マルコス・イスキエルドの鉄腕

 あの、ザイオンの外交官官邸でのトリスタン王子のお披露目を兼ねた、仮面舞踏会マスカラーダから何日か後。

 大公軍団最高顧問で、元は国立士官学校の戦術学の教授だったマテオ・ソーサは、彼にとっては非常に懐かしい場所を訪れていた。

 国立大学校。

 それは、ハーマポスタールの山手から少し丘を降りた場所にある。このハウヤ帝国の学問の殿堂であり、この国最高の教育機関、研究機関である。

 マテオ・ソーサは国立士官学校の教授だったが、彼の専門は戦術学だから、この国立大学校の卒業である。今日、ここへ来た理由は、彼の大学院時代の同窓で、今は、ここの教授に収まっているある男を訪ねて来たのであった。

 今日の彼のお供は、後宮の隣人のガラ。

 小柄な教授こと、マテオ・ソーサと、それとは反対に人並外れて体の大きいガラは、黒っぽい灰色の、修道院かなんかのような建物を見上げていた。

 大学院は国立士官学校や、国立医薬院と同じように、この国屈指の教育機関であるから、大門を入ると中にはいくつもの、街中では見ることもないような巨大な建物が林立している。この国立大学院の建物は黒っぽい灰色の石造りで、建築された年代の違いによって、階数や意匠の違いはあったが、石の色味だけは統一されていた。

 マテオ・ソーサとガラが見上げている建物は三階建てで、もう百年近くたっていそうな様式の建築だ。各階の窓の外には小さなバルコニーがあり、窓が足元まで空いていて大きい。入り口はアーチ風に石が組まれており、それをくぐると中庭があって、事務室などはその中庭を囲んだ回廊の周りにあるようだ。

 二階三階の回廊は、建物から出っ張っていて、ぐるりと回れるようになっている。

 一階は学部の事務室やら資料室、二階が教授たちの研究室などで、三階が講義室になっているようだった。足腰のしっかりしている若いものは、上の階まで上れ、ということなのだろう。

「兄は護衛のリカルドを連れてくるが、皇宮からの馬車の中で、僧服から普通の服に着替えてくるそうだ。着いたら中で待っていると言っていた」

 ガラは、今日もいつもの貴族の従者のようななりだが、いつもより色味が黒っぽい服を選んで来ている。マテオ・ソーサの方は一年、三百六十五日変わらぬ、黒くて長い詰襟の上着の襟元から、真っ白な立襟のシャツが見える、いかにも学者といった格好だ。

 二人が建物の中へ入っていくと、すぐに係のものが飛び出して来た。

「大公軍団の最高顧問、ソーサ先生でいらっしゃいますね。……お連れの方はもういらして、あちらの別室でお待ちです」

 宰相のサヴォナローラと、彼の護衛で神殿の弟弟子である、武装神官のリカルドはもう来ているらしかった。

 二人が、せせこましい事務室の向かいの、一応は外部から来た人間を待たせておく場所らしい部屋へ入っていくと、そこには、一見すると誰だかわからない二人組が質素な、頑健なだけが自慢のような固そうなソファに座って待っていた。二人とも、緊張していることが、二人がソファの背に自分の背中を預けず、しっかりと石組みの床に両足を置いて、膝の上に肘を置き、前かがみな姿勢で座っていたことから見て取れた。

「申し訳ない。お待たせしましたかな」

 マテオ・ソーサがそう訊くと、サヴォナローラはいいえ、と首を振った。

「私どもも、いまさっき来たところです」

 そう、落ち着いて答えるサヴォナローラは普段の褐色のアストロナータ神官の長々とした僧服と、あの特徴的な筒型の長い帽子がないだけで、別人にしか見えない。今日の彼は、この国立大学院を出たものの、高等教育機関に奉職することが出来ず、街中で寺子屋でもやりながら研究職の口を探している、貧乏な学者崩れ、と言った格好だった。

 具体的に描写すれば、それはやや肘や膝のあたりが抜けた、だが元は品の良かったであろう長めの濃い灰色の上着とズボン、それに爪先のあたりの怪しくなった黒い革靴、と言ったなりだった。ご丁寧なことには、着ているアイロンだけはしっかりとかかったシャツの襟の折り目が、洗濯とアイロンの連続で、ささくれだっているように見えるところまで徹底した身なりだ。

 それにくっついて来ている、まだ二十代前半くらいのリカルドも、サヴォナローラよりは武装神官らしくたくましげな体を、似たような褐色の衣服で包んでいる。彼の、大公宮のシーヴと同じ、浅黒い顔色に亜麻色の髪の毛はそれだけでもやや目立ってはいたが、武装神官の制服よりはその場で目立たぬ様子ではあった。

 そうして見れば、彼らは先輩後輩揃って、恩師のところへ就職の斡旋のお願いに来た卒業生、という役割に見えた。

「イスキエルド君は?」

 マテオ・ソーサが大学院の係を振り返ると、係の男は慌てたように背筋を伸ばした。ここの教授ではないし、貧相な中年男だが、学究の徒としての重みはちゃんと伝わったようだ。

