◆◆◆ 閑話・2◆◆◆ 「俺の肋骨をバリバリと裂いて」

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 初めて、その人を全身で抱きしめた時思った

 今、この腕の中に閉じ込めているものを

 このまま

 俺の肋骨をバリバリ折って、そのまま胸から下まで裂いて

 俺の体の中に、全部、入れちまいたいと


 喰いつくしたいんじゃない

 この小さな体を、俺の中にそのまま

 俺のどうでもいい内臓の代わりに納めてしまいたいんだ

 もう俺たちが死んでも燃やされても離れないように


 だけど

 他の奴らはこの人の姿が見えなくなって訝しむだろう

 だから、これは実現不可能な夢だ

 何より

 この街はこの人がいなければ滅んでしまう

 それは困る

 何でって?

 それは、俺もこの街を滅ぼしたくはないからだ

 でも

 それでも望まずにはいられない

 ああ、俺の肋骨をバリバリと裂いて……







 カイエンがイリヤと関係を持った始まりは、彼女が二十一でイリヤが三十の時だった。

 後になって思い出してみれば、あの年は正月一日にイリヤがカイエンを庇って、腹を刺されて死にかかったのに始まった。

 その後も、皇帝オドザヤの秘密出産やら何やら、カイエンら大公軍団にとっては、とんでもないことが続いた年だったのだが、イリヤにしてみれば、結果的には彼の生き方が何度目かに変わった年でもあった。

 確か、あれは二月の終わりだっただろう。


「じゃあ、今日の夕方ね! 意地でも仕事終わらせてここに戻ってくるからねっ。殿下ちゃんは、ここで俺っちをちゃんと待っているんですよぉー」

 ほら、約束、とばかりにイリヤはカイエンの手を取ると、その甲に口づけを落として一旦仕事に戻った。

「殿下には俺から、ちゃんと話したいこともあるの。だから、ちょっと遅くなっても必ずここに戻るから、待っててね!」

 そこまで言われれば、カイエンももう、うなずくしかなかった。イリヤの様子からは、明らかにその「話したいこと」とは彼ら二人の今後の関係に明るい未来を提供するものに違いなかったからだ。

「……わかった。ここで待っている」

 そうして。

 生真面目素直なカイエンは、夕方、律儀に執務室へ戻り、同じように戻って来たイリヤから聞かされたのだ。イリヤがアキノと、獣人の村プエブロ・デ・ロス・フィエロス出身の大公軍団の外科医から聞いて来た話を。

 それは、普通の男だったら、好きな女に喜んで言える話ではなかった。悲しむべき、忌むべき運命の話だっただろう。少なくとも、彼らの相手が普通の女であったなら、それでも一緒になろうと言える者は少なかったに違いない。だって、男の方には女に子を産ませる事が出来ない、という告白だったのだから。

 もっとも、大公宮の執事のアキノと、そしてカイエンの乳母だったサグラチカとの結婚のように、「稀な一例」もあることはあった。だが、イリヤに語ったアキノの告白にあった通り、アキノの体に蟲があり、子を得られないことを納得ずくで結ばれた彼ら夫婦であっても、悲しい過去があったのだ。

 カイエンはもちろん驚いたが、イリヤがもったいぶって話そうとした理由も同時に理解できた。

 カイエンとイリヤの場合には、この普通なら悲しむべきイリヤの話が、彼ら二人が体を繋げ合うことを、危ないところで抑え止めていたくびきから自由にするものだったからだ。

 子を孕むことは出来るが、蟲を生来体に宿し、通常のそれよりも大きな蟲によって、脆弱な体を生きながらえさせているカイエンには、自分の子を胎内で育てることが出来ない。だからこそ、シイナドラドでエルネストとの間に出来た……恐らくは「娘」は、妊娠初期に流れてしまった。

 皮肉なことに、カイエンにとっては彼女を妊娠させる可能性のある、普通の男と添うことは、幾度もこの「悲劇」を繰り返す可能性があり、彼女の人より弱い体にダメージを与え続けることになりかねなかった。

 そういう意味で、獣人の血を引くヴァイロン……人間との間には子を成せぬ彼との関係は、子という実りこそ期待できないが、お互いに苦しまずに添うていける関係だった。

 そして、ここにイリヤもまたヴァイロン同様にカイエンと共にあれることが判明したのだ。

「だからね、殿下。俺たちを止めるものはもう、なーんにもないのですよぉ」

 そう、にっこり微笑んで言ったイリヤは、芝居がかった様子で執務室の椅子に座ったカイエンの前にひざまずき、手袋をしたままのカイエンの手を、押し戴くようにして見せた。

 万事大げさなイリヤとしては、この行動は普通のものだったのかもしれないが、カイエンの持った印象はかなり違っていた。

 だから、この時、イリヤの最高の微笑みをプラスされた美貌は、カイエンの印象にはちっとも残らなかった。

 カイエンには、今から始まるのだろう、イリヤとの「関係」への期待よりも先に、それまでの三年近く、頭にこびりついて離れなかった、あの「場面」への回答を得た確信があったからである。


 カイエンが頭の中で想起していたのは、三年前、

(おまえはグスマンの側か? それとも私の側か?)

