イオ○とは、言わずと知れた買い物の聖地――日本最大手流通企業グループが経営するショッピングモールの総称だ。もっともわが町のイオ○は古くから駅前にあった大手スーパーを買い上げ、看板だけをイオ○に挿げ替えた代物で、ピカピカした新しい雰囲気というものは一切ない。

 それでも師匠は、店内に入ると嬉しそうに両手をあげて叫んだ。

「これが……ハツカサンジュウニチ!」

 休日、しかもゴパーセントオフの日とあって、店内は混んでいる。とうぜん通路のど真ん中に突っ立っている師匠はそれだけで通行の邪魔なのである。

 一階生鮮食品売り場から直進してきたカートを押すおばちゃんが、通路を塞ぐ師匠を見て小さく舌打ちをした。俺は思いっきりびくついて、師匠を通路の隅へと引き寄せる。

「し、師匠、うれしいのはわかるけど、少しは人の迷惑も考えて、ね」

 師匠は可愛らしく首をかしげて、店内を見回す。

「迷惑?」

「人がいっぱい通る通路を塞いだら迷惑でしょうが。そんな常識もないんですか」

「うん、無い」

「まったく、普通はそういう常識的な行動ってのは子供の内から親に……」

 突然、花野ミツが奇声をあげた。

「チェストぉ~!」

 戸同時に、俺のむこうずねに叩き込まれるローキック。

「ってえええええええええええ!」

 すねを押さえて大地に付した俺は、それでも花野ミツを見上げてこれを叱りつけた。

「お前も、迷惑! もっと人の迷惑考えて!」

 しかし花野ミツは俺には答えず、まるで道に落ちたウ○コを見るような不快感露わな表情で俺を見下ろしている。

「次はミドルキックでいくからな……」

「なんで、俺、なんか悪いことした?」

 涙目で立ち上がろうとする俺の胸倉をつかんで、花野ミツは「ふはあ」と気合のこもった息を吐く。

「いいか、お師さまの前で『家族』とか、『親』とか言うな」

「え、なんで?」

「いいから、言うな。あと、お師さまの子供の頃に関する話題もタブーだ」

「なんでだよ」

「なんででも」

 と、そこへ響く師匠の声。

「ねえねえ、みっちゃん、弟子君、これカワイイ~」

 その声が思いのほか遠くから聞こえるから、俺と花野ミツはあわてて振り向く。通路を行き交う人並みの向こう、少し離れたアイスクリームショップの前で手を振る師匠の姿が見えた。俺たちとの距離十数メートル……。

 俺と花野ミツは、慌てて師匠に駆け寄る。

「お師さま、一人で勝手にどっか行っちゃダメです!」

「そうだぞ、迷子になったらどうする!」

 師匠は思いっきり不服顔だ。

「え~、だって、アイスおいしそうだったんだもん」

「違うでしょ、アイスの話はいまして無いの! 何も言わないでどっかに行っちゃいけませんって言ってるの!」

 怒り心頭な俺と、師匠の間には、南極と赤道ぐらいの温度差がある。猫じみたしぐさで首をかしげて、師匠は言った。

「それって、ちゃんと行先言ったら、好きなところ行っていいの?」

「そりゃあ、行先さえ言ってくれれば」

「うん、わかった」

 まるきり子供の所業である。俺はとてつもなく不安になって、師匠に片手を差し出す。

「ん、手」

「ん、お手?」

「違う、手をつなぐんだよ!」

 これを見ていた花野ミツは、怒り狂い、ダシダシダシと足を踏み鳴らした。

「不純だ!」

「は、何が?」

「お前、そうやってお師さまと手をつなごうなんて、不埒だ」

「不純も不埒もあるか、迷子防止だっつーの」

 なんだかこの二人といると疲れる。店内が休日の人出で混雑しているというのも、疲れを倍増させる。楽しみにしていた師匠には申し訳ないが、早々にこの店から去るのが最善であると俺は考えた。

