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「え、マジ? じゃあ、みっちゃんのところに行こうかな」
俺はあわてて彼女を止めた。
「師匠、師匠! なんで流されてるんですか!」
「だって、みっちゃんの文章には私が必要だっていうから……」
「そんなの嘘だから。あんた、貞操狙われてんですよ!?」
叫んだ俺に刺さる、少女の冷たい視線。
「いま、なんて言った?」
「え、『貞操狙われてる』?」
「そっちじゃなくて」
「ああ、『嘘だ』の方?」
「あんたもお師さまの弟子だろうに、文章を書くのにお師さまが必要ないと?」
少女の不遜な態度に少しムッとした俺は、いくぶん語気を荒げる。
「ってか、むしろ師匠なんてものが必要なわけ? あんた、仮にも作家さんなんだろ?」
「仮って、あんた……」
少女は俺を見下したようなあざけりの笑いを浮かべた。
「『花野ミツ』、私のペンネームなんだが、聞いたことないか」
「な、なんだって~!」
花野ミツ――今期のドラマ原作に彼女の小説が選ばれたということもあり、ネットやマスコミの話題を総なめにしている現役JK作家の名前だ。若さと純粋さを前面に押し出した青春劇を得意としており、その透き通るような作風からついた二つ名が『恋愛小説界のフェアリー』なのだと――ネットのニュースに書いてあった。
俺はさすがにたじろいで、少し声音を緩める。
「あの~、俺でも知ってるようなお名前が聞こえたような気がしたんですが?」
「聞こえなかったなら何度でも言ってやろう、『花野ミツ』だ」
勝ち誇ったように鼻先をあげた少女が、そのまま俺に向かって低く囁く。
「ドラマ原作まで書いている私が『仮』か、文盲にもほどがあるな」
「だって俺、あんたの小説、読んだことないもん」
しかしそれはささやかすぎる抵抗で。
「話題作くらい読んでおけ。『仮』にも小説を書いている身なんだろう」
「うぐぐぐぐ」
完全なる敗北、こうなったら男らしく無言に徹したほうがダメージは少ない。
少女はすでに敗北した俺などには興味ないらしく、くるりと態度を変えて師匠にすり寄る。
「ねえ、お師さま、なんでこんなおっさんなんか弟子にしちゃったんですかぁ」
「そりゃあ、育ててみたい才能だったから?」
「でも、こんなおっさんと一緒に居るほうが、貞操の危機だとミツは思うんですぅ」
「みっちゃん、わかってるでしょう、私は彼の文章に惹かれたからここに来た」
今度は少女が敗北する番だった。彼女は顔を歪めて苦しそうに呻く。
「うぐぐぐぐ」
つまりこの場で最強なのは、もちろん師匠。勝者の余裕なのか、両腕を組んでのけぞるほどに胸を張り、「はっはっはー」と笑い声をあげている。
俺は最弱ながらも抵抗を試みた。
「そっちの『花野先生』サマが人気作家なのはわかった、けど師匠、あんたはどれほどの作家だっていうんだよ、偉そうにふんぞり返って、俺を弟子扱いできるほどの作家なんだろうな」
これに答えたのは師匠ではなく、少女の方だった。殺気よりも冷たい、刃のように鋭い声で。
「それはつまり、お師さまが名前の知れた作家で無かったら師とすら認めないということか」
「当たり前だろ、なんでどこの馬の骨ともわからないやつを敬う必要があるんだよ」
少女はあくまでも冷ややかであった。
「お前、弱いだろ」
「弱いって、男だからそれなりに腕力はあるぞ」
「そうじゃない、お前は名にばかりとらわれて、お師さま本人の強さを見ようとはしない。いや、まさか……お師さまの文章すら読んでいないというんじゃないだろうな?」
「よ、読んで……」
俺は仕方なく、本当のことを言う。
「読んでないです……」
「ふん、よかったよ、あんたなんかに読まれたら、お師さまの文章が穢れる」