 と、ヴァイロンを後ろにして問うたカイエンへの返答として、イリヤが彼女の前でひざまずき、あの時は手ではなくて彼女の靴の足先を、いとも簡単にその手に取った時のことだった。

 あの時も今も、イリヤはカイエンを、自分の「主君」とするような感情など持ってはいない。それだけは間違いない。それは、靴のつま先を押し頂いて、彼が続けた言葉に端的に表れていたからだ。

(俺は大公殿下の軍団の軍団長ですよ)

(俺は殿下の父上なんかどうでもいいです。グスマンさんにはまあ、軍団長を譲ってもらった恩はありますが、それもどうでもいいですね。もう、俺は軍団長になっちゃったし。今、俺たちの俸給をくださっているのはあなた様ですから。あなた様、ハーマポスタール大公、カイエン様ですから!)

 あの時は、まさかイリヤが初めて会った日からずっと、カイエンのことを想っていたなどとは、その言葉からは想像さえ出来なかった。イリヤはあの瞬間まで、上手に自分の本心を隠していたのだ。

 いや、今になって思えば、イリヤの本心はあの言葉によって、初めてこの世に公開されたと言ってもいい。

 だが、あの時のまだ十八で、ヴァイロンと無理矢理に添わされたことによって始まった、気持ちは後付けの男女の関係しか知らなかったカイエンには、イリヤの言葉の裏の意味は分からなかった。

 あの時の言葉からして、イリヤはカイエンを「主君」などとは思っていなかった。いや、今も思ってはいまい。それだけはあの時のカイエンも理解できた。

 あの時の、あの言葉通りに取れば、イリヤにとってのカイエンはただの金主だ。あの時のカイエンはもちろん、イリヤの言葉を、

「お前なんかいくら高貴な生まれでも、俺がいなけりゃ何もできないお姫様だ。ただの金の出所でしかないよ」

 という意味で受け取った。ひざまずいて靴の先を手に取ったのは、「お姫様」という部分を強調しているのだとしか思えなかった。

 そして、「自分の忠誠は金で買える」と、わざわざ言ってのけたイリヤを、恐ろしいと思ったのだ。

 カイエンはそういうイリヤと、想い合う女と男として相対した三年後の今、今度は自分の手を大仰に押し頂いているイリヤを見て、やっとあの時のイリヤの行動と言葉の意味が分かった気がしていた。

 三年前、ヴァイロンの前で、カイエンの靴を押し頂いた時のイリヤが見ていたのは、実はカイエンではなくてヴァイロンだったこと。カイエンの靴先とはいえ体に触れることによって、そして、俺はお前の軍団長だ、俸給さえくれればいつまでも味方する、と告げることによってイリヤが言いたかったこと。

 それは、自分がいなければ、大公軍団は成り立たないという自信。つまりはカイエンが大公であろうとする限り自分は離れて行かないと言っていたのだ。

 そして、カイエンが大公軍団を自ら操ろうとするなら、まずは自分を納得させてみろ、という宣戦布告だった。これも、カイエンをアルウィンまでの歴代の形だけのお貴族大公にはさせない、いつでも自分に命令するところに置いておくぞ、という意味に取れるのではないか。

 ただ、それを口で言うだけではなく、ひざまずき、カイエンの靴の先を手に取り、口付けするように顔を寄せて、イリヤは言い切って見せたのだ。あれは、言葉だけでも仕草だけでも十分ではなかっただろう。

 二つが一緒になって、イリヤが話した言葉の裏の裏で言っていたことは、ただ一つ。


(俺はあんたを逃さない)


 今思えば、あれはそういうことだった。

 そこまで、回想して、カイエンは同時に理解した。

 あの時、一緒に聞いていたヴァイロンには、はっきり分かっていただろう、ということを。だから、ヴァイロンはカイエンの後ろで、イリヤを殺しそうな殺気を放っていたのだ。あれは、そういうことだったのだと。

「……厄介な男ばかりだな。私を見込むのは」

 にこにこと満面の満足げな笑顔……喉を撫でられている猫のような風情で、カイエンの手を撫でまくっているイリヤの上に、やっと注意を戻してきたカイエンは、そうとでも呟くしかなかった。

 