「は! ただいま、お取り次ぎいたします」

 そのまま、彼は凄まじい速さで内階段を登っていく。

 やがて、四人は二階の隅っこの部屋へ案内された。真っ黒な重そうな木の扉には、銀色のプレートが打ち付けてあり、そこにはドクトール・M・イスキエルド、と彫り込まれている。

 トントン、とノックをすると、事務員はとっとと階段の方へ早足に歩き去ってしまう。その様子は、この扉の中の先生の視界に入りたくない、とでも言うような様子に見えた。

 サヴォナローラとリカルドはやや、怪訝そうな顔をしたが、マテオ・ソーサは平気な顔だった。ガラは元からこういうことで顔色を変えるような男ではない。

「さあて! ごきげんよう、イスキエルド君、元気かね?」

 そして、自ら扉を開けて部屋に入るなり、マテオ・ソーサは大きな声を出した。それも、挨拶も終わらぬうちにとんでもない方向へ話題をぶっ飛ばしていったから、サヴォナローラもリカルドも、内心で「大丈夫なのかな」とちらりと思った。

「あれまあ、イスキエルド君はいい歳をして、まだ筋肉を鍛えているのかね?」

 その言いようにつられるように、サヴォナローラら三人が部屋の中を覗き込むと、確かに大きな机の向こうに立ち上がっている部屋の主は、威風堂々とした、かなりの大男だった。

 もう言うまでもないが、マテオ・ソーサは小さくて貧相な男である。

 痩せて、ひねこびた体付き。顔色は蒼白で、背も男としてはかなり小柄な方だ。それは、女としても小柄な方の大公カイエンより頭半分ほど高いにすぎない。手足が細長いので、それでも実測した数値よりもやや背が高く見えるが、獣人の血を引くガラと並べば大人と子供だ。ガラの兄のサヴォナローラは平均よりもやや高め、と言う身長だからこの二人の兄弟に挟まれて立っているマテオ・ソーサは人間の散歩に引っ張り出された森の小人のように見えた。

 一方、この四人を迎え入れた、マルコス・イスキエルド教授は、同窓生で同じような学究の徒とは言っても、マテオ・ソーサとは似ても似つかなかった。

 イスキエルド教授はなんで鍛えているのか、身長も豊かに筋骨もたくましく、着ているのが黒の詰襟の国立大学院の教授のなりでなかったら、将軍かなんかと勘違いされてもおかしくはなかった。黒い詰襟服の胸元は、筋肉の形に盛り上がっている。その様子は、ガラなどには及ばないが、軍人といっても違和感がないほどだ。

「おお。ソーサ君か。これはもう、久方ぶりだねえ。……ああ、ああ。若い頃と同じだなあ。いいや、違うぞ。歳をとって枯れて来て、余計に小さくなったんじゃないかな。若い頃はもうちょっと瑞々しさと言うか、水気があったような気がするよ!」

 この攻撃にも、マテオ・ソーサは負けてはいなかった。

「ご挨拶だねえ。……君の脳筋ぶりも変わらんようだ。おや? 体の方はあまり変わらないが、頭の方は寂しくなったものだねえ」

 教授にこう言われると、マルコス・イスキエルド教授は、巌のような体の上にのっかった、これまた真四角で浅黒い顔の褐色のぶっとくてもじゃもじゃの眉毛の下、深く落ち窪んだ眼窩の中の、焼き栗のような目をかっと見開いた。

 なるほど、マテオ・ソーサがわざわざ指摘するまでもなく、イスキエルド教授の頭は、頭の左右の褐色の髪を残して、見事に真ん中が禿げ上がっている。

「ぬうぅ。小癪な口はちっとも変わっとらんな。小悪魔メフィストフェリコめ! 貴様の方は髪の量は変わっとらんようだが、半分白髪じゃないか! 昔から思っとった。お前は若白髪だったから中年になったらもう真っ白だろうとなあ」

 この反撃にも、マテオ・ソーサは平気の平左だ。

「はっはっは。脳筋馬鹿め! 申し訳ないが、まだ真っ白になるには後、十年以上はかかりそうだよ!」

 この中年教授二人の程度の低い応酬を、サヴォナローラとガラ、それにリカルドは辛抱強く聞いていた。学者に変わり者が多いのは常識だ。

「むうぅ。ソーサ、貴様、風の噂では、いまだに独り者だと言うじゃないか。その貧弱な体では、女も物足りなくて寄り付かんのだろう!」

「はっはっは。余計なお世話だよ。イスキエルド君、君こそ、もうかなり前に若い恋人をこさえた奥さんに逃げられてやもめ暮らしと聞いているよ! しかも、一粒種のお嬢さんもさっさと嫁に行ってしまって、寂しい一人暮らしだってねえ」

