どうも俺は、こういうところが真面目でいけない。セックスなんて、こうガーッと盛り上がった気分のままに女を引き倒して、話なんか終わった後で聞けばいいのに……。

 師匠は俺の腕にもたれたまま、甘え切った顔で首をかしげている。

「どんな感じって、どんな感じ?」

「愛ったって、いろいろあるでしょ、激しい愛とか、静かな愛とか……」

「う~ん、よくわかんないけど、お父さんと娘の間にある愛?」

「念のために聞きますけど、それって父娘相姦モノ?」

「ソウカン?」

「ああ、いい、もういい。なんとなくわかりました」

 俺は盛り上がり始めていた自分の股間を深呼吸で抑え込み、師匠をもとの席へと戻らせる。わずかに火照ったカラダはつらいが、ここで師匠との関係が崩れるよりもよほどいい。

「ええと、つまり親子の愛情ってやつが知りたいんですね」

「うん」

 俺は手元にあった肉のパックを引き寄せる。三分の一ほど減ってはいるが、サシ模様の美しい肉だ。白い発泡スチロールに無造作に突っ込まれた安売りの肉とは違って、表面に藍の皿を模したプリントをされた発泡スチロールにきれいに並べられているのだから、ますます高級に見える。

「師匠、肉の値段ってわかります?」

「ん~、よくわかんない」

「俺がいつも買ってくるのは百グラム98円の豚です。肉じゃがでも、油いためでも、肉は百グラム98円。だけど今日は、これ、ね」

 パックに残っていた値札を見せると、師匠がそれを覗き込む。

「いち、じゅう……えっと、よんひゃくじゅうはちえん」

「焼肉の時は少し高い牛肉を買いますけど、それだって俺ひとりならせいぜいが128円くらいのものだ。だいたい、家で一人焼肉なんて、まずしないですし、ホットプレートを出したのも一年ぶりくらいかなあ」

 師匠は腕を組んで、天井を見上げて「う~ん」と唸った。さらに、視線をテーブルに落として「う~ん」。最後に俺の顔を見て、師匠は腕組みを解いた。

「つまり……今日はちょっと特別なご飯?」

「そうです、正解!」

 俺は牛肉のパックをテーブルに戻して微笑んだ。

「高級なレストランに行って高級な飯食ったりするような『すごい特別』じゃなくて、こういう『ちょっと特別』がたくさんあるのが家族の愛ってやつです」

「ちょっと特別……わかった」

 師匠はうなずいたが、その表情はしれっと冷静で、家族の愛を『実感』したとは思えない。あれは何か新しい知識を『理解』した顔だ。

 だから俺は肉をホットプレートに並べながら言った。

「師匠にはいなかったんですか、そういうちょっとした特別をしてくれる相手」

「ん~、みっちゃん?」

「ああ、え~と……あれは別枠かなぁ……」

「難しい……」

「例えばご両親とか……」

 言いかけて、俺はハッと言葉をのむ。しかし一度口から出してしまった音声までを飲み込めるわけがないのだ。

 思えば迂闊である。俺は花野ミツから、師匠の前で家族の話をするなと忠告されていたのだから。俺はこれを『師匠は幼少時の家庭環境に恵まれなかったから』なのだと解釈したが、それは間違いではなかった。しかし、その傷は俺が思ったような浅いものでは無く、もっと根深いものだったのだ……そう、彼女の人格を歪なものにしてしまう程度には。

 この時、師匠はへらっと笑った。それが自分の人生をあざ笑っていたのか、それとも悲しい本心を隠そうとしたのか、俺にはわからない。それでも彼女は笑った。

「私には、親なんて居ないから」

 相手が笑っているのに、俺が大げさに気を使うのもあざとかろう。俺はできるだけ柔らかい言葉で相槌を打つ。

「へえ、そうなんですね」

 本当はいろいろと聞きたいことはある。親がいないとは死別なのか捨てられたのか、これまでどんな人生を歩んで来たらここまで常識のない人間になれるのか、何より、愛がわからないとはどのレベルでわからないのか……聞きたいことはいろいろあるが、そのどれもが和やかな食卓の話題としてはふさわしくないような気がした。

 俺は焼けた肉をひょいとつまんで、師匠の皿に置いてやる。

「とりあえず、食べましょう」

 俺が飛び切りの笑顔で微笑んでやると、師匠はいつものように素直に頷いた。

「うん、食べる」

「肉ばっかりじゃない、野菜も食べないとだめですよ。ほら、ピーマン」

 程よく焼き色がついたのを皿に放り込んでやれば、師匠はもしゃもしゃとそれを食べる。

「うん! 苦いけどおいしい!」

 にぱーっと笑う師匠を見ていると、なんだか俺のまなじりも下がる。

「ねえ、師匠、俺たちはこのくらいがちょうどいいっすね」

「なにが?」

「距離感ってやつ?」

 猫は過去を語れない――人間の言葉が話せないのだから当たり前だ。だから、猫だと思えばいい。

「まあ、人間の言葉がわかる分、猫よりいくぶんマシか」

 手を伸ばしてテーブル越しに頭を撫でてやれば、師匠はくすぐったそうに首をすくめた。

「なあに?」

「なんでもないっすよ」

「あ、でも、家族の愛、なんだかよくわかんなかった」

「それはまあ……」

 俺は少し顎をひねって考える。

「そうか、家族の愛ったって、いろんなのがありますよね、その本、俺にも貸してください」

「いいけど、そうしたら家族の愛ってわかる?」

「さあ、それはわかんないけど、まずは師匠が何に悩んでいるのか、それを理解しなくっちゃね」

「ふふ、弟子君、まじめだねえ」

「飼い猫の気持ちを考えるのは飼い主の務めってやつですからね」

 そういうわけで俺は師匠から『ドリル・ドリル・アングラー』を借りた。通勤の電車の中でこれを読んだのだが、これがタイトルのふざけた語感からは想像もできない硬派な人間ドラマで、俺の悩みはますます深くなっただけだった。

 思いあぐねた俺はタナカに連絡を取り、彼の会社の近くで待ち合わせた。どんよりと曇った空が低い水曜日の夕方のことだった。

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