「な……よ、読んでやるよ! 読めばいいんだろ!」
「そんな態度ならなおさら読むな。あんたのような弱者では、お師さまがどれほど強いのかすら理解できぬだろう」
少女はこれ見よがしに師匠の体を抱きよせて、嫣然たる表情で俺を挑発した。
「名ばかりを強さの指針とするあんたに教えておいてやろう。お師さまは確かに固定のペンネームを持たない、ゆえに一般の読者はお師さまの存在すら知らない。しかし……」
「しかし?」
「『レジェンド』、それが出版業界でのお師さまの二つ名だ。伝説であるがゆえに誰もその実在を知らず、レジェンドであるがゆえにかなうものはいない、それがお師さまだ」
少女はうっとりとした顔で師匠の髪を撫でる。恋人をいとおしむかのように指先を撓らせて、愛撫するかの如く緩やかに。
「でも、お師さま、ミツはお師さまを、ミツだけのレジェンドにしたいですぅ」
最強である師匠は、もちろんそんなことでは揺らがない。静かに少女の腕を押し返し、俺に向き直る。
「と、いうことで、私は別にあんたが望むような名前もなければ、定住する家もないような野良師匠なのよ。ここを追い出されたら、またネカフェでも放浪するしかないかなあ~」
少女は縋る。
「お師さま、だから、ミツのお家に来てくださいよぉ、貞操の危機とかないように、鍵のかかるお部屋をあげますからぁ」
「ん~、でもさあ、みっちゃんのお家に居たら、『あいつ』に絶対会うことになるでしょ」
「『あいつ』ですか。それだったらミツ、あいつからのお仕事、全部断ります、ミツはお師さまが欲しいのぉ~」
「それは絶対にダメ。私だってみっちゃんの新刊、楽しみにしているんだから」
「むう、でもぉ……」
俺はちょっと勇気を出して、二人の会話に割り込んでみた。
「あの~、『あいつ』って誰ですか」
「だまれおっさん」
JKに一喝された。
「はい、黙ります」
それを叱りつける師匠。
「みっちゃん、それはいちおう弟弟子ってことになるんだしさあ、もっと優しくしてあげなさい」
「むう、お師さまが言うなら、優しくするですけどぉ」
これで俺が立場的に最弱であることが決定したことになる。俺は抵抗を諦めて、降伏のしるしに両手をあげた。
「わぁっかりましたよ! 師匠として敬い、家で面倒を見させていただきます」
少女はとことん不服そうだ。口をとがらせて俺を上目遣いに睨みあげている。
「簡単なことではないぞ、お師さまは世間の常識からはかなりズレておられる」
「それはまあ、ここまででなんとなくわかりましたけど?」
「しかもセクシーで、おまけに無防備だ。あんた、自分の性欲が押さえられるのか?」
俺は戸惑う。確かに師匠の胸はダイナマイト級であり、男として理想のかたちと存在感を持ってはいるが、それだって小汚いジャージの分厚い生地に埋没していてはセクシーもへったくれもない。むしろ奇行の方が大いに目がつくのだから、俺の中での師匠像は完全に『拾ってきた猫』なのである。
「セク……シー……とは?」
戸惑いだらけの俺の声に、少女は安心したかのように頷いた。
「セクシーだろう? というか、このセクシーさがわからないのか、ならば良し」
彼女は俺への興味などすっかり失ったのだろう、子猫のように体をくねらせて師匠にすり寄る。
「ねえ、お師さまぁ、なにかあったらすぐ、ミツに連絡くださいね。五分以内にお助けに駆け付けますからね」
「うん、わかった」
「ああン、お師さま、いい子ぉ♡ あと、このお家が嫌になったら、いつでもミツのお家にきてくださいね」
師匠の唇を奪いかねない勢いで顔を近づけ、身をくねらせて百合の香りをまき散らし、彼女は素直に我が家を後に……するわけがなかった。彼女は師匠にひとしきりの別れを言った後で、俺だけをマンションの廊下に呼び出したのだ。
「お前の部屋の合鍵を買おう。いくらだ?」