「ぐぅ! うるさいぞ、ソーサ。貴様などいい歳をして大公軍団に鞍替えして、最高顧問とやらいう怪しげな地位に就いたらしいな。その上、好き者と聞く大公殿下とはいえ、うら若い女性の後宮に囲われるとは……」

 ここまで言うと、なぜかイスキエルド教授は厳つく真四角な顔を真っ赤にして、言葉に詰まった。それを見過ごすマテオ・ソーサではない。

「ふふふ。うらやましいなら、正直に言いたまえよ、君。奥さんがいなくなってから意気消沈して、それっきり女性関係は真っ白け、と聞いているからね」

 そう、ニヤニヤした笑い顔で大胆に言い切るマテオ・ソーサの顔を、イスキエルド教授はぐりぐりした大きな目を、裂けんばかりに見開いて見下ろした。

「ふぅう。貴様は昔っからそうだ! ああ言えばこう言う、貴様と話しているときりがない! 際限なく小理屈を並べおって、まさしくお前は小悪魔メフィストフェリコに違いないわぁ!」

 サヴォナローラとガラは、国立士官学校でのマテオ・ソーサのあだ名が、小悪魔メフィストフェリコであったことは勿論、知っている。この様子では国立大学院にいた学生の頃からもう、このあだ名は成立していたものらしい。

 イスキエルド教授は、禿げた頭のてっぺんから蒸気を吹き上げそうな様子に見えた。だが、マテオ・ソーサの次の言葉を聞くと、急におとなしくなった。

「ああ、そうだねえ。学生時代も問答では誰にも負けたことはないよ。でもまあ、君には嫁に行ったとはいえお嬢さんがいるんだからまあ、いいんじゃないかね。それなりに波乱のあった人間生活を送った上での今の地位だ。学問に情が入っちゃいかんが、学問一辺倒よりは思想や考察に幅が出たんじゃないかい? お嬢さんを育てながらの学究は無駄になるどころか、いいこともあっただろう」

「うう……」

「奥さんがいたんじゃ、市場メルカドで肉や野菜、卵や小麦粉の買い物もしないだろう。料理もしない、掃除もしない、洗濯もしない。まあ、俸給が上がって来たら女中さんくらいは雇えたかもしれないが。でも、お嬢さんの教育は女中任せじゃないだろう。普通なら奥さん任せのところだ。その辺りをみんなやって、それで見えて来たことも多かったんじゃないのかい?」

「ぐぐぐ……」

「君の専門は、戦史学と政治哲学だ。大学院の研究室と図書館の往復じゃ、どうにもなるまい。国家のあり方を語る上で、現場調査は欠かせないからね」

 マテオ・ソーサがそこで言葉を切ると、マルコス・イスキエルドは大きな机の向こうから出て来て、どすん、と音を立てて、大きな尻を丈夫そうな、腕木のある椅子に落とし込んだ。

「うぬう。貴様のようなもやし学者が、国立士官学校など務まるものか、と言っていたものだが、外見はあてにならんな。まったく。女のように口が回る癖に、考え方は理路整然としとる。嫌な奴なのも変わっとらんな!」

 イスキエルド教授は、ため息をつきながらも、自分が座っているのと低いテーブルを挟んで反対側の、座り心地の良さそうな、テーブルと木組に申し訳程度のクッションがのっかったソファの方を顎で示したので、マテオ・ソーサとサヴォナローラはそこに座った。そこは二人座るともう一杯だったので、ガラとリカルドは彼らの兄や兄弟子の後ろに立った。ここへは護衛として来たのだから、それでいいのである。

「ところで、そっちのでかいのと若いのは何だ?」

 イスキエルド教授は、ガラとリカルドの方を胡乱げに見た。

「ああ。こっちの大きなのは私の、大公宮の後宮のお部屋の隣人でね。ガラ君だよ。ここの宰相殿の弟さんだ」

 マテオ・ソーサがこう言えば、サヴォナローラも待ってました、とばかりに言う。

「お初にお目にかかります。座ったままで失礼いたします。これは私の弟弟子で、武装神官のリカルド、と申します」

 これを聞くと、イスキエルド教授の焼き栗のようなつやつやした眼球が、ぴかりと光った。

「なるほど。護衛なしではこんなところへも来られない情勢になっておる、と言う事ですな」

 イスキエルド教授には、昨今のこの国の状況がしっかりと認識されているらしかった。

「お手紙には、ただ、戦争史のことでお教え願いたい、とか、適当なことが書いてありましたが、まさか、それが目的ではございますまい」

 サヴォナローラは「私は宰相のサヴォナローラ」とは名乗っていない。だが、イスキエルド教授の言葉遣いはもう、この国の宰相に対するそれに変わっていた。

「そうですね。……時間も限られておりますし、単刀直入にうかがいましょう。イスキエルド教授には、昨今のこの国の情勢はどのようにお思い、お感じでございましょうか」

 サヴォナローラはいつもの長い筒型の帽子がないので、何だか物足りない、とでも言うようにきれいに後ろへ撫で付けた濃い灰色の髪の毛の額のあたりを抑えながら、そう聞いた。

