ゴーストさん ~乳欲の幻~
1
師匠は文章に向かうと人が変わる。読むことに関してもそうだが、こと書く作業に没頭し始めると完全に自分の世界に入り込んで、周囲のことが一切知覚できなくなるのだ。今でこそこうした師匠の性質にも慣れたが、この時は俺も初めてのこととあって振り回されるばかりだった。
朝、俺は師匠のために簡単な食事を用意して家を出る。たいがいは菓子パンであったり、おにぎりであったり、師匠が台所に立たなくても食べられるものを置いておくようにしている。以前は俺が仕事に行っている間にこれを食べていた気配があったのだが、仕事を始めてからは帰って来ても朝のまま、手も付けずに残っているようになった。クローゼットの扉は開けっ放しで、何をしているのかと覗きこめば、俺が出かけた時と全く同じ体勢のままで本を読みふけっているのだ。
これは良くない、と俺は思った。せめて夜だけでも栄養のあるものを食べさせようと、ある日、会社を定時で上がって焼き肉用の肉と野菜を買い込んだ。ドアを開けると、やはり師匠はクローゼットの巣の中に背中を丸めて座り込んでいる。手元には『ドリル・ドリル・アングラー』という、どこを目指したんだかよくわからないタイトルの本が握りこまれていた。
「師匠、いったん休憩にして、ご飯にしましょう」
声をかけるが返事はない。どうやら本の世界に没入している様子。
俺は師匠に構わず米をとぎ始めた。米は新潟産のコシヒカリ、値段的には大したことないが、米だけは米屋で買うことにしている。
食事においてコメのうまさは最も重要だ。たとえおかずが貧しくとも、米さえうまければ食は進む。理想は自分の家で精米することだが、さすがにそこまでの手間はかけていられない。それでも精米したものを仕入れて並べるスーパーではなく、仕入れた玄米を精米して並べる米屋を選べば味は格段に違う。丁寧にといで、水加減をして炊飯器へ。
米が炊けるまでの間に、野菜を切る。焼肉の相方には玉ねぎとピーマンがよく合う。どちらもざくっと切って皿に並べ、もやしを添えれば準備は万端だ。
ホットプレートを食卓に出そうと振り向くと、クローゼットの師匠は次の本に手を伸ばしているところだった。
「あ、ちょっと待って! それ読む前にご飯にしましょう!」
俺が慌てて叫べば、師匠はこくりと頷く。どうやら一時的にではあるが、物語の世界から意識が戻ってきているらしい。急いで肉と野菜をホットプレートに並べる。
「米は食ってるうちに炊けるでしょ、さ、食べましょう」
箸を差し出せば、師匠は上の空で手すら伸ばさない。俺はふと思いついて、師匠の目の前でパンと手を叩いた。いわゆる猫だましである。
「んっ!」
ビクッと背筋が伸びあがって、今度こそ師匠が覚醒した。
「あれ、弟子君?」
「ご飯ですよ」
「あ、もうそんな時間?」
素直に食卓についた師匠だが、その顔はひどく浮かない。箸も休みがちで、せっかく奮発した百グラム400円の肉がちっとも減らない。ほんとうはどんどん食べるように勧めたいところだが、俺は素知らぬ顔をしてホットプレートの上に箸を伸ばした。
「師匠、今日は何してました?」
「資料読み込んでた」
予想通り過ぎる答えだ。ここ三日ほど、師匠が資料として渡された本を読みふけっていることは知っている。それでもあえてわかり切ったことを質問の形にして口にしたのは、会話の糸口を作るためだ。
「難しい本なんですか?」
「ううん、しっかりとした文章だから、読み解くのは難しくない。でもね、私ではわからないことが、一つだけあるの」
そらきた、きっとこれが師匠の箸を鈍らせている原因だ。
しかし、俺はさらに素知らぬ顔で肉のひときれをつまみあげる。話題もいきなり核心を突かず、猫をいなすときのように遠くから。
「へえ、師匠でもわかんないことがあるんですね」
「そりゃあ、あるよ?」
「俺の師匠になるっていきまいて押しかけてくるぐらいだから、知らないことなんかないのかと思っていましたよ」
「まあ、文章に関してはね、知らないことはないかも」
緊張がほぐれたのだろうか、師匠もホットプレートの上に箸を伸ばし始めた。
「でも、文章以外のことは、知らないことの方が多いのよ。誰にも行先を言わないでどこか行っちゃいけないってのも、弟子君が教えてくれるまで知らなかったし」
「お、覚えたんですね、偉い偉い」
「へっへ~、もっと褒めていいよ」
頃合いとみて、俺は核心ズバリを突く。
「で、いまは何を悩んでるんです?」
「ん~、でも、これ、弟子君に聞くのもなあ……」
「いいから、言ってみてくださいよ。俺だって、これでけっこう物知りなんですよ」
「うん……」
師匠が静かに箸を置き、恥ずかしそうに眼を伏せる。
「あのね、弟子君……」
そのまま、師匠は俺の隣まで這い進んできた。
横坐りに足を投げ、しなやかに腰をたわめて、艶っぽい目線で俺を見上げる師匠は……なんだか色っぽい。唇がゆったりと動いて、わずかにかすれた声を紡いだ。
「あのね、わたしに愛を教えてほしいの……」
「え、愛……って、それって……」
「私、誰にも愛されたことがないから……そういうの、わかんなくって……」
「それって、こう……ベッドの上で教える的なアレですかね」
「うん、それが愛に必要なら……いいよ」
なんだか今日の師匠はしおらしい。しかも、いまではすっかり野良暮らしの臭いも抜けて、動くたびにふわりと我が家の匂いが立ち上る、かわいいうちの子なのだ。
「ねえ、ベッドに行ったら、愛を教えてくれるの?」
師匠はビッグチェストなのだから、こうして品を作られると、ジャージの胸部がうっすらと胸のかたちに盛り上がる、それがいい。さらに俺に体を摺り寄せてくるから、胸の重みが俺の二の腕に当たる、これもいい。
俺はごくりと生唾を飲み下した。
「い、いいんですかね、愛を教えちゃっても」
「うん、教えて。いま読んでいる本で、どうしてもそこだけがわからなかったの」
「わ、わかりました。責任を持って、朝までたっぷりと愛を教えてあげます」
俺は師匠をそっと抱き寄せた。彼女は静かに瞳を閉じ、唇を差し出して俺を待つ。俺は思わず訪れた脱童貞のチャンスにはやる胸を押さえて、それでも冷静に聞いた。
「ちなみに、どんな感じの愛なんですか、その本は」
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