まずおかしいのは金銭感覚だ。師匠は金を持っていないわけではなく、俺の家に世話になる賃料として、ポンと札束を渡された。

「家賃、光熱水費込みで、これでいいかな?」

「いや、これではちょっと……」

「足りない?」

「逆です。貸してるのはクローゼットだけだし、光熱水費だって、たかが知れてるでしょう」

「でも、この辺の家賃って高いもんなんでしょ? 家賃だけで百万とか二百万とかするって聞いたよ」

「そんなの、物件によりますって。うちはおんぼろなんで月五万しないですって」

「なるほど、つまり十万も出せばおつりがくる感じ?」

 彼女はふむふむと頷いていたが、絶対にわかっていないと思う。というか、この師匠の金銭感覚の欠落は、こんなもんではないのだ。

 ある日、俺が仕事から帰ってくると、部屋の真ん中に超巨大な段ボールがドンと置かれていた。箱の側面に印刷されているのは某大手電機メーカーのロゴと、いま盛んにCMを流している新発売のテレビの名前と……。

「師匠! これ、どうしたんですか!」

「ん? プレゼント」

「プレゼントって……なんの?」

「別に何ってことはないけどさ、安かったし、かわいい弟子へのお土産にちょうどいいかなと思ってね」

 ぐらり、とめまいがした。つまり彼女にとっては散歩していたら花屋の店先にあった花が安かった、ふと気まぐれにそれに手を伸ばした感覚なわけで……。

「安かったって、どのくらい?」

「あんたねえ、プレゼントの値段とか聞くのは野暮じゃない?」

「そういう問題じゃないでしょ、花屋の花を買うのとは明らかに桁二つは違っちゃう話でしょ!」

「いや、本当に安かったって。それに店員さんがポイントカードを作ったら値引きしてくれるっていうから、ほら」

 彼女が得意げに掲げたのは駅前の量販店のご愛顧ポイントカード、入会金300円也。派手な蛍光緑にオリジナルだかバッタモンだかわからないぶっさいくなキャラをプリントした代物だ。

「で、このカードでいくら引いてくれたんです?」

「三百円!」

「は?」

「だから、三百円も引いてくれたの! だから、ちっとも高くなかったよ」

「ちっともお得感がない……」

「そうかなあ、ポイントがたまると、その分も値引きしてくれるって言ってたし、めっちゃお得じゃない?」

「なるほど、俺の『プレゼント攻撃』ぐらいじゃ揺らがないのも納得すぎる……」

 結局テレビは部屋が狭くて置き場所がないことを理由に返品させたのだが、一事が万事こんな感じで、なんというか……彼女の行動はすべてが常軌を逸している。

 食事にしても、狭いなりにも小さなキッチンのついた部屋に住んでいるのだから自炊するのかと思いきや、一日目は宅配ピザだった。

「私の食事の心配はしなくていいよ。自分の分は自分で用意するし」

 そう言いながらピザを頬張る師匠にそこはかとない不安を覚えたものだが……案の定、二日目はファストフードのハンバーガーだった。三日目はコンビニで買ったカップ麺一つで、四日目は腹が減ってないからと何も食べず……ついに五日目には俺がキレた。

「あんたはいったい! 食事をなんだと思ってるんだ!」

「ん~、文学的に言うなら、空腹を紛らわせるための詰め物?」

「そういうんじゃないから! 食事ってのは、体を支える基本なの!」

「うっそだ~、私、いつも適当に食べてるけど、健康だよ?」

「それは若いから! そういう適当な食生活に体が耐えられるのは若いうちだけなの!」

「ふっは、それ、自分の体験?」

「いいから、社内健康診断五年連続優良覇者の俺の飯を食えっつうの!」

 冷蔵庫を開けてありあわせの野菜を炒めただけの簡単な食事だったが、それでもろくに野菜の入っていないファストフードよりは栄養的にはマシなはずだ。

「食え!」

 意外にも師匠は、その質素な食卓に素直に向かってくれた。

「いい匂い……オイスターソースだね」

 素直に箸を取り上げ、素直に両手を合わせて深々と頭を下げ、そして素直にひとこと。

「いただきます」

 皿から野菜を一つまみして口に入れ、さらに素直な驚きの声。

「んん、おいしい!」

 あとは声も上げず、ただ一息に、大皿いっぱいの野菜炒めを、もっしゃもっしゃと平らげる。

「お~い~し~か~った~、ごちそうさま!」

 ぱちん!と勢い良く両手を合わせて、師匠は満足の笑みを浮かべている。そしてさらに、俺に向けた賞賛の言葉を。

「やっぱり思ったとおり、料理上手だねえ」

「料理っていうほど大したもんじゃないっすよ」

「食材を組み合わせて、味付けをして、盛り付けをする、この一連の動作を料理といわずしてなんていうのよ」

「じゃあ、まあ、料理なんでしょうよ」

 少しそっけなく言って横を向いたのは、照れている顔を師匠に見せたくなかったから。彼女からは見えないようにわき腹の陰では、ぐっとこぶしを握って小さくガッツポーズを決める。

 ここまで俺は、彼女に圧倒されっぱなしだった。問答無用で師匠を名乗る図太さといい、浮世離れした常人らしからぬ言動といい、何から何までが常識の範疇を超えた彼女に圧倒され続けてきたのだ。しかし、ここで俺はアドバンテージを得た!

