なお、児童公園から商店街へ戻る途中で、花野先生が地声でつぶやいた言葉をお伝えしておこう。

「つぶす気で行くからな、覚悟しろよ」

 相手は仮にもプロの作家、侮る気は少しもない。それでも文章などという勝負の基準のあいまいなもので、どうやって俺をつぶそうというのか……俺はそれを軽い挑発の言葉くらいにしか思っていなかった。しかし、そんなわけがなかったのだ、何しろ相手は仮にもプロの作家なのだから。ほどなくして俺は、それを思い知らされることとなった。

 それはアーケードの隙間に細く開いた一杯飲み屋が立ち並ぶ裏路地を、師匠が物珍しそうにのぞき込んでいるときのこと……花野ミツは俺のわき腹を肘でつついて言ったのだ。

「ほら、皇帝陛下が感興をもよおしておられるぞ、こういう時、どうするんだ?」

 すっかりレクターごっこの要領を得ていた俺は、これはしたりとすかさず答える。

「異界の、しかもあのようにガラの悪い場所、皇帝陛下のようにやんごとなきお方を立ち入らせるにはふさわしくありませんから」

 ところが、花野ミツはそんなことでは納得しなかった。するりと口調を変えて、異世界人を案内する少女の役を演じる。

「あら、ここが『ガラの悪い場所』だって、レクターさんは良くご存じなのね」

「み、見るからにガラが悪いですからね」

「そうかしら?」

 ひょいと小首をかしげる彼女につられて路地裏を覗き込めば、人がやっとすれ違えるほどの細い道が見える。道の両脇を埋めるのは一間間口の安い居酒屋やバーであり、夜になれば道の幅を塞ぐようにして電飾の立て看板が並べられ、その隙間を酔い客が千鳥足で闊歩する魔窟の様相なのだが。

「あ、まだ昼間か」

 電飾の看板は店内にしまわれ、どの店も戸を閉め切っておとなしい。もちろん酔い客もおらず、ただ一軒開いている定食屋の店先でくたびれたコック服を着たおっさんが缶コーヒーを飲みながらぼんやりしているほかには、人の気配すらない。

「あなたの世界では、こういうのをガラが悪いって言うの?」

「え~、いや、その……」

 わきの下に汗が噴き出すのを感じた俺は、話題の矛先を変えようと師匠を呼んだ。

「陛下、皇帝陛下! あそこに自動販売機がありますぞ!」

 花野ミツは、これにもすかさず反応する。

「あれが『自動販売機』だって、どうしてわかったの?」

「そ、それは……相棒から説明されていたからです」

 無垢であどけない少女を演出しようとするかのように、花野ミツは軽く唇を尖らせて手を腰の後ろに回す。

「ふうん、相棒さんはこっちの人なんだっけ。じゃあ、自動販売機くらい知っててもおかしくないか~」

 と、納得したのはもちろんフリで、彼女の目玉がぎょるんと大きくむかれた。

「で、相棒さんは、これをどういうふうに説明してくれたんだ?」

 もはや演技など忘れて、声音もすっかりいつも通りの冷たさに戻っている。こうなれば彼女の言葉はもはや剣――俺の心を斬り刻もうと襲い掛かる、太くて剛健な大刀なのだ。

「機械文明の全く存在しないファンタジー世界の住人に、一目見ただけでこれほど正確に『自動販売機』だと認識できるだけの情報を与えられるとは、あんたの相棒さんはすごいな」

