タナカの言葉の真意に気づいて悶えたのは、帰宅してからのことだ。

「ん? まだ?」

 タナカは『あの腕』とも言った。俺の腕前を知っているということは、つまりは俺の作品を読んだというわけで……。

「あああああ! しまった! お礼言うの忘れた!」

 俺の叫び声に、花野ミツが怒鳴り声を返す。

「うるさい!」

 彼女はこの日、師匠の手伝いをするためという名目で我が家に来ていた。これは俺も事前に聞き及んでいたし、彼女がここにいることについては何も驚きはしない。

 驚きなのは彼女の今日一日の行動である。まず、学校が終わって真っ先にここに来た花野ミツは、クローゼットの扉をあけ放って本を読みふける師匠の姿をたっぷりと堪能した。その後は少し昼寝をして、起きたらまだ本を読みふけっている師匠の姿をしみじみと堪能した。その後はコンビニに行って自分の夕食を買い、それを食べながら師匠の姿を味わい深く堪能……つまり、一日中師匠の姿を見守ることしかしていないのだ。

 そして堪能されまくった師匠は、いまだクローゼットの中で本を読みふけっている。クローゼットのど真ん前で大声をあげた俺にも、それを叱りつける花野ミツの声にも気づかないのだから、相当な集中力だ。

 花野ミツはさらに早口でまくしたてた。

「お師さまの仕事の邪魔だ、しゃべるな、動くな、息をするな、むしろ消えろ」

「むしろお前がうるさい。師匠がというより近所迷惑だろうが」

「なぁに~、姉弟子に向かって『お前』とはなにごとだ!」

 この時、師匠がすっと本から顔をあげた。

「みっちゃん、うるさい」

 読書中にこれだけ耳元で、これだけ大騒ぎすれば当然の反応だと思うのだが、花野ミツは腰を抜かしそうな勢いで伸びあがって目を見開く。

「お師さま、ミツのことがわかるの?」

 師匠はそれには答えず、再び本に視線を落とした。このやり取りを不思議に思った俺は、小声で花野ミツに聞く。

「いつもは花野先生のことがわからなくなるんです?」

「私のことがわからない、というよりは、世界のすべてを知覚しなくなるんだ」

「そうなんです?」

「あんたもやられただろう、何度呼びかけても聞いてもらえず、体を揺すっても気づかれず、何日も無視され続けたり……」

「いや、まあ、何日もはないっすね」

「ない……のか? 二日くらいは平気で飯を食べなかったり……」

「あ~、確かに昼は食ってないみたいだけど、夜は声かければ喰いますよ?」

「まじか、むかつく」

 花野ミツは俺の顔から「ぷん」と顔を背けて、師匠を見た。

「そうか、だからいつものようにやつれていないのか……お師さまのお体のことを思えば喜ばしいことなのか……うむむ」

 次に振り向いた時、花野ミツは少しすねたように唇を尖らせていた。

「う~ん、気に食わない、けど……感謝するべきだな」

 それだけで終わっておけばいいものを、よけいな一言をつけたすのが花野先生という人。

「よし、お礼に、今日は私があんたの小説を見てやろう!」

「見てくれるって、ポイント入れてくれるってことですか?」

「なんで私が、お前の点取りゲームなんぞに協力するのだ?」

「じゃあ、読者になってくれるってことですか?」

 花野ミツの目元が、きゅうっと吊り上がる。

「ち、もう少し真っ当かと思ったが、しょせんはネット作家か」

「花野先生、それってすべてのネット作家にケンカ売ってます?」

「もちろんだ。私はネット作家という言葉を『小説を書いているふりをして点取りゲームに興じるバカ者ども』という意味で使っているからな。そうした志の低いものが大嫌いだという私の意思表示に他ならない」

「えっと、花野先生、ネット小説とかお読みにならない人? じゃあ、俺の作品なんか読んでも意味なくないっすか、俺のはネットで読む読者のために書いている、正真正銘のネット小説なのでね」