 しかし、である、あれほどハツカサンジュウニチを楽しみにしていた師匠に買い物の醍醐味も楽しまずに帰れと言うのも酷な話だ。それに、今日のランチはこのイオ○の四階にある小さなレストランで外食をと、俺自身も楽しみにしていた。

 なにしろ師匠は口が肥えているのか肥えていないのか、あれだけ外食三昧だったくせに俺の食事に文句を言ったことがない。もちろん味と栄養のバランスには気を使っているのだが、それでも仕事から帰って作る遅めの夕食では簡素なメニューになりがちだ。食材も帰宅途中に調達するので、閉店間際に飛び込んだスーパーの半額シールのついた刺身や、売り切りのための投げ売りコーナーに置かれた野菜などに頼りがちであるのだから、俺は内心で人に食わせるには貧乏くさい料理なのではないかと思い悩んだりもしていた。

 しかし、それでも師匠は文句など言わない。何を出されても大喜びで食卓に向かい、無邪気に白米を頬張る姿を見ていると、こう……「もっとうまいものを食わせたい!」と心の奥がむずむずするのだ。

 だからこそ外食を、それもこの店でいちばんランクの高い店の、一番うまいものを食わせてやろうと意気込んできたのだから、ランチもせずに帰るのは俺だって心残りだ。

「仕方ない、二階に行こうか」

 二階は雑貨コーナーであり、フロアの半分を百円均一の店がで~んと占拠している。スチール棚の間を広めに配置した店内は見通しが良く、おまけに一階よりは混雑していないと予想されるのだから、まず迷子にはならないだろう。仮に迷子になったとしても、百円均一のほかには店の奥までが一目で見渡せるような小さな店の集まり、人ひとり探し出すことも難しくはないだろう。

「問題は三階か……」

 こここそがイオ○最大の難攻ダンジョン、ここにはゲームコーナーがある。買い物中のお母さま方がお子様をなだめるためのショボいゲームコーナーではあるが、その目的を果たすべくレディースファッションコーナーに隣接されており、常に子供の姿が途切れることがない。形も様々、人の背丈よりも高く作られた筐体が所狭しと並び立ち、おまけに画面の明かりや電飾がギラギラと目を刺すせいで、ここから人ひとりを探し出すのは至難の業となる。

