6
その数十分後、俺たち四人はイオ○の四階にある某ファミレスチェーン店の店内にいた。開始早々、俺はタナカに向かって深々と頭を下げた。
「なんていうか……すいませんでしたぁ!」
額がゴンとテーブルに当たり、並べられたお冷のグラスがカチャンと小さな音をたてたが、そんなことを気にしている場合じゃない。テーブルをすり減らす勢いで頭を擦りつける。
なにしろこのタナカという男、カケヨメ運営の母体でもあるWADOWAKAの編集者なのだ。下手に出ておいて損はない相手である。
卑屈に見えるだろうか、しかしネット小説家にとって編集者とのコネクションはプライドなどなげうってでも手に入れたいほど価値のあるものなのだ。
ネットに小説をあげている素人作家が出版にこぎつける道は大きく分けて二つ。
一つは公募、サイト内ではレーベルとタイアップした『コンテスト』が定期的に開催しており、これが一般でいうところの公募に当たる。多くは読者からの人気投票で『読者賞』が決まるシステムとなっている。とはいっても、読者賞の受賞が即出版につながるわけではなく、読者からの人気に加えて、編集者によって出版にふさわしいと認められた作品にのみ贈られる『大賞』にまでたどり着かなくてはならない。もちろん毎回大賞作品が選ばれるわけではなく、『読者賞○○、大賞該当作品なし』なんて発表されることもあるのだから、かなり狭き門である。
もう一つが編集者による拾い上げ、こちらはさらに狭き門である。
だいぶ昔のことになるが、とあるネット作家がこの拾い上げによってデビューを果たした。何より注目するべきはこの作家が特にポイントを多くとっていたわけでも、何かの賞を受賞していたわけでもなく、実に無名の者であったということだ。つまりはただ作品を書いていたら、ある日突然、編集者からの連絡がきたという、ネット小説版シンデレラストーリーなのである。これにネット作家たちは沸いた。編集の目に留まりさえすれば自分にも一発逆転のチャンスがあるのではないかと。
さて、お判りだろうか、どちらの事例も最終的に作家の進退を決するのは『編集サマ』なのである。だからこそネット作家は『編集サマ』とのつながりを欲しがる。
幾千幾万の作品がひしめききらめくネット小説の世界だからこそ、他を圧して一歩前に出るには地味で堅実な『実力』ではなく、編集サマの目に留まるための人気と運とコネクションがモノを言う、これがネット小説。
ところが俺は、その『編集サマ』に出会い頭でいきなり拳を食らわせてしまったわけで、腹掻っ捌いてでもお詫びしたい気分なのである。
ところがタナカは、特に気にした風もなくニコニコと笑っている。
「いやいや、素人にしてはなかなかいいパンチでしたよ」
優しい言葉と優しい見た目――このタナカという男、とてつもなく温和な顔立ちをしている。顔が丸く見えるほど頬に肉がつき、その頬に埋もれるようについたちいさな口元が笑っている。目元も目じりの方がやや下がったいわゆるたれ目で、春の日のような穏やかさを感じる仏顔だ。
俺はその声と顔つきに安心して、ふっと肩の力を抜いた……と、次の瞬間、俺は腰を浮かせたタナカに右手をつかまれていた。全くそんなそぶりもなかったというのに、この男は、いつの間にか俺の手首をつかんでいたのだ。
「それより、こっち、冷やすものもらったほうがいいですね」
俺の中指はわずかにはれ上がり、熱っぽい赤みを帯びている。
「作家の指は大事な商売道具、ましてや若菜先生のお弟子さんともなれば、この指一本が札束を生み出す、まさにゴールデンフィンガー! 大事にしなきゃダメですよ」
「あ、ああ、そうする」
慌てて手を振りほどく俺に向かって、花野ミツは言った。
「見た目に騙されるなよ、この男、ただの編集者じゃないぞ」
実は花野ミツはさっきから不機嫌で、鋭い目つきでタナカをにらみつけていたのだ。それがここにきて、一気に噴き出した感じだ。
「お前のせいでお師さまとのイオ○デートが台無しだ」
棘だらけの花野ミツの言葉にも、タナカが笑顔を崩すことはなかった。
「すいませんね、これも仕事なので」
「ほう、担当作家のプライベートを尾行するのが仕事か。WADOWAKAはずいぶんと物騒な会社なんだな」
「やだなあ、花野先生、僕もプライベートですよ。たまたま行先が同じだっただけ」
「口のへらないやつだ」
花野ミツがぷうと膨れると、その隣に座った師匠もぷうと頬を膨らませた。もっともこちらは、このレストランに入るまでの間に散々俺に叱られて席につくころにはかなりのふくれっ面だったのだが、それがさらに膨れ上がったのだ。
「タナカのせいで弟子君に怒られた」
「ええ~、僕のせいですかね」