「それ! ほら、それ!」

「え、どれ?」

「私はもともとネット小説出身なのだし、ネットで小説を書くことそのものは否定しない。どのような媒体にあっても、きちんとした信念で物を書く相手には、最大限の敬意を払う。つまりはどこにあっても作家は作家であると。しかし、あんたのそれは何だ、そうやってくねくねと逃げを打ちやがって……私はそういった半端者はどこにあっても作家とは認めない、絶対に」

「逃げなんか打ってないじゃないですか、俺の作品はネット小説として書いていますよってご説明しただけです」

「ほ~らほらほら、ま~た、それ」

「いったい、なんなんですか、さすがの俺も怒りますよ?」

「私こそ、あんたを殴りたい気分だ。なぜあんたは本心を話さない?」

「話してるじゃないですか、ネットの読者のために書いていますって、何度言わせるつもりなんです?」

「『ネットの読者のため』ねえ……ポイントはいらないんだな?」

「いや、それはいただけるならうれしいですが……それが目的じゃないんで」

「じゃあ、出版はどうだ? 例えばタナカから、書籍化の打診があったら、あんたはどうする?」

「向こうから声かけられたら、断るのは失礼でしょう。俺がどうとかじゃなくて、仕事として小説に関わっている人に失礼だってことですよ」

「うっわ、クソだわ、本当にクソだわ」

 花野ミツは、すうっと真顔になる。

「ずばり問う。お前は何のために書いている?」

 しかし俺はすでにだいぶ腹を立てていたので、彼女の質問には答えもしないで怒鳴った。

「文句言うくらいなら、読まなきゃいいだろ! 少なくとも俺は、文句を言われるために書いてるんじゃない!」

「……やっと本心を言ったか」

 驚いたことに、その言葉をつぶやいたのはクローゼットの中にうずくまっていた師匠の方だった。彼女はゆっくりと顔をあげ、俺を見上げて言った。

「君たちネット作家がわかっていないのは、その情けない本心が文章の合間に見え隠れしてしまうということなのよ。もちろん読者は理屈でそれを探し出すわけじゃなく、ほぼ無意識のうちに、感覚としてそれをとらえるだけなんだけどね」

 古着の巣から立ち上がる彼女の姿は、いつものほのぼのとした雰囲気などどこにもなく……さながら燃え立つ巣より復活の翼を広げて飛び立とうとする不死鳥の如く、つまり威厳に満ちている。

「作家は常に覚悟しなくてはならない、己の本心が行間に表れるものであると。だからこそ突き詰めねばならない、己の本心を。ところがそんな覚悟もなく、ただ日本語を列挙できることを文章の力と勘違いした不届きもののなんと多いことか!」

 ゆらりと蜃気楼のように揺れる師匠の姿は、いつも以上に大きく見える。花野ミツはすでに数歩を後ろに下がって、身構えている。

「気をつけろ! 文章モードだ!」

「な、なんすか、その暴走モード的な呼称は!」

「ある意味、近い。来るぞ!」

 スウと軽く呼吸を舐めてから、師匠は肺の奥底から吐き尽くすような低い――だが重い声を吐いた。

「君の小説、プロローグとして戦闘シーンが置かれているよね、あれがすでに浅ましい」

「な、なんでっすか、読者のことを考えたら、最初はインパクト! これ、セオリーでしょ!」

「バカじゃないの、インパクトっていうと、戦闘しか思いつかないわけ?」

「や……それは……いや、だって、みんなそういうオープニングじゃないですか、なんで俺だけが責められてるんですか!」

「それは君が私の弟子だから、そして……『異世界の車窓から』が、ほのぼの紀行ものだからだよ! あの冒頭を読んで、ここからどんな緊迫の物語が始まるのかと期待した読者の、ページをめくったときのがっかり感! なんであんだけ窮地に立たされていた主人公が、次のシーンではのんきにソバ食ってんのよっ!」

「意表を突かれたでしょ!」

「戸惑いしかないわっ! そこへなおれっ!」

 振り向くと、花野ミツが深く頷く。俺はたったそれだけの短い動作だけで、彼女の言わんとしていることのすべてを理解した。

(おとなしく従っておけ、命が惜しいのならばな)