「つまり、二階を見て回り、三階はスルー、四階へと上がって昼食をとる。よし、完璧!」

 俺は師匠の手を取ってエスカレーターへと乗る。花野ミツは「不埒だ、不埒だ」とつぶやきながらも俺たちについて来た。

 二階についてしまえば、特に心配することもない。俺は師匠の手を放して、その背中を押す。

「俺はここで待ってるんで、花野先生と二人で見て回るといいですよ」

「うん……」

「どうしたんです?」

 師匠はもじもじするばかりで、まったく要領を得ない。花野ミツがそんな師匠の肩を抱いて「ふふん」と笑った。

「お師さまは、物欲がないんだ」

「え」

 思い当たる節はある。

「そうか、だから俺のプレゼントを断ったと……」

「金に対する執着もない、だからとつぜん、大きな買い物をすることがあるが、それも自分が所有するためじゃないのだ」

「あ~、そういえばひょいとテレビ買って来たな」

「テレビ? お前、それを受け取ったのか?」

「いや、丁重にお断りしてお返ししましたって。さすがにあんな高価なもの、ひょいともらえないでしょう」

「意地汚く師匠の財布から金を引き出すような男ではない……いま少しだけ、お前の評価が上がった」

「そりゃどうも」

「そういうわけで、こんなところに連れてこられても、物欲のない師匠は戸惑うばかりなのだ」

 しかし場が盛り下がるのも忍びないとでも考えたのだろうか、花野ミツは師匠に高速頬ずりをしながら、甘えた声を出した。

「お師さまぁ、ミツ、この前、マグカップ割っちゃってぇ」

 師匠の目が、きらりと光る。

「マグカップ、みっちゃんの?」

「そー、マグカップぅ、ここで買っちゃおうかな~」

「いいね、じゃあ、私が買ってあげる! 選びに行こう!」

 俄然元気になった師匠は、俺たちに先立って百円均一の店に飛び込む。しかしすぐに棚の間から飛び出してきて、花野ミツの袖を引く。

「みっちゃん、このお店、値札がないんだけど?」

「ああ、このお店はね、どの商品も百円! すべて百円! がウリなので、値札とかないんですぅ」

「マ? これ、どれも百円? このキンキラピカピカのボールペンも?」

「百円ですぅ」

「この、入れ歯洗浄用のいかにも便利そうなコップも?」

「百円ですぅ」

「あそこに並んでる、壁にかけるとおっしゃれ~に見えそうな絵も?」

「もちろん百円ですぅ」

「すごい……すごすぎる! 商品価格の大革命ね!」

 師匠がひょいと俺の顔を見る。

「そうだ、いつもお世話になってるお礼、あんたにも何か買うわね。この、何に使うかわからないけど部屋に吊るすとおしゃれっぽいミニすだれとか、どう?」

 よりにもよって、なぜそれを選んだのか……師匠のセンスがわからない。

「いりませんよ、そんなの、どこに吊るすんですか」

「ん~、トイレの壁とか?」

「うちみたいなユニットバスじゃ、すぐに腐って汚くなっちゃいますよ」

「じゃあ、じゃあ、かわいらしいんだか可愛らしくないんだかわからないキャラクターが描かれた、この巾着とか!」

「女じゃあるまいし、そういうの使いませんから」

 どうしてこうも次から次へと……よりにもよって無駄なものばかりを持ってくるのか。俺はこめかみを押さえながら師匠を呼ぶ。

「師匠、いったん落ち着いて、聞いてください」

「はい」

「それは百均のワナです」

「わ、ワナ?」

「すべて百円だという価格のワナ、そして豊富な品揃え。百円ぐらいならと必要ないものにまで手を伸ばしてしまう、まさにワナです」

「なるほど、ワナ」

 師匠はものすごく素直にこくりと頷く。こういう子供っぽいところを見せつけられると、庇護欲がムラムラと湧いてくるのが男の性というもの。

「いいですか、こういうお店を上手に使うポイントは、自分が今、何を必要としているかをよく見極め、本当に必要なものだけを手に取ることです」

 師匠はさらに深く頷いて、意味不明なことを言いだした。

「本当に必要なものを選ぶ、それ、文章に似てる」

「そうなんですか?」

「うん」

「まあ、いいっす。ともかく、いま必要なのは『花野先生にあげるためのマグカップ』でしょ。食器コーナーはこっちです」

 俺が歩くと、師匠が親猫を追う子猫みたいに、トコトコとついてくる。俺はさらに庇護欲を煽られて、片手で自分の胸元を掻き毟った。

「なにこれ……すっげえ胸キュンなんだけど」

 花野ミツが師匠に夢中なのもわからなくはない。普段は師匠だと偉ぶっているくせに、日常生活の面ではまるっきり子供並みであるというアンバランスさが、この師匠をひどく儚い人物であるかのように見せているのだ。

