文章の師匠スーパーマーケットへ行く ~マイ・フェア・弟子ィ~

 さて、姉弟子の登場により、師匠が何者なのかという謎はますます深まった。

「レジェンド……ねえ?」

 なんだか御大層な二つ名がついている、そのうえプロとして活躍する弟子がいることからも、師匠がただものではないと、それだけははかり知ることができた。だがこの師匠、あまり有能には見えない。

 師匠は一日の大半をクローゼットの中で過ごす。電源は延長コードで引きこんであるのだし、電気スタンドとノートパソコンも持ち込んでいる、おまけに床には鳥の巣状に俺の古着を敷き詰めてあるのだから存外快適だろうが、それにしても完全な引きこもり状態だ。

 食事は日に二回、一回目は俺が仕事前に用意した朝食を。おそらくは昼の内にクローゼットから這い出して食べているのだろう。

 二回目の食事は俺が帰ってから作る夕食で、この時間が一日の内で唯一、師匠と俺が顔を合わせる時間だ。この時ばかりは師匠もクローゼットから出て俺と差し向かいで食卓をはさむ。この時にひと悶着あるのが我が家の食卓の風景だ。

「師匠、その服、昨日も着てませんでしたか?」

 俺の言葉に師匠はジャージの胸元を引っ張り上げ、クンクンと匂いを嗅ぐ。

「臭くないし、昨日はお風呂に入ったから大丈夫」

「昨日『は』ってなんすか! 風呂ぐらい毎日入れ!」

「え~、めんどくさい~」

「風呂に入ってくるまで飯はおあずけ!」

 さっとオカズの皿を引けば、師匠は不承不承不服不満落胆明らかな表情でしぶしぶと立ち上がる。

「わかった~、じゃあ、風呂入ってくる……」

 もはやこれが毎日の日課となっていることからもわかる通り、この師匠は生活能力というものが皆無である。それに、ここまで俺は文章の指導らしい指導もされていないのだから、このだらしない同居人を師匠扱いすることに少々疲れ始めていた。

 そこで意を決して切り出したのが昨日の夕飯を食べながらのことだ。

「ちゃんと家賃と光熱費もいただいてるし、飯も自分のを作るついでなんで手間じゃないし、なんならここにずっといても構いません。だけどね、師弟ごっこは終わりにしませんか?」

 師匠はマーボー豆腐の大皿を手元に引き寄せながら首をかしげた。

「ごっこじゃないよ、ちゃんとあんたの師匠になるつもりだよ」

「いや、それにしては、あんた、俺に文章のことなんか何にも教えてくれないじゃないですか」

「だって、頼まれないもん」

「頼むつもりはないですよ。そもそも、あんたが勝手に押しかけてきただけなんだし」

「うん、それだよね~」

 師匠はマーボー豆腐を食べる手を止めて、まったく脈絡なくつぶやいた。

「明日は二十日だっけ……」

「ええ、そっすよ、それがなにか?」

「あんた、明日、仕事は?」

「いいかげんに俺の休日ぐらい把握してください、明日は土曜日なので休み!」

「じゃあさ、ハツカサンジュウニチ行こう!」

「は? なんすか、その呪文」

「知らないの? ハツカサンジュウニチはゴパーセントオフなんだよ?」

「ああ、ああ~!」

 聞いたことのあるフレーズだと思ったら、某大手スーパーの『お客様感謝の日』ってやつだ。

 師匠はとことん金銭感覚がおかしいらしく、ワクワクキラキラと瞳を輝かせながら、さらに意味不明なことを言いだす。

「五パーセントオフって、どのくらい安いのかな」

「そりゃあ、五パーセント安いんでしょう」

「だから、五パーセントっていくら?」

「いくらって……例えば百円のものがあるでしょう、これに0.05かけたのが五パーセントだから、つまり五パーセント引きっていうのは五円お得だっていうことです」

「五円も!」

「いや、五円しか、でしょ」

「それでもお得はお得じゃない。いいからさ、明日はハツカサンジュウニチ行こうよ」

 正直、五パーセントオフごときでは俺の心は動かない。しかし引きこもりがちな彼女の運動だと思えば、そういう休日も悪くないかもしれない。

「いいですよ、行きましょう」

「やった、ハツカサンジュウニチ!」

 この時、俺はまだ気づいていなかった。これが羞恥プレイにも似た修行の一環であることに……まあ、気づいていないのだから、俺は実に軽い気持ちで失笑を駅前の商店街に連れて行ったわけだ。

