師匠・イン・ザ・クローゼット ~オレと師匠と時々姉弟子~
1
この段になってもまだ、俺は彼女を『女性』だと思いたがっていたのかもしれない。だが、駅のコインロッカーから取り出した『全財産』が小さなスーツケースひとつだけだという時点で察するべきだったのだ。
「あ~、狭いね~」
俺の部屋に最初の一歩を踏み入れた彼女の言葉がこれ。男のやもめ暮らしにジャストフィットなワンルームマンションなのだから、狭いに決まってる。
ここで俺は、大変なことに気が付いた。
「あ、さすがに部屋まで一緒ってのはヤバいか」
が、大師匠様がそのぐらいで揺らぐはずがない。
「あるじゃん、部屋」
「え、こっちの扉はバスルームっすよ。しかもユニットバスだから、ここを占領されちゃうと俺のトイレが……」
「違う違う、そっちじゃなくて、こっち」
彼女が指さしたのは小さなクローゼットだった。
「あの、カミガカリさん、そちらは洋服なんかをしまうスペースでして」
「そんなの知ってるけどさ、扉もついてるし、上等じゃん」
そう言うが早いか、彼女は閉ざされていたクローゼットの扉を大きく開く。
「うん、上等!」
クローゼットの中には俺の着替え類が雑多に詰め込まれている。とても部屋とはいいがたい状態なのだが、自由奔放な彼女がそんなことを気にするわけがない。
「こんなに洋服、いるの?」
「それはほら、洗い替えとか、おしゃれ着とか、普段用とか、シーズンオフのものとか……」
「それだってたかが知れてるよね!」
小さな声で「ふむ」と頷いてから、彼女はすうっと両手を持ち上げる。それはあたかも目の前にパソコンが置かれていて、そのキーボードを打とうとしているかのような動作であった。
「君というキャラクターを考察してみよう。休日の過ごし方ってどんな感じ?」
「えっと、小説を書いています」
「ってことは、インドアで過ごす時間が長い感じよね」
師匠の指は弓のように撓っては、踊るように空中を叩く。
「外出着も欲しいよね、良く出かけるところってある?」
「近所のスーパーくらいですかね」
「なるほど、ちなみにお仕事はサラリーマン、スーツを着る系よね。あと礼服は大人のマナー、これはいざという時のために外せない、っと……」
ふいっと、彼女の指の動きが止まった。
「……見えた」
これが彼女の能力――彼女を常人と切り離して天才たらしめている才能の、ほんの片鱗である。彼女はわずかな情報をもとにキャラクターを構築する能力に長けている。たとえそれが実在する人物であっても情報さえあれば『キャラクター』としてとらえ、その人物像を精密に描き出すことができるのである。
もっとも、俺はこの時に初めて彼女の能力を見たわけで、何が見えたんだかわからずにあいまいに返事をした。
「ああ、そう」
これを了承の言葉ととったのか、それとも俺の意見などはなっから聞く気がなかったのか……彼女はクローゼットの中の衣類をガサゴソとかきまわし始める。
「部屋着ならば着心地重視! 体を締め付けず、かといって緩くもないものが最高だよね。あとはスーパーに行くのに、あまり奇抜じゃないものがいいよね」
無造作に衣類が詰め込まれたクローゼットの中から、ジャージとジーパンが引っ張り出される。それからシャツとトレーナーも。
意外なことにジャージは俺が部屋着として愛用している着なずんだものであったし、ジーパンも、それに付随して選び出された衣類も、いつも俺が着ている愛用のものばかりだ。
「スーツはこんなところに突っ込んであってもしかたないじゃん?」
これらは手際よくハンガーに吊るされてバーにかけられる。
「シーズンごとの衣替えも大事。だけど、こんなに必要かなあ、こっちのセーターとか虫喰ってるし、こっちは毛玉いっぱいじゃん」
比較的新しいものが選び出されて、きれいにたたまれる。これらはクローゼットの最上段にある棚の上へ。
「残った衣類は、こう!」
彼女はそれらをざばっとまとめてクローゼットの床に敷き詰めた。まるで鳥の巣のようだ。
「それ、どうするんですか、まさか……」
うろたえる俺に向かって、彼女はにっこりとほほ笑んだ。
「んふ~」
「な、なんですか」
「ざっぱ~ん!」
小柄な体が大きく空中に跳ね上がり、衣類の山の中へダイブ!