「じゃあ、俺ん家へ行きましょかぁ」

 カイエンの手を握ったまま、イリヤがすっくと立ち上がったので、カイエンは目を白黒させた。

 今日、イリヤからここで待っているように言われた時から、覚悟はできていたが、まさか、イリヤの宿舎の部屋に誘われるとは思っていなかったからだ。

「大丈夫よぉ。ちゃんとアキノのおっさんには話してあるから。夜のお食事はなんと、俺っちのお部屋に運んでおいてくれるってぇ。贅沢ぅ〜。暖炉の火も起こしといてくれてるはずだから、ね。明日は殿下ちゃんも俺っちもお休みにしてくれるってさ。話の分かるおっさんで助かったわねぇ」

 そう言いながら、もうイリヤは自分が着てきた皮の外套を肩に掛けると、カイエンの黒檀に銀の持ち手のついた杖を自分が手にしてしまっていた。

「近くだから、歩いていく? それとも、もう疲れちゃった?」

 まだ執務机の椅子に座ったまま、呆然としているカイエンの顔を覗き込むようにして、イリヤは見たことがない優しげな顔つきで微笑むのだ。

 実のところ、イリヤの心の中では「獲物をしっかり捕まえて、と」という感じの、どう料理して食ってやろうか、という舌舐めずりする獣のような気持ちが渦巻いていたのだが、その美麗な顔にはそんな卑しげなところは微塵も見えない。

 カイエンの方も、もうイリヤの微笑み攻撃などに騙されることはなかったが、この時はまったく違うことを考えていたので、ろくに気が付きもしなかった。どうも、カイエンへのイリヤの微笑み攻撃は大概が不発に終わるようだった。

 この時も、イリヤはカイエンの目の座ったおかしな表情に気が付くと、すぐに笑いを引っ込めた。

「……本当にもう、クッソ真面目ねえ。ちゃーんと知ってるから! ヴァイロンさんとはもう仲良しに戻ったんでしょ? だから、気まずいっての? まー、今夜、ヴァイロンさんは多分寝られないだろうけど、すぐに慣れるわよ。まあ、殿下ちゃんが嫌なら、俺はスゴスゴ一人で帰るけどねぇ」

 イリヤがカイエンを「殿下ちゃん」などと呼び出したのは、多分、二人の気持ちを互いに認め合ってからしばらくしてからのことだ。人前でも恥ずかしげもなくそう呼ぶようになったので、しばらくカイエンは恥ずかしくてたまらなかった。

「……嫌じゃない」

 その声は、いつもの彼女よりももっと低い声だった。

 カイエンがぐっと顔を上げ、灰色の目でイリヤの鉄色の深い沼のような目を見返すと、イリヤは口を尖らせた。美形というのは恐ろしいもので、剽軽に口をとんがらかせていても美しさに増減はないから不思議だ。

「あらそう。じゃあ、嫌じゃない自分に抵抗があるってことかぁ。女のコらしいけど、殿下ちゃんが今さら、普通の女のコぶったって、あんたに引っ掛かった男どもは、あんたに絡みついて離れないわよーだ」

「えっ?」

 イリヤはもう、それ以上は説明するつもりはないらしく、カイエンの腰に手を回すと、さっさと自分の右脇に抱え込んでしまった。

「さ、俺っちの右手に捕まって! 後はお部屋で仲良くしながら話しましょ」

 そうして、カイエンはイリヤとの初めての夜を、彼の宿舎の部屋で迎えたのだった。 


 今までにも、カイエンが子供の頃に使っていた部屋で療養中のイリヤのところへ、銀時計を取り戻しに言った時から何度か、この執務室でさえもカイエンはイリヤにかなり際どいところまで体を暴かれていた。

 ザイオンの外交官官邸での仮面舞踏会でさえも、潜入捜査の仕事中だというのに、裏庭のあずまやで、「いかにもなりたての恋人」然とした行為を仕掛けてくるイリヤには逆らえなかったくらいだ。

 ヴァイロンへの遠慮……というか、申し訳なさのような後ろめたさを感じつつも、初めて自覚した気持ちの強さは如何ともし難くて、カイエンはきっぱりと抵抗することなどできず、イリヤの側が自制してくれなければ、とっくに男女の仲になっていておかしくはなかった。

 ヴァイロンの方は、銀時計のことと、カイエンの不審な態度からすぐにイリヤとカイエンとの間の変化に気が付いた。そして、イリヤの病室に乗り込み、そこへカイエンが追っ掛けてくるというあの一件があって、不承不承ではあるものの、カイエンの気持ちを尊重しようという凄まじく「大きな心」でイリヤごと「飲み込んで」しまったようだった。

