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『姉弟子』が俺のところを初めて訪れたのは、ちょうどそのころだ。
その日、俺は休日を持て余していた。何しろ同居人である師匠は、朝からずーっとクローゼットにこもりっきりなのだ。
「ねえ、師匠、いい天気だし、散歩にでも行きませんか」
扉越しに声をかけても、返されるのは無言ばかり。何をしているのかと扉に耳を近寄せれば、バツバツとパソコンのキーを打つ音が聞こえる。
「なるほど、執筆中ってやつか」
俺にも経験がある。小説を書いている最中というのは、自分が書いている一言一句に神経を向けすぎていて没我するものだ。こうなってしまうと腹も減らず、周りの音も聞こえず、時間の流れさえもあいまいになり、気が付くと夕方になっていたなんてことも良くある。
「まあ、腹が減れば出てくるんだろう」
俺は同居人に構ってもらえない退屈を紛らわせようと、スマホを片手に取った。師匠の作品というのを読んでみようと思ったのだ。
言い訳をするわけではないが、俺がここまで師匠の作品に目を通していなかったのは日々の暮らしに忙殺されてのことである。だって、ブラックではないとはいえ残業はあるわけだし、疲れた体を電車で揺すられた後は駅前のスーパーに飛び込んで食材を調達し、帰ってきたら師匠の食事の用意もしなくちゃいけない。食事が済めば食器の片付けもあるわけだし、ちょっとした掃除や洗濯や……風呂に身を沈めるころにはぐったりと疲れ切っていて、とても文章に向かう気力など残っていないのである。それでもずっと心苦しく思ってはいた。
ネットでの小説活動をしていると、こんな名言に出会うことがある
――読まれたければ読め。
小説サイトの利用者は書き手であると同時に読み手でもあるのだ。特にカケヨメでは作品に評価をつけたアカウントの情報がオープンにされるため、時として「読んでやったんだから読みに来い」的な言葉を投げられることもある。実にネット作家というのは読者に飢えているのである。
『読まれたければ読め』はもっとソフトな言い回し、その根幹にあるのは善意だ。意味的にはことわざでいうところの『情けは人のためならず』と近しいだろうか。
誰でも自分の作品が読まれるのはうれしいものだ。さらなる読者獲得のためのレビューがつき、評価である星がつけばさらにうれしい。ならば人が喜ぶことをまずは自分が実践するべし、つまりカケヨメの良き読者とおなりなさい、そうすれば同じように良き読者を目指す書き手さんが読んでくれるわよ、というウィンウィンな理論なのだ。
それに、自分の作品を読まれることは単純にうれしい。だったらそれと同じ喜びを相手にも与えたくなるのは、これ当然至極の人情というものでは無いか。
だから俺は、自分の作品を読んでくれた相手の作品には必ず目を通すことにしている。俺の作品の読者だと名乗りをあげてくれた師匠の作品にもいずれは目を通そうとは思っていたのだ。しかも相手は俺のところへ直接乗り込んでくるほどの大ファン、本来ならばお返しとして気合を入れて読んでやり、賞賛してやらなければならない。
それがずっと先延ばしになっていた罪悪感、今日の内にこれを済ませてしまおうと、俺はスマホの画面の中に師匠からもらった作品URLを探した。
ちょうどその時、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、は~い」
反射的に返事を反した後で、しまったと口を押さえる。この年まで一人で生きてきた男の家に尋ねてくるのなんか、どうせセールスか勧誘に決まっているのだ。居留守でも使えば面倒なかっただろうに、何たる迂闊!
しかし、すでに俺の存在はドアの向こうにいる訪問者にバレてしまった。再びチャイムが鳴る。
「ああ……は~い」
俺はあきらめてソファから身を起こした。
ドアの向こうにいる訪問者は、俺が玄関までいきつく間さえ待てないのだろうか、さらに呼び鈴を鳴らす。それも間断的に、何度も。
「はいはいはいはい、ちょ~っと待ってください」
俺がドアノブに手をかけると、それがガチャガチャと鳴った。どうやらせっかちにも、向こうからドアノブを回して扉を開けようとしているらしい。
「っ!」
俺はドアから大きく飛びのく。
鍵がかけてあったのが幸い、扉は開く気配すらない。が、ドアノブを回す音はますます早く、激しくなってゆく。さらに恨みのこもった若い女の声まで聞こえてきたのだから、恐ろしいことこの上ない。
「開けろ……さっさと開けろ……」
見たことある、こういうの、ホラー映画で見たことある!