「師匠、甘いものはあとで買ってあげますから、とりあえずイオ○に行きましょう」

 俺が声をかけると、小さな甘栗屋を覗き込んでいた師匠が振り向く。

 いつものボロびたジャージ姿ではなく、俺のおさがりではあるがゆったりとした綿シャツを羽織り、下はこれまた俺のおさがりのジーパンという、とりあえず見てくれだけはきちんとした格好をしているのだから、ごく普通の女性に見える。

 実はこれもひと悶着あって、師匠はもちろん、いつものボロジャージのままで出かけるつもりだったのだ。さすがにそれを連れて歩くのはと、俺は師匠がねぐらにしている古着の山を指さして言った。

「もう少し真っ当なナリをしてくださいよ。じゃないと連れて行きませんからね」

 師匠がしぶしぶ巣の中から選び出したのはサーモンピンクのカッターシャツ――これは俺が若いころに一応おしゃれなどしてみようかと買ったものだが、うまく着こなせずに投げっぱなしになっていたものだ。それゆえに古着感もないし、細身のデザインも華やかな色合いも、女性向けだと言い張ってもいいくらいにかわいらしい。

 ところが、これを着た師匠を見た俺は、すさまじい衝撃にすべての語彙を奪われた。

「お、おっぱい!?」

 何と師匠はノーブラ、無防備な肉丘はむっちりとまあるい形を描き、もちろんその先端を彩るような恥じらい色の小さなアレまですべてが露わ……つまりシャツの生地が薄すぎてすべてがスケスケなのである。

「お、おっぱ……い……」

 俺は息をのむ。いつもはジャージにごまかされて意識していなかったが、改めて見れば見るほどにこの胸部、ダイナマイトなのである。どのぐらいデカいかというと、シャツの第二ボタンまでを開けているのに、深い谷間が窮屈そうに前立ての間に収まっている。ふっくらと弾力ある丸みでシャツの第三ボタンは今にもはちきれそうだ。

「おっぱあああああい!」

 そう、こんな破廉恥な格好の女性を街中に連れて行くなど、できるわけがない。俺は同じ失敗を繰り返さぬよう、今度は俺自らの手で古着の山の中から着るものを選び出した。それはカッターシャツよりもずいぶんと生地が厚く、さらに色合いも暗いブルーであることから乳透けの心配はない。サイズも大きめで、師匠のダイナマイトな胸を収めてもなおゆとりがあるのだから、必要以上に胸のかたちが強調されることもないという安心設計だ。

 まあ、デザインは古いうえに、細身の体に男物のシャツを着るという着こなしは、一昔前にはやった彼シャツを思わせるのだが、それは許容の範囲内としよう。

 ともかく、こうして真っ当な格好をさせてみると、うちの師匠は平均以上に美人なのだとあらためて気づかされる。いつもは結びっぱなしにしている髪もほどいているのだから、少しクセのかかった長い髪がかすかな風に毛先を遊ばれて楽し気に揺れている様子など、見とれるほどにかわいい。

 しかも背景は古くからの商店街、駅前に続くアーケードとはいえ、立ち並ぶ店はどれも色あせたような昭和の空気漂う小売店ばかり。だからいまの師匠にタイトルをつけるとしたら『休日ご近所デート☆彼シャツでぶらり』みたいな昭和のノリなのだ。

 もともとの顔立ちがきれいな師匠は、渋い赤を基調とした甘栗屋の前に立っていてもフォトジェニックな風情がある。そんな自分をよくわかっているのか、師匠はふわりと笑って両手を広げた。

「でっしくぅううん♡」

 甘えたかわいい声で、師匠が俺に向かって走ってくる。風に煽られたシャツの裾がわずかにめくれ、おへそがちらりと見えるのがなんともセクシーだ。あの野暮ったいシャツを脱がすととてつもない巨乳が隠されている、そのギャップもまた、エロい!

