3
待ち合わせの場所は、駅を角ひとつ進んだところにあるスタバの店内。夕刻も過ぎたとあって、店内はさほど混んではいない。
「やあやあ、お待たせしてすみません」
約束の時間より少し遅れて現れたタナカは、仕事を抜けだしてきたのか、よれよれのシャツにきっちりとネクタイを締めていた。俺の方は仕事帰りということもあって、ネクタイなど少し引き下げて第一ボタンも外してしまっていたから、少しだけ申し訳ない気分になる。
「こちらこそ、わざわざお時間とっていただきまして、すみません」
椅子から立ち上がって深々と頭を下げようとする俺を、タナカは片手で制した。
「いやいや、僕もね、サボる口実ができたんでちょうどよかったんですよ」
彼は俺の対面に素早く座ると、ネクタイの結び目を指で引き下ろす。髪も少しかき乱して、ようやく落ち着いたのか大きなため息をつく。
「はあ、ったくよぉ、スーツなんか着てられるかッつうの」
少し巻き舌が入っているあたり、80年代ヤンキーをほうふつとさせるのだが……。彼は俺の手元にトールサイズのコーヒーしか置かれていないのを見て、驚いた顔をした。
「!?」
驚き方もヤンキー漫画をほうふつとさせる感じなのだが、言うことは可愛らしい。
「コーヒーだけですか、それは良くないです、甘いものとか一緒にあったほうがいいですよ」
「いや、もうすぐ晩飯なんで」
「いいじゃないですか、ちっちゃいケーキくらい、ね、食べましょうよ」
「わかりましたよ」
しぶしぶ了承すると、タナカは注文をするためにレジへと走って行ってしまった。どうもこの男、その本性が読み切れない。
俺はタナカが気づくようにとテーブルの端に本を出しておいたのだが、トレーを抱えて戻ってきた彼は、俺の思惑通りこれに目をつけた。
「お、『ドリル・ドリル・アングラー』ですね。お読みになったんですか」
「ええ、まあ」
「面白いでしょう、それ。1994年、阿藤海璃先生が一番脂ののっていたころのものですからね」
ひょいと本を取り上げて、タナカは目を細める。
「懐かしいなあ、俺も若い頃は夢中になって読んだんですよ、これ」
「それは良かった。今日ご相談したいのは、これについてなんですが」
「ん? どこか解釈の難しいところでもありましたか?」
「いえ、難しいところはどこにも。読みやすいし、物語もシンプルだし、特に親子の情は丁寧に心理描写がなされていて、すごく共感できました。でもね、だからこそわからないんです……」
「何がです?」
「うちの師匠は、この物語のどこがわからなかったんでしょうか」
再びタナカが驚いた顔になる。
「!?」
うん、やっぱりヤンキー漫画風。その顔のまま、タナカは俺に向かって本を差し出す。
「そっすか、若菜先生、やっぱりこれがわかんねえんっすか」
「タナカさん、口調口調」
「あ、失礼しました。いやあ、時々やんちゃだったころのクセが出ちゃうんですよ」
笑いながら席についたタナカは、それでもいくらか不安に顔を曇らせているように見えた。
「今回の仕事で、若菜先生が躓くところがあるとしたら、これだと思っていました」
この言葉に、俺は憤慨する。
「わかってて、師匠にこれを渡したんですか?」
「いやあ、だって仕事だし、それに……」
いくらかの逡巡があった。それはそうだ、その時タナカが話そうとしていたのは、WADOWAKA社内でも数人しか知るものがいないトップシークレットなのだから。
タナカの言葉は、幾分唐突だった。
「守ってほしいことが、二つあります」
俺は身を乗り出して頷く。タナカは俺の前に拳を刺す出し、指を一本ずつ立てながら言った。
「一つ、秘密を守ること。今から話すことは絶対に口外無用です。二つ、若菜先生を守ること……とはいっても、あなたに戦闘力は期待していません。守ってほしいのは若菜先生の心なんですけどね」
俺が大きく頷いて了承を伝えると、タナカが少しだけ笑った。
「迷ったり、悩んだりしないんですね」
「そんなの、話を聞いた後でするさ」
「けっこう」
タナカは手元にあったドーナツを取り上げる。手がべたべたするくらい糖衣がかけられたやつだ。それを一口頬張ってから、彼はコーヒーで唇を湿らせた。
「お気づきでしょうが、『若菜』というのはペンネームであって本名じゃないんです」
「ええっ! そうなの?」
「意外と鈍いんですね……まあ、本名はいちおう、把握していますけどね、ここでは言いませんし、若菜先生もそれが自分の名前だとは認めないでしょう」
「え、ちょっと待って、本名を認めないってどういうこと?」
「若菜先生は、おそらくその名前で一度も呼ばれたことがないからですよ。その名前を与えた実の親からさえも、ね」
「つまり……育児放棄?」
「察しがいいですね、そういうことです」
タナカの話は、彼自身が師匠の両親に取材して得た情報なのだという。だからその詳細は、師匠ですら知らないことが多い。
師匠の親は両親そろって凡人だった。別に凡人が悪いということではない、ただ、天才の親としては至らなかったというだけの話だ。
