金の三角
その日は、カイエンを庇って腹に刺し傷を負ったイリヤの、定期的な診察日だった。
それは、あのザイオン外交官官邸での
腹腔内まで達していた傷は、
だが、筋肉組織から外側の部分の傷の方は、また話が別だった。傷を縫い合わせた抜糸こそ、もう済んでいたが、イリヤはまだしばらく腹に包帯を巻いていなければならなかったし、その上に保護のために柔らかい革の腹帯も巻いていた。こっちは数ヶ月の間はつけておくように、というのが、あの、
「ねえ。この傷はもう、大丈夫そうだから、今日は先生とかぁ、そこのアキノのおじさんに、俺はぜひぜひに聞いておきたいことがあるんだけど」
そこは、大公宮の表にある、大公軍団の医務室であった。職務に戻ってから、イリヤの定期検診はすべてここで行われていたのだ。
それが、今回はやや様相を異にしていた。
それは、イリヤが是非にと言ってその日、その場所に呼び出した人間が同席していたからだ。
それは、大公カイエンの執事であるアキノだった。その風貌は、いつも、いかなる場合、場面にあっても同じである。
鷹のように鋭い、大理石に荒彫りで彫刻されたようなくっきりとした顔つき。それは、そこに甘さをやや大量に放り込んだら、イリヤの美貌とほぼ同じような顔になったかもしれない。彼らは年代こそ違え、獣人の村の同郷人なのだ。だが、アキノの顔にはイリヤと違って甘さは微塵もなかった。端正ではあったが、その顔には愛嬌も何もなかった。それに、イリヤとは違うまったく温かみの感じられない青い目が、それに決定打を与えていた。年齢が刻んだしわは時に人の顔を温和に和やかに変えるが、アキノの場合には厳格さを増す作用をしたようだった。
こうして描写してみれば、冷酷極まりない顔のようだが、その顔には唯一、「この顔を持つものに嘘偽りはない」と人に思わせる、信頼させるという最大の特徴があった。それゆえに彼はこの大公宮の執事としてもう三十年を過ごしてきたのだ。
「……そうか。さすがにカイエン様のおそばに生涯を捧げる覚悟が出来たとなれば、いかなちゃらんぽらんなお前でも、そのことに思いが至るだろうとは思っていた。……カイエン様には、あのシイナドラドの皇子との間で、傷ましい出来事が、もうすでに起こってしまっているからな」
アキノの返答は、イリヤの質問などとうの昔に予想していた、という内容だった。
「ああ。そうでしたね。君は、大公殿下のおそばにあることを選んだんでしたっけね」
イリヤの腹の包帯を巻き直しながら、同郷の外科医までもが分かったような口をきいた。この辺りが
「あっらー」
イリヤは気が抜けたような声を出さざるを得なかった。彼ももう、三十路を迎えたが、この二人の彼よりもかなり年長の同郷のおっさん達には、彼の聞きたいことなど、とうの昔に予想済みだったらしい。
「さ、もういいよ。包帯はもう、次の検診の時からは必要なくなるだろう。傷の治りはさすがにいい。蟲様様、だ。もう、寝ている間に腹の上に猫に飛び乗られても大丈夫だろう」
外科医は備え付けの、金属の台の上に置かれた銀色の手洗い桶の中の強い酒で手を洗いながらそう言う。
「ええー? 猫ってあの、殿下の飼ってるミモちゃんのことー?」
イリヤは、確かにこの傷を負ってすぐにあの猫に、寝ている腹にのっかられたら、さぞや痛かっただろう、と思った。あのミモというカイエンの飼い猫は、ほっそりしていて姿のいい猫だが、それでも刺されて、切り開かれたのを縫い合わせたばかりの腹の傷にのっかって欲しくはなかった。
カイエンが子供の頃に使っていた部屋で養生していた頃のイリヤのもとに、ミモが入って来たこともあったが、ミモは「まー、がんばんなよ」とでもいう顔で寝ているイリヤの寝台の際を歩き去って行っただけだったっけ。
イリヤは、シャツのボタンをはめ、大公軍団の制服の上着の、軍団長らしい宝石作りのボタンをもはめながら、遠慮がちに話を進めにかかった。今日、彼がアキノまでもを呼び出して聞きたかったことは、改めて話を始めるとなると、なかなかに際どいことで、容易なことではなかった。
「あのさあ」
イリヤがそう切り出すと、アキノは静かにイリヤの正面の実用第一、という感じの大公宮の軍団員用の医務室の木の椅子に腰掛けた。彼はイリヤの診察が済むまでは、彼のそばに立って見ていたのだ。
