その後で、俺は師匠の寝息が聞こえる部屋にずっとたたずんでいた。師匠の寝息は静かで規則正しくて、蛍光灯の光が白々しい部屋に流すには最高のヒーリングミュージックだ。

 しかしアナログ時計のないこの部屋にたった一つ、規則正しい寝息のリズムは、まるで俺を追いつめるために刻まれる無情な時の音にも聞こえる。すうはあ、すうはあと聞こえる音はいやおうなしに時の流れを数え、俺に決断を迫っているのだ。

 思えば俺は、この時ほど真剣に、自分の創作のスタンスについて考えたことはない。

「俺の……本心……」

 花野ミツは『卑俗でちっぽけなものであっても構わない』と言った。それならば心当たりがないわけではない。

 ネットで小説を書く理由、これはネットに小説を書く人の数だけあるのが道理、もちろん俺が思うものなどほんの一部にすぎぬのだが……若者の活字離れが叫ばれて久しい昨今、良く聞くのが『漫画が描きたいけれど、絵が描けないから小説を書く』である。つまりは本来ならば別の媒体への夢を持ちながら、それを実現するための技術なり設備が手元にないから、パソコン一つで手軽に綴ることのできる『文章』を表現媒体として選んだということ。これについての良し悪しを俺が判じることはできない。たとえ動機がどんなものであろうとも上へ行くやつは上へ行くのだし、逆に御大層な夢ばかり語って底辺で朽ち果ててゆく者だっている。

 しかし、師匠に長く師事した今の俺にはわかる、『漫画の代わりに小説を書く』と言葉にしてしまえばすべてが同一同質一緒くたに見えてしまうこの動機は、それを本人がどう意識するかによって、行間に少なからぬ影響を与えるものなのだ。

 多くの者は『小説を書き始めた』というそこだけでいっぱいいっぱい、先に進むことなど考えられない。また、ネットには『拾い上げ』という魅力が存在することも彼らの思考を足踏みさせる要因なのである。特にSNSではこうした傾向が顕著であり、バズる……つまり話題になれば売れる商品とみなされてすべてに買い手がつく。化粧品、食品などから漫画や、イラストのような『利権もの』に至るまですべてにおいて。この傾向は漫画の世界には特に顕著で、落書き感覚で書いたペラ一枚程度の一発ネタがオオウケにウケてついに出版にまでこぎつけるということも少なくはないため、そうしたミラクルドリームを夢見る風潮がネット小説界にも少なからず流れ込んでいるのだ。ゆえにここで思考の袋小路にはまり、自分が書いているものが文章なのか、それとも話題となるための文字の羅列なのかを見失う者の、なんと多いことか。

 当然である。そうした者にとって文章とは他媒体の代替品でしかなく、『小説でも書くか』という感覚なのだから。それに対し、『漫画は描けない、ならば小説を書こう』と覚悟を決めた者の文章は強い。腕や面白さ以前に、そうした思いの強さが行間に浮き出してしまうのだ。『でも』と『ならば』、こうした違いだけで心構えが違ってしまうこれを『言霊』というのだと、のちに俺は師匠から習った。

 しかしこの時の俺、まだ師匠の教えを受けていない身なのだから大いに戸惑った。

「本心って言われてもねえ……」

 強いていうならば『あわよくば出版したい』――学生時代は文芸部員であった俺は、昨今の若者よりもよっぽど多くの小説に触れている。その読書経験は当然、自分が書く文字にフィードバックされるのだし、文章力には自信がある。加えてネットの小説など、ろくに文章も読まない三点リーダーの使い方すら知らぬような若者がゴロゴロしている世界なのだから、そうした文法の正確さから言っても、俺に分があるのは当然だ。だから編集者の目に留まりさえすれば、この俺の文章力が認められぬわけはないと――汚くてもいいのなら、これが本音。

 しかし、求められている答えはそんなことではないような気がする。

「ん~、師匠の文章でも読んでみるか」

 失礼極まりないことに、俺はここまで日常の雑事に追われて、師匠が送ったURLを開くことなく過ごしてしまっていた。師匠がしょせんはゴーストライターであるということが発覚してしまったのも大きな要因の一つだ。俺はこの時まで、ゴーストライターなど卑俗な仕事であると侮っていた。

 スマホを取り出し、クイクイと画面を繰る。目的のURLにたどり着き、それを開いた俺は、おかしな感覚に囚われて首をかしげた。

「この文章、見たことある……」

 それもそのはず、それは句読点を少なめに打つクセから言葉の使い方に至るまですべてがそっくりそのまま俺の文章を模した……いや、俺の文章そのものだったのだから!