 イリヤが、「カイエンが嫌がったら抱かないであげて」と言ったのにも、ほとんど怒りさえせずに従ったのだ。

 もっとも、カイエンの様子を観察しつつ、ヴァイロンが大人しくしていたのは、ほんの一週間ばかりのことだった。

 イリヤとの気持ちが自覚されたのちも、慣れとは恐ろしいもので、カイエンは普通にヴァイロンと同じ寝台で寝むことを変えようとは思わなかった。ヴァイロンがいつものように求めてきたら、自分はどうするんだろう、と思ってはみたが、どう考えてみても嫌ではない自分がいるだけだったのだ。

 こればっかりは、さすがにカイエンも自分はちょっと女としておかしいのかも、と思ったが、サグラチカや女中頭のルーサはもちろん、女騎士のナランハやシェスタにも相談できなかった。

 女友達、と思ってみても、顔が浮かぶのは大公軍団の隊員であるトリニやブランカ、イザベルにロシーオ、ルビーなどの顔だった。ロシーオなら息子さんもいるし、それも結婚しないまま産んだことを聞いていたから、相談できるかも、と思った。だが、カイエンもロシーオも仕事に追われていたし、ちょっと考えても彼女らは皆、一時に二人の男を同時に、同じように愛していた、などということはなさそうだった。

 最後の綱は元高級娼婦のアルフォンシーナだったが、こちらはカイエンの方が遠慮する気持ちになった。アルフォンシーナにとって、男女のこととは色恋よりも「商売」、肉体の切り売りの方を想起させるものかもしれず、そんなことになったらと思うと、口にはできなかった。

 そんなわけで、誰にも相談できずにいるうちに、一週間ほどがたった頃にはもう、ヴァイロンは遠慮がちにではあったが同じ寝台に寝ているカイエンに、どんどん接近してきたのだ。

 最初は静かに隣に寝ているところから、寝ているうちに体に前のように太い腕が絡むようになり、いつもこれだけは欠かさなかった、朝の口付けが深く口腔内で舌を絡め合うものになっていき……。

 羽布団と毛布の下で、そっと寝間着越しに体を撫で回され、後ろから耳元に「欲しい」と囁かれれば、カイエンは逆らえなかった。

 そんな形で、ヴァイロンと最後に抱き合ったのは、つい三日ほど前のことでしかない。

 それなのに。






「はい、ここが俺っちがもう、五年以上棲んでいる、独り者専用のお部屋でーす」

 イリヤの部屋は、大公宮での奉公が長い独り者ばかりの住む、石造りの二階建ての建物の二階の一番奥だった。

 そこへ着くと、イリヤはわざとらしくそんなことを言いながら、分厚い樫の扉の鍵穴に鍵を差し込んで開けた。そして、カイエンを先に中へ入れ、自分も部屋に入り、扉の鍵を内側から掛けるまでは、イリヤは普段通りの彼だった。

 だが。

 カイエンが、入ったその場所がいきなり居間になっていて、もうランプには火が入っており、暖炉にも赤々と薪が燃えているのを見たな、と思った時にはもう、背中と腰にイリヤの腕が回っていた。

「えぇ?」

 カイエンとイリヤとでは、ヴァイロンとのそれほどではないが、かなり身長も体格も違う。

 いきなりの行為に、カイエンが何もできず、びっくりしているうちに、腰をすくい上げられ、イリヤの胸元に抱き上げられていた。

 一瞬だけ見えたのは、イリヤの、さっきまでの明るい表情とは一変した、ひやりと背筋が寒くなるような、凍りつくように冷たく、固まった表情だった。

 だが、カイエンはもうイリヤの顔も見えなかったし、口もきけなかった。いきなり、唇を奪われたからだ。

 がちっと前歯が当たる感触がしたのは、一瞬でしかなかった。驚きからしばらくして、カイエンの体からはすぐに力が抜けて行ってしまい、とっさに掴んだのは、イリヤの黒い冬の制服の毛織物の上腕の辺りだった。

 イリヤとは今までも、彼の療養していた部屋や、執務室で口付けは交わしている。イリヤの方は襟元一つ寛げることも無かったが、カイエンの方はかなりきわどい部分まで愛撫を受けてもいた。カイエンは燃え立つような強烈な感覚とその先への期待の中で、「何をこんなにがっついているんだ? まるで御預けを食った後のヴァイロンみたいだ」などと思い、余裕もあったのだが。

 それでも、居間から奥の寝室へ運ばれて、どざりと寝台の上に寝かされた時には、ちょっと焦った。寝台は意外に広く、それだけはカイエンの目に入ったが、それ以外の部屋の様子は全然、見えなかった。

(……後はお部屋で仲良くしながら話しましょ)