その様子を見ながら、イリヤはちょっと遠回しな方向から話を進めていくことにした。だが、これはきっと、アキノも同席の外科の医者も「それはお前の身の上の話とは関係ない」とは言わないはずの話なのだ。
「……とーっても、言いにくいことなんだけどもぉ、無関係じゃないだろうから聞くのよぉ。あのう、サグラチカさんが、元は殿下の乳母だったってことなんだけども。これはそのう、あの、殿下が生まれたのと同じ頃に、サグラチカさんにも赤ちゃんが出来てた、ってことだよねえ。違う?」
イリヤは、大公軍団の軍団長の黒い制服の、長い上着の一番最後の胸元のボタンをかけながら聞いた。ちなみに、彼のこの装飾的で特徴的なボタンの材質は、
「でも、今、サグラチカさんには息子も娘もいない。……ってことは?」
さすがにこの際どい問いには、イリヤさえもが気を遣った。だが、アキノの方はもう予想済みのことだったので、その声に動揺の陰りは微塵もなかった。
「……お前の考えている通りだ。サグラチカの子供は死産で、生まれる前に腹のなかで、もう死んでいた子供だった」
外科医は黙って、医務室の自分の机と椅子のところへ下がっていく。彼はアキノやイリヤと同郷だが、もう、この話は彼にとって当事者的な話題ではなかったからだろう。
「それっきり、アキノさんとこには子供は出来なかった、そうだよね」
イリヤの問いに対する、アキノの返答は短い。
「その通りだ」
「それって……」
イリヤはおしゃべりな彼らしくもなく、話の先を催促するようにアキノの厳しい、そして無表情な顔を見た。すると、アキノは、ふうっと息を吸い込み、そして長々と時間をかけて吐き出した。
「そうだ。それっきりサグラチカには子供はできなかった」
「あのさ。とーっても聞きにくいんだけど、その、殿下と同じ頃にできたっていう子供ってのは……?」
イリヤは、内心、「もう、アキノのおっさんも話の先は見えているだろうに、意地悪だなあ」と思いながらも、この話の際どさに配慮するのは忘れなかった。
「そうだ。お前の思っている通りだよ、イリヤ」
アキノの声は、血を吐くように辛そうだった。でも、彼はひるまなかった。
「二十二年前、サグラチカが身ごもった子供は、私の子供ではない」
もう、イリヤはそのアキノの返答を予想していた。それでも、彼はびくりと体が揺れるのを抑えられなかった。それほどに、この話は深刻だった。ここに、アキノの妻のサグラチカがいないことによって、それは余計に彼らの心や言葉に慎重さを要求した。もし、サグラチカがここにいたら、こんな話はそもそも、出来はしない。
「サグラチカは、私と結婚する前から、私と結婚しても子供が出来ないことは知っていた。同じ故郷の出身だからな。まあ、年頃の娘になれば、獣人の村では、体の中に蟲のいる男との結婚がどういう意味を持つのかは長老から聞かされる。男の方もお前みたいにほんの若造のうちに村を飛び出したようなの以外は、二十歳を過ぎれば皆、何とは無しに知ることだ」
「じゃあ……」
「ああ。それでもサグラチカはあの時、言ったのだ。あれはもう、結婚して数年経った時だったな。ごめんなさい、と何度も何度も言って、最後には泣きながら、どうしても自分の子供を持ちたい、と言ったのだ」
アキノが、冷静極まりない、なんの感情も入っていない声でそう言った時、もう、イリヤも、そして同郷の外科医も口をきけなくなった。この先の話が、アキノにとっては恐らく彼の生涯で一二を争う、悲壮で重大な事柄なのだと理解していたからだった。
「彼女と結婚して、前のこの大公宮の執事を頼ってハーマポスタールに出て来て、しばらくした頃だったな。まだ、私は侍従長だった。あれは、サグラチカは、私の前で床に頭を擦りつけてまでして願ったのだ。子供が持てないことを知っていて、私と結婚したのに、こんな勝手なことを言い出して申し訳ない。それでも、それでも、養子ではなく、自分が腹を痛めた子供が欲しい、とな」
その頃には、もう、彼等二人の家には、彼等の家の前に捨てられていた、養子のヴァイロンがいたはずである。それでも、サグラチカはそう願ったのだ。
「あのサグラチカさんが、そこまで?」
「そうだ。だから、私は許した。いつも穏やかなあれが、目を吊り上げて鬼女のような顔になっていたからな。そこまで思いつめているのなら、仕方がないと思った。これは後から思いついたことだが、ヴァイロンが来てから、あれの気持ちが変わって来たのだろう。ヴァイロンが実の子だったら、と思い詰めたのかも知れん。……あの時の子供の父親が誰か、私は知らない。もしかしたら、アルウィン様だったのかもしれんとさえ思っている。あの頃、サグラチカは大公宮の侍女をしていた。そうそう、都合のいい男などそばにはいないだろうから」