「うっは~、最高~」
衣類の中にぐりぐりと身を擦りつけ、安心したように目を細める。かと思うとすぐに起き上がって、自分のスーツケースを引き寄せる。
「あ、そだそだ、コンセントは一個貸してね」
手早く開かれたスーツケースの中には、束ねられたコンセントと電気スタンドと、それにノートパソコンが一台だけ……。
「まさか、これが全財産……?」
「そだよ」
「着替えとか、身の回りのものとかは?」
「ないよ」
「どんな生活してるんですか……」
こんなのが『女性』であるわけがない。いや、女性にそこまで夢見ているわけじゃないんだけど、少なくともこれは違う。
「カミガカリさん」
俺がいずまいを正して呼びかければ、彼女はむすっと頬を膨らませた。
「その名前、嫌い」
「嫌いって、あんたのアカウント名でしょ」
「それでも、嫌い」
「じゃあ、なんて呼べばいいんですか」
「『師匠』! 私のことは『師匠』って呼びなさい!」
「はいはい、師匠」
「うん、それでいいの」
「ちょっと待て、ちっとも良くない」
「なんでよ、師匠って言いにくい?」
「いや、そんなのは呼び方の問題なんでどうでもいいけど……三か月だけとはいえ一緒に暮らすってことは、俺が帰ってくるとその汚いジャージでいるわけですよね?」
「そうだけど?」
「それならばまだ、俺のおさがりのほうがマシでしょう。あんたが巣にした衣類の中に……」
「師匠をあんた呼ばわりすんな!」
「ああ、もう……師匠さま! そこにある服、好きにしていいんで、もっとまっとうなもの着てくださいよ!」
「マジ? ラッキー!」
師匠は作ったばかりの巣をごそごそと漁り、俺が冬のパジャマとして使っていたジャージを掘り起こした。
「うん、これ、いい。くれるの?」
「はいはい、それはあげますから、着替えの前に風呂に入って、体中キレイにしてきてください!」
「ふろぉ?」
彼女は怯えたようにジャージを床に投げ出し、クローゼットの奥に逃げこんでしまった。少し背を丸め、「ふーっ」っと威嚇の鼻息を吐くさまが、まるで猫のようだ。
「風呂はいや!」
「何でですか」
「だって、めんどくさい」
やっぱり猫だ。俺は人間の女性ではなく、薄汚れた野良猫を拾ってしまったに違いない。
「そうか、猫か」
もちろんこれは比喩表現、目の前にいるのはれっきとした人間の女性なのだから、首根っこを捕まえて風呂場に連れて行くわけにはいかない。
「お願いですから、風呂に入ってくださいよ」
「やだ! キレイにして、ナニする気よ!」
「ナニもアレもしませんから」
「しない? 本当に?」
「本当ですって」
ここで俺は、必殺のひとことを思いついた。
「カミガカリさんは俺の師匠でしょ、大事な師匠に不埒なことはしませんよ」
この一言は、驚くほどの効果があった。
「んふ~、君は弟子としての心得が良くわかっているじゃあないの」
「ええ、めっちゃ心得ています。だから、弟子として師匠に進言するんですけどね、せっかく新しい服に着替えるなら、体をキレイにしてからの方が、さっぱりして気分がいいと思いません?」
「たしかに、一理あるね」
「なので、風呂に入ってきなさい」
「は~い」
なだめてやれば上機嫌、こんなところも猫によく似ている。
「そうかそうか、俺は猫を拾ったんだな」
そう思えば腹も立たない、俺はそのくらいには猫好きだったりする。もっとも、師匠はこの時すでに俺が猫好きであることを見抜いており、だからこそ内弟子にと決めたらしいのだが……俺がそれを知るのはだいぶ後のことである。
それでもこの時、俺の猫好きな性質が師匠との同居を決める大きな要因となったことは間違いない。
浴室と部屋を仕切る扉は、表面に凹凸を刻んで半透明になるように効果を出した薄いアクリル板、浴槽内に湯を張り始めた水音が室内にまで響く。俺はザアザアと水音を聞かせる浴室の扉の前に正座して、中に向かって声をかけた。
「あの~、カミガカリさん?」
すぐに反されたのは、屈託のない偉ぶった声。
「その名前で呼ばない!」
「ええと、じゃあ、師匠?」
「うん、なあに?」
「お家の方にご連絡とかしたほうがいいんじゃないですかね、俺のところにいるって」
ふと、ドアの向こうが無言になった。
「あの、師匠?」
「……いない」
「え」
「家族なんかいない」
マジか……マジで野良猫だ。家族も帰る家もなく、薄汚れた身なりで街を漂流していたのだと思うと、猫好きには耐えられないほどのあはれを感じる。
哀れではなくて『あはれ』、これ重要。
俺はさらに居ずまいをただし、ドアに耳を近づける。決して下心があったわけではなく、もしも師匠が俺の不躾な質問で傷ついていたらと心配してのことなのだ。
もしも泣いていたら……浴槽に顔を沈めるようにして声を押し殺し、肩を頼りなく震わせて泣いていたりしたら……それってかなり猫っぽくてヤバい。
ところが、浴室の中から聞こえたのは存外に明るい声。
「弟子君、何をしてるのかな、ノゾキ?」
浴室のドアは半透明、ドアの向こうからも俺の挙動はうっすらしたシルエットとして見えてしまうわけだ。
もちろん逆もしかり! 今まさに浴槽に沈もうとしているビックチェストのシルエットがくっきりと……見えるわけがない。こちらから見ると浴槽までの距離があるせいで、師匠のシルエットはぼんやりとした棒切れのようにしか見えなかった。だが、動きはつぶさに、水栓を締めて浴槽内に身を沈める一挙手一投足まですべてが手に取るようにわかる。
「ふはあ、あったか~い」
聞こえた声に、俺は答えた。
「ね、風呂も悪くないでしょ」
「う~ん、お風呂って入るまではめんどいけどさ、入っちゃうと極楽だよね~」
明らかに油断しきった声。一応は男である俺がここにこうして座っているというのに、ドア越しとはいえ裸をさらして、身の危険とか感じないのであろうか。
「弟子君も一緒に入る~?」
むしろ誘われた!?