「いや、こんなの、鉄でできた赤い箱っていえば、大体わかるでしょ」

「レクターになりきれ。お前の世界で『鉄でできた赤い箱』と言われたら、何が真っ先に思い浮かぶ?」

「う……なんか、赤く塗った宝箱みたいなのとか……」

「逆からも考えてみよう。あんたはここで自動販売機というものを知った、これを自分の世界の住人たちに、どのような言葉で説明する?」

「赤い……色で、街に立ってて……ジュースが出てくる?」

「それを聞いたそちら側の住人がこれを見て、これが『自動販売機』だとわかるかな?」

「赤い色で、街に立ってて、ジュース……あ!」

「そうだ、気づいたようだな、見ただけではジュースが出てくる機能までは推測できない」

 俺の心を刈り取ろうとする大剣が巻き起こす風が、耳元でずおっと音をたてたような気がした。さらに師匠が、細いレイピアを俺たちの会話につきこんでくる。

「娘子よ、この珍妙な箱は何じゃ?」

 今まさに、俺を切り刻もうとしていた大剣をひるがえして、花野ミツは甘い声を出した。

「あ、皇帝陛下様、これが気になっちゃう感じですぅ?」

「うむ、気になる。良く見ると文字がいろいろ書いてあるようだが、これは何と読む?」

「『つめた~い』ですよ、陛下。この中にはねえ、冷たい飲み物がいっぱい詰まっているんです」

「なんと、それは豪勢な! では、一杯馳走になろうか」

 ここで、師匠のレイピアは的確に俺の急所を突いた。彼女は飾り窓に並んでいるジュースの見本には眼もくれず、もちろん財布を取り出すでもなく、ただ突っ立ったままで花野ミツに向かって言ったのだ。

「では娘子、冷たい飲み物をここへ」

 それは全く物を知らぬがゆえの無挙動であった。

 飾り窓に見えている見本が『ジュース』を意味するのだと知っていたならば、きっとそこを指さして好みの商品を選んだことだろう。しかしファンタジー世界であれば果実を絞った『ジュース』は存在しても、それが缶にパッケージングされてこのような形で販売されているとは思いもよらないはずだ。

 それゆえに、無挙動。

「ぐ、そ……そうか」

 がくりと往来に膝つく俺に向かって、師匠はさらに容赦なく言葉のレイピアを突きこんでくる。

「わかったかな、弟子君、だから君の小説の主人公は『お人形さん』なんだよ。生きている人間は作者の都合通りには動いてくれない」

「ぐはぁ!」

 いまのはかなり深くえぐられた。しかし俺にも創作者の端くれとしての意地がある。

「いまので、要領はだいたいつかめました。もう一度、もう一度仕切り直しを!」

 折れかけた心を引きずりあげ、実際に片膝をあげて懇願する俺を見て、花野ミツは感嘆の声をあげた。

「へえ、根性なしかと思ったら、これはなかなかに……」

 師匠は得意げに鼻先をあげる。

「ま、私が弟子にと見込んだぐらいだからね!」

 この言葉を聞いた花野ミツは、俺と視線を合わせるために自分も片膝をついて身を屈める。俺の鼻先すれすれに、彼女の長い黒髪がさらりと流れ落ちた。

 ただし、言葉はひどく物騒で。

「ここからは手加減なしだ。私をつぶすつもりでかかって来い」

 それだけを言うと、彼女はすいっと立ち上がり、師匠の腕をとる。

「皇帝陛下~、この先はミツがご案内しますから、しっかりついてきてくださいね」

 すわ、皇帝陛下の貞操の危機!

 しかし、先ほどからの失敗を鑑みるに、無策で突っ込むのはあまりにも危険だ。俺は思考をめぐらせる。

(考えろ、考え抜くんだ)

 レクターは理知的で思慮深い男である。しかし男女の間については少々疎いところがあり、しかも相手は今日初めて出会った少女であるのだから、腕を組むぐらいのことに下心があるとは見抜けまい。

(不敬ではあっても、これが異世界式なのだと納得するはずだ)

 つまり咎めの言葉もなし。俺は無言で二人の後ろを歩く。

 花野ミツの方は、そんな俺をちらりと見やって、さらに大胆なアプローチを試みる。

「ねえ、皇帝陛下様ぁ、慣れない世界に来て疲れちゃった? あそこで休憩しちゃう?」

 彼女が指さしたのは某テーマパークのナントカ城のように洋風の城を模した建物、その上にはいかがわしいピンクを基調とした看板がでかでかと掲げられており、もちろん俺は、これがなんの建物であるのかを良く心得ている。

 つまりラブホテル。

(しかし、レクターは異世界人だ)