この言葉には、ええっ、とイリヤと外科医の喉が鳴った。彼らは、そこまでは考えていなかったのだ。
次に彼らが思ったことも、同じだっただろう。あのアルウィンなら、いとも簡単に引き受けそうだと。
「だが、その子は月満ちるまで生きてはいなかった。カイエン様よりも少し前だったな。生まれた時には、もう息もせず、サグラチカの胎内から出て来た時にはもう、赤ん坊の
これには、外科医も、そしていつも非常識なイリヤでさえも返答する言葉がなかった。サグラチカのその時の気持ちは、男の彼らでも想像はできた。いや、彼らでさえ息がつまるような恐ろしさを感じるのだ。女で、それも当事者のサグラチカの受けた衝撃は、並大抵のものではなかっただろう。
「イリヤよ。もう、わかっただろう。死産ではあったが、サグラチカには乳が出た。だから、ほどなくしてお生まれになったカイエン様の乳母となったのだ。カイエン様の母上のアイーシャ様は半分気が狂ったような状態だったし、サグラチカにも、一時的にでも、失った子供の代わりが必要だったのだ。あれは気丈で前向きな女だから、赤ん坊など見たくない、という方向へは考えなかったんだな」
アキノの言葉は淡々としている。
「そうだよ、もうわかったろう、イリヤ。ここの先生ももうよく知っている。
「……私からも補足すると、古老の残した記録によっても、それは裏付けられているんだよ。女性の場合は、体内の蟲が小さければ出産に至ることも可能だけれど。男性の場合には、蟲の大小に関わらず、子供を持つことは不可能なようでね。これは蟲の大小に関わりがない。女性の方の理由はなんとなく理解できるが、男性の場合の理由は……いまだに謎のままだ。ま、蟲が体内に宿る、その過程そのものがいまだに謎だらけなのですから、これは蟲の側の都合なんだろうねえ」
(あっそう)
実際のところ、話がここまで来てしまえば、イリヤにはアキノの言うことも、同郷の外科医の言うこともどうでもよかった。彼が知りたかったことは、実例とともに、いとも簡単に明らかになっていたのだから。
「じゃあさ。あのエミリオ・ザラ大将軍閣下が、今に至るまで独り身を貫いてるってのも、理由は同じわけ?」
このイリヤの問いにも、アキノはいとも簡単にうなずいた。
「私はそうだと思っている。ザラ大将軍閣下のお母上は我らの同郷人だが、エミリオ様はザラ子爵家の次男だ。別に家を継ぐ子供を必要とはしていない。あの方も、今までには一緒になりたいと思った女性もおられただろう。だが、あの方は私と違って、独り身で終わることを選ばれたのだと、私は思っている」
イリヤは思い出した。
エミリオ・ザラが、彼の見舞いに顔を出した時、部屋を出ていく前に言っていた、ぶつぶつとした言葉。それは、聞こえにくかったが、イリヤは職業柄、犯人の尋問でそんなことは慣れっこだったから、ちゃんと切れ切れの言葉を覚えていて、後になってつなぎ合わせてしまったのだ。
(ま、よしんばお前と殿下が……なことになったとしても、もう、蟲の依り代であることが判明したお前だ。殿下に、あの皇子殿下のような悪さは出来ないのだからな。どうにでもなるが良い)
あれは、イリヤとカイエンの間に、子供ができることは決してないのだから、お前は獣人の血を引くために人との間に子孫を残す事が出来ないヴァイロンと同じだ、と言っていたのだ。
「このことでお前が今更、悲観することもあるまい。これでお前はカイエン様を傷つけることなく、あの方のおそば近くに侍ることができるのではないか」
アキノはいかにも彼らしい簡潔さでこの事実を捉えているらしかった。
「それはそうだけどー」
実は、イリヤがその時、思っていたのはもう先の話だった。それはとても彼らしいものだったが、余人が聞いていたら何とまあ、頭の切り替えの早いことよ、と感心したかもしれない。普通なら、一生、子供は持てないという方に衝撃を受けるのだったであろうから。
だがイリヤの頭には、そっちの発想の方がはなから存在しなかった。彼は自分の美麗な外見にも、仕事の有能さにもあまり肯定的な評価はしていなかった。それに、自分が平和に結婚して一家の主人となる、などということはその性格もあって、考えたことさえなかったのだ。