 イリヤはそう言っていたし、アキノにも知らせてあって、夜の食事もこちらに運び込まれているはず、と言われていたのに。

 名残惜しそうに、カイエンの唇を最後にぺろりと舐めてから離れたイリヤは、もう、カイエンの制服の大きな濃い赤を秘めた最高級の紫水晶のボタンを外しにかかっており、あまりに性急じゃないか、と抗議しようとしたカイエンはふっと目が合ったイリヤの表情を見て、何も言えなくなってしまった。

 そこにあったのは、完全な無表情。

 ああ、とカイエンは納得する思いがした。

 イリヤの表情なら、愛想だけの心のない微笑みから、つまらなそうな、どうでもよさそうな表情、罪人を拷問している時のなんだか生き生きして心底楽しそうな恐ろしい悪魔の微笑みまで、一通り見たと思っていた。

 だが違った。

 カイエンはヴァイロンの怒りの顔は見たことがあった。だが、イリヤの人を馬鹿にしたような表情や、「微笑み」以外の表情を見たことがあっただろうか。

 ない。

 でも、カイエンには一瞬で分かった。

 今、イリヤはどうしてだかは知らないが、ひどく怒っているのだと。

 怒りは表情だけでなく、彼の全身から発せられているようで、カタカタと肩から背中に震えが来そうだったが、カイエンは必死で耐えた。頭の反対側で、こんな表情をあからさまに他人に見せるなど、普段のイリヤならばあり得ない、と思い付いたからだった。

 きっとこれは、カイエン相手だから、心をいつもの様に鎧うことなく、見せて「しまっている」のだ。いや、今のこの事態がそうさせているのかもしれなかった。彼にとってもこの初めての場面は、普段は決して見せない一面を無意識に晒すほどの激しい感情を伴うものだったのだ。

 カイエンにも、それはなんとなく理解できた。でも、カイエンはもうそれ以上、イリヤの何の表情もない、「無」の顔、直接に自分へ向けられたのではないかも知れないけれども、明らかな負の感情に耐えられず、目をつぶってしまった。

 ヘソの曲がったイリヤのことだから、愛している、と言われて抱かれるとは思っていなかったが、こんな恐怖を味わわされるとは思ってもいなかった。

 着ていた制服がすべて奪い取られてから、カイエンはこの寝台のある寝室の寝台の横の小卓の上のランプと、暖炉にも火が入れられていることに気が付いた。その炎の赤を背景に、イリヤは今度は自分の制服を脱ぎ捨てていく。

 その時になって、カイエンは思い出してしまった。

 それは、シイナドラドで、最初にエルネストに挑み掛かられた時の記憶だった。それは今でもカイエンの心の傷になっていた。

 怖い。

 イリヤの初めて見せた表情はまだ我慢できた。でも、その後の行為から蘇って来た記憶の方はだめだった。恐怖は、カイエンの体を勝手に動かした。

 いや、と叫んだのか、ただ意味のない音が喉を鳴らしたのかは分からない。

 寝台の上から逃げ出そうとしたカイエンだったが、足に力が入らず、寝台から真っ逆さまに落ちそうになる。

 そこでイリヤが我に返ってくれなかったら、彼ら二人の関係はそこまでだったかもしれない。

「……危ない!」

 カイエンを、ぎりぎりのところで寝台の上へ引き上げたイリヤは、もう無表情の怒りを帯びてはいなかった。

「ああ、ああ。乱暴にしちゃったね。……ごめん……ごめんね。ちゃんと俺、分かってるつもりだったんだけど……あれじゃ、殿下ちゃんには怖かったね。嫌なこと、思い出させたんでしょ。ほんとに、ごめんねぇ、ね、許して。今度だけ。……もう、二度としないから」 

 抱き上げられ、まだ髪を結い上げたままで露わなうなじのあたりに口付けられる。イリヤは思い出したようにカイエンの束ねられた髪を解くと、カイエンの背中を優しく撫で、腰まで覆う長くて豊かな紫色の髪のひと房をすくい上げて、口付けした。何とかカイエンの恐怖を和らげようとしているのは、勿論、カイエンにも分かった。