さすがの俺も――いや、さすがはないか。俺はどちらかというと繊細なのだから、すっかりこれにうろたえてしまった。
「いっ、そ、ば!」
「磯場?」
「いや、そんな馬鹿なことを言うんじゃない!」
「むう、そんな怒んなくても、冗談じゃんよ~」
これは良くない。こんな人懐っこい野良猫、どんな相手がいるかわからない町場に放流しては、いつ何時恐ろしい目に遭わされるかわかったもんじゃない。
世の中は俺のような善人ばかりじゃないのだ。飼い主のいない薄汚れた野良猫を目にしたとたんにエアガンを打ち込みたくなったり、マジックで顔に落書きを入れるような不届きものだっているのだ。ましてや師匠は猫のような性格をしてはいても体は普通に人間の女性なのだし、容姿も悪くない。胸に至っては目算でもFカップは軽く超えるであろうというビッグチェストなのだから、猫にするようないたずらとはまた違ったイタズラ目的の輩をも引き付けるであろう。
俺はそこはかとなく不安になって、ドアの向こうに声をかける。
「てか、なんで同居?」
「それはまあ、その……内弟子?」
「内弟子って、普通は師匠が弟子を自分の家に住まわせるもんなんじゃないんですか?」
「あ~、う~、じゃあ、私と一緒にネカフェで暮らす?」
「冗談ですよね?」
「いや、本気」
「なるほど、見えました。つまり俺が面倒を見なかったら、師匠はネカフェ暮らしなんですね」
「う~ん、ちょっと違うかな。君がここに住まわせてくれなかったらネカフェ暮らしに戻るのはホント。だけど食費と光熱費はきちんと払うし、自分の生活の面倒くらい自分で見るし、ただ住居の一端を貸してほしいというだけの……つまり、内弟子?」
「いや、居候っていうんですよね、それ」
とはいっても、この天真爛漫な師匠を無下に放り出すのも気が引ける。相手が俺だったから未遂ですんだものの、オフパコ目的の男にあっさりホテルに連れ込まれてしまうような無防備な女性なのだから、悪い男になど行きあったらどんな目に遭わされることか、恐ろしくて仕方ない。
「はあ、まったく……何で俺なんですか、ネットで小説書いてる奴なんか、ごまんといるのに」
「そんなの、才能があるからじゃん」
「才能なんてありますかね、俺に」
「まあ、才能ってのはちょっと褒めすぎかな。だけど、君の文章を読んで、そして君のことが気に入ったから、弟子に欲しいと思った、これだけは真実」
この言葉に、俺は強く心を動かされた。
「つまり、本気で俺を弟子にする気なんですね」
「あたりまえじゃん。私、こうみえて真面目なんだから、本気じゃなかったらDMなんか送らないって」
「わかりました、じゃあ、三か月の間は、俺もカミガカリさんを師匠として扱いますね」
「せいぜい敬ってね!」
「三か月のお試しだけですからね! 俺は弟子入りとか、本当に断る気満々なので!」
「ふふん、三か月後には、あんたの方から伏して師事を希うだろうけど?」
「ないわ~、それはぜったいないわ~」
その時、ざばっと湯から上がる水音が聞こえて、俺たちの会話はそこで終わった。
こうして成り行き上というか、やむにやまれずというか、野良猫のような師匠を拾ってしまった俺だが、この師匠、ともかく人間らしい生活習慣というものが何一つできてはいない。
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