だから、その時、彼が思ったのは、そうと分かれば、あのヴァイロンを出し抜いて、いや、あのヴァイロンをうまいこといなして、どうにかして、長年欲しくてたまらなかったカイエンと、さっさと深い関係になってしまいたい、ということだった。
だが、このイリヤという男、仕事にも実は完璧主義で生真面目だったが、こっちの方面も、手順はちゃんと踏まないと進めない男だった。意外なことだが、これは彼の場合、本命でもそうでなくともそうなのである。よく言えば恋愛でも色事でも、手順を楽しむ方だったのだろう。だから、彼はまず考えたことは次のようなことだった。
(でもねぇ。殿下にちゃんと今聞いたことを話して、納得してもらってからじゃないと、ね)
それには、性急にことを進めるのはよろしくない。あの銀時計の件でカイエンが彼の養生していた部屋にやってきた時には、ついつい、隙だらけのカイエンの様子に手が出てしまった。あの時ももう、ザラ大将軍の言葉から、今日アキノから聞いた事情はうすうす、分かってはいた。カイエンはまったく抵抗しようとはしなかったので、もういいや、最後までやっちまえ、とも思いはしたが、万が一を考えて我慢したのだ。
「まー、いいや。俺はもういい歳だけど、殿下はまだ二十一だもん。それも、恋心ってのがやっと分かったばかりの食べごろだもんね! 焦って丸のみは上手くないよねぇ」
この言葉は、ついつい心の言葉が音となってイリヤの口から出てしまったので、もちろん、アキノにも外科医にも丸聞こえだった。
「……イリヤ」
外科医の方は「この馬鹿」と思いつつも、賢明にも黙っていてくれたが、アキノの方はそうはいかなかった。
「その心がけは、まあ、いいだろう。いや、そうするべきだ。カイエン様の後宮に入れろなんぞと言い出さなかったのも、私は評価していた。お前の認識は知らんが、カイエン様とヴァイロンとの間の絆は、その、簡単にお前が割り込めるようなものではないのだ。殿下が今回、初めてご自覚されたお気持ちは別としてな」
アキノはもう、何本ものしわが彫り込まれたまま、固定されてしまった眉間を指で揉んだ。
「私も、もうこんな歳だ。さっき話したような出来事も経験している。野暮なことは言いたくない。だが、これだけは確認しておく」
イリヤは神妙な顔こそしなかったが、黙ってアキノの言葉を聞いていた。
「ヴァイロンとの時は、カイエン様は男女の……その、色々な出来事の過程を何も経由しないままに一緒になられた。エルネスト皇子殿下とのことは……問題外だった。だから、お前はちゃんと……」
アキノの言いたいことは、本来ならば、父親のアルウィンの言うべきことだったかもしれない。
「色事だけでなく、もっとその、細かいところをちゃんとやるのだ。……いいな!」
それに対する、イリヤの返答は簡単だった。簡単すぎるほどに。
「はーい。わかりましたー」
一方、皇宮では。
ザイオンの外交官官邸から、大公宮へ、そして皇宮へ戻ってきたオドザヤは、その時点からもうカルメラの言うことなど聞かなくなった。
人間が大きく変わる時というのは、唐突に訪れるものだ。
そして、そのきっかけは「長い期間、誰かの意図で盲目にさせられていたことに気が付いた瞬間」であることが多い。
カイエンも、それまで優しかった父親と信じて疑わなかった、あのアルウィンの正体を知ったその時から変わって行ったのだ。
オドザヤの場合にも、直接にはそれは母であるアイーシャの秘密を知ったこと。そして、サウルとアイーシャの両親二人の本心をもろともに理解したことからであっただろう。
オドザヤも知るとおり、サウルは死の間際にアイーシャを道連れにしようとした。あの時には、オドザヤは父サウルはそれほどにアイーシャを愛していたのだ、と思ったに過ぎなかった。
だが。
あの大嵐の舞踏会の翌朝、彼女はアイーシャが長年、サウルの肖像画の後ろにアルウィンの肖像画を隠していたことを暴いた。それでは、アイーシャの心を支配していたのは、最初からずっと変わらず、アルウィンであったのだ。
それを知ってしまえば、サウルがおのれの死の旅にアイーシャを連れて行こうとした理由も何となくわかるというものだ。
哀れな父。
優れた為政者としてこのハウヤ帝国を富ませ、大きくした、賢帝サウル。