 カイエンはそこまで来てやっと、込み上げて来た涙と一緒にやっとまともな言葉が口から出た。

「……なに、何に怒っているんだよっ!? いきなり、あんな、あんな顔見せられたら、怖いに決まってるだろっ!」

 きっとして、イリヤの手を振りほどき、膝立ちでイリヤの方を振り返る。

 本人たちは大真面目だったが、その様は、他人が見ればかなり滑稽な図だった。

 カイエンは振り返ってイリヤの顔を見た途端、そこに、これまた今までにカイエンが見たことのない表情をまたしても発見し、びっくりした。

「あのさ。殿下ちゃんが銀時計を取りに俺の寝ている部屋に来た時、俺、『ずっと、こうしたかったんだよねぇ』って言って、殿下ちゃんを抱きしめたよね」

 そう言うイリヤの顔あったのは、苦笑い。

 そんな、普通なら五年以上も付き合いがあるのだから、とっくに見たことがありそうな表情。だが、それはカイエンが初めて見るものだった。

 イリヤはカイエンの質問に直球で答える気はないようで、彼の言葉はそのまま彼のペースで進められていく。

 カイエンはちょっとイラっとしたが、イリヤの性格や、仕事以外の時の、特に二人きりの時の話の進め方には慣れてきていたので、我慢してそのまま聞くことにした。

「俺が殿下ちゃんにやられたのは、もう六年前だったっけか? 殿下ちゃんが大公になってすぐに、殿下ちゃんの執務室に呼びつけられた時なんだよね。うわ、あの怪物アルウィンにそっくり! って思って、でもこの子は女の子だよな、小さいし、って思って。その次に殿下ちゃんの目を見ちゃったの。で、『あ。目の色は同じ灰色なのに、この子の目はきれいだな。あいつとは全然違う』って認識した途端に、もう、意味もなく頭に血が上って、その場で押し倒して、俺のものにしたくなった……しなかったけど。なんだろね、あれ。あの支配的な怪物アルウィンの女版に見えて、こっちなら征服出来るとか思っちゃったのかなぁ。まあ、どっちにしろ、あれは恋とは言えなかったね。でも、あれが、あの怪物アルウィンと同じ、殿下ちゃんには迷惑なだけの執着の始まりだったんだなぁ」

「えええっ!」

 このものすごい告白には、カイエンは今のこの状況も忘れて後退った。

 どうして自分の周りに迫り来る男どもは揃ってみんな、自分に執着し、こういう異常なことを考える輩ばかりなのか、と思えば、げんなりしそうになる。

「あの時、殿下ちゃんのそばにシーヴが居てくれて助かったわ。あそこでやっちまってたら、当然、殿下ちゃんは俺が大嫌いになったろうし、そもそも、俺は首飛ばされてたよね。例え話じゃなく、実際の首がねぇ」

 それはそうだろう。

 カイエンは思った。あの時の自分はまだ十五だった。もう背丈は今と同じだったが、心も体もまだ未熟な少女だったのだ。十八の時、ヴァイロンと皇帝の命令で無理やり添わされた時は、頭だけとはいえ、もう十分な性知識もあった。それに、ヴァイロンの方が気の毒でもあり、なんとか冷静にやってのけたが、十五のあの時、いきなり襲われていたら、半狂乱になっていたかもしれない。

 いや、二十一になった今でも、いきなりの無理矢理は断固、拒否する。そんなのは当たり前のことだ。

 だから、あの時だったら執事のアキノがまずイリヤを許さなかっただろうし、あの時はまだイリヤはアルウィンの命令で桔梗星団派の「盾」の頭だったのだから、アルウィンとグスマンに消された可能性さえある。

「ま、あの時は殿下ちゃんには『好きな子いじめ』してごまかしてさ。でも、ヴァイロンさんが先帝さんの命令で男妾にされた時は、もう、どうにかしてアイツ、ぶっ殺す、って思ったわけよ。俺の殿下ちゃんの初めて、上手いこと奪いやがって、って思ってさ。あの時はアキノのおっさんに粘着して、何とか納めたなぁ」

 この言葉には、カイエンは赤面するしかなかった。先ほど、イリヤが怒りを飲み込んでカイエンに挑みかかって来た理由が、なんとはなしに分かって来たからでもあった。

「もう、怖くないでしょ。こっち来てよ。お腹空いてるかもしれないけど、ちょっとだけ俺に付き合って、ね。もう、六年越しのお預けでしょ、我慢できないのょ」

「あの後、皇子様エルネストの件があった時には、本当にアイツ散々に拷問してからぶち殺そう、って本気で思ってさー。あの頃はまだ『盾』の頭だったから、シイナドラドの外交官官邸に乗り込んで、ご挨拶してやったんだけど」

 カイエンはそんなことは知らなかったので、びっくりした。

「アイツ、目玉片方くり抜いて来てやがったから、出鼻を挫かれたわ。……でも、殿下ちゃんはアイツを赦さなかった。だからいいんだけどね」

 筋肉のみっちり付いた体の、がっつり割れた腹の横っ腹には、真新しく赤い一本の傷が残っている。糸で縫われた傷だから、傷の両方向に結び目の跡もあった。

 それは、一月の一日に、カイエンをかばって百面相シエン・マスカラスに刺された時の傷だ。

 あの時、そばにカイエンがいなかったら、イリヤの腹に蟲が隠れていなかったら、イリヤはもう今頃は墓石の下で、彼のカイエンへの想いも、カイエンが無意識に持っていたイリヤへの想いも、そのままに忘れ去られてしまっただろう。