 と、思ったのも一瞬のこと、彼女は突然、意味不明なことを言いだしたのだ。

「料理の腕も、文章に現れる」

「へ? なんて?」

「だからぁ、あんたの文章を読んだ時に、おいしいものを作れる人だなってわかったんだってば」

「文章で料理の腕がわかる? 聞いたことない話ですね」

「まあ、そうでしょうね。だって、他の人にはわからないみたいだもん」

「師匠はわかるんですか、文章だけで料理の腕が」

「まあ、おおよそ? ってか、正確に言うと料理に対する素質かな」

「へえ、その話、面白いですね」

 俺は挑発的ににやりと笑って見せる。だって、文章に料理の素質があらわれるなんて、どこに行っても聞いたことのない話なのだから、どうせ苦し紛れの妄言に決まってる。つまり彼女は、師匠であるという自分の優位が崩されることを恐れているのだろう。

 俺は師匠の隣に腰を下ろし、ふっと目を細めた。

「そんな強がっちゃって、意外とかわいいとこあるんですね」

 師匠は特に表情を崩すこともなく、いつも通りの平然とした態度で俺を見上げた。

「あ、私の話が嘘だと思ってる?」

「思ってますよ。その理屈でいったら、有名な料理人はみんな作家になってなきゃおかしい」

「バカじゃないの、その作家になれるほどの熱意と才能を料理に傾けたから、有名な料理人になれたんでしょ」

「じゃあ、逆に俺がですよ、料理人を目指していたら一流になれたっていうんですか?」

「それは無理」

 即答ズバリだった。さらに師匠は続ける。

「あんたの文章は料理でいうと家庭料理、不特定多数に向けて作られるごちそうじゃないもの」

 俺はちょっとむくれて唇を尖らせる。

「じゃあ、俺はプロの作家にはなれないって、そういうことですか」

「そうね、あんたが思うような『雑誌やテレビにバンバン名前が出て、書店でも常に平積み、芸能人みたいに華やかな表舞台に立つ人間』をプロだというのなら、そうね」

 師匠としては本当に何気ない一言だったのだろう。だが、俺はこの言葉に撃たれてぶるりと身を震わせた。

「俺が思うような……プロ?」

 師匠は上機嫌で「ふんふん」と鼻を鳴らし、大げさに両手を広げる。

「そうね、料理に例えたほうがわかりやすいかな。あんたが思うプロの条件は日本全国どこへ行っても誰もが名前を知っていて、手軽にお客さんが入りやすい立地にあって、誰が食べても同じ味であるという……例えていうならば大手チェーン系レストランのようなものだよね、だから『異世界の車窓から』なんて書いたんでしょう?」

「いや、あれは……」

「ねえ、あれ、本当に面白いのかな?」

「面白いに決まってるでしょう! 異世界ものといえば最も人気のあるジャンルで、そのタグが付いているだけで読者が獲得できるという……つまりニーズがあって、誰もがおもしろいとおもうもの! そうでしょう?」

「そうじゃないよ、弟子くん。『君が』あれを面白いと思って書いているのかと聞いているんだよ」

「それは……みんなが面白いと言ってくれるんだから、面白いと……思う……」

「みんなは関係ないよ。君の気持ちを聞いている」

「正直……」

「うん、正直?」

「面白くない……」

「じゃあなんで、面白くないと思うものなんか書いてるの?」

「異世界ものが人気だから……」

 師匠の目元が優しく緩んだ。今まで大げさに動き回っていた両手は動きを止め、しばしの静寂が部屋に訪れる。

 やがて師匠は手を伸べて、少々毛根の頼りなくなった俺の頭を撫でた。

「うん、えらい。ちゃんと本当の気持ちを言えたね」

「師匠……」

「さて、ここからが本題。一般の人から見てプロの作家って、どうしても露出の多い大物ばかりが目に付くけれど、そうじゃないでしょ?」

「それ、料理に例えると良くわかります。つまり、名の知れた有名店だけじゃなくて、駅前にある小さな居酒屋や定食屋だって、お金をとっている以上はプロだっていうことですよね」

「良くわかってるじゃん。じゃあ聞くけど、君はプロになりたいの? それとも有名人になりたいの?」

「わからないです……」

「本当に素直だよねえ」

 師匠は小さくため息をついた後で、優しく話し出した。

「君の文章は家庭料理だって言ったけど、それって家族のことを思って栄養のバランスや、飽きのこない献立や、財布の具合まで考えて作られた愛情たっぷりの文章だってことよ。そういう家庭的な味が売りの店はいくらでもあるし、人気店になる可能性はあるわけじゃない?」

「それは、はい、わかります」

「問題は、そういう店で『チェーン店の味』を出されてうれしいかってことなのよ」

「あまりうれしくないです。だって、おふくろの味を求めてはいった定食屋で、大手レストランのナントカランチみたいなのが出てくるわけでしょう?」

「君が書きたいのは、チェーン店のナントカランチ? それともおふくろの味?」

 そう聞かれると自信がない。俺はここまで、あまりにも考えなしにものを書いていたのだと思い知らされる。

 師匠はそんな俺の惑いすら見透かした様子で、ただ静かに言う。

「ゆっくり考えればいいの、だってこれ、正解のないなぞなぞだもの」

「つまり、哲学ですね」

「まさにその通り、答えはあなたの中にある……」

「ああ、わかりました、わかりましたよ、考えます!」

 場の空気を変えるために、俺は敢えて大きな声を出した。

「しかし、初めて文章の師匠らしいことを言いましたね」

 師匠もすっかりいつもの調子だ。

「だって、文章の師匠だもの」

「はいはい」

 まるで飴と鞭だ。時には師匠としての絶対的な威厳と尊大さでもって俺を制し、時には師匠として我が子を愛するがごとき愛情で俺をなだめる……一週間もこうした飴と鞭を食らい続けた結果、俺はもはや無意識のレベルですら彼女を『師匠』だと認識するようになった。

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