だが、その実態は妻の愛情を得られぬまま、そして弟に負けたという強烈な劣等感、敗北感を心の奥底に踏みつぶそうとして踏み潰せないままに死を迎えた、哀れな男であったのだ。
オドザヤの変化は、カイエンとはその様相を異にしていた。それは当然のことだ。彼女らは姉妹で従姉妹だが、違う人間なのだから。だが、共通していたこともあった。
それは、一人の人間として自分で考えて、自分で判断する、ということを真に理解したということだ。つまりはやっと大人になったということで、彼女らが次に覚えることになるのは、間違った判断には痛いしっぺ返しが来る、ということなのだった。カイエンはもう、この方も知りつつあったが、オドザヤの方はまだそこまで行ってはいない。
彼女がまずしたことは、カルメラを追求して、彼女が自分に飲ませていた薬のことを根掘り葉掘り聞き出すことだった。薬の出所が、あのアイーシャの腹心の侍女、ジョランダ・オスナだと聞かされ、カルメラがジョランダの姪に当たると聞いた時には、オドザヤは彼女らの繋がりに大笑いした。
「あらまあ。ジョランダやあなたのお母様のご実家はお薬屋さんなの? それはまあ、ご実家を巻き込んで、大層なことを企んだものねえ!」
オドザヤは目の前で分厚い絨毯の敷かれた床にへたりこむようにして、恐怖に慄いているカルメラの頭の上で、絹地に豪奢な刺繍を施した部屋履きのつま先をふわふわと動かしながら言った。カルメラのしたことを思えば、そのまま頭を踏みつけてもやりたいところだったが、オドザヤはまだ冷静だった。カルメラにはまず、してもらわなければならないことがあったのだ。
「お薬屋さんの姪御さんなら、あなたが私に飲ませていたお薬のこともよく知っているでしょう? あれ、飲まないでいると頭が痛くなるし、飲んでいても飲まないでいても、世界が……そうねえ、何だか薄い絹地のベール越しみたいに感じられるの。薬が効いている時にはそれでも気持ちが楽なんだけれども、お薬が切れると、なんだか見えるものすべてが眩しくて、それが自分に迫って来るようで! 不安になって苦痛なのよ。それになりより! 難しいことが考えられなくなるの。これじゃ困るわ!」
言いながら、オドザヤは琥珀色の両眼の間を、真っ白な指先で揉むようにした。
「しょうがないから、またお薬を飲んだけれど、こんなお薬を続けているわけにはいけないでしょ。そんなことしたら、あなたたちの思うがままだもの。それはもう、昨日の舞踏会でよくわかったのよ」
オドザヤの賢明なところは、まだちゃんと残っていたのだ。彼女は薬で自分が支配されてきたことにも、もう気が付いていた。
「ねえ、カルメラ。あなたはこれからも私の侍女でいたいのでしょう? 確か、前に言ってたわよね。侍女としてこの皇宮へ上がるには男爵家の養女になったんだって。それって、あなたの考えているあなたの人生の物語の終わりじゃあ、ないでしょう」
オドザヤはそう言いながら、自嘲的に思わずにはいられなかった。ああ、昨日までの自分は、何で他の人間たちの表面だけしか見えなかったんだろう、見ようとしなかったのだろう、と。
「えっ……それは、あの」
カルメラはオドザヤの顔を見上げようとして、はっとしてまた視線を絨毯の上へ戻した。
「あの、それは、あの伯母が……ある伯爵家との縁談をなんとかしてくれると、その、申しておりまして……」
カルメラの言葉を聞くと、オドザヤは深い紅珊瑚色に彩られた唇を、きゅっと弓なりに上向けた。ああ、愚かだったのは、自分だけではなかった。ここにもまた、賢いつもりでいても、いまだ目の開かぬ雛鳥がいたのだ。
「あら、そうなの。でもそれ、おかしいのではなくて? ジョランダはお母様の侍女だけれど、今、お母様はあんな状態だし、貴族のそれも伯爵家なんかにつてがあるとは思えないわ。あなたも、私みたいに騙されていたんじゃなくって? ジョランダはそんなに身内に優しいとは思えないけど」
この言葉は、爆弾でも投げつけたような効果があった。カルメラはびくりと身を震わせると、思わず、というように先ほどまでは見ることもできないとでもいう風だった、オドザヤの顔を見上げてきたからだ。
「あなたがいい縁談を、と思うのなら、頼るべきはこの私だと思うわよ。ねえ、そうじゃない?」
オドザヤは、わざとらしく見上げるカルメラから目線を外した。