「マジ?」

(ああ、マジだ)

 仕方なく、俺は床に胡坐をかく――とたんに、師匠のおみあしが俺の股間をぐしゃっと踏みつけた。全身に鳥肌が立つほどの激痛。

「あぐふっ!」

「誰が胡坐でいいと言った! 正座だ、正座ぁ!」

 しかし俺は、股間のダメージに言葉を失ってのたうち回っているところ、正座などできるはずがない。花野ミツはさすがに俺を気の毒に思ったか、師匠に駆け寄ってその体を抱いた。

「はいはい、お師さま、いい子ですね、寝ましょうね~」

「まだ寝ない! こいつを成敗するのっ!」

「は~い、子守歌、歌ってあげましょうね~」

 花野ミツが静かな声で歌いだす。取り立てて珍しいこともない、母親が幼子を寝かしつける時に口ずさむ、単調な旋律を。驚くことに、それを聞いた師匠は途端におとなしくなってとろりと瞼を下した。

「んむ~、寝る」

「はいはい、お師さま、寝床はこっちですよ~」

 実に手慣れた鮮やかな手つきで師匠をクローゼットに押し込んで、花野ミツは額の汗をぬぐった。

「危ないところだった……」

 さっきまで野獣のように暴れていた師匠は、いまはすでに天使のように邪気のない穏やかな寝顔を浮かべて、巣の中に身を丸めている。

「てか、花野先生、そんな手があるなら、もっと早く使ってくださいよ」

「いや、いつもの文章モードなら、あんたが少し泣かされるくらいで済むだろうと思ったんだ。だが、これは……」

「文章モードじゃないと」

「ああ、激文章モードだ」

「なんか、聞いただけでヤバそうな……」

「私はあんたが嫌いだが、だからといって作家としてのあんたをつぶそうとは思っていないのでな」

「つまり、さっきの師匠は俺をつぶしに来ていたと」

「そういうことだ」

 少しだけ表情を緩めて、花野ミツは眠っている師匠の頭を撫でた。

「私が小説を書く理由を教えてやろう。お師さまに褒めてもらうためだ」

「それって、読者から評価されたいってことですか?」

「あんたは本当にバカなのか? それとも私の言葉が聞こえなかったのか?」

「いえ、師匠に褒められたいって、はっきり聞こえましたけど……つまり、師匠という読者の気にいるように書くということでしょ」

「そんな浅いもんじゃない。私はいつも、お師さまにあてた恋文を書いているのだよ」

「はあ、つまりは師匠のために書いた恋文を売りつけて読ませているってことで……一つも読者のことを考えていないってことですよね、それって、プロとしてどうなんです?」

「あんたは本当の本当にバカだなあ、誰かのために書いた恋文が売れるからプロなんじゃないか」

 少し得意げに鼻先をあげた花野ミツがまぶしい、悔しいけど。

「シェークスピアの時代からから現代に至るまで、作者が自分の主義主張に偏った作品などいくらでもある。大事なのはそこにあるものが作者の本心であること、それだけだ」

 花野ミツの指が、師匠の頬をなぞる。まるで壊れ物に触れるように、丁寧に。

「私もあんたと同じだったんだから、あまり偉そうなことは言えない。それでも今の私は、包み隠さず書くべき本心を見つけた。あんたは、それ、探さないのか?」

「本心……」

「売れたいならば売れたいで構わない、自分の世界が大事ならばそれもいい、本心なんてあんがい卑俗でちっぽけなものだ。だが、あんたは本心を隠そうと……いや、違うな、もしかしたら自分でも自分の本心に気づいていないんじゃないか? 迷子になった子供のような不安が行間にあって、読んでいられないんだよ」

「迷子……」

「まあ、早急に探すことだな、お師さまに捨てられたくないのなら」

 そう言って、花野ミツは立ち上がった。しかし名残惜しそうに振り向いて。

「また来る」

 こうして嵐のような女、花野大先生は帰って行ったのである。

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