 そんな師匠が、子猫のように俺を頼り切って後ろをついてくる……。

「か、かわいい」

 感極まってつぶやく俺の横顔を、花野ミツがじろりとにらみつけた。

「惚れても無駄だぞ」

「惚れるって、あれに? そりゃあないでしょう」

「ふうん? それにしてはずいぶんと『キュン♡』しているようだが?」

「これは、なんていうか父性本能……いや、どちらかというと、母性本能かもしれない」

「ふうん、ならば教えてもいいか。よいか、例えばどれほど恋い焦がれようとも、お師さまは他人を愛することはない。あの人が愛するのは文章だけだ」

「それは花野先生が女性だからなんじゃ……」

「おやあ? やはりお師さまのこと、狙ってる?」

「い、いや、そんな、まさか……」

 会話はそれだけだった、それだけだったはずなのだ。しかし、ふと顔をあげた俺と花野ミツは目を疑った。

「あれ? 師匠は?」

「い、いない!?」

 食器売り場に人は誰もおらず、くるりと見渡して目の届く範囲のどこにも……師匠の姿は見当たらなかった。


 花野ミツと二人で百円均一の広い店内を走り回るが、やはり師匠は見当たらず。

「ど、ど、ど、どうしよう……」

 花野ミツが泣き出しそうな顔で通路の真ん中に座り込む。長い髪はすっかり乱れ、顔面蒼白でいまにも泣き出しそうな表情である。

「お師さま……」

 ついに、大きな涙の一粒がまなじりからポロリとこぼれた。

 これは少し大げさすぎるんじゃないだろうか。いくら子供っぽいところがあるとはいえ、師匠は大の大人なのだから。呆れきった俺は、少しそっけなく言う。

「あ~、サービスカウンターに行って呼び出しでもかけてもらいます?」

「どの名前で?」

「どの名前って?」

「あんた、お師さまの名前、知っているのか?」

「なま……え……」

 聞かされていない。家にいる時の呼び名は『師匠』で事足りるのだし、他にはツイッターで使っている『カミガカリ』というアカウント名を知っているだけである。

 花野ミツは唸るような声を出しながら、ばっさばっさと髪を掻き毟る。

「私だってお師さまのペンネームをいくつか知らされているが、すべて把握しているわけじゃない。そもそもお師さまには『自分の名前』という概念もないんだから、呼び出しなどかけても無意味だ」

「いや、それでもさ、仮にも大人なんだから、いざとなったら家まで自分で帰ってくるんじゃないかな」

「家って、どこの?」

「俺んち? だって、荷物はうちに置きっぱなしなんだし、いまは俺んちが師匠の家みたいなものだろ」

「お師さまにそんな概念はない。それに物欲もないのだから、荷物に対する執着もない。つまり、あんたの家に帰らなくちゃならない理由はどこにもない」

 脇の下のみならず背中にまで、冷たくて粘性の高い嫌な汗が噴き出す。

「もしかしたら、帰ってこない?」

「可能性は十分にある。それに、もう一つ心配なのは……」

 花野ミツは、言葉を切って軽く唇をかんだ。自分の思いついた最悪の結末を口にすることさえ不快だったのだろう。やがて、再び口を開いた彼女の下唇には、前歯の痕がくっきりと刻まれていた。

「お師さまは、文章を通してしか人を見ることができない。私がなんだかんだ言いながらもあんたを信頼していたのは、お師さまが『文章を見て選んだ』相手だからだ。だけど、ここではお師さまの文章フィルターは使えない、全くの無防備なのだ」

「もし、師匠によこしまな気持ちで近づく奴とか居たら……」

「お師さまに見抜けるわけがない。ちょろっと丸め込まれて連れていかれてしまうだろうな」

 俺の脳裏に思い浮かんだのは、カッターシャツのボタンが悲鳴をあげそうなほどに膨らんだ師匠の胸部だった。あれは……それだけで男の股間を撃ち抜く破壊力がある。

「くっ、男どもがあの巨乳に気が付く前に、なんとしても師匠を見つけ出さなくては!」

「まて、なぜ巨乳だと知っている?」

「そ、それは着替えの時に……って、そんなこと言ってる場合じゃないっすよ、花野先生!」

 俺はエスカレーターを指さした。

「花野先生は一階を、俺は三階と四階を見てきます。もし師匠が見つからなくても、三十分後にはここに集合、いいですね?」

 花野ミツは深く頷く。

「了解だ」

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