「……もうわかったでしょう? 分かったなら、さっさとあなたのお母様のご実家のお薬屋さんに行って、私に飲ませていた薬を抜く手段を聞いておいでなさいな。ああ、まだ日は高いわ。今すぐに宿下がりなさい。イベット! イベットはどこなの?」
オドザヤがちょっと大きな声を出すと、すぐに侍女のイベットがオドザヤの前に出てきた。彼女は今までのオドザヤとカルメラのやりとりを、勿論、部屋の扉の向こうでうかがっていただろう。今まではカルメラがオドザヤの一番の侍女であったが、これからは分からない。だから、イベットも必死だった。
「ここにおります。カルメラさんの宿下がりの件、すぐに手配いたします」
イベットはオドザヤやカルメラよりは年長だった。今まではカルメラの下で息を潜めていたが、これからは分からない、彼女の態度はそう言っていた。
「お願いね」
オドザヤはそう言うと、もうずいぶん前に運ばれてきて、そのままになっていたお茶と茶菓子の方へ目をやった。
「何だか、お腹が空いちゃったわ。……そうそう、親衛隊の方にもちゃんと話をしなくっちゃ。イベット、下がりついでに何か軽食を用意させてちょうだい。それと、食べ終わった頃合いに、親衛隊のモンドラゴン隊長をお呼びして」
ここまで命じて、オドザヤは自分の今着ているものに目を落とした。
朝に大公宮から帰ってから、オドザヤはそのまま、カイエンに借りたドレスを身に付けたままであったのだ。
「あら。イベット、忙しくて申し訳ないけれど、食事が終わったら、まずは着替えをお願い。モンドラゴン隊長が来る前にね。ああ、それに隊長とはあっちの広い方のお居間でお会いしたいわ」
イベットは絨毯の上に崩れ落ちたままのカルメラの方など、もう見ようとはしなかった。
「承知致しました。ご軽食は、暖かいものをお望みでしょうか。それとも、果物などを中心としたさっぱりしたものがよろしゅうございましょうか」
オドザヤは、そんなイベットの言葉に、そうねえ、とでもいうようにちょっと考え込んだ。
「昨日から、暖かい食べ物を食べていないわ。大公宮では食欲がなくて、お茶以外はお断りしてしまったの。ミルクとかクリームとかを使ったものはまだちょっとね。コンソメかなんかで煮た柔らかくて暖かいものがいいわ」
そうイベットに命じながら、オドザヤが考えていたのは、大公宮で出されるものはいつも間違いなく美味しい、ということだった。今朝のお茶一つとっても、喉の乾いているオドザヤがすぐに飲める温度で提供された。あれは、侍従や女中たちが気を配ったのだろう。それ一つをとっても、大公宮では使用人への教育が行き渡っている。
オドザヤは執事のアキノのことは顔を知っているだけだったが、そういうことは彼の仕事の成果だろうということが、この時初めて理解できた。
去年のカイエンとリリエンスールの誕生祝いの時の料理も、気取ったところがなくて、材料の味が生きていて、それでいて味付けのかぶったメニューも無く、大皿の上の彩りまでが見事だったっけ。
(皇宮の厨房にも、新しい風を入れるべきだわ。今の料理長を首にするのは可哀想だから、何か上手い手を考えなくちゃ。ああ、そう言えば、お父様は料理の味とか、そういう細かいことには関心がなくていらしたものね)
そこまで考えた時には、もうイベットは下がっており、足元で哀れなカルメラだけが動けずにうずくまっていた。
オドザヤはカルメラのその様子を、私を騙していいように操ろうとした罰だ、と思いもしたが、もうこうなってみると哀れというよりもうざったく思えてきた。
「カルメラ」
オドザヤが呼びかけると、カルメラの背中がぴくりと動いた。
「もういいわ。さっさと下がって、お薬屋さんへお行きなさい。あ、そうそう、今後はイベットの下で働くのよ。いいわね?」
オドザヤの顔をまっすぐに見られないまま、いざるように部屋を出て行くカルメラの方を、オドザヤはもう見ようともしなかった。
「女帝反対派にいたからって、親衛隊のモンドラゴンを遠ざけていたのは間違いだった。モリーナ侯爵たちと彼を引き離してしまえばいいだけのことじゃないの。馬鹿みたい。サヴォナローラもやっぱりお堅い神官さんなのねえ」
オドザヤは別に、サヴォナローラの仕事を全否定するつもりなどなかった。彼はクソ真面目なほどに自分を殺して、宰相の仕事をしてくれている。あのクソ真面目さは、もしかしたら上にいるオドザヤ自身があまりに考えなしだったからなのかもしれない。すぐには父のサウルのように専制的な君主にはなれやしないが、自分ももっとちゃんと自分で自分の立場を盤石にするべく、考えなければ。