質問の意図を拾い損ねて、俺は間抜けな声を出す。
「は?」
「だから、鍵だよ、合鍵、この部屋の。いくら欲しい?」
少女はポケットからお財布感覚で小切手帳を取り出す。
「とりあえず百万でどうだ?」
俺はここでやっと、彼女の真意に気づいた。
「はっは~ん」
「なんだ?」
「合鍵なんか手に入れて、何をする気なんですか」
「それは、お前がいない間にお師さまを……いや、お師さまのお世話をしたりだな」
「なんで今、間があったんですか」
「ち、ちがうぞ、そ、そんな、イヤラシイコトを考えたわけじゃないんだぞ!」
「つまり、考えたんですね、イヤラシイコト」
「考えたけど……私だってお師さまに嫌われたくない、けっして無理やりあんなことやこんなことはしないぞ! ちゃんと合意の上で……」
「いや、それ聞いたら渡せないでしょ」
「だから、相応の金を出す!」
「いや、お金の問題じゃないから。だいたいさあ、いくら俺がしがないサラリーマンでも、君みたいな子供からお金むしるようなことはできないから!」
「無欲なのか?」
「いいえ、欲はあります。だけどね、俺ぐらいの年になると男のプライドっていうのもあるの。わかって」
少女は突然、声も表情も緩めて小さく微笑んだ。
「なるほど、お師さまがあんたを気にいった理由がわかった」
「え、なに? なんで?」
「そのうちわかるだろうさ。強くなる気があればの話だが」
少女は小切手帳をしまい、エレベーターに向かって素直に歩き出……。
「また来るからな、お師さまに手を出すなよ!」
「はいはい」
「本当に、また、すぐ来るから!」
と、まあ、素直にではなかったが、とりあえずにぎやかな姉弟子は帰って行った。
「……疲れた」
部屋に戻ると、何も知らない師匠はクローゼットの扉を閉じることすら忘れてパソコンに向かっている。
「師匠、師匠」
かなり大きな声を出したつもりだが、気づかなかったのだろうか、バツバツとキーを打ち鳴らす指は止まることがない。
「師匠!」
廊下まで響くんじゃないかというほどの大声をあげれば、やっと彼女は顔をあげる。
「なに?」
「おなかすいたでしょう、何か作りますけど、何がいいですか?」
師匠の顔がぱあっと輝くような笑顔になる。
「おかかご飯!」
「なんでそんな貧乏くさいものを……」
「だって、お店じゃ食べられないもん」
「そりゃあそうでしょうね……まったく、やれやれ」
師匠はパソコンなど放り出し、キッチンに向かう俺の後ろにちょろちょろうろうろと付きまとった。
「あのね、お醤油は多めにしてね」
「はいはい」
「バターはたっぷり!」
「わかりましたから、おとなしくしててください」
「おとなしくするよ~」
そう言いながらもうろうろ、パタパタと俺のすぐ背後を歩き回る師匠は、本当に猫みたいだ。
「し~しょ~お、座っててください」
少し厳しく言えば、ほんのちょっとしょぼんとして食卓に座る、そのしぐさもまるで猫。かなしげに垂れた耳と尻尾の幻覚が見えるような気がする。
(なるほど、これはかわいいわ)
不埒な気分になるよりも、まずそれが先に来る。ヤバいかわいい、単純にかわいい、めちゃくちゃカワイイ。
「そんなにしょげないでください、す~ぐにおいしいの、作りますからね~」
おかかを取り出すためにシンク上の戸棚を開けながら俺は、この師匠に惹かれつつある自分の気持ちに戸惑っていた。
もっとも、だからといって師匠に手を出したり、やましいことをしてやろうとしたわけではない。姉弟子に遠慮したというというわけではなく、この時の師匠は俺にとって、本当に手のかかる猫と同じ感覚……ただひたすらかわいいだけの愛玩動物のような存在だったのだから。
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