この親は共働きであり不在がちであった。幼い師匠の面倒を見るのは、どうしても年老いた祖父母の仕事となる。ところが祖父母は子供がにぎやかに騒ぐのを嫌い、本を与えた。ここから師匠の受難は始まる。
師匠は言葉を話すよりも先に物語を読むことを覚えた。話すことはそれよりもだいぶ遅れて、三歳までロクに自分の名前さえ言えない子供だったのだという。当然親は心配して医者に連れてゆくが、特に悪いところもなく、「少し言葉が遅いだけです」と言われるだけ。これに彼女の母親は耐えられなかったらしい。
一歳違いで妹が生まれたのも良くなかった。実に平凡な――良く泣いて賑やかしい赤ん坊に祖父母も、そして両親も愛情を注ぎ、いきおい、本さえ与えておけば大人しい師匠は放っておかれるようになった。だから余計に言葉の取得が遅かったのである。
おかしいと思われるだろうか、口で発音する言語よりも先に文字を読み言語に変換する能力が先に取得できるわけはないと。そう思うならば、それは失礼ながらあなたが凡人であり、両親から愛情のある言葉で語り掛けられたという人並みの幸せを知っているからに他ならない。彼女に対して優しい言葉をかけてくれるのは両親ではなくて文字であった。愛情を教えてくれるのは物語だったのだから、文字に傾倒してゆくのは当然の流れだったのである。
「母親には耐えられなかったらしいですよ。口もきかず、部屋の隅で黙って本を読んでいる姿は妙に大人びていて、気味が悪かったんだそうです」
タナカは二つ目のドーナツに手を伸ばそうとしていた。それでも言葉はよどみない。
師匠は九歳の時に家を飛び出した。驚くべきことに親は捜索願すら出しておらず、学校も煩雑な家庭の事情に立ち入ることにしり込みして、まるで『最初からいなかった子供』のような扱いだったのだという。
そうして半年ほども街を放浪しているうちに、彼女は社会の流れからはみだして『存在しない人物』になってしまったのだという。
「だからね、若菜先生は人間の感情とか、愛情とか、そういうものを書物から学ぶしかなかったんですよ。そういうものに対して知識としての理解はできても、体感としての理解ができないんです。ま、昔よりいくぶんマシになりましたが、それでも、一般的な概念から外れた家族のかたちとか、濃やかな感情とかまではまだ、ね」
すっかりドーナツを食べ終えたタナカは、砂糖で汚れた指先を名残惜しそうにしゃぶっていた。それでも視線だけは俺の目を真正面から覗き込んで離れようとはしない。まるで俺を追いつめようとしているみたいだ。
「さてと、『ドリル・ドリル・アングラー』の話でしたっけね。これ、一般的な家族の概念から考えると少しいびつじゃありませんか?」
「ああ、確かに」
『ドリル・ドリル・アングラー』のテーマは家族愛だ。しかしそれはホームドラマのように幸せな家族によって描かれるものでは無く、妻を亡くした男の深い悲しみから始まる。男はこの悲しみに耐えきれず、娘を残して失踪してしまう。物語の主人公はこの娘だ。
家族とはいっても同居はしていない。それでも全国をさすらう父と、祖父母に預けられた娘は『大事な人の死に傷ついている』という感情を共有しているがゆえに家族としてつながっている、その細い感情を丹念につないで描かれた物語なのだ。
「一緒に暮らして、仲が良いことが家族の幸せだって『概念』からしたら、この物語は異質でしょ。だから家族愛を概念でしか理解できない若菜先生には、ちょっとわかりにくいんだと思いますよ」
「なるほど、そこを教えればいいんですね」
「ええ、今までは僕と花野先生がそれをやってたんですけどね、いまはあなたがお弟子さんだから、ぜひともお願いします」
師匠があれほどに野良猫のような人だという理由が、すとんと腑に落ちた。ところどころ常識が欠落している理由も。
タナカは残っていたコーヒーを飲み干し、紙コップをくしゃりとつぶす。その表情は先ほどよりも幾分和らいでいるように見えた。
「もしかして、あなたならできますかねえ、若菜先生に本当の愛を教えることが」
「愛って、俺と師匠は別に……」
「ああ、いやいや、男女の関係を言っているんじゃありませんよ。愛って、そればっかりじゃないでしょ」
タナカはつぶした紙コップをトレーに置いて立ち上がる。
「さて、僕はもう一仕事あるんで、これで」
「今日はどうもありがとうございました」
慌てて立ち上がった俺に、タナカはふっと目を細めて笑った。
「そういえば、まだうかがってなかったですね、何先生とお呼びすれば?」
「せっ! 先生なんて、そんな!」
「そろそろきちんとしたペンネーム、考えたほうがいいですよ。ったぶんそれが、あなたの一生の名前になる」
「それって、デビューさせてくれるってことですか!」
「いやあ、あの腕じゃ無理でしょ、『まだ』ね」
「まだ……」
「ま、期待していますよ、先生」
こうして俺は、タナカと別れて帰路についた。
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