 朴訥としたファンタジー世界の住人である彼の目には、いかにも城を模したこの建物がどう映るのか……。

「ほう、これは立派なお城ですね、どちらの領主のお住まいですかな?」

 俺が答えると、花野ミツが小さく舌打ちした。どうやら俺の返しは正解だったらしい。

 調子に乗った俺は、さらに続ける。

「わが主が他の領主に表敬訪問をするというのならば、従者である私も当然、付き従わなくてはなりませんね」

 師匠は両手を打ち鳴らして大喜びだ。

「いいね、いい! レクターって、確かにそんな感じ!」

 俺の調子はさらに加速する。

「そうだ、あなたは皇帝陛下なのですから、訪問するに手ぶらというわけにもまいりますまい。先にイオ○へ向かい、そこで手土産を探したほうがよいのでは?」

 ついに花野ミツが「うぐぐ」と唸り声をあげた。

「う~、八十点」

「は?」

「確かにあんたはレクターの本質を見抜こうと思考した。だから八十点」

「残りの二十点は?」

「セリフが生きている人間の言葉じゃない分の減点だ。もっともそれはキャラクターの本質を見るのとは別の話だから、お師さまに解説してもらうがいい」

 ならば師匠はと見れば、花野ミツに片腕を取らせたまま、嬉しそうにニコニコしている。

「いいねえ、いいねえ、とんだダメ弟子かと思ったけれど、なかなかどうして、呑み込みが早いじゃないの」

 俺は少し照れてぶっきらぼうに反す。

「そりゃどうも」

「で、なんだっけ、セリフが生きてる人間の言葉じゃないってのを説明すればいいの?」

 花野ミツがゆらゆらと体をくねらせる。

「ですです~、お師さま、こんな奴、ぎゃふんと言わせちゃってぇ~」

 師匠はコホンと軽く咳ばらいをして、もっともらしく解説を始めた。

「え~と、弟子君、あんたの言葉には会話では本来言語化されない情報が多すぎる」

「言語化されない?」

「そ、さっきの甘栗屋さんの前でもそうだけどさあ、本来なら言語化されない情報をわざわざ言語化しちゃうのって、すごく嘘くさく見えちゃうわけ。だから創作者は、本来の人間の会話というものがどういうものなのかを意識して書くべきなのよ」

「え、え? よくわかりません」

「ん~、甘栗屋の前で、みっちゃんのことを『姪っ子』って繰り返し呼んだよね?」

「はい、あれは聞いた人が『ああ、叔父と姪なんだな』って理解しやすいように言ったんですけど」

「ん~、逆、逆。あれのせいで『こいつ、叔父姪だと思い込ませようとしているな』って、みんなに警戒されちゃったんだよ」

 師匠は腕に縋りついた花野ミツの頭を撫でる。

「それに対して、みっちゃんは上手だったねえ」

「えへへ~、もっと褒めていいですよ、お師さま♡」

 ひとり納得のいかない俺は、師匠に詰め寄るように一歩を進んだ。

「わからない! ちゃんと俺にもわかるように説明してくださいよ!」

「だからあ、本物のおじさんは自分の姪っ子と会話するのに『これは僕の姪っ子』なんてアピールをするわけがないんだって」

「いや、するでしょ、だって誰かに紹介するのに、『これは僕の姪です』って、普通に言いますよね?」

「そうだねえ、誰かに紹介するときには、そうだねえ」

 師匠は呆れた顔だ。そして必殺のひとことを。

「だけど、あのときあんたが会話している相手は周りに集まった野次馬じゃなくて、『姪』本人だったんじゃないの?」

 花野先生のご期待通り、俺は声をあげる。

「ぎゃふん」

「逆にみっちゃんは、あんたが初対面の怪しいおじさんであるという態度を崩さなかった。良く思い出してごらんよ、みっちゃんは特に説明するような言葉を使った?」

「うう。使わなかった……」

「そう、下手したら細かいセリフなんか覚えていられないぐらいさりげない言葉だったよね。でも、みっちゃんの態度は覚えているんじゃない?」

「態度……」

「それこそがセリフよりも雄弁なるものなのだ」

「ぎゃふん」

「さっきの私に対するセリフも同じ、皇帝陛下を前にして、その本人に向かって『あなたは皇帝陛下なのですから』なんて珍奇なことを言うかねえ、自分が皇帝陛下であるということを誰よりもよくわかっているであろう相手なのに?」