「もっと前に会いに来るべきだったのだろうね。私からもお願いするよ。去年の先帝サウル陛下の御崩御から、オドザヤ皇帝陛下の御即位以降のあれやこれやについてだね。それを、戦争歴史学と、政治哲学が専門で、第一人者である君に聞きたいんだよ。そして、出来れば……いや、これはまた別の話だ」

 マテオ・ソーサも言葉を添える。

 マルコス・イスキエルドは、リカルドなどには気になるほどの時間、押し黙っていた。

 だが、マテオ・ソーサもサヴォナローラも、そしてガラも、この沈黙を当然のことと思っているようだった。

「そうですな」

 イスキエルド教授は、そう口を開きかけたが、また黙ってしまった。そして、おもむろに立ち上がると、部屋の角の暖炉の方へ歩いていく。彼は、思い出したように暖炉でちんちんいっていた薬缶を取り上げると、もう用意していたらしい、珈琲のポットにゆっくりと湯を注ぎ入れ始めた。

「助手には聞かせないほうがいいと思ったので、今日は私一人でしてな」

 それを聞くと、一番若いリカルドは弾かれたように動いて、暖炉の側の小机から陶器のカップをイスキエルド教授の側へ持って行った。この辺りは、サヴォナローラの執務室でも鍛えられているのだろう。

「まず、私は女帝反対論者ではありません。このハウヤ帝国では今まで女帝が立ったことはないが、ザイオンは女王国。それに、ネファールでもその東の小国でも、女王が立ったことはございます。大国といえば、かの螺旋帝国でも玄 光雲という女帝の栄華の時代がありました」

 マテオ・ソーサも、サヴォナローラも、黙って聞いている。

「えてして女王、女帝の時代というのは、その国の国力が充実し、文化が振興することがあるようです。紆余曲折の果てに国の頂点に立った女性は、当たり前のように権力の座に就いた男性とは違い、常に自分の権力の基盤を盤石に保とうとする。そのためには、周りの意見をよく聞きもする。そして、判断すべき時は思い切りがいい。ですから、私は去年のオドザヤ陛下の御即位は歓迎していたくらいでした。……ですが、時代の方はそうではなかった」

 こぽこぽと音を立てて、リカルドの持ってきたカップに、熱い珈琲が注がれていく。

「スキュラ、そしてザイオンが、早速、この国へちょっかいを出してきましたな。次に動くのはシイナドラドでしょう。それとも、ネファールか、ベアトリアか。各国とも、自分たちの思惑で動いているつもりであるようですが、実際はどうも、違うようです。いや、シイナドラドはもうこの歴史の流れを予見していたようですなあ。だから、あの第二皇子をこの国へ婿入りさせてきたのだろう、と私は思っています」

「では、先生は、最終的にすべての後ろには、あの国が関与している、とお考えなのですね?」

 そう、口を挟んだのはサヴォナローラだった。

 イスキエルド教授は、直接にはサヴォナローラの問いには答えなかった。

「私の思うところ、あなた方はあの螺旋帝国の革命に関して、何かをご存知なのではないですかな。これからの時代の動きも、大まかには予想していた節が、あちこちに見えます。おそらくは先帝サウル陛下も。でなくては、シイナドラドの第二皇子を大公殿下に婿入りさせるのに同意したり、大公軍団に帝都防衛部隊を創立させたりしないでしょうからね」

 イスキエルド教授は、リカルドに木の盆を手渡し、珈琲のカップをその上に載せると、自分のカップだけ持って、自分の椅子へ戻ってきた。

「今までの歴史でも同じです。こうして、巨大な新興国が立ち上がると、その国はその国の版図だけでは満足しない。勢いにのって、周辺諸国へ侵攻する。だが、今度のことでの新生螺旋帝国、王朝『青』の動きは、今までの歴史にはなかったことです。これまで長い間、螺旋帝国は東の大国として存在し続けてきた。三百年前にこのパナメリゴ大陸の西の果てにハウヤ帝国が出現しても、大陸の東西に覇権を持つ大国同士として、直接に向き合うことはないままにやってきたのです」

「それが、今回は違う、ということだね?」

 今度はマテオ・ソーサが言葉を挟んだ。

「螺旋帝国とハウヤ帝国は遠い。間にはいくつもの小国がひしめいている。北にはザイオンも。だから、新生螺旋帝国、『青』の皇帝、ヒョウ 革偉カクイは、直接にハウヤ帝国への軍事行動は取れない。だからなのだ。そうだよ、ソーサ君。だから、やつらはハウヤ帝国を内部から崩壊させようとしている。そのために、周辺の国々へ圧力をかけ、人を送っている」

 サヴォナローラもマテオ・ソーサも、内心ではさすがだな、と舌を巻いていた。イスキエルドはあのアルウィンのことを知らないはずだ。彼の率いる桔梗星団派の動きも。それでもここまでの読みはできるということなのだ。