この時、オドザヤがそう考えたことは、決して間違ってはいなかった。
だが、サウルの時代とはもう、時代が変わろうとしていた。時代は、オドザヤの思っている以上に複雑怪奇な様相を呈していくのである。
オドザヤが呼んでいる、と聞いて、モンドラゴン子爵ウリセスがまず思ったのは、ザイオンの外交官官邸でのことだった。彼の仕事はオドザヤを裏から滞りなく会場へ入れることだった。それは上手くいった。
だが、それからは彼の聞かされていた通りにはいかなかったらしい。
オドザヤは大公宮から、皇宮へ戻ってきた。
と言うことは、大公にオドザヤとトリスタンとのことがばれた、と言うことだ。
大公宮を経由して戻ったのなら、オドザヤは彼女の侍女のカルメラが主導し、影でモンドラゴンも関与していたことを知ったのかもしれない。
だが、それにしては、皇宮へ帰った後のオドザヤの様子は変だった。
彼女は、迎えに出た女官長コンスタンサの言葉に従わず、そのまま親衛隊を呼んで、親衛隊の副隊長に守られて自室へ戻ったのだと言う。
モンドラゴンは、その報告を副隊長から直接聞いたが、ちょっと信じられなかった。
そもそも、女帝反対派のモリーナ侯爵の派閥に属しているモンドラゴンは、オドザヤの即位以降、遠ざけられていた。オドザヤの警備も、大公軍団派遣の女たちと、コンスタンサの選んだ後宮の女騎士に変えられていたのだ。
だが、しばらくしてモンドラゴンの元を訪れたのは、オドザヤの腹心の侍女だと言うカルメラだった。彼女は、オドザヤを薬漬けにした、女皇帝はもう自分の言いなりだ、自分はザイオンの王子とも話ができている。オドザヤの皇配となりたいトリスタン王子の意向に乗るつもりはないか、と言いにきたのだ。
モンドラゴンは迷った。そして、モリーナ侯爵に相談した。モリーナ侯爵はこの話にすぐに乗った。外国人を夫にした女帝もいいが、その前に結婚前に外国の王子と関係を持ったことを世間に暴露すれば、女帝そのものを葬り去れるかもしれない、と言い出したのだ。
だから、モンドラゴンは今度のザイオンの舞踏会へのオドザヤの潜入に一肌脱いだ。
オドザヤは間違いなく、高級娼婦ファティマと入れ替わって舞踏会へ潜入した。その様子は、彼も確認していた。だからこそなのである。
舞踏会から戻ったオドザヤは、本来なら、トリスタン王子と肉体関係におよび、そのために夢うつつか、はたまた自分のしでかした過ちの重さに呆然としているはずだった。
それが、彼を名指しで自分の居間へ呼び出している、というのである。
モンドラゴンは、オドザヤに、あのカスティージョ元将軍の息子である、これも元親衛隊隊員、ホアキン・カスティージョが起こした
その追求は厳しく、彼女はもうモンドラゴンの顔など見たくもない、とばかりに親衛隊を彼女の護衛から外したのだ。
それなのに。
それはもうとっくに、昼過ぎになった時間だった。というか、もう夕暮れになった時間だっただろう。
オドザヤがカルメラを彼女の母親の実家へ帰し、イベットに命じた軽食を済ませ、着替えをするにはそれなりの時間がかかった。
ウリセス・モンドラゴンがオドザヤの侍女に案内されて入ったのは、皇帝のいくつかある居間の中の一つだった。
もちろん、そこは先ほどまでオドザヤがくつろいでいた居間ではない。だが、そこは謁見の間でも執務室でもないのだ。モンドラゴンは先帝サウルの頃から親衛隊長だったが、皇帝の居間に通されたことなどはなかった。
皇帝の居間の前には、侍従と侍女の二人が立っていた。
侍従は廊下に残ったが、侍女の方に連れられて居間へ入る。モンドラゴンは知らなかったが、そこはサウルの時代から何も変わらない室内装飾と家具で構成されていた。
だが、いくらかうち内の居間だったらしいそこは、先帝サウルの厳格で厳しい趣味とはあまり一致しない、柔らかい色調で整えられていた。
広さはオドザヤが日々使っている、彼女の個人的な居間よりも広い。そこは、サウルの時代には彼が皇女のオドザヤやカリスマ、それにアルタマキアと、後宮の外で会うときに使われていた部屋だった。
ウリセス・モンドラゴンの青緑色の目に映ったのは、こんな部屋の様子だった。