「うん、タナカのせい。だからお仕事はしない」
さらに花野ミツが追撃する。
「ふん、どうせ裏仕事だろう」
「ああ~、ま、そうですね」
「大事なお師さまにそんな仕事をさせられるか!」
ついうっかり、俺も尻馬に乗ってしまう。
「裏仕事って何ですか! あんた、うちの師匠に何させる気なんですか!」
それまでニコニコとしていたタナカの顔が、急にきゅっと厳しく引き締まった。目じりもい気分吊り上げて、じろりと俺をにらむ。
「なんですって?」
「ひいい、ごめんなさい、カケヨメのアカウントBANしないで~」
「しませんよ、僕にそんな権限ないですし。それよりもあなた、若菜先生の仕事を聞かされていないんですか?」
俺が答えるよりも早く、花野ミツが「ふん」と鼻を鳴らす。
「そいつは、まだ正式に弟子入りしたわけじゃないからな」
タナカの目元が急に厳しく、きゅうっと吊り上がった。しかも少し巻き舌。
「あぁん? 弟子でもないのに若菜先生と同居とか、どういうことだよ」
額がぶつかりそうなほど、俺の顔に顔を寄せてさらに巻き舌。
「まさか、若菜先生のオトコだとか言うんじゃないだろうな?」
「ひいいいい!」
ビビッて声も出ない俺の代わりに、師匠が片手をあげてタナカを制してくれた。
「うちの弟子をいじめないで」
タナカは急に顔を両手で覆って、さめざめと泣き始める。
「ひどいですよ、若菜先生、そりゃあ僕だってこういう日が来ることは覚悟していましたけど、よりにもよってこんな平凡を絵にかいたような男……俺はこんな奴が先生のカレシだなんて認めませんからね」
ひどい言われようだ。俺は身の潔白を証明しようと大きな身振りを交えて説明しようとする。
「違うから、カレシとかじゃないから!」
タナカがぴたりと泣き止んだ。なるほど、ウソ泣きか。
「は? カレシじゃないのに同居している、と?」
「まあ、そうなるねえ」
「弟子でもない、と」
「ううん、そうだねえ」
「セフレですか」
「そうじゃないから!」
俺は両手を振り回す。
「猫! 俺としては猫飼ってるようなもんなの! だいたい、年中汚いジャージでいるような女に欲情するかッつうの!」
花野ミツが援護射撃。
「そうだ、こいつにそんな度胸はないぞ。こいつはどヘタれなんだ」
意外にも、タナカはあっさりと引き下がった。
「あ、そうなんですね」
きっと師匠と付き合いの長いタナカにとっては、こんな騒動は日常茶飯事なのだろう。もはや俺には眼もくれず、腕を組んで「う~ん」と唸る。
「となると……困りましたねえ」
「ねえ、何が困るの?」
俺の言葉はあっさりと無視された!
「先生、いつものホテルを手配します。身の回りの世話にはウチから女性スタッフを寄越しますので、それでいつも通りにお願いできますかね?」
師匠が首を横に振る。
「やだ」
ここぞとばかりに花野ミツが身を乗り出す。
「じゃあ、お師さま、うちに来て! ミツ、お師さまのお世話してあげる!」
「やだ!」
この時の俺は師匠の仕事が何であるのかを知らないのだから、目の前で交わされる意味不明な会話に翻弄されてぼんやりと座っていることしかできなかった。どうせ聞いても無視されるし。
しかしこのやり取りは……はたで見ていると猫の気を引こうと必死になっているただの猫好きたちにしか見えない。
猫はもちろん、師匠だ。これは自分に向かって差し伸べられた手に向かって警戒を解かず、自分の手に届く範囲に入ってきたならばかみついてやろうと身構えている人見知り猫だ。
対する人間たちは何とかこれを懐かせて家に連れて帰ろうと、小さく舌を鳴らして呼んでみたり、美味しそうな餌を差し出してみたり、大騒ぎだ。
不意に、猫が大きく身をひるがえしてテーブルを乗り越え、俺の胸に飛び込んできた。
「やだ、弟子君のお家で書く」
猫に呼びかけていた人間たちは大慌てだ。何とかしてこの猫を俺から引きはがそうと大騒ぎする。
「そういうわけにいかないんですよ、これは極秘のお仕事ですから、部外者の方に任せるわけにいかないんです!」
「ダメ! お師さま、執筆中は無防備なんだもん、男の人にお世話させるなんてダメ!」
俺はこの大騒動を鎮めようと両手を広げた。
「はい、ここ、お店なのでストーップ。もっと小さい声で、ね」
三人が口を閉ざすから、今度は俺の方がタナカに向かって居ずまいをただす。
「なんで俺の家じゃダメなんですか。そんなに秘密にしたいって、いったい何をさせるつもりなんですか」
タナカがじろりと俺をにらんだ。
「なんで弟子でもないあんたに教えなきゃならんのですか」
先ほどとは打って変わった冷たい声、冷たい表情。これは与しがたしとみて、俺は花野ミツに話の矛先を向ける。