「シイナドラドの反政府組織へも資金援助をしているそうだね? それはこのパナメリゴ大陸最古の国である、シイナドラドにも、馮 革偉の欲しいものがある、ということなのだろう」

「ああ。その通りだよ、イスキエルド君。そのことはもう、我々は、エルネスト皇子殿下から聞いている」

 マテオ・ソーサがそう言うと、イスキエルド教授は口元へ持っていった珈琲のカップをぴたり、と止めた。

「で? シイナドラドへこの国は援軍を出すのかい?」

 サヴォナローラは内心では、もっと早くにこの人のところへ来るべきだった、と思いながら言った。

「いいえ。エルネスト皇子殿下はそれを阻止するために、この国へ婿入りなさったとおっしゃっています」

「なるほど、そうでしたか。そうなりますと、スキュラの方面は雪解けまでは動きませんでしょうから、まず問題となりますのは、ザイオンの持ってきた皇帝陛下への縁談と、この国を内側から動揺させる動きの方ですな」

 サヴォナローラはうなずいた。

「今日、ここへ大公殿下をお連れしようという意見もあったのです。でも、とりあえずは私の方で抑えました。大公殿下と大公軍団には、すでにザイオンやらなにやらに送り込まれた者共の、このハーマポスタールでの動きに対応していただかなければなりません。大公殿下を狙った曲者を抑えるため、大公軍軍団長が大怪我を負ったことはご存知でしょう。オドザヤ陛下の方にも……まあ、もう色々と工作が行われておりまして、大公殿下はその方へもお心を痛めていらっしゃるところなのです」

 イスキエルド教授は、痛ましそうな表情になった。

「先ほどは、『好き者と聞く大公殿下』などと申し上げてしまったが、大公殿下がお若く、それにご病弱の身であられるのに、この街の治安維持に先頭に立って尽力してくださっていることは、私も承知しております。あの、細工師ギルドがカスティージョ伯爵の館を襲撃した件では、寒い中、現場で陣頭指揮に立っておられたとも聞きました。いずれはお会いしてご進言致さなねば、と思っておりました」

 サヴォナローラとマテオ・ソーサは顔を見合わせた。

「それは、今日のお話が終わりましたらすぐにでも手配致しましょう」

 サヴォナローラがそう言うと、イスキエルド教授はまだ屈託ありそうな様子でうなだれたままうなずいた。

「ところで。なあ、イスキエルド君。君なんかかは、もうこのハーマポスタール市内での危うい動きなんかを探知しているんじゃないかね?」

 マテオ・ソーサが改めてそう聞くと、イスキエルド教授はぱっと顔を上げた。  

「それだよ、ソーサ君。皇帝陛下の縁談だの、国際的な交渉だのは、私の仕事じゃない。いや、学問的には専門分野だが、所詮は大学院の一教授に過ぎない私の手のおよぶ範囲の出来事ではないからね」

 そう言うと、イスキエルド教授はぐびり、と真っ黒な珈琲を飲み込んだ。 

「私が今、一番、恐れているのはな、ソーサ君。君の寺子屋の教え子のディエゴ・リベラ、彼が集めている『素人のにわか論者』とでもいった連中のことなんだよ」

 この言葉を聞くと、サヴォナローラはともかく、マテオ・ソーサは痩せた顔に苦々しげな表情を浮かべた。

「彼らはいま、自分たちの生活には困っていない。なのに、現状の社会構造には不満を抱いている。私の調べたところでは、主に、税制問題についてのようだね。商人たちへの課税が多すぎる、って言うのさ。自分たちは本当ならもっと肥え太って、貴族よりも上の暮らしができるはずなのに。自分たちは毎日、客相手に汗水垂らして働いて、そして得た富なのに。貴族たちの富は全部、領地からの上がりで、彼らは何の苦労もしてないじゃないか、って論調さ」

 マテオ・ソーサとサヴォナローラは、再び、顔を見合わせた。

「確かに、ここ百年余りは国内に大きく影響するような大きな戦乱もなくて、商人たちは儲けた財を戦乱の混乱で失うこともなかったからね」

 何か、言いかけたマテオ・ソーサを手で押しとどめて、イスキエルド教授は、うん、うん、と雑にうなずきながら続ける。 

「彼らは主に商人たちだ。それも、まだ親父さんが健在な、豪商の二代目三代目たち。彼らの中には、君の寺子屋みたいな民間の学校で勉学した者もいるが、大学院などへの進学を親に許してもらえずに諦めた者もいるんだ。わかるだろ? 君も私も国立大学院へ入るには、一度は親の大反対にあった者がほとんどだ。家を継ぐ長男はまず、許されなかったな。故郷の街の有力者……主には学校の校長だの神官さんだのだな、それの口添えで、なんとかこのハーマポスタールへ上がって来た。そういう意味では、我々はまあ、彼らよりは恵まれていたわけなんだがね」

 これには、マテオ・ソーサも深々とうなずいた。彼も、両親の反対を押し切って、村の神官と校長の推しで帝都ハーマポスタールへ出てきて、国立大学院へ入学したのであったから。