「すげえ、不在作家、すげえ」

 つつっと指を滑らせながらそれを読んでゆく。あまりにも俺の文体そのまますぎて、ありもしない執筆中の思い出なぞ浮かんでしまう。

「これ、本当は俺が書いたんじゃないかな」

 なんて余裕で笑っていられたのは最初のうちだけ。その物語を読み込んでいくうちに、俺は自分の表情がこわばってゆくのを感じた。

「なん……なんだ、これ!」

 それはSF小説であった。それも少し古い香りのする、一昔前にはやった退廃的な終末モノの――今でこそポストアポカリプスなんてこじゃれた呼称で知られているが、機械による反乱によって絶滅寸前まで追い込まれた人類が反乱を試みるチープなモチーフが痛々しいこれは、『終末モノ』と呼ぶにふさわしい。

 若いころの俺は、こうした世紀末感あふれる退廃した世界をモチーフにした作品が好きだった。AKIRAにはまり、マンガ本の角が擦り切れるまでこれを読みこんだ。映画も何本も見たし、もちろん小説も数え切れぬほど読んだ。ともかく、人類が破滅に向かってゆく、それでもなお抗おうとする動物的な生存本能というのが、俺の胸を強く打ったのだ。

 しかし、俺はネットに小説をあげるようになってから一度もポストアポカリプスを書いたことがない。書くものはすべて異世界で、ファンタジーで、SF的な要素などどこにもないのだから、師匠がどうやって俺の好みを見抜いたのか、凡人である俺にはいまだに計り知れない。ポストアポカリプスは書くには人気のジャンルの一つではあるが、読まれるにはいまいち盛り上がりに欠ける不人気ジャンルなのだ。特に俺が好むような人類に困難しか残されていないタイトな設定は好まれず、これをネット小説という媒体上に書く旨みは何もないと俺は判断した。

 だが……幻の執筆風景画浮かぶほどの筆致で描かれているのだ、俺はこれを余すことなくなめるように熟読した。そして思ったのは、やはり自分がいかにこうしたモチーフが好きであるかということだった。

 俺の創作の始まりはここにある。好きが高じて自ら終末モノのSFを書いた学生時代に。あの頃は難しいことなど何も考えず、技術すらなく、ただ『好き』という熱意だけで何万文字でも書いたものだ……だからこそ逆に、あの頃書いていたSFの方が愛着があるし、面白い物だったと自信もある。

 俺は知らずのうちに涙を流しながら、画面越しに笑う師匠に言い訳しようとしていた。

「でも、でも、ダメなんだよ師匠、時代の流れを読むっていうのも、作家には必要なんだよ。今どきこれは、はやらないんだよ」

 ページはちょうど最終ページ、やはり強大な滅びの運命には抗えずに主人公は家族を思いながら死に、その思われた家族は主人公の帰還と人類の明るい未来を信じながら終焉の炎に焼かれるという、救いのないラストシーンであった。そのページのさらに下、あとがきの欄に、俺の言い訳に対する一文が描きこまれているのを見て、俺は驚いた。


 ――はやりなど、自分で作りだせばいい。


 俺はスマホを握りしめたまま、しばらく放心していた。その胸中にあったのは、とてもすぐには解答にたどり着くことができそうにない、とてつもなく大きな問いだった。

(俺は本当に読者のことなんか考えていたんだろうか)

 今どきの流行と傾向を分析し、読者が求めているものを読者の読みやすい文体で書く、これこそが読者に対する気づかいだと、俺は長く思っていた。しかしよく考えると、その結果としての『作者に対する賞賛』や、『あわよくば出版社からの拾い上げ』を夢見ることばかりに腐心していた、そんな気がする。

 師匠が俺の前に見せつけたのは、俺がかつて持っていた純粋すぎるほどの熱量だった。このSFの作者は一行ごとに、『次はどんなギミックで読者を欺いてやろうか、どんな仕掛けで読者を驚かせようか』と、それしか考えていない。これをかき上げた先に何があるのかを賢しげに追求するのではなく、ただ読者を楽しませることだけに集中して書かれた安定感が文章のあちこちに見え隠れする、名作だ。

 俺が書きたいのはこれだ。もちろん、SFを書きたいなどと短絡的なことを思ったわけではない。読者をグイッと引き込む熱量と、理屈では語れない面白さ、なぜこれを忘れていたのか!

 視線を上げてクローゼットの中を覗き込むと、師匠は夢の中に楽しいことでもあったのか、「むへ~」と笑っている。こちらの気まで抜き去ってしまうような、油断しきった顔だ。

「ほんと、何者なんすか、あんた」

 何の気なしにつぶやくが、それは眠っている師匠の耳には届かなかった。

「笑う門には焼肉が馬~」

「なんつう意味不明な寝言だよ!」

 真面目に考え込むのがなんだかバカバカしくなって、俺はベッドに身を投げる。部屋の空気が一気にすがすがしいものに入れ替わったような気がする――これはさすがに俺の感傷だが、少なくとも、ここ数年の創作において俺を縛り付けていた『何か』がするりと解けて落ちた。

「そうか、俺の書きたいもの、か」

 明るくつぶやいてから、俺は眠りのために静かに瞼を閉じたのだった。

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