「無防備って、そんなのいつものことじゃないですか、これ以上何があるっていうんです?」
花野ミツはむすっと黙り込んで答えもしない。
師匠はそんな二人におびえたような目線をくれて、さらに強く俺にすり寄ってきた。
「やだ、弟子君のお家じゃなきゃ書かない」
タナカが呆れてため息をつく。
「なんで彼に執着するんです? いつだってこちらの用意した環境で文句も言わずにい書いてくれてたじゃないですか」
「だって、弟子君はご飯くれる」
「そんなの、ちゃんと食事もご用意しますよ」
「弟子君は……お風呂に入らないと叱ってくれる。夜遅くまで起きてると叱ってくれる。着替えないと叱ってくれるし、トイレのドア開けっぱなしにすると……」
まるで俺が叱ってばかりみたいじゃないか! いたたまれない。
ところが、タナカは「ふむ」と唸りながら腕組みをした。
「なるほど」
花野ミツも、なんだか悔しそうだ。テーブルの下でむこうずねを蹴られた。
「なるほどだけど、なんかむかつく」
何がなるほどなんだか、俺にはさっぱりわからない。それでも今、おびえて俺の腕の中に逃げ込もうとしている師匠を突き放し、二人の方へ押しやる気には、到底なれなかった。だから師匠を守ってやろうと、その体を引き寄せて二人をにらむ。
「なんの仕事だか知らないけれど、家で仕事をするっていうなら、家主である俺が部外者なわけないでしょ、説明してください」
タナカは大きく肩を落として、店中に聞こえるほどのため息をついた。
「大した忠犬っぷりですね、かなわないなあ」
それから足元にあったかばんを引き寄せて、中からハードカバーの本を次々と取り出してゆく。そう言いながら彼は、かばんから分厚いハードカバーの書籍を取り出した。一冊だけではなく、二冊、三冊……合計で十冊近く。これだけの本を入れたカバンを軽々と持ち歩くとは、なるほど俺の拳ごときじゃ揺らがないはずだ。
「さて、先生、ここからはビジネスの話です」
「やっぱり、そうやって無理やりねじ込んでくるじゃん」
「いやあ、今回は先生にも喜んでいただけるお仕事だと思いますよ」
この会話にピンときた俺。
「あ、さっき、ねじ込むとか、喜ばせるとか言ってたのは……」
「もしかして、エロ用語だと思っちゃいました?」
「え~、いや、うん」
「残念ながら僕と先生はビジネスライクな間柄ですからね、仕事の話ですよ」
タナカはその本の山をずいっと師匠の前に押しやった。
「阿藤海璃先生をご存知ですか?」
師匠の瞳がきらりと光る。
「『ミミズとキャラメル』で小説賞とった人だよね。たしかすごいじいさんで、もう小説が書けないほどボケてるって噂の」
「はい、だからこそ有終の美を飾る、人生最後の作にふさわしいものが欲しいと、これが今回のコンセプトです」
「なるほど」
師匠はすぐさま本の山に手を伸ばし、その一冊を取り上げて読み始めた。
その様子を見たタナカは、俺に向かって居ずまいを正す。
「さて、先生はどうやらこの仕事に乗り気のご様子、ならば先生の世話係であるあなたにも、いくつか留意していただくべきことがあります」
俺は、いつの間にかタナカの顔がきゅうっと目元の吊り上がった真顔になっていることに気づいて、身を固くした。花野ミツは、すでに状況を楽しむことに決めたのだろうか、唇の端で少し笑う。
「せいぜい用心することだな、タナカはWADOKAWAでも機密中の機密と言われる裏部門をとり仕切る、特命編集者なのだ」
「やだなあ、そんな大げさなものじゃありませんよ。花野先生や若菜先生が懇意にしてくださるから、連絡係をさせられているだけじゃないですか」
言葉は柔らかくとも、タナカの表情は緩まない。油断ないまなざしで俺をロックオンしている。膝がわずかに震えた。
「え、え、特命って何? 師匠にさせようとしている仕事って何?」
タナカが唇の前で人差し指を立て、あたりにはばかるように声を落とす。
「若菜先生はね、ゴーストライター……それも世間で知られるようなタレント本の代筆屋とはちょっと格が違う、先生の存在は出版業界内で緘口令が敷かれるくらいの極秘中の極秘……正真正銘の
「ご、ゴーストライター……それは確かに極秘ですね」
「あなた、良くわかってないでしょ」
「なにが?」
「まあ、いいです、実際に若菜先生の仕事ぶりを見たほうが早いでしょうし。あ、当然このことは他言無用でお願いしますよ」
「はあ」
俺がぼんやりと返事を反してしまったのは、ことの重大さがわかっていなかったからだ。確かに師匠は世間がイメージするようなゴーストライターとは違う、正真正銘の『不在作家』だったのだ。
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