 両腕を広げて俺に飛びついた師匠は、とびっきり甘ったるい声で囁いた。

「ねえ、弟子くん、甘栗買って♡」

 俺もとびきり甘い声で囁き返してやる。

「ダメです♡」

「なんで♡」

「いま食べたらお昼が入らないでしょ♡」

 そんな俺たちに向かって、聞き覚えのある声が冷たく刺さった。

「なんの茶番だ」

 いつの間に現れたのか、制服を着たJKが甘栗屋の前にいる。もちろん『花野ミツ』先生様だ。彼女は一番大きな甘栗の袋を手に取ると、店の親父に向かってカードを突き付けた。

「これ、一回払いで」

「あ~、すんません、うち、カードはねえ」

「なん……だと?」

 がっくりと地面に膝をつく花野先生……なにやってんだか。

「お師さまが望むものすらご用意できぬとは、私は……無力だ!」

 落胆甚だしく地面を掻き毟る様子が哀れだ。これを見かねたか、師匠は俺からふいと離れて、花野ミツに駆け寄った。

「みっちゃぁん」

「お師さまぁ」

 そのまま往来の真ん中でがっしりと抱き合う。唐突に展開される百合劇場。

「お師さま、ごめんねぇ、ミツ、お師さまが欲しいものなら何でもあげちゃいたいのに……」

「ううん、みっちゃん、気持ちだけで十分よ」

「お師さま、優しい……あのね、甘栗は差し上げられなかったけれど……」

 師匠を誘うのはとろけそうなほど甘ったれた鼻声と、ほんのり頬を染めた恍惚の表情。あまりに香る百合の香りに、これを見ていた甘栗屋のおやじが息をのむ。

 もはや百合劇場はクライマックス、花野ミツは師匠の頬に片手を伸ばして、しどけなく体を揺すった。

「クリはクリでも、ミツのクリ……」

 彼女の言葉をさえぎるために、俺は腹の底から絞り出すような大声をあげる。その勢いのまま二人の間に割って入り、師匠を花野ミツから引き離す。

「ストーップ、はい、ストーップ!」

 不服顔の花野ミツは眼光鋭くにらみあげて俺を威嚇しているが、そんなことに構っちゃいられない。俺は花野ミツの両肩をつかんだ。

「あんた、いま、なんて言おうとした?」

「そんなの、クリト……」

「いいから、言わなくていいから! 天下の往来で花も恥じらうJKがそういう単語を言うなって、怒ってるだけだから!」

「なんだ、そのJKに対する幻想は。おっさん、本当に童貞なんじゃないか?」

「悪かったな! どうせ童貞だよ!」

 花野ミツは実に申し訳なさそうな顔で少し目を背けて、「あ~」と唸る。

「なるほど、すまない」

 この場合、謝罪は最も効果的なカウンターとなる。その話題に触れないように話を流してくれるなら、ノーダメージ、少しは寂しいが俺の心が傷つくことはない。

 茶化して笑い飛ばしてくれるならばそれもまた良し。俺は道化に徹して「そっすよ~、いまだ童貞なんすよ~」とボケて見せれば、周りの空気も和んだことだろう。

 ところが花野ミツは俺が童貞だという事実をまともに受け止め、あまつさえさもさも気の毒そうに俺に憐憫をくれた。俺の童貞を、捨てたくても捨てられなかったもてない男の象徴にまで貶めたのだ。