 だが、現実はここまで発展し、変化を遂げてしまっている。

 カイエンの白い指が、イリヤの傷の上をそっと撫でる。その様子を見ながら、イリヤは今さら、取り繕ってもしょうがないか、と自然に思ったようだ。

「ああ、ほんっとにごめんなさいねぇ。でもこればっかりは男のさがだから。殿下ちゃんの初めてが俺だったら、って思うと……さっきみたいになっちゃうのよ。でも、それも今日でおしまいになるけどね」

 後ろから支えている手が背中から腰、尻へと降りて来て、カイエンはゆっくりと寝台の敷布の上へ押し倒された。






 何もかもが終わった後。

 イリヤは感慨深く自分の内面と向かい合っていた。

 ここ数年は大公軍団長としての仕事に追われ、ろくに商売女の店へ行く暇もなかった。

 それどころか、性欲自体があるのかないのか分からぬほど、毎日、疲労困憊するまで働いて来たのだ。

 それが、どうだろう。

 もう、役立たずになってるんじゃないかと思っていたのに、今夜はカイエンを怖がらせるほどに猛り、自分の部屋に入ってからしばらくの記憶が定かではないほどだった。

 やばいな。

 先ほどは、逸る欲望にうかされて素直に認めてしまったが、自分が怒りをどう表すのか、カイエンに知られてしまったのは、計算外だった。

 さっきの行為で忘れていてくれないかな、とさえ願った。

 だが、現実はいつでも無情なのだ。



 それから、居間に移動して、二人はもう冷めている夜食に手をつけたが、冷めた頃に食べるのを予測していたように、その内容は冷めても問題ないメニューばかりだった。

「煙草吸っていい?」

 イリヤがわざわざ断ると、カイエンは冷製の鴨肉を口に入れながら、黙ってうなずいた。イリヤは自分の執務室でも煙だらけになっているから、気にもしなかったのだろう。

 カイエンは黙って長椅子の前に置かれたテーブルから、手で取れるものは手で、汁気のあるものは小皿にとって、黙々と食べている。そうしながら、物珍しそうにイリヤの部屋の様子をきょろきょろと眺めていた。

 空気の抜ける暖炉の側で紙巻き煙草に火をつけて一服し始めたイリヤへ、カイエンが声をかけたのは、もう一本めが燃え尽きた頃だった。

「なんだか、この部屋に入ってからだけで、すごく色々なことが分かった気がする」

 赤ワインの瓶を傾け、イリヤの家にはない豪奢なロマノグラスのカップに注ぎ入れ、それを口元へ持って行きながら、カイエンはイリヤの大きすぎるガウンを体に巻きつけるようにして、居間の長椅子の真ん中で足を抱え込むようにして座っている。椅子の座り心地は見た目の古さや質素さにしてはとてもよく、裸足のままの足に触れる、長椅子や床の敷物の生地も時間に馴染んで柔らかくなっており、カイエンはこの部屋がとても気に入っていた。

「まず、お前も人間だったんだな。……腹の中は真っ黒けだけど」

 カイエンがいきなりそんなことを言ったので、ぶっ、とイリヤは吸っていた煙草を口から吹っ飛ばしそうになった。

「なにそれ? まー、今日はちょっと俺っちらしくない行動が多かったですけど、この正月に腹刺されて死にかかってるでしょー? ちゃんと人間よ」

 カイエンはふわふわとうなずく。その様子は半分、ワインで酔っているようでもあり、深い考えに沈んでいるようにも見えた。

「そうか。……自分でも人間だと思っているんなら、きっと、不幸になるぞ」

 そして、次にカイエンが唐突に言った言葉に、今度はイリヤの方がどきりとした。

「ええ?」

 カイエンは部屋に入ってすぐのイリヤのように、表情がなかった。その顔は、まさに神殿のアストロナータ神の神像そのものに見えた。

 先ほどはイリヤの無表情にカイエンが恐れを抱いたのであったが、今度はイリヤの方が、急に人でないものに変わってしまったようなカイエンの様子に、困惑する番だった。

「……ヴァイロンは将軍から引きずり落とされた。エルネストは、まあ、気の毒とは思わないが、あいつアルウィンのせいで私に囚われたまま、片目を捨てて。好きな女と幸せな結婚をすることも出来ない」

