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ゴーストライターとは、その存在を決して世には出さぬ者――我々一般の読者がその実態を知ることはできない。しかし、タレント本などが発売されると、その存在は噂という形で世をめぐる――曰く「著者はタレント本人ではなくゴーストライター」なのだと。
このうわさは十中八九当たっているだろう。何しろタレント本人に文才があるとは限らず、また、タイトなスケジュールをこなす中では、文章を書くという手間のかかる作業に割く時間などそうそう取れるまい。当然に実際の執筆作業は文章の書ける人間に代筆を頼むこととなるだろう。これが『代筆屋』。出版界では特に責められることも、また敢えて語られることもない公然の秘密だ。
逆に、やたら手の早い作家や、がらりと作風の変わった作家などにも、ゴーストライターの噂が立つことがある。これは十中八九ありえない。作家などという自己顕示欲の塊が、他人に自分の名前を騙らせるわけがないのだ。ところが何にでも例外というものはあるわけで、この十中の一二を受け持つのがうちの師匠の仕事。
これは代書屋などとは違い、世間の誰にも知られてはいけない極秘の仕事である。それゆえに出版業界では『不在作家』と呼ばれているのだ。どんな作家の作風をも完全に再現できる腕前が必要となるため、不在作家が務まるライターは数えるほどしかいない。その中でもトップクラスの不在作家がうちの師匠というわけ。
だから、この時の『仕事』に対するタナカの要求は厳しかった。
「いいですか、若菜先生がここにいることは誰にも話さないように。もちろん、仕事の内容も秘密です」
そう言い残してタナカが我が家を後にした時には、すでに十時を過ぎていた。俺としては明日の仕事に備えてすぐに床に就きたいところである。
ところが、師匠は部屋のど真ん中にぺたりと坐り込んで動かない。タナカが資料として置いていった本を読むのに夢中なのだ。
俺が最初に驚いたのは、師匠がページをめくる速度だった。本のへりに指を当て、まるでパラパラ漫画でも見るような速度でページをめくるのである。
そんな速度で本が読めるものだろうか……しかし、見ていると時々は手を止め、ページを前へ後ろへとめくっては何かを確認している。適当にページをめくっているのではなく、本を読んでいる人間の映像を早送りで見せられているような塩梅である。
それでも、明日が早い俺は寝床に入りたい。だから師匠に声をかける。
「師匠、そこ、どいてくれませんか?」
「ふ~ん」
間違いなく生返事、もちろん彼女は身じろぎすらしない。
「ね~、師匠、本に夢中なのはわかりますけれど」
「うん」
「俺、明日早いんですよ」
「あ~ね」
「そこ、どいてくださいよ」
「わかったわかった」
それでもなお動こうとはしない師匠に、俺の堪忍袋の緒が切れた。
「ししょおおおおおおおおおお!」
これにやっと顔をあげた師匠は、それでもまだ、どこかぼんやりと夢を見るような目つきだった。
「あれ、弟子君、どしたの?」
「『どしたの』じゃないっすよ、さっきから寝るよって、何度も言ってるじゃないですか」
「ああ、そうか、うんうん」
そう言って立ち上がりはしたものの、手元から本は離さず、しかも再びページをめくり始めるから足元がおぼつかない。
「ああ、もう!」
俺はひょいと立ち上がって師匠の腕をとる。師匠の顔が驚きに満ちて振り向いた。
「はえ?」
「なんすか、その気の抜けた声」
「だって、急に来るから」
「危なっかしくて見てらんないんですよ!」
俺はそのまま、師匠をクローゼットに押し込む。
「いいですか、危ないから、本はここで座って読むこと! トイレに行きたいとか、夜中にお腹が減ったとか、ここから出る時は必ず本を置いて立ち上がること!」
「うん、わかった」
師匠は素直に頷くが、これを信用するわけにはいかない。思い出してほしい、師匠は「行先を必ず言うこと」との俺の言葉に素直に頷いたくせに、その約束を守れなかったではないか。
「心配だなあ、ああ、心配だ……」
クローゼットの前をうろうろする俺を見て、師匠は小さく首をかしげた。
「寝ないの?」
俺はぐわっと前歯をむく。
「寝たいんですけどねっ! 師匠のことが心配で寝られないんですよ!」
師匠は少し笑って、本を閉じた。
「今日は私も寝ようかな」
「ええ、そうしてもらえると助かります」
自分の巣に潜り込みながら、師匠はぽそっとつぶやくような声で言った。
「ねえ、お母さんって、そういう感じなのかな」
「は?」
「だからさあ、心配しすぎて怒ったり、心配しすぎて眠れなかったり、それって小説で良く見るお母さんの心境ってやつだよね」
「俺はお母さんじゃないっすよ」
「うん、知ってるけどさ、お母さんみたいだから」
「いや、それは小説の中の話でしょ。現実ではお父さんの方が心配性だったり、逆に自分の子供に興味ない人もいるし、いろいろですよ」
「そっかあ、そうだよね……」
その時、師匠はものすごく複雑な表情をした。俺が見る限りでも寂しさと、追憶と、そして公開の入り混じった表情だった。きっとそれは遠い過去を少し悲しくなぞる、そんな表情だったのだろう。
「弟子君はさ、似てる」
「似てるって、誰に?」
師匠は答えをはぐらかした。急にわざとらしいほど明るい顔になって、俺に笑いかけたのだ。
「さて、誰になのかねえ」
「誰にですかっ!」
「ん~、忘れた!」
ウソだ、師匠の目はどこか遠い、追憶の中を見つめている。声は涙を含んでわずかに震え、焦点を遠くに合わせた目元は優しくきらめいて、ここには居ない『誰か』に向けられている。
嫉妬がちりりと俺の胸を焦がす。もちろん、恋愛的な嫉妬なんかじゃない。
(元の家が恋しいのだろうか)
人間は忖度する生き物だ。拾って来た猫が窓越しに表を見て鳴いているとき、『寂しそうな表情』なんて修辞をつけてしまうのはそれだ。
いま、俺の目の前で寂し気に猫が鳴いている。その猫が鳴き声をあげる目的はわからない、単に表へ出たがっているだけかもしれない。それでも俺に背を向けて、遠くを眺めている目つきをされると、その瞳はもしかして自分の恋しい相手を幻に見ているのではないかと……俺ではその人の代わりにはなれないのではないかと勝手に思ってしまう、これが忖度。
師匠は猫ではなくて人間なのだから、言葉が通じる。問うてその真意を聞けばいいのに、聞かない、それも忖度。
俺は子猫を掬い上げる時のように遠慮がちな手つきで、師匠の肩を軽く抱いた。
「あの、さ、今夜は寝たほうがいいと思うよ、本当に」
師匠は一瞬だけふるえたが、俺に悪意がないのを見抜いたのかすぐに体の力を抜く。
「うん、そうする」
俺の胸元に軽くすりつけられる鼻先と、頼りなく甘ったれた声。これでは本当に人ではなくて猫だ。
「お休み、師匠」
甘やかすように肩をポンポンと叩いてやると、俺の腕の中の猫が鳴いた。
「お休み、弟子君」
あとは言葉もなく、俺たちはそれぞれ眠りについたのだった……。
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