「だから、彼らは私たち学者にも、反感を持っている。わかるだろう? 彼ら新しい富裕階級で半知識階級、とでも言ったグループは、この国をどうこうしようとしている外部の勢力には、まことに好都合な連中なんだよ!」

「確かにそうだね。……自分の教え子だが、この頃、ディエゴは私や大公軍団員になった幼馴染なんかには、近寄らなくなったんだよ。知っているかどうかわからないが、私の教え子にはあの黎明新聞アウロラの記者もいるんだが、そっちへは貴族階級をぶっ潰せ、みたいな論調の記事を書かないか、と持ちかけているとは聞いている」

 マテオ・ソーサの声は苦味を噛み下したような声音だった。

「大手の読売りの記者は相手にしていないそうだけれどもね。これも、またあの皇宮前広場プラサ・マジョールの事件みたいなのが起これば、どうなるかわからないよ」

 これを聞くと、イスキエルド教授も難しい顔色になった。

「直ちに一触即発とは思わないが、君たちにはそれを可能にするような勢力にも、心当たりがありそうだね」

 桔梗星団派。

 アルウィン率いる、あの勢力なら、やりかねない。

「イスキエルド先生」

 サヴォナローラは真っ青な、一度見たら目を離せなくなるように青すぎる目を、まっすぐにマルコス・イスキエルドへ向けた。

「今日、私とソーサ先生が、こちらへ参りましたのは、他でもありません。我々は、この宰相サヴォナローラの名の下に、宰相府に諮問機関を立ち上げるつもりでございます。そこで、国立大学院の教授であられるイスキエルド先生に、声かけ可能な人材をお教えいただけたら、また、声かけ自体をお願いできたら、と考えて参りましたのでございます」

 これを聞くと、イスキエルド教授はさすがに眦が裂けんばかりに目を見開き、驚いた顔になった。

「イスキエルド君、君も知っての通り、私は偏屈が過ぎてなあ。学者同士の付き合いも何もないんだよ。学会にも面倒だからあんまり真面目に出ていなかったしね。まあ、市井に潜んでいる名もない先生方……私や君のように国立大学院やら、国立士官学校やらへの士官が叶わなかった人たちだね、の何人かは、私も推挙したんだよ。だが、それだけじゃ足りないんだ」

「なにとぞ、よろしくお願い申し上げます」

 サヴォナローラとマテオ・ソーサ、それに護衛の二人もまとめて深々と頭を下げる。

 しばらくの間、マルコス・イスキエルドは言葉を発せず、押し黙っていた。

 そして。

「ぐあっはははははははははははははは」

 実は、マテオ・ソーサにはこの反応も予想済みだったのだが、マルコス・イスキエルドは鍛え上げられてきれいに割れた腹を揺すり上げて高笑いした。

「はっはあ。愉快愉快。小癪なマテオ・ソーサの小悪魔が神妙に頭なんか下げてやがる。こんなのはもう、死ぬまで見ることはないと思っておりましたわ」

「先生、では?」

 すかさず、サヴォナローラが問うと、イスキエルド教授は簡単にうんうんとうなずくではないか。

「おお。この、マヌエル・イスキエルドに二言はありませんぞ。おい、ソーサ、俺のこの筋肉は伊達に鍛えてるんじゃないんだぜ。俺はこの筋肉で軍人にも知り合いが多いんだ。お任せあれ」

 ついでに付け足した一言は、まことに滑稽だったので、さすがのマテオ・ソーサも笑みを浮かべずにはいられなかった。

「これからは、私のことは鉄腕イスキエルドとでも呼ぶのだな、小悪魔め。かのフィエロアルマの『豪腕ジェネロ』とも、今、北へ行っているコルテス将軍とも、この筋肉を繋がりにして懇意にしておるのだ。貴様の予想以上に、私は事情通なんだよ! 恐れ入れ!」

 これには、もうサヴォナローラも、マテオ・ソーサも、ガラもリカルドも「やられた」とばかりに両手をあげるしかなかった。








 同じ頃。

 大公宮の表にある、大公カイエンの執務室では、カイエンとイリヤの二人が実務的なお話を詰めていた。

 もっとも、その実際の様子を垣間見るものがいたら、「馬鹿にすんな」と怒り出しただろう。

 現に、カイエンの護衛のシーヴは、イリヤが入ってきて早々に、

「あー、じゃあ、おじゃま虫の俺は出て行きますから」

(なんでもご存分にどーぞ!)