俺は震えながらドアに近づき、魚眼レンズ越しに廊下をのぞいた。
「ひっ!」
最初に目についたのは揺れる長い黒髪、これは相手がドアノブを回すことに夢中になっているのだから仕方ない。うつむいているから表情は見えないが、着ているものはどうやら高校の制服のようだ、えんじ色のブレザーの肩が、ドアノブを回す動きに合わせて大きく揺れている。
このとき、俺は生まれて初めて、本当の恐怖は人から声を奪うのだと思い知った。「キャー」だの「うぎゃあ」だの叫べるうちは恐怖のパラメーターがふり切れていない、まだまだ余裕がある状態だということだ。
声もなく立ち尽くして、俺はドアノブを見下ろす。それは向こうから回そうとする動きに耐えて小さく震えている。
不意に、ドアノブの震えが止まった。すべての音も……耳に痛いほどの静寂があたりに漂う。
その静寂の中、湧くように女の声が囁いた。ドア越しでもわかるほどはっきりと、しかしあくまでも囁くように。
「開けないのなら、ぶち破る」
「う……う……」
何かを叫びたくとも、恐怖に乾ききった口中で舌は情けなく震えるばかり。
「ねえ、聞いてるの? さっさと開けなさいよ、さもないと……」
ぎぎ、ぎぎと小さな音がした。わずかに震えるドアノブの動きを見れば、あちら側から渾身の力を込めてもぎ取ろうとするかのようにドアノブを回しているのだということは容易に想像がつく。もちろん、鍵がかかっているのだから、そのくらいで開くわけがない。開くわけがないのだけど……。
「さっさと開けろ、そこにお師さまがいるのだろう」
今にも開きそうな緊張感を孕んだドアよりも先に、俺の背後でクローゼットのドアが勢いよく開いた。その音に情けなく腰を抜かして、俺は女の子みたいにかわいらしい声をあげてしまう。
「ひあああああ」
クローゼットから飛び出してきた師匠は俺には眼もくれず、一目散にドアに駆けよった。
「みっちゃん? みっちゃんなの?」
ドアの向こうからは、さっきまでとはうって変わってかわいらしい鈴を転がすような声が聞こえた。とてもあのドア越しに恫喝してきたどすの聞いた声の主と同一人物が出しているとは思えない、鼻濁音をたっぷりと含んだ甘ったれた声が。
「お師さま、ご無事ですか、ミツが助けに来たですぅ」
「た、助けてもらうようなことは……って、ちょっと待って、ドア越しじゃゆっくり話もできやしない」
師匠は勝手に鍵を開け、勝手にドアノブを回し、勝手にドアを開いて、表にいた人物を部屋へと導きいれた。もちろん、家主である俺の了承など一つも求められることはなかった。
ドアを開いてみると、そこに立っていたのはきれいに切りそろえられた黒髪ロングをさらりと垂らしたとびきりの美少女であった。着ているものは魚眼レンズ越しに見たとおりの制服だが俺の記憶が確かならば、それはこの辺りでいちばん偏差値と入学金の高いことで知られるお嬢様学校のもの、そういえばピリリと吊り上がった切れ長の目元が華やかな顔立ちもいかにもお嬢様っぽいではないか。
少女はまるで子犬のような人懐っこさで師匠に抱き着き、彼女が着ているボロジャージの肩口に顔を擦りつけた。
「ああ、ああ、お師さまぁ、急にいなくなっちゃうから、ミツ、すっごく心配したんです~」
その甘い声に、俺の恐怖も一気に和らぐ。よっこらしょと立ち上がり、俺はその少女とコンタクトを取ろうと試みた。
「なんだ、師匠の知り合いか。初めまして、俺は……」
自己紹介は最後まで言わせてもらえなかった。何しろ少女は師匠の体を強く抱きしめて、まるでひなを守る親鳥のように俺を威嚇したのだから。
「だまれ、おっさん」
「お、おっさ……」
「名前などすでに調べてある。高見沢トオル、当年30歳、出身地は栃木……」
「ちょ、ちょっと待って、なんで俺の個人情報特定されちゃってるの?」
「ふん、大事なお師さんを奪った男だ、すべて調べさせてもらった」
この子、なんだかヤバい香りがする。いや、エロい意味ではなく、師匠のためならば法をも犯しかねない、そんな雰囲気をバリバリに纏っているのだ。
「ええと、君は師匠の……?」
「一番弟子だ」
師匠がモソモソと身を揺すって少女の抱擁から逃れる。ぷはっと軽く息継ぎをして、そして一言。
「なにいってんの、みっちゃんは私の三番目の弟子でしょ」
この言葉を聞いた少女は、涙がこぼれるんじゃないかというほどに両目をウルウルさせて甘い鼻声を出した。
「いやですぅ、ミツは師匠の一番お気に入りの弟子でしょ、だから一番弟子なんですぅ」
「そんなこと言ってもさあ……」
「ねえ、師匠はあんなに激しくミツのこと愛してくれたじゃないですかぁ、なのに、もうキライになっちゃった?」
「そんなことないよ、みっちゃんは今でも、私のかわいい弟子だよ」
甘い声を出す少女を、師匠は両手を差し伸べて受け止めている。交わされるのは鼻にかかった甘い声、擦りつけ合うほどに近づく唇と唇、そしてうっとりと身を預ける少女……部屋にむせ返るような百合の香りが満ちた。
さらに展開される百合劇場。
「お師さま、住むところを探しているなら、どうしてミツのところに来てくださらないの?」
「いやあ、ちょっと貞操の危機を感じるから?」
「貞操の危機なんて! そりゃあ、お師さまがお許しくださったときのためにあんなことやこんなことするためのお道具は用意してますけど、でも、ミツは師匠に無理やりなことはしませんよ?」
「それに、みっちゃんにはもう、私は必要ないよ。だって、ちゃんと一人で書ける、一人前の作家さんでしょ」
俺はこの言葉に驚きの声をあげる。
「ええっ、作家? この子が?」
少女は心底とことん不愉快そうに眉をしかめて、俺をにらみつけた。
「邪魔をするな、お前さえ邪魔しなければ、私はここで……」
さっと身をひるがえした少女による、一人二役百合劇場が始まる。
「『だったら文章の師としてじゃなく、人生のパートナーとして、私のそばにいてください』」
さらにささっと体の向きを変えた少女、今度は師匠を演じているつもりなのだろう。
「『人生のパートナー、つまりそれはプロポーズかい?』」
彼女の百合劇場もいよいよフィナーレ、最後を飾るとびきりのセリフが紡がれる。
「『プロポーズなんて、そんな……でも、一生傍で私を見守っていてほしいんです。だって、私の作風はご存知でしょう? 私が書き続けるには、あなたがどうしても必要なんです!』」
驚いたことに、師匠がごくナチュラルにこれに答えた。
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