 くるり、と細い首が回って、カイエンの青白い顔がイリヤを正面から見た。

「お前は腹を刺された。あれは予知夢が先か、事件が先なのか、いまだにわからない。あの事件がなければ、お前も私も今日みたいな仲にはならないまま終わっただろう?」

 イリヤは墓場までカイエンへの気持ちを持って行き、カイエンは自分の気持ちに気がつかないまま、イリヤの死を見送ったかもしれない。

「私に変な気持ちを向けたやつは、みんな不幸になるのかもしれない。この頃、そんなことも考える。今日、お前とこうなってみて、やっぱりそうなるのかな、と思った。だって、私と関わっても何の実りも……」

「やめて」

 まだ何か言おうとしたカイエンの声を、イリヤは暖炉に二本めに火をつけた煙草を放り込みながら遮った。

 それから、彼は長椅子の上でひさを抱えたカイエンの目の前に来ると、カイエンと目線を合わせるように床に膝をついた。

 そして、イリヤの喉から出てきた言葉は、イリヤ自身もそれまで頭の中で言葉にしたことがなかったものだった。聞いているのがカイエンでなかったら、物狂いだと叫んで逃げ出したに違いない。  

「腹、刺される前から、殿下ちゃんにもってかれたら、ろくな死に方しないだろうなーとは覚悟してるょ。折角だから、今、今の俺の気持ち、言っとこうかなぁ。……でもこれ、今、殿下ちゃんの話聞いてて、唐突に頭の中に、湧いて出てきただけの言葉なんだけど」

 イリヤは彼にしては珍しく、自分自身でも困惑気味に、しばらく暖炉の炎の色に見入っていた。

 そして、言い始めた言葉の塊は、まさに普通人には理解不能の不気味な言葉の羅列だった。

「……ねえ殿下ちゃん。多分これ、俺から殿下ちゃんへのお願いなんだろねぇ。……そういえば、最初に殿下ちゃんを抱きしめたときとか、さっき、部屋に入った途端に我慢が切れて抱きしめちゃったときにも、似たようなこと、思ったかも。……俺は殿下ちゃんを胸の中に抱いて、そのまま俺の中に押し込んじまいたいの。俺の肋骨を真ん中からばりばりと裂いて、俺の内臓みんな外に抉り出して、その後に出来た穴ん中に、俺の中に入って来て欲しいんだ。そして、俺が死ぬ日まで、俺を中から操って。俺の中身をめちゃくちゃにして、あんただけで埋め尽くして……」

(そうして欲しいんだ)

 言葉はそこまでだった。

 イリヤはまだあるかな、と首をひねりさえしたが、もう出て来る言葉はなかった。いっそせいせいしたような気がするほど、もうカイエンに告げる気持ちは他になかった。

「イリヤ……おまえ……」

 それは、正気の沙汰とは思えない「想い」だった。通常の男女の愛とは明らかに違う感情だろう。

「それが、おまえの望みなのか?」

 カイエンがそう聞くと、イリヤは黙って首を縦に振った。その鉄色の目はあの、イリヤの夢世界の緑色の太陽を見ているかのように薄く光って据わっていた。


「じゃあ、おまえにはもう、逃げ道はないな」

(俺はあんたを逃さない)

 イリヤが最初に、カイエンの前にひざまずいた時。あの時のイリヤが言いたかった言葉。

 それが今、戻ってきてイリヤ自身に突き刺さっていた。

 カイエンはもう心の底では知っていた。

 自分を愛する男どもは、みんな、大なり小なり、イリヤと同じことを考えているような奴らだと。

 ヴァイロンも、エルネストも。

 ……そして、気色悪くて考えるだけで吐きそうになるが、あのアルウィンもきっと。 


 カイエンが白い指先をイリヤの顎の下へ伸ばすと、イリヤは猫のようにそこに顎をのせた。カイエンは飼い猫のミモの喉を撫でてやるのと同じように、イリヤのそこも撫でてやった。考えてみれば、この男は忠義な犬ではない。自由勝手だが、人に擦り寄って離れない猫だ。

「……今夜は、言葉はもうたくさんだな、イリヤ」

 そう言って、奥の寝室の方へ顔を向けたカイエンは、再びイリヤとともに彼の寝室へ戻って行き、夜が明けるまで一切、嬌声以外の言葉を口にしなかった。

 

 この夜から先、カイエンはヴァイロンとイリヤ、それに正式な夫であるエルネストの、三人の男を手玉に取っていると言われても、一言も言い訳などせず、放ったままにしておいた。その後に他の男の名前が付け加わっていき、醜聞専門誌に何度も話題を提供し続けたが、なぜか彼女は市民に見捨てられることはなかった。それは、カイエンと彼らが最後まで破綻することなく、ともに歩いて行ったからかもしれない。

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