたにできます?」

「できない……ですけど」

「恐ろしいのはそれが全て才能のなせる業だということ。あのすさまじい才能を愛することなど人間にできるわけがない、それゆえに文芸の神は彼女を溺愛するのです」

「なるほど、人の愛が理解できないのも道理かも」

「まあ、今回はあなたという保護者もいるわけですし、僕や花野先生も、少しは楽させてもらってるんですけどね」

 そう言って笑ったタナカは、その後いくつかの日常の注意を俺に伝えて帰って行った。

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