「それは、近くにいる異世界の少女にもこのお方こそが皇帝陛下であるぞ~って知らせるための……ごにょごにょごにょ」

 所詮は言い訳、俺の言葉は即座にはねのけられる。

「なんで知らせる必要があったのさ」

「ぎゃふ……」

「あの場で、レクターが会話していた相手は誰? 皇帝陛下じゃないの?」

「……」

 ついにぐうの音すら出なくなった俺は、黙って下を向いた。その時に視線の端に一瞬だけ映った花野ミツは勝ち誇ったような表情で、これが異常にむかつきはしたのだが、いまの俺にはそれに反撃するだけの気力がない。

「つまり、あんたの小説の登場人物はさ、会話をしてるんじゃなくて、読者に向かって作者が用意したセリフをしゃべらされているだけなんだよ」

 師匠の言葉にも、黙って頷くことしかできない。内心では、細いレイピアを喉元すれすれに突き付けられて逃げ場を失ったような気分だ。

 しかし、師匠の攻め手は容赦なく俺の急所に切っ先を当てるかの如く。

「てかさ、作者本人すら誰と誰が会話しているのか理解していないのに、『読者なら読め、そして理解しろ』って、すっごく不遜だよね」

 細いレイピアとはいえ、急所を突かれればそれは致命傷となるわけで……俺は情けなくも自分の顔を両手で覆って泣き出してしまった。

 不意にうろたえたような師匠の声。

「ご、ごめん、やりすぎちゃった?」

 それに続くのは花野ミツの声で。

「ああ、お師さま……相変わらずの無自覚ドS……ミツにもして♡」

 ぬっと、師匠の顔が俺の鼻先に現れた。師匠自らひざを折って、俺の顔を覗き込んでいるのだ。

「ごめん、私、文章のことになると手加減できなくて……」

 これに俺が反すのは無言。というか、何かを答える余裕すらないというのが正直なところだ。

 しかし師匠は思った以上にうろたえて、俺の背中をさすったり、片手をとって引っ張ったりと大騒ぎだ。

「ご、ごめん、ほんとうにごめん! 今日の文章の修行はこれで終わりにするから、ね?」

 この言葉に飛び上がって喜んだのは花野ミツの方だ。

「え、終わり? やったあ、じゃあ、お師さま、この後はミツとイオ○デートしましょうよぉ」

 師匠の声はいまだ狼狽を含んで震え、花野ミツを叱りつける。

「みっちゃん、いまはそんなこと言っている場合じゃないの。弟子君がこれで折れちゃったりしたら……」

「え~、ほっとけばいいんですよぉ、ミツはこいつ嫌いだし、つぶれてくれるなら万々歳だもん」

 ここで負けては男が廃る。俺はありったけの気力を振り絞って顔をあげた。

「まだだ、まだおわらんよ!」

 師匠の心底ほっとした顔が視界に映る。俺はそんな師匠に向かって片手でサムズアップ! さらに微笑んでも見せる。

「このくらいじゃあ、俺はつぶれませんよ。もう、大剣でもレイピアでも持ってきやがれってんだ!」

 幾度かうなずいた師匠の目じりが濡れているように見えるのは、けっして光線の加減などではない。

「うん、うん、それでこそ私が弟子と見込んだ男だ!」

 師匠がまなじりを拭うから、俺はさらに明るい声を張り上げた。

「まあ、今日の修行はここまでってのは賛成です。何しろここが目的のイオ○、確かにこの店内を異世界人が歩き回るってのも、ちょっと周りからオカシイ人だと引かれちゃいますからね」

 そう言って目をあげれば、高架駅を背にそびえたつこじゃれた四階建てのビルが見えた。

 そう、これが本日の目的地、イオ○!

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