 とばかりに、執務室を出て行ってしまっている。確かに、腹の傷が未だ癒えきれていないとは言っても、軍団長のイリヤがいればカイエンの護衛は必要ない。

 執務室の外の控えの間あたりにはいるに違いないが、この大公宮の作りは堅牢この上ないから、壁ひとつ隔てれば大抵の物音は聞こえなくなるだろう。

「それで? 監獄島デスティエロを脱走した犯罪者たちのほとんどは、捕縛できたのだな?」

 カイエンは居心地悪そうに、身じろぎした。目をなんとなく部屋の大きな窓の方へ向けたのは、彼女的には大いに外聞をはばかる状態にあったからだ。もっとも、窓の外には巧妙に中が見えないように木立が配置されていたので、よっぽどの覗き心がなければ、室内の様子は見たくても見えなかっただろう。

「はーい。俺っちの裏的人脈を駆使いたしまして! 帳面に書かれている受刑者のほとんどの再逮捕に成功しておりまーす」

 そう答えるイリヤは、なんと、カイエンの執務机の回転椅子にどっかりと座っている。それだけでも大公軍団長としてありえない不遜さだが、彼の膝の上には大公のカイエンが乗っかっている、という具合だから、その不遜さはさらに上を行っていた。

 イリヤが腹を刺され、カイエンの中の蟲の力で生還してから、彼らは何度か忙しい仕事の合間に逢瀬を重ねてはいた。だが、この時点で、カイエンとイリヤはまだぎりぎりのところで男女の関係にはなっていなかった。

 二人がお互いの気持ちを暴露しあってから、もし、イリヤがあのままカイエンの後宮に入るようなことになっていたら、とっくに彼らはそうなっていただろう。だが、イリヤは仕事に戻ると元の自分の官舎の一部屋に戻ってしまったので、褥を共にするような環境に恵まれなかったというだけだ。

「でも、まだ全員ではないのだろう?」

 カイエンは、イリヤの膝の上で、彼の両腕で抱きしめられた格好のまま、じたばたともがいた。彼女の未だ、根本的には生真面目な倫理観では、まだ日のあるうちに男と、それも仕事中にこういう行為をすることには、大いに抵抗があったから。

 だが、もうすでに、カイエンの襟元から上着のベルトの上まで、イリヤの手ですべてのボタンが外されてしまっている。その下に着ている、絹のシャツも同じだ。だから、カイエンの胸元はもう完全に露わになった状態だった。

「うーん。でもまあ、街の裏の顔役に人相も名前の名簿もしっかり渡してますから、時間の問題でしょ。百面相も、これから一人一人変装させるような手間はかけないでしょ。所詮は変装だから、時間が経てば崩れてくるし、真昼間には通用しないですもん」

 言いながら、イリヤは顔を背けるカイエンの唇は諦めて、露わにしてしまった首元や胸元を唇でなぞり、けしからぬ手の方はカイエンの胸元へ突っ込んでいく。

「わかった! 現状はもうわかったから!」

 カイエンは下に敷いているイリヤの太腿の間あたりから感じられてくる熱量に、このままでは終わりそうもないイリヤの意思を感じて、なんとか彼女の体に巻きついている腕から逃れようとするが、強靭な腕はそんなものは問題にもしない。

「そうそう。俺の方からのご報告はもうおしまい。……じゃあ、今度は殿下の方の新情報をうかがいたいなあ。皇宮へ戻られた陛下さんの方はどうなってるんですぅ?」

 本当なら、皇宮のオドザヤのことなど、大公軍団長のイリヤは知らなくていいことなのだが、昨今の状況ではそう言ってもいられなかった。現に、先日のザイオン外交官官邸での舞踏会では、イリヤや帝都防衛部隊を投入しているのだ。

「あ、それ、やっ。……それより。あうっ、百面相の捕縛の方は、うっ、うまくいかないのか?」

 カイエンは与えられる刺激の中でも、必死で頭を動かした。百面相が再逮捕できれば、彼の手によって他人に化けて工作する人間が防げるのだから、これは大公軍団治安維持部隊としては最優先の仕事だと言えた。

「百面相の方も、とっかかりは掴めてるんですよぉ。奴のお得意の変装には、普通の化粧道具以外のものが必要なんです。これは、俺が刺された時の奴の変装とか、マリオを襲った偽ヘススの変装とかから、割り出せているんです。その材料の入手先は抑えているんで、百面相の方は、時間の問題だと思いますよー。顔の皮一枚、とっかえるような扮装なんでー、あっちもそうたくさんの用意はないと思うんですぅ」

 イリヤの返答には、なんの乱れもない。なのに、その手はやわやわとカイエンの体の敏感な部分を弄っていく。それに耐えながら、カイエンはもうしょうこと無しに、イリヤの黒い制服の胸元に顔を埋めた。そうでもしないと、自分では絶対に第三者には聞かれたくない、高い声が漏れそうだった。

「……うっ。あ。陛下の、方は、モンドラゴンの親衛隊に、お側の警備を任せられることになさったそうだ。……女官長のコンスタンサ殿の報告では、薬をお飲ませしていたカルメラという侍女も、あれから、どうしたことか陛下の言うがままに振る舞うようになったそうで……。とりあえずの、危機は去った、とのお話だ」