 俺はもはや涙目。

「童貞じゃ悪いっていうんですか……」

 花野ミツはひらりと身をひるがえし、下ネタなど何も知らない純真無垢無垢みたいなかわいらしい声を張り上げる。

「え、やだ、それってセクハラ?」

 休日の商店街、通行人はそれなりにいて、そのうちの何人かは花野ミツの声に足を止めて振り返った。さらに、そのうちの何人かは、『中年のおじさんに絡まれている、いたいけな少女』を心配して近寄ってくるわけで、俺もさすがに自分の立場が危ういものであるということに気が付いた。

 花野ミツは容赦ない。さらにかわいらしく、おびえたような上目遣いで俺を見上げている。

「え~、もしかして、私を呼びだしたのは『そういうこと』が目的なんですか~?」

 俺はすっかり動転してしまって、口から出まかせをつらつらと並べ始めた。

「やだなあ、かわいい姪っ子に、『そんなこと』をするわけがないじゃないか~」

 俺だって素人作家とはいえど創作者の端くれ、設定さえ決まってしまえば、あとは言葉が口をついてあふれ出す。

「今日呼び出したのは、俺の姉、つまり君のお母さんから、君の勉強を見てくれないかと打診されたからでね~」

 全てが嘘八百にしては、なかなかいい滑り出しだ。とても即興で組み上げたとは思えないくらいに設定は出来上がっている。

「僕だって、仕事は忙しいけど、かわいい姪っ子のためだからね~、仕方なくこうして、君に会う手筈を整えたってわけさ」

 これで集まってきた聴衆の目はごまかせたはず……と周りを見回せば、まずは心底怪訝そうに眉を顰めた甘栗屋のおやじの顔が目についた。

「あんた、本当にその子のおじさんなのかい?」

 おかしい、俺の作り上げた設定は完璧だったはずだ。何より、俺の姉の子供だというのが真実味を演出しているはずだ。

 俺は当年で32歳、俺より年下の弟妹の娘という設定にしたならばJKでは年が行き過ぎているだろうと目論見あっての設定なのだ。

 ところが、俺を取り囲む野次馬の誰もが一様に不審の表情であった。何人かはすでにスマホを片手に握りしめ、下手を打てば、JKにいかがわしいことをしようとした人物として即通報されそうな勢いである。

 追い詰められた俺は、情けなくも狼狽えて意味なくつぶやくばかり。

「あの……いや……その……」

 そんな俺を救ったのは師匠だ。彼女はトコトコと聴衆のど真ん中まで進み出て、ぺこりと頭を下げた。

「みなさん、おさわがせしてごめんなさ~い、これ、お芝居の練習です~」

 さらに師匠は、甘栗屋のおやじに向かって言う。

「ねえ、このおじさんとあの子、、どっちの方が上手でした?」

 甘栗屋のおやじはわずかに逡巡した後、すべてに合点がいったというように大きく頷く。

「あっちの女の子は上手だねえ、一瞬、本当にナンパされた男に絡まれているのかと思っちゃったよ。それに比べてお兄ちゃん、あんたはもっと練習したほうがいい、なんていうか、言い回しが嘘くさくてセリフだっていうことが丸わかりだ」

 俺の中で、創作家としてのプライドが崩れ落ちる音がした。

「な、どこがセリフだっていうんですか。俺ぐらいの年ならばあのくらいの姪っ子がいてもおかしくないでしょ!」

「いや、それはおかしくないけどさあ、だったら、セリフじゃなくて芝居で見せるもんじゃないのかい、俺も演劇はあんま詳しくないんだけどさ、あんたのしゃべっている内容は、全部が嘘くさかった」

「そんな……」

 落胆する俺に向かって、師匠がにんまりと笑いかける。

「ふっふ~ん、これがあんたの小説の弱点よ」

「え、弱点……?」

「解説してあげるから……甘栗っ!」

「はいはい、わかりましたよ、買えばいいんでしょ!」

 こうして俺は甘栗の大袋をまんまと買わされ、師匠と花野ミツとともに、近くにあった小さな児童公園へと足を向けたのである。

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