壁紙は優しい金色と水色の波模様で、天井はクリーム色の漆喰でこれも波のような模様を描いて塗られている。置かれている調度も、木の目の美しい木の枠の、やや濃い水色の布の貼られたソファと、寄木細工の幾何学模様の美しいテーブルだった。
白から栗色のグラデーションの大理石が囲む暖炉には、真っ赤に火が燃えている。
乳白色のランプにも、もう火が入れられていた。庭へと繋がる大きな窓のカーテンは閉められている。
その部屋の正面。
暖炉を背中にして、オドザヤは三、四人がけのソファに寝そべるようにして座っていた。
嗚呼。
そのオドザヤの様子。それを今、ここで描写する詩人がいたら、どういう言葉を語句を使っただろうか。
オドザヤの長い長い黄金いろの髪は、結われもしないまま彼女の生まれたままのやや波打った髪ぐせのままに、彼女の肩から背中、胸元を覆っていた。その艶やかな髪に囲まれた顔には、ほとんど化粧気もない。ただ、紅珊瑚色に塗られた唇だけが、天井のランプの光を受けて輝いていた。
髪の中には、薄い桃色とラベンダー色の大きな生花が編み込まれており、それは女帝が自分の居間で寛いでいる、そういう状態としてはまあ、普通ということができただろう。
だが、彼女のまとっているドレスの方はそうはいかなかった。
鮮やかなオペラローズから、真紅、そして紫や、紺色、彼女の色である
それは、腰でぎゅっと締められることもなく、緩やかに分厚い氷色の絨毯の上まで流れる噴水か、小さな滝のように流れ落ちている。
オドザヤは、髪に編み込んだ花以外に、なんの装身具も身につけてはいなかった。それは、彼女の黄金色の髪と目の色、そして薔薇色を奥に潜めた白い肌の色の美しさの前では、なんの問題にもならなかった。いや、下手な装身具などないほうが彼女のその匂い立つような、彼女自身が一つの花であるかのような様子を際立たせるには有効だっただろう。
そして、極め付けは彼女の表情だった。
モンドラゴン子爵はオドザヤに近々と会った事など、そんなに何回もない。だが、皇太女になった時も、皇帝として即位した時も、まあまあ間近で彼女の姿を見てはいた。
その時のオドザヤの顔。
それは、それまで彼女が公式の場で見せたことのないものだった。
いや、そんな顔は、この時まで彼女は一瞬として見せた事などなかっただろう。それは、おそらく昨晩、トリスタンと男女の仲になった時でさえ。
「こんな時間に呼び出して、ごめんなさいね」
そう言って、微笑むオドザヤの顔は、昨晩ほとんど寝ていないことなど微塵も感じさせない、ただただ、艶やか、としか言いようのないものだった。
モンドラゴンが、オドザヤとテーブルを挟んで向き合ったソファに座ろうとすると、オドザヤはその金色の前髪の散り落ちる美しい額に、不満げな様子を見せた。
「あら。私、今夜はモンドラゴン子爵にお詫びをしなければ、と思っておよびしましたのよ。どうぞ、ここへおいでになって」
そう言いながら、オドザヤが指し示したのは、なんと、彼女の座っているソファのすぐ横だった。
「えっ」
モンドラゴンはそう、声に出したかどうかも覚えていない。
「
消え入りそうな声音で言うその言葉を聞いた、モンドラゴンの喉がごくりと動く。それを今夜のオドザヤは見逃さなかった。
「ね。さあ、こちらへおいでになって。私ね、色々考えましたのよ。それで……」
匂いやかな大輪の花に吸い寄せられる虫のように。
ウリセス・モンドラゴンは気が付くと、もう、オドザヤの隣に座っていた。
それから、そこで何が起こったのか。
オドザヤはつい、その前の晩に、ザイオンの王子、青っぽい金色の髪を持った踊りの名手と手と手を取り合い、熱っぽい一夜を過ごしたはずだ。
そして、その次の日の夜、彼女の腕の中に呼び込まれたのは、白っぽい金髪の親衛隊隊長だった。
たった、それだけのこと。
だが。
オドザヤがザイオンの外交官官邸での
それを思えば、オドザヤの身に起きた変化は、たった一日のうちに始まって、ここまでに至ったのだった。
歴史はこの出来事を伝えてはいない。
どんな歴史学者も、物語を語り継ぐ吟遊詩人にも知られていないことだ。
このたった一日の出来事は、誰にも聞こえることさえなかった。
だが、この一日で出来上がった事実の方はそうではなかった。それは歴史に語り継がれ、それゆえに彼女彼等はそれなりの代償を支払うことになっていくのだった。
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