 カイエンがやっとそう言うと、すでにカイエンの制服の上着のベルトさえ外してしまい、その下のスボンの方へ手を伸ばしていたイリヤの手が、ぴたっと止まった。

「あれー? それじゃー、こっちから派遣してた、ルビー・ピカッソや、ブランカ・ボリバルはどうなるのぅ?」

 代わりに、イリヤの胸元に顔を埋めて堪えていたカイエンの顎に、イリヤの手がかかった。

「……それだよ。まだもう少しは様子見だが、彼らの代わりにこちらから誰か送り込まないと、陛下のご様子が掴めなくなりそうなんだ」

 ルビーやブランカは、大公軍団からさし向けたオドザヤの護衛としてよくやってくれいていた。しかし、あれからことは二転三転してしまっていた。もはや、彼女たちはオドザヤのすぐそばで目を光らせることは出来ないだろう。

「あら大変。じゃあ、他の手を考えなくちゃね。侍女もいいけど、この際、親衛隊に手駒を作る方が手っ取り早いかもねぇ」

 顎を抑えて、やや強引に自分の方へ向けたカイエンの唇をふさぎながら、イリヤは頭の中に入っている、大公軍団の組織図、そして、それに繋がっている人脈の蜘蛛の巣を探る目になっていた。

「……適当な、のが、いる、か?」

 なんで、こんな辛い状態で仕事の話をせねばならんのだ、と自分の立場半分、イリヤの行為半分を恨みながらも、カイエンは強烈な性的刺激の中でも、己を失わなかった。

「あら。本当に殿下は馬鹿真面目ねえ。分かりました、分かりましたよー。今日のこれはぜーんぶ、俺が悪いのよー。だから殿下はもう、世俗の仕事は投げちゃいなさいよぉ。そうすりゃ、もっともっと、気持ちよくなれるよぉ」

 悪魔だ。

 これはまさしく悪魔の囁きに違いない。

 イリヤは外見こそ美麗極まる。だが中身は総身真っ黒け。そんな悪魔の手には乗らん、とカイエンは改めて強く心に決めた。

「馬鹿はそっちだ……そんなの信じられるか! 阿呆が。もう手を離しやがれっ。お前が全部悪いのは、もう、最初っから決まっていることだろうが!」

 カイエンは、こう、叫ぶように言うと、全身全霊をかけてイリヤを押し離しに掛かった。

 必要があれば、隣の部屋にいるに違いない、シーヴを呼ぼう、そう思って、じたばたあがあがと足掻きまくる。長靴の底でイリヤの顔を引き剥がしてやろうか、とさえ思ったが、肝心の足の方が自由にならない。

 そんなカイエンの抵抗を、イリヤは簡単にいなしていく。それでも、シイナドラドでカイエンがエルネストにされた時のような、絶望的な諦めの境地に落ち込まなかったのは、彼女が間違いなくイリヤに心を寄せていたこともあるだろう。そして、イリヤの方もそのあたりの事情は、ちゃんと理解していたことも。

「ああ! はいはい。まだお日様が見える時間に、あへあへしちゃうのはどうしても嫌なのねぇ。はいはい、分かりましたぁ。俺としちゃ、かえって、もわもわが貯まっただけだったけどぉー」

 イリヤはそう言うと、とっととカイエンのシャツのボタンをかけ、ズボンのベルトを締め直し、最後に上着の襟元までちゃんとボタンをかけてやった。

「じゃあ、今日の夕方ね! 意地でも仕事終わらせてここに戻ってくるからねっ。殿下ちゃんは、ここで俺っちをちゃんと待っているんですよぉー」

 ほら、約束、とばかりにイリヤはカイエンの手を取ると、その甲に口づけを落とした。

「殿下には俺から、ちゃんと話したいこともあるの。だから、ちょっと遅くなっても必ずここに戻るから、待っててね!」

 そこまで言われれば、カイエンももう、うなずくしかなかった。

「……わかった。ここで待っている」

 そして。

 イリヤの後ろ姿を見送るカイエンは、ふーっと息を吐いた。

 イリヤに抱きしめられたり、口づけされたりするのは決して嫌ではない。それどころか、今ではもっと深い行為を望むくらいだ。だが、どうやらそれはイリヤの方にも抵抗があるらしかった。

 その理由は、カイエンにも理解できていた。

 シイナドラドで、エルネストと深い関係にさせられた結果に何が起こったか。

 それだ。

 イリヤが気にしているのも、それなのだろう、と言うことは彼女にも理解できていた。

 獣人の血を引くヴァイロンとの関係では、絶対に起こりえないあの事態。

 その答えを、さっきの言い方では、イリヤはもう知っているようだ。

 だが、それが、もたらされてもなお、カイエンは悩むのだろう。不器用な彼女にはヴァイロンとイリヤ、二人の男を諸共に愛することなど、出来るのか出来ないのか、全然、わからなかった。

 ただ、この時点で彼女がしっかりと理解していたのは、今まで、ヴァイロンに抱かれてきたように、同じように、イリヤに抱かれても、自分は傷つかない、と言う、確信だけだった。

 だが、そうすれば、ヴァイロンを傷つけることになるだろうことも、もう、とっくに彼女には分かっていた。

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